◻️42の3『岡山の今昔』江戸時代の三国(17~18世紀の藩政改革・美作)

2021-04-23 10:06:55 | Weblog
42の3『岡山の今昔』江戸時代の三国(17~18世紀の藩政改革・美作)

 この時期の津山藩の藩政改革でいうと、その名がつくものとしては、まず「宝暦の変革」がある。
 これが実施されたのは、1759年から1761年にかけての、松平氏の治世になってからはや半世紀余り、もはや先代森藩からの宿題を云々することはできなかったであろう。
 その狙いとしては、「徹底した財政問題に絞った」(「津山市史」第4巻、近世2、松平藩時代)とされている。
 手始めになったのは、10人もの大庄屋の更迭であった。しかも、それまで帯刀を認められていたの剥奪されたのにとどまらず、平百姓を申し付けられたというのだから、驚く。
 なぜなら、改革というのなら、彼らの上に立って実際を取り仕切っていたであろう武家の面目をなんと心得ていたのか、責任転嫁と言えなくもなかろう。
 その実は、10万石から5万石に減封になったことに加え、江戸鍛冶橋門内(現在の東京駅)の上やし屋敷が全焼したことによる再建など諸々の「御用向き」があったのだと、大方には解説されているようだ。

 やがて、松平康哉の治世になると、先代の長孝が行った「新法」を吟味してみたという。先代では、庄屋制度を廃するなど藩政改革を行なうことで藩財政などの再建を目指したという。けれども、実績が上がらないまま、重臣たちがとりあえず続けたのかもしれない。
 そして迎えた1771年(明応8年)の康哉は、父が始めた新法による改革を一旦廃し、新たな決意で藩政改革を行う。先代改革の全てが失敗したというのではなくても、領民から搾り取るばかりではいけない、と判断したのではないか。
 その正式な触れ、それに家中向けとしては、「申渡十一時箇条」、「問九ケ条」と「郷中御条目」なりが出ていて、なかなかの体裁にちがいない。
 これに至るまでには、江戸にいるときは、上杉治憲や細川重賢らに教えをこう。彼らに倣い、機構改革、それに大村庄助や飯室武中といった、家柄にとらわれない有能な人材を登用したりで、藩政の刷新を目指す。
 また、税徴収の増加を目して、社倉や義倉孝行者に対して褒賞を出す、育児法を制定するなどの、社会福祉的な政策をとる。ほかにも、藩校を整え、学問を奨励、武道を励ますなど、多様な取り組みを行う。
 それでも、全体として実効性の確保ができないうちに改革が終わったのには、上意下達ではなく、下からの声を積み上げるやり方をとらなかったことが少なからずあったのではないだろうか。

(続く)


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♦️269の9『自然と人間の歴史・世界篇』ゴールドラッシュ(アメリカ、19世紀)

2021-04-22 20:35:48 | Weblog
269の9『自然と人間の歴史・世界篇』ゴールドラッシュ(アメリカ、19世紀)

 ゴールドラッシュというのは、1848年1月、現在のサクラメント市に近い、アメリカン川支流での出来事に発した模様だ。大工のジェームズ・マーシャルが、砂金を発見した。彼が、ヨハン・A・サッター所有の製材所を建設中のことだったというのだが、そのニュースはまたたく間に全米各地に広まっていく。

 参考までに、本人の手記においては、こんな発見話を記している。

 「(前略)水路のすそに近いあたりまで行ったところで、水面下6インチばかりの岩の上に、金を見つけた。そのとき私は一人だった。一かけらか二かけら拾い上げて注意して調べてみた。鉱物について一応の知識はあったのだが、このように見えるものとしては二種類くらいしか思い浮かばなかった。
 すなわち、キラキラ輝いてもろい硫化鉄か、輝いているが柔軟性のある金かである。そこで二個の石を使ってためしに打って、みたところ、形は変わるが壊れないことがわかった。」(大下尚一・有賀貞・志邨晃佑(しむらこうすけ)・平野孝編著「史料が語るアメリカーメイフラワーから包括通商法、1584~1988」有斐閣、1989」)

 そうなると、多くの人々がこの地を含むカリフォルニアにやって来る、一躍千金を夢見る人々で、2万人にも満たなかったこの地の人口は、1849年末には約10万人に達する。このうち約5万人かシェラ・ネハダ山脈のマザーロード地方を中心とする地域にテントや掘建て小屋を建て、採金作業に従事した。

 「はからずも」というか、これより後の「1873年金鉱への道、モンタナ」という舞台設定にて、ハリウッドで撮影されたアメリカ西部劇の中でも、例えば「縛り首の木」では、彼らを支援したり、必要品の提供から酒や博打、公証人、宿泊に至るまで様々な職業人が集まることで砦・町を形成していたという。
 主人公の男性は、そこで医者をしながら、山あい、渓谷の採掘の作業場に往診もするという設定であって、それなりの時代考証もなされていたのではないだろうか。

 それはさておき、なにしろ一大ブームであったのは色々な語り草からも広く知れており、アメリカはオレゴンに続いて太平洋岸に新しいフロンティアをもつことになったのだと。

 それからは、このような採掘熱が、ネバダ、コロラド、ワシントン、アイダホ、モンタナ、ダコタなどの西部各地に広まっていく。これは、見方によっては、「西から東へとフロンティアを推進する形をとり、鉄道の発達を促すとともに荒野を新しい準州、州へと成長させた」(渡辺真治「ゴールドラッシュ」、斎藤眞、他の監修「アメリカを知る事典」平凡社、1986に所収から引用)とも評される。
 のみならず、この動きは、さらにはカナダを経てアラスカにも広まっていったようで、こうある。

 「他方、アラスカでは、1880年代に金が発見され、19世紀末から20世紀初めにかけてノーム、フェアバンクスを中心にゴールドラッシュが起こり、アラスカ発展の基礎となったが、カナダとの境界を定めた1903年の条約締結も金鉱地帯の所有をめぐる対立の結果といえる。」(同)


(続く)

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『自然と人間の歴史・世界篇』ヘルツの実験(1888)  

2021-04-21 23:04:59 | Weblog
『自然と人間の歴史・世界篇』ヘルツの実験(1888)
 
 ドイツの物理学者ハインリヒ・ヘルツ(1857~1894)は、ドイツの物理学者だ。
 その彼関心を向けたのが、1864年にイギリスの物理学者のマクスウェルが電磁波の存在を予言した、その存在を実証することである。

 では、ヘルツはどのような装置で電磁波の存在を確認しようとしたのだろうか。

 まずは、電波を出す送信側をいうと、誘導コイルを使って高い電圧を作り、それを火花間隙に導いて火花放電を発生させる。

 そして、そこからある離れたところに、検出器としての、電波を受信するコイル(共振器)を置く。このコイルの根もとには、小さな間隙を設ける。

 こうすることで、誘導コイル側で発生した火花放電により発生した電磁波が空間を伝わって、受信側のコイル(共振器)に誘起し、その間隙に火花放電を起こさせようと考える。

 言い換えると、この実験においてヘルツは、誘導コイルとアンテナを組み合わせた発信装置に非常に大きな電力を与え、強力な電磁波を発生させ、受信アンテナで生じた火花を観測したようとした。
 当時は、高周波で火花放電を発生させることは簡単ではなかったとのの、しばらく前に発明されていたブンゼン電池を数十個使用して大電力を発生させ、さらに誘導コイルを使うことを考えたという。


 ヘルツはこの実験で、電波を発生する間隙(かんげき、放射器)に対して、受信側のコイル(共振器)の向きを変えたり、距離を変えたりしてみる。
 そして、誘導コイルの端子間に火花が飛ぶのと同時に、誘導コイルの間隙にも火花が飛ぶのを確認した。

 これをもって、「誘導コイルの端子間の振動電流が振動する電場と磁場をつくり、この振動が空間を電波として伝わっていき、ループを通過するときに、そこに振動する電場と磁場をつくり、この強い振動電場のためにループの間隙に火花が飛ぶと理解される」(原康夫「増補版物理学入門」学術図書出版社、2005)と説明される。

 なお、今日、電磁気学以外の力学などの分野も含めて、振動数(または周波数)の単位は(1/秒)とされる。これをヘルツと呼びHzと記しているのは、彼が電磁波の発生と検出に成功したのを讃えるものだ。

(続く)

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◻️115『岡山の今昔』備前岡山(江戸時代)

2021-04-21 21:03:32 | Weblog
115『岡山の今昔』備前岡山(江戸時代)

 思い起こせば、1603年(慶長8年)、今度は、徳川家康の孫の池田忠継が備前28万石の太守に封ぜられる。しかし、幼少であったため兄の利隆が代わって藩政を執った。忠継没後、弟の忠雄が継いで藩主となって、岡山城の整備を続け、彼の代で今日に残る岡山城の威容が完成した。このとき藩の石高も31万5200石に落ち着く、正に瀬戸内の雄藩としての位置づけを与えられたのである。

 1632年(寛永9年)に忠雄が亡くなると、その後を継いだ光仲は幼少のため、池田氏一族内での系統の入れ替えの幕令が下る。それからは、従兄弟にあたる鳥取藩主・池田光政(いけだみつまさ)と交代して鳥取へ移り、以後明治維新を迎えるまで、岡山藩32万石は光政の子孫(系統)の池田家によって治められていく。ここに光政は、姫路城を築いた西国将軍・池田輝政の孫で、父・利隆の跡を継いだ翌年に姫路から鳥取へ転封されていた人物である。

 さて、江戸期に入ってからも城造りは続いていく。それが、池田家によって一応の完成を見る。岡山城二の丸跡には、次の説明板が設けてある。

 「岡山城郭について
 岡山藩の城府である岡山城郭は、戦国大名の宇喜多秀家が一五九〇年代に築城し、以後の城主の小早川秀秋や池田家に城普請が引き継がれ、四代目城主の池田忠雄の時(一六ニ〇年代)に完成をみました。
 二の丸跡に立てられている説明板によると、「城郭の構成は、本丸を中心にして一方に郭の広がる梯郭式の縄張りになり、本丸・二の丸内屋敷と二の丸・二郭からなる三の曲輪と三の外曲輪の、三段構えの六区画から成り立っています。ー中略ー。三の曲輪と三の外曲輪は、城下町にあててあり、内側には町人町を設け、外側に侍屋敷を配して城郭周辺部の固めをなしていました。城郭は、東西約一km(キロメートル)・南北約一・八kmの規模になり、背後を旭川の天然の要害で固め、縄張りの各区画が堀で区切られ、二十日掘と呼ばれる幅約三十m(メートル)の外堀が城府を画していました。」(以下略、昭和六〇年二月、岡山ライオンズクラブ、監修岡山市教育委員会)

 これにあるように、完成した岡山城の間取りは、本段、中の段、下の段の三段造りとなっている。中の段の北に本丸が聳える構図だ。正保年間(1644~1647年)の備前国岡山城絵図を基にして描写)の絵図を見ると、城郭の北から東にかけては旭川が西から東へと張り出した格好となっている。そして西から南にかけては内掘で囲んでいる。南ないし西が大手門の方向とされ、いわば城の玄関というところか。
 本段には、天守と藩主が日常生活を送るための本丸御殿が配されていた。そこに五重六階の天守が立ち、あたりをぐるりと見渡すことができていた。珍しいのは、天守台の張り出し具合に合わせる形で下層が不等辺多角形、上層が正方形となっている。天守閣の他にも、「櫓一八棟・多聞櫓六棟・城門一三棟、さらに御殿・表書院・鉄砲蔵・金蔵・長屋などの建物が立ち並んでいました」(岡山城二の丸跡の説明板、昭和六〇年二月、岡山ライオンズクラブ、監修岡山市教育委員会)とある。

 それから、時代が改まっての1873年(明治6年)の廃城令により御殿、櫓そして門の大半が取り壊される。続いて1945年(昭和20年)のアメリカ軍の空襲で、、江戸期からの天守と石山門は、焼け落ちた。戦後になって、天守、不明門、廊下門、六十一雁、木の上門、上屏の一部などが再建される。中の段には、広間や台所を備えた大きな建物が配されていて、「政庁」を構成していた。その区画には、藩主の公邸ある表書院の御殿も建てられてあった。そして下の段には、あれやこれやの蔵や藩主遊興の建物などが所狭しと並んでいたらしい。


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 ちなみに、江戸時代を通じての備前岡山藩の石高の人口の推移は、例えば、次のように推定されている。
 いわく、1661~1670年代の貢米(単位は100石)は1992、1665年の人口(単位は100人)は2472。1671~1680年代の貢米(単位は100石)は1908、1679年の人口(単位は100人)は2442。 1721~1730年代の貢米(単位は100石)は1821、1721~1726年の人口(単位は100人)は3418。1751~1760年代の貢米(単位は100石)は1878、1750~1756年の人口(単位は100人)は3243。1781~1790年代の貢米(単位は100石)は1831、1786年の人口(単位は100人)は3216。 1861~18706年代の貢米(単位は100石)は1738、1872年の人口(単位は100人)は3319。(山崎隆三「江戸後期における農村経済の発展と農民層分解」、岩波講座日本歴史12・近世、1963.12に所収)
 さて、このような城郭をもった岡山城下町の規模はどのくらいであったのだろうか。1707年(宝永4年)の史料に基づくと、武家が約2万3千人、町人は約3万人であったといわれ、山陽路では屈指の規模であったようである。これに周辺の町・村名と同じ町名が幾つもある城下町も類例を挙げればきりがない。岡山城下の西大寺(さいだいじ)町・児島(こじま)町・片上(かたかみ)町などもこういった町名の由来であるが、それぞれ上道(じょうどう)郡西大寺・児島郡郡(こおり)(いずれも現岡山市)、和気(わけ)郡片上(現備前市)から城下への移住による故これらの名称となったことが覗われる。

 次に、城下町の詳細な区割りと方向性は、どうなっていただろうか。そして現在の街割り、町筋などとの関わりはどうなっているのだろうか。江戸期の地図については、色々と残っている。その中でも元禄時代(1668~1707年)の古地図によめと、五重の掘に囲まれた城郭と、南北に3.5キロメートル、東西に1.3キロメートルに及ぶ城下が広がる。

 また1863年(文久3年)の「備前岡山地理家宅一枚図」(池田家文庫)」があり、彩色の上、町屋の町名も逐一記載されている。
 いま江戸末期の地図を広げて見る者には縦に細長い。同図を城のあるところから西へとたどっていくと、一番内側の内掘が設けられている。この内側には、南側と西側にかなり広範囲に城下が広がっていた。そして今は、この内側に丸の内、内山下とある。現在の丸の内はオフィス街だが、日本銀行などの官庁もある。内山下は津山城下などでも広く見られる地名で、城の周りの「山下」の中でも、内堀の中川に当たる部分を指して言われる。こちらの旭川沿いに現在の岡山県庁が鎮座している。

 そして江戸期の内堀の外側には、[伝旧本]や[石山]、[西の丸]といった城割りがほぼ平行して並んでいた。この「二の丸には、櫓一六棟・南側の大手門を含めた城門10棟を始め、殿舎・長屋・土蔵・評定所や勘定所などの役所、さらには重臣クラスの邸宅や武家屋敷が配置されていました」(岡山城二の丸跡の説明板)とあり、往時にはさぞかし重厚感のある景色が広がっていたことを覗わせる。

 さらに「三の曲輪と三の外曲輪は、城下町にあててあり、内側には町人町を設け、外側に侍屋敷を配して城郭周辺部の固めをなしていました」(岡山城二の丸跡の説明板)とある。こちらは、武家と言うより、むしろ町人町であったというのが、ふさわしいのではないか。今度は、現代的の此のエリアにやってくる多くの人達がそうであるように、岡山駅のあるところから出発してみよう。

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 時代が明治になっての1886年(明治19年)、私鉄として神戸以西に鉄道をつけようという計画が関西の財界を中心に持ち上がる。その話が続いての2年後、藤田伝三郎を発起人代表として、山陽鉄道株式会社が認可設立される。そこでは、全線を神戸~岡山、岡山~広島、広島~下関の3区間に分割し、各区間3ヵ年で完成する計画が立てられる。
 最初の区間のうち、神戸~姫路間の53キロメートルは、1888年(明治21年)12月に開通した。しかし、翌年の凶作による不況から工事用資金の調達難におちいるなど、資金を得るには困難さが増した。他にも、岡山県内では西大寺や玉島などの河川水運と海上交通の接点として栄えた町が、鉄道敷設による用地買収などに消極的であったことが挙げられる。そのため、これらの町を外して北寄りに路線を敷いて工事を進めるなどの計画の手直しがなされたことがある。

 それでも1891年(明治24年)3月までには、岡山までの89キロメートルが開通し、更に9月までには福山まで開通した。その後もなんとか工事が進んで、1894年(明治27年)6月には神戸~広島間の全区間127キロメートルが開通したのであった。
この東西ルートに続き、江戸期からの「津山往来」のルートに沿って南北を結ぶ鉄道を通す話が、中国鉄道という会社の設立と絡んで進められる。そして1898年(明治31年)12月に開業する。中国鉄道の駅として岡山駅に隣接してつくられた。明治末期の撮影に「岡山市」駅が写っている。この駅は、1904年(明治37年)に岡山駅に統合された。

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 それでは、城下町の頃の町人町の中心部はどこであったのだろうか。だが、現在の岡山市の中心市街地のあるところは、かなり広範囲に及ぶ。数ある町の名前や通りの中には、江戸期からのものもあるし、明治以降のものもあるのだろう。めずらしいところでは、例えば、中心市街地にオランダ通りという、めずらしい名前のついた通りがある。これは、表町商店街のアーケード通りに平行して位置している。現在では、南北1キロメートル程度の通りに、ブティックやギャラリー、飲食店等が並んでいる。1998年には、電線の地中化や、車道にレンガを敷き、屈曲化して歩道と接するようにするなど、歩行者優先のおしゃれな街路に切り替わった。

 その名前の由来は、1846年(弘化2年)、ドイツ人医師のシーボルトの娘、楠本いねが、この地で医者修行を始めた。いねは、長崎の出島にやってきていたオランダ人医師のシーボルトと長崎の遊女「お瀧」との間の娘であった。彼女が2歳の時、父親のシーボルトはシーボルト事件を起こして国外追放になってしまう。その後の彼女は、シーボルトの門下生達によって養育され成人する。

 そのシーボルトの門下生の一人、岡山勝山藩の石井宗謙に岡山の地(現在の岡山市下之町界隈)について医学を学ぶ。1845年(弘化2年)から1861年(嘉永4年)まで6年間学んだ。いねは、師の石井宗謙との間に娘一人を設けたが、結婚はしなかった。宗謙と分かれてからは、宇和島藩主伊達宗城が後見人となっていた。その後、長崎に遊学する。我が国初の女性産婦人科医であって、将来の勉強家であったと伝えられる。18561年(安政3年)には日蘭修好条約が締結され、その翌年、禁が解かれて来日していた父シーボルトと再会を果たしたことになっている。


(続く)

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◻️154の2『岡山の今昔』岡山のうまいもの(肉など)

2021-04-21 09:41:03 | Weblog
154の2『岡山の今昔』岡山のうまいもの(肉など)

 今日でいう津山地域は、中国や韓国での「医食同源」とも似ている「養生食い」でも知られる。
 それというのも、その歴史はかなり古い。それに関する記録でいうと、705年に津山で牛馬の市が開かれた。北方での大山道のあたりでのことなら定期市があったのがかなり知られてるのかもしれない、とはいえ、津山もまたその関わりかあったのかどうか、牛馬の流通地点であったらしい。
 しからば、やや近いところで歴史を紐解くと、江戸幕府とても、その風習のあることを知っていて、おそらく黙認していたことになろう。とにかく、(私のような郷土史家の先達の後に付く者はなおさらのこと)何らかの歴史史料が欲しいものだ。
 さて、明治時代に入る前、江戸時代の末頃になっても、津山は全国的にも、今日でいう滋賀県彦根市と並んで、かかる「養生食い」の本場であったようだ。
 そうはいっても、「肉食は禁止」されていたともされ、公にはなかなか評判が立つまでには至っていなかったのではないか。

🔺🔺🔺

 それが、時代が明治になると、平たい意味での世間というか、周りの様子が大胆にも、つまりガラリと変わる。東京では、すき焼きなども評判になっていく。
 それに加えていわく、1879年(明治12年)に陸軍がまとめた全国主要物産において、東南条郡川崎村(現在の津山市川崎)の牛肉が紹介されている他、開国からさして経っていない神戸居留の外国人には、津山から牛肉を取り寄せたり、それが目当てで、たまには津山方面へ出かけるなりしていたようなのだ。だとすれば、文明開化の時代となっても、日本の食文化にそれなりに貢献していくのであって、かの伝統を基に面目を新たにしたことになろう。

154『岡山の歴史と岡山人』岡山のうまいもの(肉など)

 今日でいう津山地域は、中国や韓国での「医食同源」とも似ている「養生食い」でも知られる。
 それというのも、その歴史はかなり古い。それに関する記録でいうと、705年に津山で牛馬の市が開かれた。北方での大山道のあたりでのことなら定期市があったのがかなり知られてるのかもしれない、とはいえ、津山もまたその関わりかあったのかどうか、牛馬の流通地点であったらしい。
 しからば、やや近いところで歴史を紐解くと、江戸幕府とても、その風習のあることを知っていて、おそらく黙認していたことになろう。とにかく、(私のような郷土史家の先達の後に付く者はなおさらのこと)何らかの歴史史料が欲しいものだ。
 さて、明治時代に入る前、江戸時代の末頃になっても、津山は全国的にも、今日でいう滋賀県彦根市と並んで、かかる「養生食い」の本場であったようだ。
 そうはいっても、「肉食は禁止」されていたともされ、公にはなかなか評判が立つまでには至っていなかったのではないか。

🔺🔺🔺

 それが、時代が明治になると、平たい意味での世間というか、周りの様子が大胆にも、つまりガラリと変わる。東京では、すき焼きなども評判になっていく。
 それに加えていわく、1879年(明治12年)に陸軍がまとめた全国主要物産において、東南条郡川崎村(現在の津山市川崎)の牛肉が紹介されている他、開国からさして経っていない神戸居留の外国人には、津山から牛肉を取り寄せたり、それが目当てで、たまには津山方面へ出かけるなりしていたようなのだ。だとすれば、文明開化の時代となっても、日本の食文化にそれなりに貢献していくのであって、かの伝統を基に面目を新たにしたことになろう。

 それと、津山においては、単に肉食というにとどまらず内臓肉を「ホルモン」と呼んで珍重して食する習慣がある。こちらの話でいうと、最近の冷蔵・冷凍技術の発達により当該肉の保存が向上してきている、あわせて津山市内に食肉処理場のあることが助けとなって、新鮮な段階で市場に提供が可能になっている由、そのことで「津山のホルモンは臭みがなくおいしい」(観光案内のチラシより)としている。

🔺🔺🔺

(続く)

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(続く)

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◻️419の2『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、坪田利吉)

2021-04-20 22:20:21 | Weblog
419の2『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、坪田利吉)

 坪田利吉(つぼたりきち、1870~1944)は、現在の広島県府中市の出身ながら、岡山城下町で大きな足跡を残した人物だ。
 岡山の地で万納屋(まんのうや)という行商屋を営む。商いをした対象は概ね日用品とのことで、一説には、自身が大八車を引いて売り歩いていたともいう。
 さて、その名前を世間に知らしめてある最大のものは、坪田が並みの富豪とは異なる、商売と同じくらいの情熱を慈善事業に注いだことだ。
 その代表的なものは、県下では初めての鉄骨製の火の見櫓の建設する。その最初のものとは、天神町にあるもので、こう説明されている。

 「大正13年(1924)に建設された火の見櫓(登録有形文化財)も残っている。高さ21.1m、4脚の鉄塔で、最上部には1辺2mな四角形の望楼があり、屋根上には飾りの付いた尖塔がある。」(岡山大学附属図書館編「絵図で歩く岡山城下町」吉備人出版、2009)

 これを皮切りに京橋など市内6ヶ所に建設、寄贈している。また西川にも三基の石橋(万納橋)を築く。全体でいうと、火の見櫓の寄贈は12ヶ所のようだ。
 他にも、無料宿泊施設や石のベンチなどを寄贈しているという。
 晩年は眼病に苦しみ、1937年(昭和12年)に引退する。
 私生活では、熱心な日蓮信徒でも知られる。


(続く)

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◻️178『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方洪庵)

2021-04-20 08:51:55 | Weblog
178『岡山の今昔』岡山人(19世紀、緒方洪庵)

 緒方洪庵(おがたこうあん、1810~1862)は、備中の足守藩の藩士の家に生まれる。大坂に出て、医学を学ぶ。洋学者の中天ゆう(なかてんゆう)が先生であったという。1830年には、江戸に出て、坪井信道(つぼいしんどう)らに蘭学を学ぶ。それにもあきたらずか、1838年には、長崎に行き、蘭学を深める。こちらは、「遊学」であったとか。
 1838年に、大坂で「適塾」を始める。1844~1864年までの適塾姓名録には、637名のうち、岡山出身のものは46名を数える。彼らは、医学を習得して故郷に帰り、そこで開業していく。
 その著書も多い。「扶氏経験遺訓」(30巻)や「病学通論」(3巻)など。社会活動は医師ならではの活躍を示す。西洋医学で発明された種痘を日本に取り入れる。幕府にはたらきかけて、種痘の普及やこれらの治療などに力を尽くす。その人脈を通じて、種痘の種を送り、全国に広まっていく。多くの命がこれで救われたのだという。
 そんな中でも、「医の世に生活するは人の為のみ、おのれがためにあらずといふことを其業の本旨とす。安逸を思はず、名利を顧みず、唯おのれをすてて人を救わんことを希ふべし」(「扶氏医戒之略」)というのは、空前絶後と見なしうるのではないか。
 1862年には、幕府に呼ばれて、江戸に出向く。医師兼西洋医学所の頭取に就任する。翌1863年に急死したのには、過労やストレスなどがかさんだのではないか。加えるに、学問の人を悩ませたのは、人付き合いの苦労が大きかったのではないか。


 ちなみに、病の洪庵を看取った八重夫人の述懐には、こうある。

「昨秋より一方ならぬお勤め、今までは我がままにお暮らしなられ候御身が御殿向きの事、また医学の御用向き、何につけてもご心配の多く、世上は騒がしく、子供は大勢なり。
 ご心配ただの一日も安心と思い召さずに、こ病気もかねて胸の痛みもなく、・・・にわかに咳が出て、その時少々血が出て、また咳が出て候えば、この時はもはや口と鼻の両方に、一時に血がとんと出て、そのまま口をふさぎ、縁側のところに出て、血を吐かれ候ところ、追々出て、もはや吐く息は少しも相成らず候と相見え、・・・こと切れ申し候・・・。」(柳田昭「緒方洪庵生誕200年前夜ー病弱な洪庵が偉大な業績をあけた原動力ー」に引用される、八重夫人が洪庵の死後、名塩の妹に送った手紙から)

(続く)
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◻️160の1の3『岡山の今昔』岡山人(16世紀、宇喜多直家)

2021-04-20 08:09:36 | Weblog
160の1の3『岡山の今昔』岡山人(16世紀、宇喜多直家)

 宇喜多直家(うきたなおいえ、1529~1582)は、機を見るに敏、かつ、かなりの権謀術数に長けていた戦国武将と言って、差し支えあるまい。


 元は、1543年(天文12年)頃からは、和気郡天神山城主の浦上宗景のもとに出仕し、寵愛されて邑久郡乙子城を与えられる。

 浦上は、赤松氏の重臣であった。とはいうものの、やがて主君に寵愛されるのでは足らない、それに埋没するのではなく、浮上する機会を狙っていたのではないたろうか。

 こうした中で、1549年(天文18年)にもなると、その野心があらわになっていく。この年、宗景の命により邑久郡砥石山城主浮田山和を討って、祖父能家の居城を奪い返すとともに、その功により上道郡奈良部城に入る。


 1559年(永禄2年)には、島村豊後と備中勢と上道郡沼城主中山備前守とを、策を弄して同時に討つ。


 その後、居城を沼城に移す。1561年(永禄4年)には、津高郡金川城主の松田元領有の口山城を後略して、邑久・上道の沃野を手に入れる。


 このころからは、宿敵であったはずの金川城主松田元輝と縁を結び、備前・美作陣出を目指す備中成羽城主三村家親に備える。そのうちの1560年(永禄9年)に、は刺客を放って家親を暗殺する。


 その翌年、直家は、約2万の兵を率いて備前に攻め入る。心中に、作戦を温めていたようであり、家親の息子の三村元親の軍勢を、約5千の兵をもって撃退する。明禅寺崩れといわれるこの合戦は、直家方の会心の勝利であった。


 かくて、その時は訪れた。下剋上(げこくじょう)により、宗景は赤松の領国、備前・美作などを領する。その後どうしたかということでは、直家もまた宗景の隙をついて毛利元就と通じ、備前を奪い取る。岡山城に入り、ついで美作をももぎ取り、外交では毛利と通じる。


 ところが、これでは安心できなかったのだろうか、1580年(天正8年)に、織田信長に毛利氏征伐に派遣されていた羽柴秀吉が播州三木城を陥れると、時勢をにらんでか、織田方の陣営に加わる。

(続く)

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◻️160の1の3『岡山の今昔』岡山人(16世紀、清水宗治)

2021-04-19 22:35:21 | Weblog
160の1の3『岡山の今昔』岡山人(16世紀、清水宗治)

 いつの時代においても、格段に義理堅い人は、それなりにいるものと見える。清水宗治(しみずむねはる、1537~1582)は、戦国時代の武将だ。出自は未詳だという。字は長左衛門。初め備中清水城主であったのだという。

 それが、長谷川掃部を殺して同国高松城主となる。毛利氏の小早川隆景に属した。1577年(天正5 年) 年には、織田信長の命での羽柴秀吉の中国征伐が始り,同 10年岡山まで進攻した秀吉から織田方につくようすすめられる。だが、応じなかった。
 秀吉としては、この城を攻めとる以外になくなる。やがての戦法としては、付近の湿地を考えての水攻めとあるが、これは参謀格の黒田勘兵衛の入れ知恵といわれる破天荒の策であり、戦略家の宗治も「まさか」の思いではなかったか。

 同年、本能寺の変の報に接した秀吉が毛利氏と親しい安国寺恵瓊(あんこくじえけい)をつかわし、宗治の自害を条件に毛利氏との講和を進める。

 それを受け入れ、兄の月清入道とともに自殺する。死して、信義誠実と、部下それに領民を守っての決断であったのだろう。

(続く)

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♦️222の3『自然と人間の歴史・世界篇』微分、積分の発見(ニュートンとライプニッツ)

2021-04-19 21:08:45 | Weblog
222の3『自然と人間の歴史・世界篇』微分、積分の発見(ニュートンとライプニッツ)

 ニュートン(1642~1727)とライプニッツ(1646~1716)は、微分、積分をほぼ同時期に発見したことで広く知られる。

 ニュートンは、イギリスの王立学会員にして、物理学者でありながら、行政にも携わる。もう一方のライプニッツは、ドイツの哲学者、数学者、物理学者であって、多才なことで知られる。

 ちなみに、現在使われている微分・積分(びぶんせきぶん)の記号(微分のd、積分の∫(「インテグラル」と呼ぶ))はライプニッツのものである。

 ライプニッツは、どちらが先かで争った同じ天才ニュートンが、力学的な見地から必要迫られ微分と積分を考案したのに対し、幾何学的興味から微分積分法を開発したといわれている。 

 そこで、微分のあらましから紹介しよう。一般的に、ある関数 f(x) に対して、以下の式で表される導関数 f′(x)[呼び名は「エフダッシュエックス」]を求めることを、「関数 f(x)を微分する」という。

 その原理としては、いまf(x)という関数があって、それに従うことでの点xとそれからhだけ正方向へ移動した(x+h)との間につき、hをゼロに近づけていくと、次のようになるという。

f′(x)=limh→0[f(x+h)−f(x)]/h

 こうなることを理解するには、図形としてみるのが便利だろう。そこでは、x が a から b まで変化するときの関数 y = f(x) の平均変化率は、2点A( a,f(a) ),B( b,f(b)) を通る直線の傾き を表す、としている。

 この平均変化率において,b を限りなく a に近づけた値を「微分係数」と名付ける。
 これまた図形でいうと、2点A( a,f(a)),B(b,f(b)) を通る直線は、点Bを点Aに限りなく近づけてみよう。その時、点A( a,f(a)) における接線に近づく。
 すると、かかる値としての微分係数は、関数 y = f(x) のグラフ上の点A( a,f(a)) における接線の傾きを表している。

 ここで、かかる「b を限りなくaに近づける」とは,「b-a=h とおくと、h→0 」であるから、微分係数を表す式としては、前述の
f′(x)=limh→0[f(x+h)−f(x)]/hとなっていることが、おわかりいただけるだろう。

 同じく、前述の微分の定義式でいうと、この式の分母はx の微小変化量、分子は y の微小変化量を表している。hを0に近づけていくと、この微小変化量がどんどん小さくなっていく。

 x の微小変化量と y の微小変化量が限りなく小さくなった時、x の微小変化量をhではなくdx、 y の微小変化量を f(x+h)−f(x) ではなく dy と書き表すことにする。d は「極めて微小な差」を意味している。すると、かかる微分の定義式は、

a=dy/dx

と表せる。ライプニッツ記法と併せると、

f′(x)=dy/dx

となる。この dy/dx という表し方をラグランジュ記法という。

🔺🔺🔺

 一方、積分については、微分の前に発見されていて、その訳としては、一説には、長さ・面積・時間といった古代から使われている外延量が歴史上先であり、温度とか速度といった内包量は複雑なため、微分はその後になったのではないかと考えられている。


 「それについておもしろい話がある。ライプニッツは、はじめ、
∫f(x)
記号を使っていた。それは積分をたんなる和と考えていたことを意味する。
 しかし、あとで考えなおして、dxを加えて、今日のような
∫f(x)dx
という記号にきりかえた。それは、彼が、積を、和ではなく、内積(ないせき)の極限だと考えるようになったことを意味している。つまり、内積は積分の原型なのである。」(「遠山啓著作集」の「5量とはなにか」太郎次郎社、1978)

 このようにして「内積」の極限を考えての積分は、例えば「区分求積法」といって、「与えられた図形の面積や体積を、微小な基本的な図形の面積や体積の和の極限値として求める」(道脇義正・他著「工科のための微積分入門」東京図書、
1978)のに用いられる。


(続く)

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♦️362の13『自然と人間の歴史・世界篇』電子の振舞い(パウリ原理と不確定原理)

2021-04-19 10:42:30 | Weblog
362の13『自然と人間の歴史・世界篇』電子の振舞い(パウリ原理と不確定原理)

 パウリ原理というのは、ヴォルフガング・エルンスト・パウリ(1900~1958)というオーストリア生まれのスイスの物理・化学者が発見した、現代化学の基礎となっているパウリの排他律とともに有名だ。

 その中では、原子内の電子がその占める位置に関してどのように振る舞うかを述べる。
 まずは、電子の位置を指定する4つの量子数というものがあり、具体的に、いうと、主量子数N、方位量子数L、磁気方位量子数ML、スピン量子数Sとあって、いわば これは電子の住所みたいなものだという。
 なにしろ、極微の世界のことなので、人間の目には見えないところでの物理法則の一つとしてある。
 この原理に従うと、一つの原子の中で、ある特定の住所をもつ電子は一つしかないという。言い換えると、2つ以上の電子が同時に同じ量子数(N、L、ML、S)の組み合わせを持てないということになっている。

 それはなぜかというと、次のように説明される。

 「具体的に言えば、同じ運動量と同じスピンのz成分を持つ電子は一個しか存在できないのだ。このパウリ原理が働くために、原子が安定に存在できることが証明できる。
 原子内では、電子は決まったエネルギーの大きさ(エネルギー準位という)で軌道が決まっているが、その軌道に入ることができる電子の数はパウリ原理のために決まっている、そして、下の準位から順々に電子が詰め込まれ、決まった数になるともうそこには電子が入ることができないから、上の準位に入るしかない。つまり、下の準位がいっぱいになると、電子はもはやそこへ遷移できなくなるのだ。」(池内了「物理学の原理と法則 科学の基礎から「自然の論理」へ」講談社文庫、2021)

 そこでもし、パウリ原理が働かなければどうなるだろうか。その場合は、電子はエネルギーを放出することで、いくらても中へ中へとたまっていく。そうなると、それぞれの原子はいつまでたっても安定てきないことになっていくだろうと。

 これとの関連があるのこどうか、興味深いのは、いわゆる不確定原理からも、電子の振る舞いが、例えば次のように、説明されていることだ。


 「原子は、原子核というプラスの電荷と電子というマイナスの電荷を持った粒子で構成されている、これらの間に働く力はクーロン力て、プラスとマイナスの電荷を持つものの間に働く力は引力(引きつける力)だから、そのみでは電子は原子核に落ち込んで、原子は崩壊してしまうはずである。しかし、電子は落ち込まず、原子は安定に存在している。なぜだろうか。
 これは不確定原理で説明できる。1億分の1センチに広がった電子が10兆分の1センチの小さな原子核まで落ち込もうとすれば、位置の不確かさ×運動量の不確かさ=プランク定数という不確定原理によって大きな運動量を持たざるを得ない。
 大きな運動量を持つとは、激しく行き交う速さを持つということである(運動量は質量と速度の積であることを思い出そう)。つまり、電子が原子核に落ち込み原点に近づいて位置の不確定度が小さくなると、反対に運動量の不確定度が大きくなってさっさと通り過ぎてしまうのでえる。このため原子は潰れる暇かなく、安定性を保っているといえる。そのエネルギーはゼロ点エネルギーなのである。不確定原理があればこそ原子は安定に存在でき、私たちは生きていけるとも言えるのだ。」(前掲書)


(続く)

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♦️964『自然と人間の歴史・世界篇』核の削減か近代化か(核兵器の現状)

2021-04-19 09:45:43 | Weblog
964『自然と人間の歴史・世界篇』核の削減か近代化か(核兵器の現状)


 2021年4月10日付けの新聞各紙において、アメリカのオバマ政権以来の、かれらの内部でのと核兵器をどうするかの議論の一端が伝えられた。
 それによると、以来、アメリカでは、核兵器の近代化計画を見直す動きにあるという。

 そこで、まず、最近の世界の核兵器がどうなっているかを、概観してみよう、かなりの信用度を持つであろう、資料を紹介したい。

  
(資料1)
国名、配備核弾頭、その他核弾、核兵器数(2020年1月時点)

米国は1,750、4,050、5,800、6,185。ロシアは、1,570、4,805、6,375、6,500。英国は、120、95、215、200。フランスは、280、10、290、300。中国は、–、320、320、290。インドは、–、150、150、130~140。パキスタンは、–、160、160、150~160。イスラエルは、–、90、90、80~90。北朝鮮は、–、[30~40]、[30~40]、[20~30]。
 以上の合計としては、3,720、9,680、13,400、13,865。

注釈:「-」は0(ゼロ)をいう。[○~○]は不明確のため,合計数には含まれていない。
出典:「SIPRI YEARBOOK 2020」



(資料2)

 その中でも、他の国々に比べて断トツの規模で核兵器を保有しているのは、アメリカ、ロシア、それに中国ということになるだろう。

○核弾頭数は、アメリカが5800発、ロシアが6370発、中国が320発。

○核弾頭の主要な運搬手段数(ICBM(大陸間弾道))は、アメリカが400発、ロシアが340発、中国が88発。

○核弾頭の主要な運搬手段数(SCBM(潜水艦発射弾頭))は、アメリカが280発、ロシアが160発、中国が48発。

○核弾頭の主要な運搬手段数(MRBM(準中距離弾頭))は、アメリカがー発、ロシアがー、中国が216発。

○核弾頭ミサイル搭載原潜数は、アメリカが14隻、ロシアが10隻、中国が4隻。

○核弾頭ミサイル航空機数は、アメリカが66機、ロシアが76機、中国が104機。

引用は、2021年4月10日付け朝日新聞より引用。原典は、「2020年6月現在。長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)による。退役・解体待ちを含む」とされる。

🔺🔺🔺

 ここに核兵器とあるのは、原理的に原爆と水爆とに分かたれよう。前者は核分裂反応、後者は核融合反応を利用するとのであり。いずれも、人や、人がつくったものを殺戮ないしは破壊する目的で、兵器として関係国により開発されてきた。

 これらのうち、水爆というのは、その名前の通り、水素の中でも重水素と呼ばれる重陽子(陽子と中性子が結合した原子核)同士、もしくは重陽子とトリチウム(陽子に中性子2個が合わさっての原子核)の反応を通じ、あたかも太陽の中で行われているところの核融合反応を念頭においたものと言えよう。

 その意味では、軽い原子核が融合・合体し、ヘリウムに変わる、そのとき大変なエネルギーが解放されるという、いわば自然界の究極の原理を大量殺戮兵器に転用するものであり、「人類知も、ついにここまで来たか」の感を免れまい。

 この反応を、一度核兵器として使うとなれば、どんなことになっていくのだろうか。その結末を予言できる人や国家、組織などは、はたして存在しうるのだろうかと、今さらながらに恐怖を覚えざるを得ない。


 ただし、これの平和利用の研究も行われているという。とはいうものの、また確立された安全な技術とはなっていないようだ。なにしろ、摂氏1000万度からの高温状態を実現するのみならずその状態を維持しなければならない。そのためには、高温の粒子を閉じ込めておく必要があるからだ。

🔺🔺🔺


(続く)

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♦️363の6『自然と人間の歴史・世界篇』光の波動説(18世紀)

2021-04-19 06:51:02 | Weblog
363の6『自然と人間の歴史・世界篇』光の波動説(18世紀)

 18世紀になると、光の波動説が再び話題になってくる。そうはいっても、200年位の間、粒子説を唱えたニュートンの流れがあり、光の粒子説が優勢であったという。
 思い起こせば、アイザック・ニュートンは「光の屈折は、このエーテル媒質が場所によって密度を異にし、光は常にこの媒質のより密な部分から遠ざかることから起こるのではないか」「エーテル分子は空気や光の粒子よりもはるかに小さく、弾性的なものであろう」(1704年の「光学」、島尾水康訳による岩波文庫)と推論していた。


 そんな時に、この論争に加わってきたのが、ヤングである。彼は、もとは医者であった。音の現象に興味をもち、音波と光との類似から出発して光は波であろうと考えた。当時、19世紀末は、光は波であるという解釈が多かった。


 1802年には、いわゆる「ヤングの干渉実験」を行なった結果を発表する。そこで実験の仕組みだが、レーザー装置と二重スリットを設置し、前者は位相の違った光の束を発することができる。

 まずは、細い1番目のスリット(ついたての穴)S、その次にはS1、S2(同)を持つ、ついたての板を平行に置く。さらにその後方に、スクリーンを置く(なお、かかる装置の図解としては、例えば、二宮正夫「宇宙の誕生」岩波ジュニア新書、1996)。


 そうしておいて、Sの手前の光源から平行な細い光線を入れてみた。しかして、これが単色光ならば明暗の平行な干渉縞を生じ、白色光ならば干渉縞の明線の部分は色付いて見えるだろうと。
 そうすると、スクリーンの上には、中心線の両側に明暗の縞模様が現れた。ところが、2番目のスリット2つのうちいずれか一方を塞いだところ、スクリーン上の縞模様は消えて、代わりというか、スクリーン全体がぼんやりと暗くなるのであった。


 こうなると、光が粒子ということでは、説明できない。かたや、この干渉現象は、光を波と考えると考えた方がうまく説明できるのではないか、とヤングは考えた。
 なぜなら、干渉を起こすという性質は、波動に特有なものだからというのが、キー・ポイントとなるだろう。もう少しいうと、2番目のスリットの光が、スクリーン上のある点に到着した時、波が山であったとしましよう。

 次には、スリットB(下側、上側はA)を通った光が、これと同じ点に到着した時、光の山となっていたとしよう。そうなると、波の山の高さが2倍になると。他方、その逆にというか、かたやその一つが波の山、もう一つが谷ということなら、スリットAとBを通った光の波はスクリーン上で互いに打ち消し合うため、その像は暗くなってしまうだろうと。


 こうして二つの孔を持つスクリーンに光を当てると、その後ろに干渉縞(かんしょうじま)が生じることがわかると、今度は光が回折、すなわち波動が障害物の後ろに回り込む現象の起こるかどうかの研究が進められ、1816年のフレネルの実験でそのことが知られるようになった。



(続く)


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新◻️174『岡山の今昔』 岡山人(19世紀、浦上玉堂)

2021-04-18 23:17:34 | Weblog
174『岡山の今昔』 岡山人(19世紀、浦上玉堂)

 この鴨方(生まれたのは、現在の岡山市街)の郷土に江戸後期に生まれた画家に、浦上玉堂(うらかみぎょくどう、1745~1820、本名は浦上兵右衛門)がいる。彼は早くに武家の家督を継いでから4代藩主・池田政香(いけだまさか、任は1760~1768)に気に入られるなどして精勤し、37歳で同藩の大目付に出世する。

 しかし、43歳の時、1787年(天明7年)には、その任を解かれ、左遷される。「大目付免ぜられ大取次御小姓支配役仰付け」られたというから、相当の降格であった。よほどの失敗をしたのかという推測も、おそらく当たらず、確たる理由はわかっていないようだ(例えば、久保三千雄「浦上玉堂伝」新潮社、1997)。

 そうなった理由については、はっきりしていない。けれども、藩内に「此兵右衛門は性質院陰逸を好み常に書画を翫(もてあそ)び琴を弾じ詩を賦し雅客を迎へ世俗のまじらひを謝し只好事にのみ耽りければ勤仕も任せずなり行き」(岡山藩士・斎藤一興「池田家履歴略記」)とあるので、当たらずとも遠からずというところか。48歳の時には、妻が亡くなる。

 50歳にして、二人の息子を連れて脱藩する。鴨方藩とその宗藩の岡山藩が脱藩に寛容であったことも幸いしたのかもしれない。それからは、九州から北陸くらいまでの各地を放浪する。ちなみに、その時のものか、同年にしたためた詩に「少衝イッショウ伊佐翔いし遠か下縁焔か円煙霞」云々とある。

 画業もさることながら、「玉堂」の号名の由来である七絃琴の名手であったことも、旅ゆく先々で名士としての応対、庇護に預かるのに役だったに違いない。

 やがて京都に落ち着いてからは、いよいよ画業に精を出す。玉堂の画風のすごさは、心境の自由さにあるのではなかろうか。例えば、40歳代前半の作品に「南村訪村図」(岡山県立博物館蔵)がある。岡山の豪商河本一阿のもとめに応じて描かれたらしい。小品だが、中国風の山中に人が二人見えていて、後の漂泊の哀感がもう滲み出ているのでないか。 

 そればかりでなく、観る者に、もこもこした息吹を与えてくれるのが、なんとも趣がある。後半生(こうはんせい)には、日本画壇とは一線を画しながらも、怒濤の峰を築いていく畢生(ひっせい)の画家となってゆく彼であったのだが、それに至る頃の故郷にあって何を考え、どのような日々を送っていたのだろうか。


 その代表作ということでの「凍雲篩雪図(とううんしせつず)」は、「玉堂独自の画境を示す代表作であるとともに、日本南画史上忘れられない名作」とも言われる。
 この絵を所有していたのは作家の川端康成であり、自らの美の基準で選んだコレクション中に含まれる。文人画では、池大雅(いけのたいが)の「十便図」、与謝蕪村(よさぶそん)の「十宜図」(じゅうぎず)とともに、有名だ。
 ここに、雪に埋もれた大自然の寂寥感を、繊細な筆触と幾度も重ねられた墨の諧調によって、しっとりと表現している。

 ここに「篩」とは、「ふるい」のことをいう。浦上の六十代末期の作と想定され、彼が奥羽遊歴中に接した雪景が象徴的な風景として、堂々とある。
 凍りついたように動かぬ雲が、雪の冷たさ、山の岩肌と胎動して、人の気配はなく、静寂にして深淵なる世界。
 それでも、じっと目を凝らすと、「色は墨による白、黒、灰色と、表面にちりばめられた若干の朱墨 」といわれる、濃淡交え大胆かつ繊細に表された鋭い線がまとわりつくような、緊張感をもって視に入ってくるような気がする。

(続く)
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◻️192の4の11『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤田伝三郎)

2021-04-18 10:05:11 | Weblog
192の4の11『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤田伝三郎)

 藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう、1842~1911)は、実業家にして「政商」の顔をも持つ。長州の萩のうまれ。父は酒造家、その四男。
 幕末期には萩藩の尊王攘夷運動に加わり国事に奔走する。高杉晋作が率いる奇兵隊に参加する。
 維新後は、政府に任官せずに大阪に移る。1869年(明治2年)、たまたま軍靴製造を始め、陸軍用達業者となる。そのきっかけは、長州藩が陸軍局を廃止したおり、不用になった砲弾、弾丸などの払い下げを受けたのが、その後の商売の元手を与える。
 1880年(明治14年)には、藤田組を創設する。それからほどなくの1883年(明治17年)には、官営小坂鉱山の払下げを受けて、これまた莫大な利益を得る、それからは、事業を拡張していく。要するに、鉱山業を中心に諸事業を興す。その間、西南戦争や朝鮮への出兵などにも関与し、政治家との人脈も拡大していったに相違あるまい。
 それからも、小阪鉱山、十和田鉱山、大森鉱山などを手にしていく。それらにあきたらず、大阪紡績、阪堺鉄道の創設に参加するなど、幅広の分野で事業を手掛けていく。果ては、実業家の間での紛争などでの調停や斡旋を手掛けていく。大阪商法会議所頭となるなど、関西財界の巨頭に登っていく。
 そんな藤田が、児島湾開墾事業に食指を動かす。その話は、1880年頃からはじまったようなのだが、旭川沿岸の水利権や漁業保証の問題が絡んでいた。しかし、狙いを定めたからには、諦めない。藤田は、やがての児島湾淡水湖化までの発展と、干拓による数千町歩の耕地造成へと、そうした藤田組の取り組みの基礎をつくる。


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 私生活では、どういうことであったのたろうか。珍しいところでは、現在の大阪市都島区綱島町に藤田美術館があって、こんな説明文がある。
 
 「明治の終わりごろ、大阪の実業界で幅広い活躍をした長州出身の豪商、藤田伝三郎の宏壮な邸宅がこの地にあった。彼は事業のかたわら、資力に物をいわせ多くの古美術品を買い集めていたが、第二次世界大戦で、倉庫三棟と高野山から移した多宝塔をのこして邸宅は焼失してしまった。
 昭和25年(1950)、残った倉庫を改造し美術館を設立、同29年から公開している。
 所蔵品のなかには、「紫式部日記絵詞」「玄奘三蔵経」などの国宝9点、重要文化財43点などがある。また、庭園には築山やすぐれた石造美術が配置されている。」(造幣局泉友会編「通り抜けの桜」創刊元社、1985)

(続く)

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