200『自然と人間の歴史・世界篇』イギリスの清教徒革命(ミルトンの場合)
想い起こしてみると、イギリスの清教徒革命期のことであった。詩人として名を馳せたジョン・ミルトン(1608~1674)は、革命に尽力することと、自らの芸術の遂行との関係を、あたかも表裏一体のものとして考えていたのかもしれない。少なくとも、私たちにそう考えさせるような生き方であった。
イギリス社会を揺るがすその時期に、彼は革命の言動力の一つとなっていた。共和派のオリバー・クロムウェルの陣営に属し、果敢な政治活動を行う。彼の詩は格調が高くして、しかも覇気に満ちている。それが、大衆を勇気付けたのは間違いあるまい。
しかも、その間の彼は、昼夜を分かたず、集会へ抗議や某へと、寸暇を惜しんで出掛けていった。自宅に帰ると、自らの陣営のために明日への仕事を行う。体調は、決してかんばしくない。それなのに、そういう不規則、かつ苛酷な生活をしていると、体の方が悲鳴を上げるものだ。
その最中であったろうか。ついに、彼は失明する。後にその時を振り返り、次のような詩(日本語訳)をものにしている。
「人生の道半ばにも達せずして、この暗き世界でわが明(めい)を失い、
隠匿(いんとく)するにはその罪万死に値すといわれるわがータレントの才を
内に蔵したまま無に帰せしむるのではないか、と思い、
しかも、かつては全身全霊をあげてこの才を用い、主に仕え、
主の再臨に際しては、その成果を正直に申告し、
主の叱責を免れたい覚悟であったことを思うとき、
私は愚かにも呟く、ー光を奪われた者からでさえも、
主は終日の激しき労働を求め給うのであろうか、と。
すると、「忍耐」は忽(たちま)ち私の泣言を遮って言う、ー
主は与えた賜物(たまもの)の返却も人間の業(わざ)も求められはしない、
やさしき軛(くびき)をよく負う者こそ主によく仕える者なのだ。
主の御国(みくに)は勢威に富み、主の命ひとたび下れば、
数万の天子の大軍休むことなく陸と海を超えて駆けてゆく。
ただ佇立(ちょりつ)し、ただ持つ者もまた主に仕えている者なのだ、と。」(ジョン・ジョン・ミルトン「わが失明について想う」:平井正穂編「イギリス名詩選」岩波文庫、1990より転載)
その実、ミルトンの人間観には厳しいものがあることを、西脇順三郎氏は、こう指摘しておられる。
「Miltonはクロムウェル政府の代弁者としてPuritanの思想をその文学の中に残している。彼は英国の詩に伝統を残したのみならず、当時のPuritan派の論客として、種々の方面で種々の説を唱えている。彼の詩に表されている思想は、悪の問題であった。(中略)
そうした悪と人間との関係において人間を見るのであって、神はMiltonにとっては正義の根元であった。彼にとっては理想化された人間のみが人間である。Shakespeareの如く人間性を広くみなかった。
Shakespeareの文学になると人間の悪の方面をもそのままにありのままに見てゆき、むしろ悪を気の毒に感じ、人情をもってできるだけ人間を抱擁しようとするのである。Miltonになるとそういう不合理な悪の人間はこれを排斥するのである。ここにMiltonがPuritanの説教家といわれる誘因がある。」(西脇順三郎(安藤伸介・改訂)「近世英文学史」慶応義塾大学通信教育教材、1977)
(続く)
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357『自然と人間の歴史・世界篇』九か国条約(1922)
1922年には、いわゆる「九か国条約」が締結される。これより前の1921年11月より開催されていたワシントン会議において、翌年2月にアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル及び中国との間で話し合いがまとまる。
その第1条の文頭には、こうある。
「中国以外の締約国は如何にと同意する。」
続いての、(2)~(4)項には、こう記される。
「(2)中国の主権、独立、領土的および行政的保全を村長すること。
(3)中国に対し、独力で効果的かつ安定した政府を発展・維持させるためのもっとも十分かつ支障のない機会を提供すること。
(4)友好国の臣民あるいは市民の権利を減殺(げんさい)するような特別な権利ないし特権を求めるために、中国における情勢を利用したり、友好国の安全に有害な行動を是認したりすることを差し控えること。」(大下尚一ほか編「史料が語るアメリカーメイフラワーから包括通商法まで、1584~1988」有斐閣、1989)
これからも窺えるように、中国以外の当事者による眼目であったのは、中国の主権を尊重しながらも、これまで築いてきた権益は継承・発展させていく。その上で、互いに抜け駆けをしないよう、くれぐれも念押しする条項がこの後続く。
イギリスや日本といった、当時の中国に特別の権益を維持していた国が張り合う中での、このような合意がなされたのには、アメリカの新外交があったとみられている。
そもそもアメリカは、19世紀の後半から、それまでの「モンロー・ドクトリン」(1823)を改める対外積極策に打って出ていた。その「成果」としては、通常次の流れがあるとされる。
1867年には、ロシアからアラスカを購入する。また、ミッドウェー島を手に入れる。1898年にはフィリピン諸島とグアァム島、それにハワイ諸島を、1899年にはウェーク島をそれぞれ手に入れる。また、サモア諸島については1889年にアメリカとイギリスそれにドイツの三国共同支配としていたのを、1899年には分割領有へと進む。さらに、カリブ海上のプエルトリコを1898年に手に入れる。
それからは20世紀に入って、1903年にはパナマ運河地帯の永久租借を、1917年にはカリブ海上のヴァージン諸島という具合に、海外領土の拡大に努めてきた。
(続く)
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262『自然と人間の歴史・世界篇』アメリカのモンロー主義(1823)
1823年12月、アメリカの第5第代大統領モンローは、その教書の中で、次のように述べる。
「われわれは、率直に、また合衆国とこれらの諸国との間に存在する友好関係のために、次のように宣言する義務があります。
すなわち、われわれはヨーロッパの政治組織をこの西半球に拡張しようとするヨーロッパ諸国側の企ては、それが西半球のいかなる部分であれ、われわれの平和と安全にとって危険なものとみなさねばならない、と。
われわれは、いかなるヨーロッパ諸国の現在の植民地や従属地にも干渉したことはなかったし、今後も干渉するつもりはありません。
しかし、すでに独立を宣言し維持している政府、しかもその独立をわれわれが十分な検討を加え正当な原則にもとづいて承認した政府の場合には、これを抑圧することを目的としたり、ほかのやり方でその運命を支配することを目的とするヨーロッパ諸国による介入は、どのようなものであっても、合衆国に対する非友好的な意向の表明としか見ることはできません。」(富田虎男訳「史料が語るアメリカ」有斐閣)
これにより、ヨーロッパ諸国に対して、アメリカ大陸とヨーロッパ大陸間の相互不干渉を提唱する。その背景には、特にラテンアメリカにおいて、ナポレオン戦争後に本国スペインなどの束縛を破って独立を達成しようとの動きが出て来ていた、ウィーン会議(1814~1815年に、オーストリア帝国の首都ウィーンにおいて開催された国際会議)後のヨーロッパ列強はこれを押さえようとしたことがある。これは、アメリカ独立の理念の理念と衝突するものであったから。
それに加えて、アメリカは、自らにほど近い場所での列強の活動に脅威を覚えたのであろうか。むしろ考えられるのは、それから前に向かってのアメリカの国の在り方をめぐらしている中での、より積極的な出来事であったのではないか。
その後、ラテンアメリカ諸国はこの宣言の力もあって、ブラジルなどが独立に成功していく。ところが、その間に、アメリカはこの地域に新たな権益を獲得し、それを拡大していくことになっていく。
(続く)
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201『自然と人間の歴史・世界篇』17世紀オランダの絵画(フェルメール)
ヨハネス・フェルメール(1632~1675)は、17世紀のオランダを代表する、独特の画風をものにしていた。
1647年頃には、画家になろうと修行を始める。デルフトを出て誰かに師事することもあったのかもしれない。1653年末、親方画家として聖ルカ組合に加入をはたす。この年の春に結婚していたことから、生活の安定をも求めたのだろう。初めは、宗教などをテーマに「物語画家」を目指したものの、25歳頃には、次に繋いでいくため、より需要の見込める「風俗画家」への転身を図る。
やがて一閃のような心境の変化があったのかもしれない。画業が本格化するのは、1650年代後半からであった。「眠る女」(1656~57)や「窓辺で手紙を読む女」(1658~59)、それに「士官と笑う女」(同)や「牛乳を注ぐ女」といった作品群では、光がじんわり射し込む室内での、庶民らの仕草とか、語らいとかが描かれる。特に、「牛乳を注ぐ女」では、壺に注がれる牛乳のしたたりに見入ってしまう。
これらにあるのは、作家の目の前で繰り広げられる、庶民の日常の姿だ。迫真というのではないものの、じっくり眺めているうち、なぜだか、自分もその中に吸い込まれてゆく。
1660年には、「デルフト眺望」を発表する。南側のスヒー港から眺めた姿であり、陽がまだ明け切らない、しばしの朝の風景をとらえたものだろうか。著名な画家となってからの彼は、ちょっとした外出はあったものの、終生この町を離れることはなかったようだ。
1663年以後は、「手紙を書く女と召使」や「ギターを弾く女」などをものにしていく。優しいタッチにして、慎ましやか、当時の人びとの精神生活の一端が窺えるのである。調度品や登場人物の衣服など、それらへの光の当たり具合などからは、超人的かとも思われる、細部への拘りが窺える。
1668年には「天文学者」を、翌1669年には「地理学者」を描いた。この二つは「寓意画」と呼ばれるものであって、当時の新鋭オランダの意気込みを感じさせる。1670~72年には、聖ルカ組合の理事に選ばれており、その画業で地方の名士に叙せられていたのかもしれない。
まだ43歳の若くにして死んだのには、貧窮によるものがあったのだろうか。その死の4か月後に、妻カタリーナが自己破産を申請し、デルフト市が認可している。これだと、晩年は蓄えの乏しい生活であったのではないか、と推察される。その頃、絵画に対する需要が急に冷え込んだともされる。それにいたる原因まではよくわからない。
参考までに、小林賴子氏は「力をつけてきた周囲の列強諸国が祖国の脅威となるや、フェルメールの周囲にも波風が立ち始める」(小林賴子「フェルメール、生涯と作品、改訂版」東京美術、2007)とされる。
(続く)
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104『自然と人間の歴史・世界篇』「バビロニア捕囚」
新バビロニア王国(前625~前539)が、シリアからパレスティナまでを含む地中海沿岸地方を抑えたことにより、土着の国家は大きな影響を受ける。
そんな中でも、ユダ王国はエジプトから支援を受けることで抵抗を重ねたものの、「衆寡敵せず」といったことであったろうか、紀元前597年にはエルサレムが陥落してしまう。
その際、住民の一部が移住させられただけであったのが、続いての紀元前596年には彼らの主だった住居や建物はほぼ完全に破壊され、彼らの相当部分に対し強制的に移住を強いる事件が起こった。これにより、新バビロニア国内に連れ去られた人々のことを、「バビロンの捕囚(虜囚)」と呼ぶ。この戦争に勝った新バビロニア軍は、ビュブロスとベイルートの間のナハル・エル・ケルブという小さな川の河口の岸壁に、記念の碑文を刻ませたという。
これのユダヤにとっての歴史意義について、ヘブライ文化史専攻の小辻誠祐(こつじせいゆう)は、こういう。
「イスラエルの民族史は、この時期を画して終末を告げ、かつ、再出発をしたのであって、従来のヘブライ文化が全然没落したのではないが、根本的に新らしい解釈と組織との下にユダヤ文化として、立ち直ったのである。
いわゆる「ユダヤ人」なるものの出現もこの時からであって、王国時代には「ユダヤの孫」と呼ばれていたものが、特殊な意味において「ユダヤ人」となった。バビロンに引きゆかれた彼らは運河の辺(ほとり)の町テル・アヴィヴに移されて、そこで半世紀のあいだ忍従と切々たる懐郷の境涯を余ぎなくされた。」(小辻誠祐「ユダヤ民族ーその四千年の歩み」誠信書房、1965)
この事件を境に、ユダヤ人の間に独自の律法をつくる運動が出て来て、空前絶後の民族救済の宗教体系をつくる。その中心にあって、信者が厳守すべきとされるものが、いわゆる「三箇条」なのであり、それらは、聖安息日(金曜日の日没から土曜日の日没まで)を厳格に遵守していかなる業をもなさぬこと、ヤハヴェとイスラエルとの契約の徴(しるし)である割礼(かつれい)を必ず行うこと、聖安息日毎に会堂で律法を朗読するとともにヤハウェを拝し、いかなる像をも拝まぬことであった。もちろん、今日のような聖書(「旧約」)などは存在しない時代のことである。
こうして彼らは、分かちがたい、強固な団結をつくっていく。そうすることで、みんな一丸となって自分たちの運命を切り開いていこう、というのであった。だが、自分たちの全てを分かち合う平等主義をとっていた訳ではないことに、それなりの留意が必要だと思われる。
(続く)
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208『自然と人間の歴史・世界篇』「ガリヴァー旅行記」(1726)
この冒険話において、「私」ことリチャード・シンプソンは、出版社と読者にこう語りかけている。もちろん、これの本当の作者は、ショナサン・スウィフトといい、イギリスで司祭を務めていた。1726年のある日の私は、イギリス国民レミュエル・ガリバー(彼の従兄弟)から原稿や何かを、世に出してくれと渡される。そして、「私」の苦労の後にまとめて出版した。世に問う「ガリヴァー旅行記」として。
この旅行記だが、かなり面白いは、いったいどこまでが想像上の産物で、どこからがイギリスと関係のあるところなのか、よく解らないところに、しばしば出くわす。物語の途中においても、あっちへ行ったり、こっちへ来たりで、その間に作者の見解なりが出てくるという訳だ。
ガリバーが主に旅行した所としては、リリパット国とブロブディンナグ国が有名だ。ガリバーからみて、前者は小人国であり、後者は巨人国であった。彼は前者では「人間山」と呼ばれ堂々とできたのであったが、後者にいるときはいつ踏みつぶされるかわからないような弱い立場であった。
面白いことに、巨人国にいたところで、こんな時事評論がある。
「しかし、新しい国土を私が発見したからといって、国王陛下の領土の拡張に直ぐ資するつもりが私になかったのには、もう一つの理由があった。(中略)
たとえば、海賊の一隊が暴風雨にあって海上をあてどなく漂流していたとする。やがて一人の少年がトップマストの上から陸地を発見する。
よし、掠奪(りゃくだつ)だ、とばかり一同上陸する。ところがそこに現れたのが罪のない土着民たちで、至れり尽せりの歓待をしてくれる。」(スウィフト著、平井正穗訳「ガリヴァー旅行記」岩波文庫、1980)
ところが、現実の世の中というのは、そう和気藹々には進まず、こう続く。
「海賊たちの方はその土地に勝手に新しい名前をつけ、国王の名代として正式な領有権を宣言し、その証拠に朽ち果てた板きれ一枚か石ころ一つをおったてる。そして、なんと土着民を二、三〇人殺し、なおその上見本として一組の男女を力づくで引っ捉えて帰国し、今までの犯罪の赦免状を手に入れる。ざっとこんな具合にして、まさに「神権」によってえられた新領土が確立されてゆくという訳だ。」(同)
ただし、そこは自分は善良なイギリス国民レミュエル・ガリバーなのであって、彼の旅行中、不正なことには首を突っ込まなかったと、自己弁護にこう言わせている。
「だが、わが国王陛下の御名によって領有権を正式に宣言するということは、ついぞ私の念頭には浮かばなかったのである。たとえ浮かんだとしても、当時の私の置かれていた事情が事情であったから、あくまで慎重に安全を考慮して、その問題はもっと適当な機会に委ねようとしたに違いなかったという。」(同)
(続く)
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380『自然と人間の歴史・世界篇』スペイン内戦(1923~1933)
1923年9月、プリモ・デ・リベーラが軍事蜂起を起こし、政権を掌握すると戒厳令が敷かれ、憲法は停止となる。1876年からそれまで続いていた立憲君主制が崩壊し、軍事独裁政治の開始となる。1930年、経済危機の中で軍内部からも独裁者への批判が噴出、ベレンゲール将軍が政権を引き継ぐ。これに至る経緯はなかなかに複雑であった。ざっと示すと、その前年の8月、共和主義者たちが全国から北部のサン・セバスチャンに集まって、共和国樹立のための相談にとりかかる。首都のマドリッドでは、かれらによる革命委員会が結成される。
1931年2月にベレンゲールが辞任を余儀なくされる。新政府は生き延びる道を見つけようと、国民の意思を問うことにし、1931年4月12日、地方(市町村議会)選挙に打って出る。農村部では、王党派が勝利を収める。一方、都市部では社会労働党など共和派が勝利する。返り咲きをねらっていたアルフォンス13世は亡命する。すると、人々は「共和国万歳」を叫んで、先の革命委員会は臨時政府に衣替えし、権力を握るに至る。これを「第二共和政」と呼ぶ。
続いての6月28日には、憲法制定議会選挙が実施され、社会労働党、急進社会党などが躍進する。新憲法が制定され、その第1条には「スペインはあらゆる種類の労働者の共和国である」とあった。この憲法下で、10月にはアルカラ・サモーラが大統領職に、アサーニヤが首相にそれぞれ就任する。
1932年8月、サンフルホ将軍らによるクーデターが勃発するも、軍の一部の蜂起であったがために、政府の素早い措置により失敗に終わる。9月には、農地改革法が施行される。これによって「収容された土地は、南部を中心とする大土地所有(ラティフンディオ)のみで、手続きの煩雑さや資金不足も手伝って、実際に収容され農民に分配された土地は予定の20%ほどに過ぎず、根本的な改革にはほど遠かった」(立石博高・席哲行・中川功・中塚次郎『スペインの歴史』昭和堂、1998)といわれる。農地改革が徹底しないことで農民に不満が残り、新政府を支える労農同盟に不安が生まれたのは否めない。
同月、カタルーニャ憲章が制定される。1933年1月、カサス・ビエハス事件が発生する。これは、CNT(1910年に結成された全国労働連合でアナーキスト(無政府主義)的色彩が強い)系の労働者や農民による抗議であり、これを弾圧したアサーニャの権威は失墜する。3月には、政府の反カトリック改革に反対してスペイン独立右翼連合(CEDA)が結成される。アサーニャは辞任を余儀なくされ、1933年11月に総選挙が実施された。共和国政府の改革に不満な浮動票がブルジョアを中心とする右派勢力に流れた。右派による政権が生まれたことで、これからを「暗黒の二年間」という。
(続く)
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381『自然と人間の歴史・世界篇』スペイン内戦(1934~1936)
1934年10月には、反ファシスト政府の樹立を目指す民衆の立ち上がりがあった。これを「アストゥリアスの蜂起」という。スペイン人民にとって、生きることは戦うことになっていたのであろう。かれらは「人民戦線協定」を締結する。
1936年2月16日、スペインでは総選挙の結果、共和主義者、社会党、共産党の協力による人民戦線派が右翼の国民戦線派に対して勝利する。19日、共和主義者が中心となって、再びアサーニャを首班とする人民戦線政府が成立する。
これは、スペイン人民が集う政府としては、スペインの歴史始まって以来の出来事であった。人民戦線政府は、反ファシスト政府蜂起(ほうき)における政治犯の釈放や農地改革、カトリック教会の特権の縮小などの課題を表明する。一方、大資本・地主・教会を基盤とする右翼諸勢力は、軍部を中心としてひそかに政府打倒の計画を進めた。1936年7月17日のモロッコで、駐屯軍の蜂起があった。この事件を機に、翌18日にはフランコ将軍をはじめとする軍部がスペイン各地で反乱を起こした、フランコの指揮下にモロッコに拠点を確保した反乱軍は、ドイツ、イタリアの援助を得て本土に上陸し、以後長期的な内戦になった。ここに内戦が勃発したのである。
ここに至り人民戦線政府は決意を固める。武器を労働者に分配することを要求し、首都マドリードやバルセロナでは、労働者や市民が武器庫や銃砲店を襲って武器を手に入れ、反乱軍と戦った。1936年7月19日、ヒラールが新たに共和諸派による政府を組織し、労働者団体を武装することを決定した。軍部の蜂起は、同月20日までにはスペイン本土ではカディスとセビーリャを除いてほとんど鎮圧された。もう一方のフランコ将軍は、ファシストの国となっていたドイツとイタリアに援助を求め、両国の飛行機がモロッコへ送られた。この両国の介入はその規模を増していく。
内戦は、ここに国際的な対立の構図を巻き込んだ形となったのだ。1936年年8月、モロッコから本土に上陸したフランコ軍は、北上してマドリードを目ざし、また北方のレオン、ガリシア地方を制圧し、同年9月末マドリードをほぼ半円形に囲んだ。ここにスペイン本土は共和国政府に残された地域と、反乱軍(ナショナリストと自称)に占領された
1936年9月4日、ヒラール内閣は退陣して、労働者に信望のある社会党左派のラルゴ・カバリェロが内閣を組織した。カバリェロ内閣は社会党、共産党からも入閣させ、さらに11月にはアナキストを入閣させた。共産党員がブルジョアジーとの連立内閣に入り、さらにアナキストが政府機関に参加しないという原則を破って入閣した。同じ9月には、ロンドンに不干渉委員会を開設する。
この年の10月、バスク自由憲章が制定される。その後もドイツ、イタリアの武力介入は続いてゆく。ソ連はこれに対抗して、1936年10月末、共和国側に戦車や飛行機、大砲などを送った。ソ連から送られた人数は約2千人、多くは技術的な部門で活動した。なお、メキシコのカルデナス政権もスペイン共和国に対して武器を送った。アメリカは、スペイン内戦に対しては中立の態度をとっていたが、石油資本はフランコに対する石油の供給を続けていた。
ここに至り、共和国側内部の事情は、内戦前と比べて著しく変化した。その中でも、労働者が部分的に権力を掌握したことが重要である。ヒラールを中心とする共和国政府は、自由主義的ブルジョアジーからなり、旧来の国家機構を把握している。社会党、共産党は、これを閣外から支持していた。軍部のなかにも合法的な共和国政府に忠誠を誓う勢力もあった。またカタルーニャでは、自治政府の大統領コンパニースは、アナキストを含む民兵委員会や経済評議会を設置して、労働者による軍事と経済の管理を認めていた。フランコは内戦の過程でナショナリスト側において指導的地位を獲得し、1936年10月、自ら「統領」と名のり、ファランヘ党からその大衆向けのイデオロギーを借用し、この党をテロ部隊として利用した。
そして同月、フランコ軍はマドリードの郊外にまで迫る。11月6日、フランコ軍がついに総攻撃を開始した。ドイツとイタリアは、同11月、フランコ政権をスペインの正統政府として承認を与えた。人民戦線政府側では、国際義勇兵が、マドリードの戦場に姿を現した、勇敢な心には不可能の文字はないかのように。そんな中でも、この国際義勇兵を組織的にスペインに送り込むことに努めたのは、コミンテルン(第三インターナショナル、当時の共産主義者の国際組織)であった。
政府軍と渾然一体となってファシスト側と戦うことになるこの義勇兵の数は、精々3万から4万位であったろうか。共和国政府はマドリードからバレンシアへ移転した。マドリードはその後2年半ほどもちこたえた。フランコ軍に対するドイツ・イタリアの武力援助とイギリス・フランスの不干渉政策という状況の下では、共和国側は圧倒的に不利であった。
(続く)
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384『自然と人間の歴史・世界篇』フォービズム(マティスなど)
絵画の世界でフォービズム(野獣派)という名の由来は、いささか変わっていた。時は20世紀初頭の1905年、パリで催された展覧会サロン・ドートンヌに出品された絵のうち、アンリ・マティス(1869~1954)、ドラン、ヴラマンテ、マメケの絵が一堂に集められていた。それらを観賞した美術批評家の弁に、まるで「野獣のようだ」という意味の言葉があったのだという。
なにしろ、彼らの絵は、色使いがやたらと派手に感じられた。色彩によって明るさを造造形するかのような手法が取られているようであった。少なくとも、印象派の画がのような、光に揺らめくような、微妙な色使いを拒否しているように感じられたらしい。
それらの代表格としてのマティスは、自身の出発点は「生きる喜び」にあったと明らかにしている。画家を志したのは、21歳の1890年に虫垂炎をこじらせ、1年間の静養をしていた時のことであったという。
それからは、絵画の学校に通い、1896年には早くも国民美術教会に出品使徒、準会員となる。1907年には、ピカソの「アヴィニョンの娘たち」が世に出て、そちらに注目をさらわれた。そのため世間では、「マティスは色だったが、ピカソは形」だと評された。
ほどなく、ヨーロッパに苛酷な時代がやってくる。第一次世界大戦での、ヨーロッパ列強の激突であった。マルヌの戦いの少し前、マティス一家パリを離れるのだが、また戻ってきて画業に精出すのであった。はゅービズムの影響もあってか、マティスの画風に、幾何学的単純化のバリエーションが登場してくる。例えば、1916年の「モロッコ人たち」などは、キュービズムの作風とかなり似ているのではないだろうか。
(続く)
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173『自然と人間の歴史・世界篇』宗教改革(スイス)
さて、ルターがドイツでカトリック教会の免罪符(めんざいふ)に抵抗していた頃、スイスの地、チューリヒを中心に、同じくこれの販売に反対する運動が起きていた。
そこでの特徴は、1519年からかなり広範囲の教会改革に乗り出していたことにあった。これを指導したのが、トツゲンブルク村長の家系に生まれたフリードリヒ(ウルリッヒ)・ツヴィングリ(1484~1531)であった。
1506年からは、カトリックの司祭を務める。しかし、1519年にチューリヒのグロースミュンスターの司祭に就任すると、そのうち聖書のみが信仰の行動の規範となると唱え始める。
その中でも、免罪符に反対するだけでなく、歴代聖人の崇拝(偶像を含める)を批判したり、聖職者の独身制に反対するなど、ドイツのルターが進める改革運動に比べ急進的なところが窺える。
1523年、ツヴィングリらの改革派は、チューリヒ市の政治・宗教改革に乗り出す。これを阻止しようとするカトリック教会側との間で、戦いが没発する。それは、最初から武力行使も辞さないものであった。その背景として、当時のチューリヒは、ハプスブルク家の権威に対抗し、フランスやイギリス、都市ではヴェネツィアと結んで自治を守ろうと動いていた。
そして迎えた1531年10月、カトリックを信奉する5邦による奇襲によって、新旧の勢力は第二次カッペル戦争に突入する。ツヴィングリは、中部スイスでの、カトリック教徒との戦いで戦死し、改革派の敗北に終わる。
その戦後に結ばれたのが「第二平和条約」であり、各主権邦及び従属邦に対し宗派選択の自由、そして同等の宗教的権利が認められる。これは、形式的には、後のドイツのアウグスブルクの宗教平和(1555)でのものと類似のものだといえよう。
またこの条約は、改革派の諸邦がドイツの改革派や、帝国都市と結んだ同盟の解消を求めている。さらに、共同支配地での改革派の存在は許容しつつも、事実上カトリックへの復帰改宗を勧めている。
彼の死後のツヴィングリ派の宗教改革運動は、低迷を余儀なくされていく。それでも、ジュネーブの宗教改革には、1532年にベルンからギョーム・ファレルが送り込まれる。また、1536年にスイスにやってくるカルヴァン新教勢力と合流するなどして、ツヴィングリの撒いた種は引き継がれていくのであった。
(続く)
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103『自然と人間の歴史・世界篇』オリエントの「四強分立時代」)
紀元前609年、オリエントにおいて一世を風靡(ふうび)したアッシリア帝国(紀元前2500年前~前605)が亡び去る。
その後、全オリエントの新たな統治者としてのペルシア帝国(アケメネス朝)が登場するまでの約半世紀の間、オリエント世界には、新バビロニア、エジプト(サイス朝)、リュディアそれにメディア王国という、四つの国が並立することになった。
まずは新バビロニア帝国(前625~前539)であった。建国当初から、なかなかに抜け目がなかった国にほかならない。メディア王国と語らって、アッシリア帝国の遺領を折半し、その半分、すなわち「肥沃な三日月地帯」の大部分を手に入れる。首都はバビロンに定める。この国の支配者がアラム人の一部族カルド族から出たことから、カルデア王国とも呼ばれる。
その初代のナボポラッサル(在位は前626~前605)は、元はアッシリア軍の一部将ながら、メディア王国と気脈を通じて、弱体化著しかったアッシリア帝国を滅亡に追い込んだ人物だ。
次いで、ネブカドネザル王(前605~前562)の治世において、新バビロニア王国は黄金期をむかえる。紀元前604年には、再興の成ったエジプト王ネコの軍がカルケシュに侵入とたのに対し、反撃しエジプトの北上に歯止めをかける。これに力を得たネブカドネザルは軍を地中海に進める。そして、カルデア、アッシリアはおろか、シリアからパレスティナまでを支配するにいたる。これに関連して、有名な「バビロニア捕囚」と呼ばれる。
紀元前650年、エジプトの諸侯たちとその軍隊は、アッシリア帝国の軍を国外へと追い出すのに成功する。サイス侯ブサメティク1世(前663~前609)の下に、デルタ中のサイスを首都に、第26王朝を建設する。ブサメティクの子ネコ2世(前609~前594)は、新バビロニアに対抗してカルケミシュの合戦を行うものの、アジア進出への夢を絶たれる。
(続く)
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(1)通勤
東京には、摩天楼の「砂漠」というより、むしろ「海原」だというのが似つかわしい。田舎から出て都会に生活の糧を求めた私の目線でみると、まるで海にいるように「果てし」が感じられないからだ。この世界有数の都会には、世界に知られた人間社会の縮図がみられる。その中心部の一つに新宿のビル群が我が物顔にそびえ立つ。
朝の新宿駅には、沢山の交通機関が寄り集まって来る。色とりどりの列車が行き交い、車が氾濫し、空には時々ながらヘリコプターのプロペラが舞い、おりを見て気球が浮かび、さらにはるか上空にはジェット機の白い航跡も見えている。人々は、仕事に、学校に、その他にもさまざまな用事があって、毎日、日々刻々、どこからともなく様々な装いの人々が無数といってもいい程にここに集まり、そして離散してゆく。
そう、絶え間なく、その変化は続いていく。私たちは、このような巨大な摩天楼の下を動き回っている。そのことを当たり前のこととしていて、多くの人たちがそのことをなんら気にかけていない。そう、私たちは「現代」の「いま」、この瞬間をに生きているのだ。
そのJR新宿駅を南口側に出ると、直ぐ脇に甲州街道が通る。その街道筋に沿ってビル群がつくる長い回廊を西へと進み、階段やエスカレーター、それにエレベーターを使い地下1階に下る。そこに京王帝都電鉄の京王新線新宿駅がある。私は、2013年3月まで、この線を通勤に利用していた。改札口を入って直ぐのところ、下りのエスカレーターの少し手前に、今はもう撤去されているが、「歴史を語る高尾杉」と銘打たれた高尾杉の切株の年輪部分がさりげなく展示されていた。
それまで気にはなっていたのだが、普段は3時間近い通勤を慮って先を急いでいる。なので、私にはわざわざ立ち寄ることはなかった。ところが、ある日の帰り路、いつもと異なり、心の余裕があったのかもしれない。ひょっとしたらその日は「花の金曜日」で、明日はゆっくり休めるという安堵の気持ちがあったのかもしれない。おそらく私は、思い出すかのように、その古木の前でふと立ち止まった。
これは、めずらしい。いつ伐採されたのだろうか、その経歴も添えられていた。興味を持った私は、その標本に目を凝らしてみた。透明なプラスチックのケースを被せられた年輪である。それをじっと眺めてみる。すると、不思議である。それが伐採されるまでのことはまるで知らない。それなのに、まるで「明晰夢」(めいせきむ)を観ているかのように、その年輪のたどってきた寒暖風水のおよそが脳裏に浮かんでくるではないか。
そのことは、私の頭の中での勝手な想像でつくりあげたものなのだが、かつて、山懐に抱かれた深い森にあってその命を宿し、水や太陽光などを消費して活動していた頃の姿を、もしかしたらこの木にも、「俺もそんな時期があったのだ」とこちらに伝えているような印象を持った。
その日以来、幾歳月が慌ただしさの中に過ぎ去っていった。それでも、私は、勤務日の朝な夕なにその展示の前を通り過ぎる毎に、親しみを持ってその標本を観ていた。その間は、ずっと体の具合が重かったので、その前を通と清浄なものに触れるような爽やかさを感じていた。そのことで、何かしら励まされるようになっていたのかもしれない。
このもとの木は、江戸時代の文化文政期、田沼意次(たぬまおきつぐ)が老中になった1772年(安永元年)に、武藏の国、高尾山の森の奥に植えられた。樹齢が百年を越えた頃からは、人里離れた森閑の地において、他の友木とともにあったのだろう。
その樹齢は、屋久島の縄文杉(放射性元素により測定される樹齢としては3000~4000年、あるいは2700年とか諸説がある)や羽黒山(山形県)にある大杉など、全国にあまた数えられるであろう樹齢が千年以上、高さも30メートルに及ぶような巨木には及ばないだろう。それでも、温暖かつ豊富な降雨があって、展示にあるような大木になることができたともいえる。
(2)大樹に学ぶ
いま顧みると、私はその時、人生にあるだろう、宝物さがしの行程にかなり遅れてしまったことだろう。子どもの頃から顧みて、あれから数十年の時を経てなお、心に自分はどのようにして生きて行ったらよいかがわからないでいる。けれども、その試行錯誤の御陰で、人生ですごく大切な事にようやく気がつき始めたのかもしれない。かねがねゆったりした生き方に変えないといけないな、と感じていた。
そんなところへ、その時期を知らせるシグナルがあった、ともいえる。それからは、できれば、その時点で職場をやめて、自分というものをみつめ直したい、と思うようになった。けれども、それはできる筈もなかった。それは、生活のため、家族のためにできなかったばかりではない。それと並んで若い頃から自分の未来図がほとんど何も描けていなかったことがあったに違いない。
そんな心境の変化があってから、私は、周りの自然の風景や営み、その背景をなす地方の風土や歴史などにだんだんと魅せられるようになっていった。1996年(平成8年)の初めまでは、横浜の金沢区の、海岸近くの宿舎に住んでいた。
初めは長屋の一区画、その後は全部で5階建てのコンクリートの建物、その1階にある48平米ばかりの3DKに家族4人で住んでいた。後者は、相当に窮屈な生活空間には違いなかったものの、新築できれい、かつ賃料も比較的安かった分、恵まれていたのかも知れない。
その春には、あの国木田独歩や武者小路実篤がロマンを夢見て称えたことのある、武蔵野の北部にあたる、比企丘陵のとある田舎、小川町に移り住むことにしたて。ことさらに精神的に病気がちな子供達のために勉強部屋をつくってやりたかったので、やむに止まない気持ちからの移転であった。この地は、古くから「武蔵の国の小京都」と呼ばれ、豊かな自然に囲まれ、かつては林業や和紙の製造が盛んであった。今、ここにはベッドタウンや自動車製造工場(ホンダ)の進出などがある。我が町の西隣には秩父連山の麓に広がる東秩父村があり、東隣には風光明媚で知られる嵐山町がある。
その嵐山町には、深山幽谷というほどの切り立った山や谷はない。精々、低き山か、丘陵というところか。そのほぼ平地に、気に入りの二本の木が聳える。一つは、嵐山渓谷の入口辺りに、「平成楼」という健康増進施設がある。そこは、こちらの土地の人々の安らぎの湯と入浴後の憩い、宿泊の場となっている。その建物の前に、一本の楠(くすのき)が立っている。この木の成長は遅いらしい。それでも、大人が3人寄らないと抱えられほどに堂々としている。高さは15メートルくらいだろうか、寺社建築の楼の高さにほど近い。根元に表識が備えてあって、この木の名の由来が南方であることが記されている。施主がこの施設を開設のとき、この大木を伐採をするには惜しいと、自然のままに残したに違いない。
どこか静謐ささえ感じられる。この木にそっと寄り添い、両手を一杯に広げて体全体を預けてみると、ごわごわしているが、南国からの渡来の木らしく温かい。もう一つは、文部科学省関係の独立行政法人国立女性会館の玄関から間近に橡(くぬぎ)の木である。あの中国の古典『荘子』(そうじ)での逸話にあるように、柔らかくて家の柱に使えないし、家具にするにも変形してしまう。人間にとって特段の使い道のないことから、ともすれば「無用の大木」扱いされることが多い。それゆえ、この木は伐採を免れてきたという。
こちらは、玄関に立って見て古代史に出てくる七支剣(しちしけん)のような出で立ちで、これも15メートルくらいの高きにまで聳えているではないか。幹は大人が手を広げて2人掛かりくらいで取り囲めるようで、枝振りの割にはやや細く感じられる。それでも枝の数々は各々の節で前後左右にほぼ均等な広がりを見せており、こちらは全体として威風堂々たる躍動感を感じさせる一木であって、少し離れたところからしばらく眺めていても飽きない。惜しいことに、このクヌギの大木は、2018年の初めであっただろうか、図書館を利用するため訪れた時には、大方伐採の状態に変じていた。
(3)人生の転機
今こうしている間にも、あなたにとっても、わたしにとっても、時は流れている、滔々とたゆみなく。それにしても、人の一生は何に例えればよいのだろうか。航海だろうか、登りかかった坂道であろうか。そもそも、その冒頭からして、いつ頃から自我というものが芽生えるのだろうか。
私の物心がついたのは精精4歳位だったのだろうか、その頃までのことは、ほとんど覚えていない。それらは、不透明な壁の向こうにあるのであって、こちら側からは観ることはできない。なおさら、何度問いかけても、特殊な何かの電気ショックでも加えない限り、残念ながら、さしたる返答を得ることは期待できないようだ。
それから20歳代までは、夜間大学に通ったりしながら、7年くらいはあれこれ雑多な仕事に就いていた。その間は、いろいろと苦しいことにも出会った。どうしたらそれから逃れたり、それを克服できるかがわからないままだった。
それでも、何かしら「負けるもんか」という生命力のようなものに満ちていて、自分の前には無限の可能性が広がっていると、心の底に「生きよう」と信じて疑わなかった。多くの人に助けられたのも事実だが、先祖から受け継いだ力が万事の支えとなっていたのかもしれない。
30歳を迎える頃には、転機があった。家庭を持ったり、仕事の内容も変わってきたり、社会活動も盛んに行い始めた。その頃の生活の中には、主観としては、まるで「夜打ち朝駆け」のような意気軒昂な時もあったろう。あれやこれやで人生の複雑さが増した。とはいうものの、全体としては未来への漠然とした期待というか、希望もかなり残っていた。 30代半ばからは中年で、その1988年(昭和63年)2月、30代半ばの体に、突如、金沢八景から運河沿いの真っ直ぐに海の方向に伸びた歩道を歩いての帰り道、意識が何度か遠くようであった。何日かおいた宿舎の中で、夜遅くに心臓発作か何かの身体の異常が感じられ、翌日病院で診て貰ったところ、一過性の発作であったらしい。
それからも、仕事面などの外向きでは、度重なる失敗や挫折、紆余曲折、試行錯誤、優柔不断、はては右往左往などから抜け出せなかった、といってもいい。自分には向いていないとは承知していたが、それでもこの仕事がある御陰で自分と家族を養って行ける。そんなせいか、それとも朝の出勤前に経済学の勉強と執筆(30代からはかなりの原稿依頼をいただくようになっていた)のせいなのか、おのが体は、日常いつでもといって差し支えないような、背中にごわごわした薪の束を背負っているような感覚に苦しんだ、それだから、針治療や病院の精神科に通院したりした。薬付けで、私の頭脳は、気張ったときのほかは、ずっとぼやけたままであったし、がんばったときにはその分大きく疲れた。
しかし、そんな治療でもなかなか治らず、大海の中でもがいている気分であった。こうなると、呼吸のひと吐き、ひと吸いがいとおしく感じられる、なんとかして立ち直りたい、元気になってやり直したい。同時に、これからの自分は、何ができるのだろうかと、模索は毎日のように続いた。とはいえ、自分と社会をうまくつなぎ、自分の個性や思想というものを貫く生き方ができるのは、ほんの一握りの人たちに限られる。煎じ詰めれば、その頃は、私なりに自分らしい、もっといえば自分がこうだと信ずる、ありていにいえば「世直し人」としての生き方を懸命に探していたのだろう。
(4)自然と良き人々に励まされて
それからさらに10余年の歳月が無情にもというか、暖簾に襷(たすき)というかに過ぎていった。私は、50代になっていた。その頃、人生の転機らしいものが訪れた。季節は、5月の連休のことであったろうか。相変わらず苦しくはあったものの、こんなことではいけない、失われかけている自分の時間を、これからの残された人生で少しでも取り戻さないといけない、もしくは、今からでもやればできる、まだ少しも取り組まないうちからがっかりすることはない、などとの気持ちから、第二次世界大戦後の日本経済と経済学入門の本を自分の目線で書くことを思い立った。私がこれまで勉強してきた経済学は、現代の諸問題を解決できるのだろうか、その仕事に私も及ばずながら挑戦してみるべきではないか。
そう考えるようになってから、私は試行錯誤を始めていた。私の社会党は、爛熟期を迎えた日本経済が繰り広げる政治劇に翻弄され、しだいに自由闊達さを失っていっているようであった。それまでは、曲がりなりにも「我が生涯の闘い」と任じていた。
それなので、政治戦線の右傾化は、相当身体にこたえた。そんな中で、自分なりに方向を見つけ出そうと、休日などを利用して、世界の総ての国の政治経済社会の近代の歩みをテーマにしたホームページづくりを始めた。
どんなに儚く小さな存在でも、平たく言うと、かの伊能忠敬の「一身二生」の意気込みにあやかりたい。実際はどうあろうとも、志だけはこの宇宙を覆うほどに大きくありたいものだ。自分にとって、これほどの大それた試みは他にないと、「よしやろう」と、朝な夕なに考えるようになった。この仕事をやり始めると、これが結構楽しいのだ。そのうちに、少年期までの自分の小史に取り組んでみたい。
ついては、その舞台を借りて、私という個体を育んでくれた故郷、美作、備前そして備中の三地域の今昔、その歳時記をまとめてみたい。これを定年後の励みの仕事の一つにしてみたい。ささやかながら、私の心の中にある故郷、そして日本という国への思いを、何かしら形あるものにしてみたいと考えている。
(5)生きとし生けるもの
この地球上の生物たちのほぼすべては、意識と心をもっている。ここで意識とは、自分の周囲の「環境を評価する方法の集合体」(イサオ・カク・ニューヨーク州立大学シティカレッジ教授による「ニューヨーク白熱教室、最先端物理学が語る驚異の未来、「意識や心の未来」についての第3回講義から、「意識とはなにか」2015年4月)だと定義できる。それによると、1単位の「意識」は「」一つの環境を評価する方法」であり、植物も例外ではない。ましてや、「動物は数百単位の「意識」を持つといえる。花は動けないが、位置を認識する。(彼らは)進化する過程で温度や太陽光の強さだけでなく、空間における自分の位置についても評価できる力をもつようになったのだ」(同教授)といわれている。
そうであれば、私もまたこのような「意識」を持って、これからもいろいろなことに遭遇して、自分を取り巻く世界を理解していくことだろう。この地球上の人間以外の動物は、人間以外のほ乳類は社会性を理解できるようになっている。しかし、彼らは、およそ時間の概念をもっていないとされる。
それならば、人間はどうかというと、私たちは、過去や現在はもちろんだが、それだけに留まらない心の動き方をしている。つまり、未来に思考をつなぐことをしている。このように将来を見据える能力、これが、人間の人間たる所以なのだと教わった。そして、その時の未来も、やがては今となり、過去となっていく。
30代だった頃、体調を崩して診てもらった医者に「あなたが死んで50年経った時を考えてみてください」と諭されたことがあった。私の肉体が朽ち果てた後には、いったい何が残るのだろうか。その忠告をもらった時からおよそ30年を経た今の自分は、とてもとても大好きなことをしている姿へと向かっている。それでこそ、本来の自分なのだと思うようになっている。
(6)ありのままの自分で良いのでは
自分の場合、人生というものは、なかなかに楽ではないと想う。自らの非力を感じることが大きかった。だから、その分だけ楽しく振る舞うのがいい。今の自分にとって前向きなこと、また楽しいものがあるなら、「どうせ大したことはできないんだ」などと、心にあれこれと蓋をしないのがよいと思っている。
幸い哉、無心にとはいかないまでも、やりたいことへの構想が湧いてきている。たとえ小さくてもいい、一つでも、二つでも、この世の中をよくすることにつながるものがいい。もはやどうにもならない過去に浸るのは、避けたい。これまでは、自分というものを活かせきれないところが、多々あった。人は、これからを生き生きと生きていくためにこそ過去を振り返るのであり、自分もまた、そこでの糧を携えながら、生き続けていこうとする者の一人でありたい。
人生のどんな事象にも、それなりの意味が宿っているし、私のような一介の者でも、これからの人生で何かができるのではないだろうか。たとえどんなに小さなことにでも全力を傾注すれば何かができるのであって、私にもきっとそれができると信じたい。だから、煎じ詰めれば、ささやかな人生でよいのではないか。自分の人生の最後の審判者は自分自身なのではないか。事を行うに大切なのは、「ありがと、ありがと、ありがとさん」の気持ちで、自分なりに確かな手応えのある何か、できたら自分の得意としたり、楽しんですることのできることに取り組んでみたい。
この世界で一番広い、大きな舞台というべきなのは、国境などには囚われないような意味での、この地球という一つの世界なのではないだろうか。これまでの念頭において鮮明に焼き付いているのは、土星からの写真に青い地球が写っていることだ。2017年の夏、武蔵嵐山の星空探検サークルの一般人向け見学会に出掛けた。御陰で、望遠鏡を覗いて土星を眺めさせてもらった。なんと、今この時、自分と土星とを遮るものとてないではないか、素晴らしい経験に違いない。
この星においては、誕生から38億年からの命の繋がりが認められて、そこに人類が発生し、その進化の過程で私たち現代人の直接の祖先とされる「ホモ・サピエンス」(クロマニョン人などとされる)が現に生き残っている。我が祖先たちは、アフリカから全世界地域への旅の途上にあった。その一つに日本という小さな島国があり、その一地方たる岡山県、さらに歴史に分け入ると、備前、備中、美作の地がある。時代につれて人間社会のあり方も変化する。それに、自分や様々な階層の人々の暮らしぶりを重ねて色々と描いてみよう。一人でもお二人でも、これを読んでいただいて何か前向きなものを感じてくださる人がおられれば、望外の幸せだ。
(続く)
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4『自然と人間の歴史・日本篇』日本列島の形成と変化(新生代へ)
それからは、新生代(6600万年前~現在)に入っていく。新生代は三つの紀に分かれている。その最初の第三期は、古第三期(6600万~2303万年前)と新第三期(2303万~258万年前)の二つに分かれる。その新生代の始まりに近い、今からおよそ6550万年前頃の、中生代白亜紀末期とその後新生代古第三期との境目には、生物の大量絶滅があったと考えられている。
ここで目を地球全体に転じると、そして今から約6500万年間前頃(これを含む新生代古第三期暁(ぎょう)新世は6600万年前~5600万年前)になると、アメリカのコロラド高原が隆起を始める。
その隆起にともなって、原生代(5億4100万年前までの地球古代をいう場合の地質年代区分をいう)の前期の、今からおよそ18億年前の変成岩の上に、古生代、中生代、そして新生代の地層がほぼ水平に重なっているのが、地表に現れてきたのである。
それからも、この地球の大陸の在り方は移りゆく。1億2000万年前の地球では、およそ次の配置になっていたと考えられている。なお一説には、この同時期に、南極大陸からインド亜(あ)大陸が分離したのではないかとも推測されている。
「1億2000万年前、ジュラ期の後の時代、ちょうど白亜紀にこの東ゴンドワナ大陸が分裂を始めた。パノチア超大陸以来、少なくとも9億年間分裂しなかった東ゴンドワナ大陸が、この時三つに分裂したのである。
同時に南米、アフリカも分裂した。つまり、ゴンドワナ大陸の五大陸分裂は、およそ10億年に一度あるかないかの大きな大陸分裂だったのだ。」(玉木賢策「生命進化の駆動力ー大陸の分裂と移動」:NHK「地球大進化」プロジェクト編「地球大進化ー46億年・人類への旅5大陸大分裂」NHKブックス、2004)
それからも時は刻まれていく。新生代の古第三期(6600万年前~2303万年前)に入っての5500万年前になると、地球の大陸配置図(アメリカ・北アリゾナ大学ロナルド・ブレーキ博士監修のもの)では、こうなっていたと考えられている。
「ツルガイ海峡によってヨーロッパとアジアが離れている以外にも、細かなところがいくつか違う。目のつくところでは、アフリカ大陸はヨーロッパ大陸から離れ、孤立している。その東にはテチス海という大海がひろがり、アジア大陸にぶつかる前のインド亜大陸がぽっかりと浮かんでいる。
南極大陸には南アメリカ、オーストラリアが陸続きにつながっている。そして南アメリカと北アメリカをつなぐパナマ陸橋はなく、両大陸は分断されている。いまの大陸配置より少しバラバラだということができよう。」(NHK「地球大進化」プロジェクト編「地球大進化ー46億年・人類への旅5大陸大分裂」NHKブックス、2004)
ちなみに、この図によると、今日「日本列島」と呼ばれる部分は、アジア大陸の東端にくっついている。
さらに、今からおよそ1000万年間前(新生代新第三期中新世の間)の地球では、「世界の屋根」としてのヒマラヤ山脈の形成が始まる。これは、ユーラシア大陸にインド亜大陸(あたいりく)が衝突して、上昇を始めたものだと考えられる。
新生代も、次の新第三期(2303万~258万年前)になると、ほ乳類の活動がさらに盛んになり、全地球に広がって、さらには、類人猿から原人への分岐があった。
続いて、新生代の第四紀(258万年前~現在)に入る。この紀の最初の更新世の時代(258万年前~1万1700万年前)中、今からおよそ30万年前にはその頃まだ海に浮かぶ大陸の一つであったインドに、またもや小惑星が衝突したのではないかとも言われている。そしておよそ20万年前ともなると、いよいよ現代の私たちに直接繋がる人類、ホモ・サピエンスが登場してくる訳なのだ。
(続く)
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579『自然と人間の歴史・世界篇』オリバー・ブラウン対カンザス州トピカ教育委員会裁判(アメリカ)
1954年5月17日、最高裁判所による公立学校への入学に際し、人種差別をしたことに対し違憲の判断を下した。具体的には、カンザス州トピーカに住む黒人少女リンダ・ブラウンが近くの小学校に入学しようとしたところ、市教育委員会により拒否された事件でした。最高裁判決では、隔離教育を禁止、可及的速やかに(with all deliberated speed)に「人種統合教育」を進めるようにとのことであった。
この裁判のフル名称としては「オリバー・ブラウン対カンザス州トピカ教育委員会裁判」と称され、1951年に、カンザス州の小学生リンダ・ブラウンの父親オリバー・ブラウンが州の教育委員会を相手取って訴訟を起こしたものだ。訴状内容としては、リンダは自宅からわずか7ブロック先の公立小学校に受けいれられず、約1.5キロメートル離れた別の小学校に通うことを強いられたことから、これが教育の機会の平等を奪うものであると主張した。
裁判は最高裁まで争われ、その間にアメリカ中に反響を呼び起こしていく。1954年5月17日の最高裁判決により、それより約70年前の1886年に、白人と黒人の利用できる鉄道やバスの席が分けられていることを合法とした「プレッシー対ファーガソン裁判」の最高裁判決が覆され、「環境が同じなら白人のための公立施設と黒人の公立施設は「分離すれども平等」という法的判断を否定し、分離そのものが差別であるという判断を示すものとなった。
そこで、もう一度振り返ってみたい。この裁判の最大の論点としては、公立学校における分離教育が黒人子弟にどんような影響を与えるかであった。その筋の社会的・心理的意味あいを中心に、専門家を呼んだりしての集中審議をおこなっての判決は、全員一致で、人種を唯一の理由の理由として黒人子弟を差別することは、彼らに劣等感を植え付ける。のみならずそれは、彼らの精神・勉強意欲を損なう。ひいては、憲法が保証する教育の平等な機会を奪うことになるとした。
「われわれは次のように結論する。公立教育の分野では、「分離すれど平等」の原則は受け入れる余地はない。分離した教育施設は本質的に不平等である。したがってわれわれは、原告および原告と同様な状況にあり、その人びとのために訴訟が行われている人びとは、訴えている分離のために憲法修正第14条によって保証されている法の平等な保護を奪われていると判決する。」(大下尚一外編著「史料が語るアメリカ」有斐閣、1989)
このような判決が下されたからには、「われわれは憲法修正条項(第14条が採択された1868年へ、あるいは「プレッシー対ファーグソン」判決が書かれた1896年へさえ、時計の針を戻すことはできない」ことになり、公立教育かぎりの狭い分野ながら、過去の正しからざる教育政策との決別がなされた意味合いは大きい。
(続く)
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5『自然と人間の歴史・日本篇』日本列島の形成と変化(大陸からの分離)
もう一度、振り返っておこう。今からおよそ1900~1500万年前、一説には、この後日本列島になる部分が、大陸から分離し始めたのではないかと考えられている。この有力説によると、日本列島は今からおよそ2500万年前(新生代古第三期漸進世というのは、3390万年前~2303万年前)までは、まだアジア大陸の東の端にあったという。
その後、新生代中新世に入ると大陸の端が裂けて日本列島は少しずつ大陸から離れていったのではないかと。
そして今から約1700万年前頃になると、この裂け目に海が入って日本海が誕生したのではないか。「島弧」としての日本列島が誕生した。このとき、日本海の開口に関係してグリーンタフ変動とよばれる広域的な火成・堆積活動が発生したのではないかと考えられている。
それから更に、大いなる時間が経過していった。今から600万年前頃までの間にも、日本列島の周りからには3つものプレートが地球内部へと沈み続けて来たのであろう。その地球内部への沈降しているところで、海面下の火山活動が盛んになる。そのことで火山が沢山できて、溶岩や火山灰などが沢山降り積もり、地質学の用語で「付加体」を形成していた。そのことにより、日本列島になってからも、その土台は形成され続けているとみられてよい。
ちなみに、その時の有様を現代に伝える地層としては、例えば、中国地方においては山口県に秋芳洞があって、その洞窟内で珊瑚礁の化石が発見されている。つまりは、石灰岩の厚い地層をつくっていった。生物化石が含まれるということは、この地においてその生物たちが生きて活動していた「地質時代」を示しうる。地質学では、それを特定する石を見出して、それに「示準化石」(しじゅんかせき)の名を付けているところだ。
私たちの日本列島のそれからについては、どうなっていったのであろうか。これについては、2017年6月、独立行政法人産業技術総合研究所の地質研究チーム(高橋雅紀・主幹)による新説が発表された。『日本列島の成り立ちから見た関東平野の基盤構造』(インターネットで配信のもの)に、研究の要約がある。
それには、大雑把に、1900~1500万年前に、日本海が拡大したことで、日本列島がユーラシア大陸から分離した。1900万年前には、今度はフィリピン海プレートの沈込みにより、日本列島を形づくる岩盤に「強い圧縮変形」が生じる。後者は日本列島の南にあって、当時から年3~4センチメートル北西に動いていた。
そこで、この両者の動きの方向の違いにより地層・地殻の「ずれ」が発生したのを、この「ずれ」を埋めるため、日本列島の東側にある日本海溝が年1~2センチメートルずつ陸側に動いたのだという。もっとも、これは地質模型を使っての推論であるようで、自然の中からの確たる証拠はまだ提出されていないように感じられる。
それから1000万年以上にわたって、地殻の沈降それから隆起が発生した。これにより陸からの土砂などが浅海域に堆積していくことで、後期中新世になると新たな陸地が広がった。さらに今から300万年前には、強い東西からの圧縮応力が加わり、それが逆断層運動に連なることで従前からの山地は隆起する一方、山間盆地や海岸平野は沈降していった。
その結果として、全体的に起伏に富んだ地形が広がった模様。先の阪神淡路大震災や新潟県中越地震を引き起こした地殻変動を巡って、その原因が従来考えられていた太平洋プレートではなく、南海トラフを形成するフィリピン海プレートの動きにあるとしている点でも、目新しい。
(続く)
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