◻️32の8の2『岡山の今昔』備中松山城の築城(水谷氏時代まで)

2021-04-17 21:25:19 | Weblog
32の8の2『岡山の今昔』備中松山城の築城(水谷氏時代まで)


 この城の天守閣たるや、ほど高い山の上に現れる。なので、山麓の城下町から大手門までは徒歩で、片道1時間弱かかるみたいだ。そんな中でも、約1500メートルの急な山路を登っていかねばならないという。
 たしかに、かくいう私が訪れた時、天守はかなり遠くの天空に鎮座するというあんばいにて、それまで一気呵成に登れるのではないかと甘く見ていたのを、改めたことがある。


 これの経緯だが、当初からの城普請のあらましを振り返ると、1240年(仁治元年)に、秋庭氏(あきばし)の秋庭重信が、大間松山に初代の城郭を構築する。

 1571年(元亀2年)には、三村元親(みむらもとちか)が修築を行うとともに、山全体に城を拡張する。その後の1575年(天正3年)には、毛利氏に城を攻められて、激しい戦いが半年余り行われる。

 それというのも、あの信長が城主の元親に「毛利の上洛を阻止してほしい、できたなら礼として備前、備中の二国を与える」との連絡があった模様。元親の父三村家親は宇喜多直家に謀殺されていたから、「父の仇を討つのはこの時」となり、信長に味方した。もとの動きを知った毛利方の小早川秀秋は、備中を急襲し、備中松山城を囲み、近在の青麦を刈り取るなどして兵糧が尽きるよを待つ作戦をとる。
 そのうちに、山頂から山麓にかけて、全長約 1,800 mにわたり築かれた稜線のうち、北から大松山(おおまつやま)、天神丸(てんじんまる)、相畑城戸(あいはたのきど)、小松山(こまつやま)、中(なか)と下(しも)の太鼓(たいこ)の丸と曲輪(くるわ)が並ぶ、そのうちの)天神の丸が内応者によって毛利方に落ちると、城勢は大きく傾いていく。元親は、一端城を抜け出してものの、もはや逃れる道は残されていないと思ったのであろうか、再び城下に入り自害し、ここに三村氏は滅亡する。

 以後、毛利氏の代官が在城していてのか、1600年の関ヶ原の戦いで西軍が負けたことから、江戸幕府ができ、この地は幕府領となり、代官として小堀正次(こぼりまさつぐ)が統治を行う。

 1609年に正次が死ぬと、その子の小堀政一(こぼりまさかず、文化人・遠州)がその2年後から備中松山城の修復、次いで、山麓の三村氏の居館跡に陣屋を設け、次いで小松山に築城を始める。


 そこで、かかる城郭の山上での配置をいうと、弓のようにしなる形での小松山の屋根には本丸、ニノ丸、三の丸を階段状につくってある。そして、御根小屋との間には、上・下の太鼓丸を配置する。本丸中央には、二重の天守を構え、平櫓10、櫓門2、冠木門(かぶきもん)7、それに番所を設けた。


 大手門の周りには、10メートル以上の岩壁と組み合わせた石垣があり、そそり立つかのよう。土塀に目を向けると、矢を射るための矢狭間(ざま)、鉄砲を撃つ筒狭間が並ぶ。
 実戦も強く意識したであろうか、三の丸、二の丸の鉄門(二の門)跡へと至る石段は直角に何度も曲がらせてある。

 もう一度、石垣と櫓に囲まれた本丸をあおぐと、一見3層に錯覚するように設計された2層2階の天守が立つ、まさに「難攻」の城構えといって差し支えあるまい。

 その後、池田氏の池田長幸が、1617年(元和3年)、鳥取から6万5千石で松山の地に移ってきた。幕府領時代の小堀氏の町づくりの基礎の上に立って、城下町の建設を進める。
 この政権ではまた、消費都市としての松山城下への物資輸送をするため高瀬舟の管理運営に当たる問屋を松山と玉島に設けている。そして、高梁川の下流で三角洲が発達しているのを良しとし、1624年(寛永元年)には、玉島長尾内新田十町歩を開く。
 ところが、藩政が軌道に乗りつつあった1641年(寛永18年)には、藩主の長常が死去したため、備中松山藩池田家は無嗣絶家となる。結果、当地は幕領となり、福山藩主水野勝俊が在番する。1642年(寛永19年)には、水谷勝隆が成羽より5万石で松山に移って来る。水谷氏は、3年前に常陸の下館(茨城県)より成羽に移封されてきて、成羽川の流路を北寄りに付け替え、鶴首山の麓に陣屋造りに着手したばかりであったという。


 1693(元禄6年)に水谷家が断絶したため、播磨赤穂藩主・浅野内匠頭が一時的に管理するよう、幕府に命じられる。城明け渡しの後は、筆頭家老の大石内蔵助が1年間城代を務める。その後、安藤家、石川家と城主は次々と変わったが、1744(延享元)年から幕末までは板倉家が8代にわたって受け継いでいく。


(続く)


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新217『岡山の今昔』20世紀の岡山人(山川均)

2021-04-17 19:27:07 | Weblog
217『岡山の今昔』20世紀の岡山人(山川均)

 山川均(やまかわひとし、1880~1958)は、日本の社会主義者にして翻訳家でもある。革命家の部類に属しながらも、政争にはなじまなかったのではないか。むしろ、私見だが、政治思想家というのがふさわしい。

 今の岡山県の倉敷の生まれ。後の自伝に、こんな当時の故郷評を述べている。

 「倉敷は片田舎の町としては、たしかにきれいな町だった。大正8年(1919)に、私といっしょにはじめてこの地方に旅行した妻の菊栄をおどろかせたのは、関東や東北の農村にくらべて、鉄道沿線の農家のかくだんに裕福そうなことだった。(中略)
 じっさい私の町は白くて明るい町、そしていかにも昔風の田舎の大家といったような感じをあたえる町だった。(中略)
 こうして私の村は多年のあいだの地方政治の小中心地からはなれ、「天領倉敷」などというハクのはがれた、ただの田舎になった。そのとたんに御蔵元も御廻米もなにもかも吹き飛んでしまったので、私の家は完全な意味で失業してしまった。」(「山川均「山川均自伝」」)


 若くには、同志社大学時代、キリスト教にも大いに傾倒した時期があったという。聡明さは群を抜いていて、大学時代から社会の動きに鋭敏であった。マルクスの思想を身に着けて後は、それらに加え、大いなる気概をもって前進していく。

 1922年7月15日には、山川らが中心となって日本共産党が誕生した。しかし、この党はほとんど機能していないところで、翌1923年6月には主要メンバー29名が検挙され、壊滅状態に陥ってしまった。ともあれ、時期尚早ということばかりではあるまい。

 この共産党の結成と同じ年の7月、当時の左翼陣営の理論的指導者とみなされていた山川均は『前衛』誌上に、政治向きの論文を発表した。「無産階級運動の方向転換」と題する刺激的な名が付されていた、この論文はまず「過去二十年間における日本の社会主義運動は、まず自分を無産階級の大衆と引き離して、自分自身をはっきりさせた時代であった」と振り返る。

 しかし、これは「独立した無産階級的の思想と見解とを築くためには、必要な道程であった」のだと。これを言い換えると、日本の社会主義者は、自らを「思想的に徹底し純化する」というその「第一歩」を「りっぱに踏みしめた」ということになろうか。

 そこで今度は、我々は、「次の第二歩を踏み出さねばならない」ことになるとして、こう続ける。


 「無産階級の前衛たる少数者は、資本主義の精神的支配から独立するためにまず思想的に徹底し純化した。それがためには前衛たる少数者は、本隊たる大衆を遙か後ろに残して進出した。(中略)そこで無産階級運動の第二歩は、これらの前衛たる少数者が、徹底し純化した思想を携えて、遙か後方に残されている大衆の中に、再び引き返して来ることでなければならぬ。(中略)『大衆のなかへ!』は、日本の無産階級運動の新しい標語でなければならぬ。」

 それでは、この「大衆の中へ!」の「方向転換」は具体的にはどのようなものかというと、こうある。
 「無産階級の大衆が、現に何を要求しているかを的確に見なければならぬ。そして我々の運動は、この大衆の当面の要求に立脚しなければならぬ」、「我々は勢い無産階級の大衆の当面の利害を代表する運動、当面の生活を改善する運動、部分的の勝利を目的とする運動を、今日より重視しなければならぬ。」


 そんな硬派の典型のような冷徹な頭脳の持ち主にしては、その私生活で見せる表情や仕草(しぐさ)たるや、どこか「あっけらかん」なものであったようだ。夫人で同志の山川菊栄は、「山川均自伝」の「あとがき」でこんな面白さを紹介している。

 「無口で、気むつかしく、ウイットに冨み、鋭利な皮肉を、うっかりしていると気づかずにすむほどさりげない、デリケートないいまわしでいったりする」「堺君はタタミの上で死にたくないというが、僕はタタミの上でも死にたくないよ、とよくいったくらい、英雄的ではありませんでした」「寸鉄殺人的な彼の舌の動きは・・・名人芸」云々。
 
(続く)
 
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◻️32の8の1『岡山の今昔』備中松山城明け渡し(1693)とその後(~幕末)

2021-04-17 19:03:54 | Weblog
32の8の1『岡山の今昔』備中松山城明け渡し(1693)とその後(~幕末)

 振り返ってみれば、1638年(寛永15年)、水谷勝隆(みずのやかつとし)は常陸国(現在の茨城県)下館(しもだて)から成羽(なりわ)に転封となる。

 次いでの1642年(寛永19年)には、無嗣改易となった池田家のあとを受けて、水谷氏移封の形で備中松山に入る。

 その水谷家は、3代藩主勝美の時には、それまでに蓄えてきた力を発揮するにいたったのだろうか、鉄の生産、干拓、塩田開発などへと向かう。
 それに、1683年(天和3年)に3年がかりで天守を改築し、現在も山城の天守としては唯一のものとなっている。


 しかし、1693年(元禄6年)、先の池田氏同様に、その3代藩主勝美の死後、これまた無嗣に直面する。勝美が31歳の若さで急死、継子も13歳で亡くなったため、
水谷藩としては、死後養子を迎える話を進めたかったものの、その頃の幕府の方針にはまだ認める方向での変化がなかった。かくて、御家は断絶と決まり、領地5万石は没収、松山城は接収される沙汰が下る。
 城受取りの役は、赤穂藩主、浅野長矩に命じられた。赤穂藩は大石を先鋒、長矩を総大将に多くの軍勢で松山城下に乗り込む。城方には、家老の鶴見内蔵助以下約千名が城内にあった。そこで大石は平服、供の者も連れず鶴見内蔵助と面会、平和的に城を明け渡すよう説得を行う

 折しも藩内は、籠城と開城の二つに分かれ、せめぎあう。そこで大石は、家老職のもう一人の鶴見内蔵助と会合し、説得した由。なんとか城中を説得するのに成功したのだという。備中松山城の登城の途中には大石が休んだといわれる腰掛石が残っている。

 幕府は、祖先の勲功により勝美の弟勝時に川上郡の内から布賀村、長屋村3千石をわける形で与える。その陣屋は当初、長建寺近くの山の上にあったのが、後に交通の便の良い、成羽川沿いの黒鳥に移る。


 とはいえ、同時に幕府が行った備中松山領の見直し検地には厳しいものがあったという。水谷氏が断絶した後は、安藤、石川氏を経て、1744年(延享元年)に、板倉氏が城主となる。



(続く)


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◻️176の4『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、広瀬臺山)

2021-04-17 07:17:14 | Weblog
176の4『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、広瀬臺山)
 
 広瀬臺山(ひろせたいざん、1751-1813)は南画家だ。津山藩士の三男、広瀬義平として津山藩大坂屋敷に生まれる。大坂在住の青年期に、池大雅門下の福原五岳に画法を学ぶ。


 1781年(安永8年)には、父の隠居に伴い家督を相続する。その翌年には、京都御留守居見習役となる。天明元年(1781)には、江戸定付となる。


 それからは、江戸藩邸での職務をこなすとともに、谷文晁、僧雲室、片桐蘭石、増山雪斎、大窪詩仏など、江戸市中の文化人と交流を深める。そして、すぐれた作品をつくる。


 1803年(享和3年)には、家督を息子に譲り、江戸の麻布長坂に住む。やがての1811年(文化8年)には、津山に帰る。


 画風は、さりげなく、自分の世界に誘うが如しか。その一つ、「蓬莱山水図」には、中空に浮かんでいるかのような、仙人が住むという山がさりげなく描かれている。また、「山静日長図」、「富岳真景図」、「遺琴贈帰図」、「山静日長図」など、多くの文人画を描いている。

(続く)

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◻️64の2『岡山の今昔』岡山空襲と津山城模擬天守の取り壊し(1945)

2021-04-16 06:09:02 | Weblog
64の2『岡山の今昔』岡山空襲と津山城模擬天守の取り壊し(1945)

 では、地方の空襲はどうであったのだろうか、ここでは、1945年6月の岡山大空襲を伝える、当時、教師であった片山嘉女子の回想を紹介したい。

 「昭和二〇年六月二十九日午前二時頃の大空襲で岡山はひとなめであった。当時私は玉井宮の近くに住んでいた。玉井宮の上空よりB29の襲来、次から次へとくりひろげられた爆撃、住民はおののきながら大ぶとんを頭からかぶり、右往左往し逃げ続けたものだ。逃げ遅れた人達は地蔵川のほとりに、ぬれぶとんをかぶって身を守った。東山の電車筋あたりから南へ南へと火は勢を加えて燃えさかる。
 家主の奥さんと身のまわり品を持ち出し、おふとんをぬらして持ち出したものにかけ、二人でバケツで水を運び火勢を少しでも弱めようと努力しつづける。然し火勢は少しも劣えを見せず煙が目に入り思うような効果は上がらず、懸命な消火もなく隣家がやけおちやがてわが家も、見る見るうちに焼け落ちた。
 灰と化していくわが家を家主さんと共に放心して眺めていた。あたりには誰一人姿はなく、付属小学校側はまだ燃え続けている。やがて火力が弱まった頃にやっとここにある自分に気がついた」(片山嘉女子「戦前戦中戦後の教師として」:岡山県教職員組合「己無き日々ー戦争を知らないあなたよ」1982に所収、当時の筆者は、岡山市立勲小学校に勤務)。

 同じく教師をしていた小島幸枝は、焼け出された民衆が身を危険にさらしてまでも、大挙して旭川に向かったことを、次のような手記に綴っている。

 「(前略)午前二時、燈火管制の薄い光りの中で用を足しに起きた私の耳に、低いうなるような音が響きました。南の空が赤いのです。とっさに私は「空襲だ。空襲だ。」と叫びました。B29の来襲です。
 私は二歳の次男を背負い五ケ月の身重に、モンペをはき、用意の袋を持ち、夏蒲団を被り逃げました。夫と共に防空壕に入りましたが、危険と云う隣り組の班長の報せで、旭川に出ました。河原の窪地の水につかって避難しました。空から、ばらばらと間断なく落下する火の雨、油脂焼夷弾は、水面に落ちても、燃え乍ら流れて行きます。次々に爆音を立てて飛来するB29は、市の中心部を焼き、炎々とあがる火の海と化しました。蒲団から頭を出して、天満屋が焼け落ちるのを見ているうちに、鳥城が火を吹いて燃え出しました。
 河原は、避難の民衆でごった返しています。突然後方に悲鳴があがりました。直撃弾で全身炎に包まれた人が見えました。私は深く蒲団を被り祈りました。火に追われて、河へ河へと旭川は人の渦です。降りかかってくる火の弾を避けて、泣き叫び、阿鼻叫喚の地獄です。
 夜が明けて鼠色の雨が降り出しましたが火は消えません。ぶすぶすと燻り続けます。
 ずぶ濡れの身体をひきずり家の方向に歩を運びました。家がある、焼けないで、私は夫と家を捨て、焼けた街に出て身内の安否を確かめました。妹夫婦が居ません。この日以来二人は消え去ってしましいました。街には多くの焼死体が残っています。銭湯の湯舟に、各戸にある防火用水桶に、火に追われて、飛び込んだ水の中で焼け焦げていました。
 二、三日、探してもいない妹夫婦一週間も死体探しを続け、国清寺、正覚寺の境内の収容所ものぞきました。引き取り手のない焼死体が累々と集り、怖い物への無感覚でひたすら死体探しをしました。
 学校の教え子も死にました。防空壕で、道路で、家の中で、多くの子が死にました。・・・・・」(同著、小島幸枝「戦争を知らないあなたに:岡山県教職員組合「己無き日々ー戦争を知らないあなたよ」1982に所収)

 二つ目の体験談を紹介しよう。

 「1945年6月22日、水島の軍需工場地帯が、B29機の空襲をうけた時、内一機を高射砲が撃墜しました。大きな巨体がゆっくり旋回しながら落ちて行くのが、遠く離れた岡山市からも影絵のようによく見えて、町内の人たちの歓声を聞きながら、胸のすく想いがしたものでした。
 この日から一週間後の29日未明に、B29爆撃機七十機編隊の空襲で、岡山市は全市殆んどが焼失し、多くの犠牲者を出しました。吾家も石関町(注)と共に全焼してしまいました。

 空爆の前、燈火管制がきびしく暗幕を張ってやすんでいるのに、夜半に急に窓が明るく、満月の夜のように照らされて、目覚めたことが何度かありました。これは、敵の昭明弾が落された時で、これで、岡山市の市街図が明らかにされたものでしょう。
 空襲警報も出ないままに、爆撃されたため、市民の混乱は大変なものでした。
 私は三歳の長男を背負い、老母と長女を旭川の防空壕に送り込み、頭上に爆音を聞きながら、二度も家との間を往復した時の気持ちが今では一寸理解できない想い出です。」(豊田文子「戦争の、想い出」、戦争を語りつぐ岡山婦人の会「8.15前後ー戦争と私たち」)

(注)
 これにいう石関町は、現在の北区に属す。その位置は、岡山駅前から東へのびる桃太郎大通りを城下交差点からゆるい勾配の坂を登った東側から北側にあたる一帯にて、東は旭川の中洲を挟んで後楽園、西は城下筋を挟んで天神町に隣接。北隣は出石町(いずしちょう)、南は内山下(うちさんげ)、西南に表町と隣接、さらに南端には石山公園が配置される。

 なお、このアメリカによる空襲により天守と石山門を焼失する。1950年(昭和25年)には、文化財保護法の施行により、焼け残った月見櫓・西之丸西手櫓が重要文化財に指定される。

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 岡山空襲の後の津山にも、戦火が及んでくるのではないかという雰囲気が増してきたようで、折しも放置されてあった津山城模擬天守を、どうするかが取り沙汰されていく。
 この問題については、1936年3月26日~5月5日に開催された「津山市主催姫津線全通記念産業振興大博覧会」から振り返る必要があろう。
 この博覧会は、その名前の通り、姫路と津山を結ぶ姫津線の開通を間近にして、姫路での同趣旨の博覧会開催と呼応する形で開催された。
 津山でのこの催しは、今でいう鶴山公園の中に第一と第二の会場を設け、地元の行政、商工会などが参加して、一言でいうならば、その旗印は美作地区の「産業振興」をアピールするものであったようだ。
 会場には、朝鮮館や台湾館もあったりして、当時の日本の帝国主義政策の宣伝にも一役かうことで、祝賀ムードを駆り立て、世間の耳目を集めようとしていたようだ。
 前置きはこの位にしておいて、かかる会場には、開花時期を迎えた桜もさることながら、もう一つ、なんと、明治時代の初めに撤去された天守を模造してつくったのである。その実、屋根はトタン屋根ながら、僅かながら残っているということなのか、その天守らしき写真を拝見するにつけ、五層の威風堂々、立派な建物であったのは、改めていうまでもなかろう。

 それからは、日本を取り巻く戦況は、大きな山場へと向かって否応なしに進んでいく、その頂点となるのがアメリカ空軍による広島への原爆投下であった。
 では、かかる話は、その後どのような展開になっていったのだろうか、その辺りに詳しい岸本佳一氏の論考には、こうある。

 「この天守閣はいろいろな事情から昭和20年8月まで残されており、津山市民から親しまれていた建物である。昭和20年戦火がはげしくなり、軍の方から爆撃の目標となるので撤去してほしいと再三津山市に申し入れがあり、時の平松俊太郎津山市長は出来ることなら残しておきたいという気持ちを持っていたようであるが、8月6日広島に原子爆弾が投下されたことを知り、市長もこれ以上の延引は出来ないと決心して、天守閣および公会堂の取りこわしが完了したのは8月14日であり終戦の前日の午後であったということである。」(岸本佳一「加茂川」津山朝日新聞社1997)


(続く)

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◻️166『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、津田永忠、田坂与七郎、近藤七助、河内屋治兵衛)

2021-04-15 22:25:09 | Weblog
166『岡山の今昔』岡山人(17~18世紀、津田永忠、田坂与七郎、近藤七助、河内屋治兵衛)

 津田永忠(つだながただ、1640~1707)は、岡山藩の池田光政、綱政の二代に仕えた。そもそもは、光政の児小姓として出仕した。その禄は、三十俵四人扶持であったという。その後、側小姓となり、精励しているうち、藩主に信望を得た。
 それから横目役、大横目役、藩校手習所和意谷及び諸記録の総括、さらに郡代職へと昇進していくのだが、世にいう能吏にとどまらず、大局的かつ未来志向の見地から、数々の公共事業を指揮監督したや、藩主の命で財政再建を進めたことなどで、広く知られる。命じるのは藩主であっても、その事業がどんな風に取り組まれるかによってかなりの幅が出てくるものだ。
 まずは、彼が中心となって手掛けた公共事業を、ざっとならべると、和意谷墓所、藩校(経営を含む)、手習所、閑谷学校、井田(せいでん)経営、倉田新田、幸島(こうじま)新田、沖新田、後楽園、吉備津彦神社、牛窓波止(うしまどはと)、大多府湊(おおたぶみなと)、倉安川、田原井堰の開削、同用水、備前大用水(びぜんおおようすい)など、多彩だ。
 そんな中から、いくつか紹介してみよう。1654年(寛文4年)には、師匠の熊沢蕃山が旭川の洪水を防ぐ目的にて、新しい川をつくることを考案する。蕃山も藩主に重用されていたから、話はとんとんうまくいったのであろうか、1669年(寛文9年)に掘割が行われる。現在の百間川(ひゃっけんがわ)にほかならない。そこからが彼の発案にて、この百間川により排水が可能になったのに目をつけ、河口に広がる沖新田という干潟(ひがた)になっている地帯の干拓を提案するのであった。これの指揮を任せられると、鋭意取り組む。
 その工事がハイスピードで進むことになるのは、飢饉に備える、もしくは飢饉をなくするため必要であったらしいのだが。ともかくも、関係者を叱咤激励して、まずは約12キロメートルの堤防をわずか約6カ月後に完成にこぎつける。それからも急いで、約1900ヘクタールの新田開発が成る。そして、彼が手掛けた新田開発には、このほかに、倉田新田(約360ヘクタール)、幸島新田(約600ヘクタール)なども手掛けたというのだから、驚きだ。
 そればかりではない、ざっと見渡して変わったところでは、藩主の輝政が命じた池田家墓所や閑谷(しずたに)学校(当時の名は「閑谷学問所」)の建設(1665)を指揮した。何しろ、孔子が生きていたら喜びそうな案配にしなければならないということであって、ずいぶんと苦労したようだ。大がかりな工事で、石段なんかは極めて隙間なくつくられ、構内の建物の配置にも威風堂々さが現代に伝わる。
 ほかに、藩主などがくつろぐための後楽園の造園も、命じられて取り組む。こちらは、ほとんど庶民とはかかわりのないものであったのではないか。岡山藩においても、武士は、やっぱり庶民の上に「胡座」(あぐら)をかいていたのであるからして。ともあれ、やることなすこと完璧な仕事ぶりには、藩主をして「彼者は使ひ様悪敷(ようあしく)ば、国の禍(わざわい)をなすべし、才は国中に並ぶ者なし」(「吉備群書集成」)と言わしめた。
 それから、井田(せいでん)や社倉米(しゃそうまい)の制度を開発するなどの、民衆の生活に直結した事業も手掛けたという。社倉米は、永忠が光政に願い出て実現した人民救済の制度で、貧しい農民が借金していた高利の利息の一部を藩が低利で貸し付けて負担軽減するというものであった。また、彼が手掛けた工事に用水に関係するものとしては、田原井堰や倉安川などの開削が圧巻であろう。
 付け加えるに、永忠自身の体力、気力も強靭というか、充実していたらしい。なにしろ41歳のとき、命を承り岡山と京都の間を4日で往復し、滞りなく職責を果たしたという逸話があるほどなのだ。
 とはいえ、いかに天賦の才、実直にして努力の人といっても、これらの実績のどれほどが彼自身の発案なり、指揮監督で行われたかは、今日ではあまり語り継がれていないような気がするのだが。とりわけ、彼の下には事務方をはじめ、石工集団などの技術者まで幅広く人々が集まっていた筈であり、それらの状況がどんなであったかを紐解く、新たな史料の発掘が待たれる。
 それから、財政改革の取り組みだが、光政の治世の末期ぐらいから二代目の綱政が家督を継いだ頃には、岡山藩は、主としてあれやこれやの出費増加により財政難に見舞われていた。このため、綱政は津田永忠、服部図書たちを登用し、藩の財政再建に取りかからせる。その頃の津田の暮らしぶりについては、例えば、こうある。
 「木谷村閑谷の日々。延宝三年六月の郡肝煎の設置、同四年十月の小仕置の新設、同五年十月の仕置家老の差し替えなど、綱政による藩政の機構改革は着々と進められたが、永忠は依然として木谷村閑谷にあり、閑谷学問所・和意谷墓所、井田・社倉米の経営に当たっていた。この時期は、永忠の家庭にとってまことに多事多難な時期であった。(中略)
 自分勝手作廻積目録と自分勝手簡略積。この悲喜こもごもの生活を送っていた木谷村閑谷の永忠は、延宝四年のある日、綱政に呼び出され、岡山藩の財政再建、藩士の借財整理に関する意見をもとめられた。」(柴田一「津田永忠」、谷口澄夫「岡山藩」)
  その折の彼は、慢性的な赤字体質に陥っていた藩財政の再建、藩士の借財整理に関わる見積り書「自分勝手作廻積目録」と「自分勝手簡略積」を提出する。あくまでも、冗費の節減と厳しい支出の削減を基本とするものあったものの、農民や弱い立場にある側には、それなりの配慮をしていたらしい。
 綱政はまた、財政再建のために、農村再建による新田開発が必要だと考えていたのかもしれない。この頃、大洪水などの天災が発生していたため、これを防ぐことを永忠に命じたという。児島湾に大がかりな干拓を行なって、また、洪水対策として百間川や倉安川の治水工事を行なうことで、農業生産の実があがり、藩財政の再建にも役立ったという。

 こうした津田の指揮した新田開発においては、普請奉行の田坂与七郎(1647~1710)や近藤七助(1655~1731)ら、それに大坂から津田が呼び寄せたといわれる石工・河内屋治兵衛(?~?)の職人などが、永忠の補佐役となって、連日たち働いた。前の二人は、それそれ津田の「片腕」ともいわれる、下級武士出身なから、藩にとってなくてはならぬ土木関係の専門家として名前を成した。また、河内屋は、津田にとっても、藩にとっても、それ以上にはないかのような縁(えにし)てむですぱれていたかのような、50年にもわたる岡山藩との仕事上の関係てあったという。

(続く)


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◻️46の4『岡山の今昔』廃城令(1873)

2021-04-15 21:39:24 | Weblog
46の4『岡山の今昔』廃城令(1873)

 明治政府は、グレオリオ暦(注)でいう1873年1月14日(明治6年1月14日)に、太政官(明治時代初期にあった政府の役職)から陸軍と大蔵省(現・財務省)への通達(「太政官達」)「全国城郭存廃ノ処分並兵営池塘選定方」を出す。これを略して「廃城令」、「城郭取壊令」もしくは「存城廃城令」と言い慣わす。


 この通達によって、全国に散らばる城は、2種類に分けられた。一つは、明治維新後、陸軍の所有物となっていたうち、陸軍が軍施設なり軍用地として使用する城、もう一つは陸軍が使用しないものは大蔵省へ引き渡して売却用財産とする城である。


 このとき岡山地方では、岡山城、津山城、そして備中高松城などの扱いに命令が下る。


 これらのうち岡山城は、「存城」として陸軍省の管轄に入れられる。すなわち、城の大方の建物は取り壊され、堀が埋められる。とはいえ、すべての建物が取り壊されるわけではなく、天守、石山門、月見櫓、西の丸西手櫓の4つが残される。


 これを受けて、岡山城のとりこわされた部分の跡地は、追々決まっていく。西の丸は小学校として、本丸は中学校として利用されていく。残った天守は、追って国宝(旧法下)として扱われていく。


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 では、津山城はどうであったのか。1870年4月12日、津山城は大阪鎮台の所管となり、次いで大蔵省の所管に入る。
 それから、1871年8月29日に廃藩置県が行われると、当初の県内には、各藩別(一部天領)に14県ができた。

 1871年12月26日には、その14県が岡山県、深津県、北条県に統合され、美作地区の津山県、鶴田県、真島県は北条県に入る。また、旧津山県の小豆島の飛地も当面の間管轄することになる。

 なお、県庁は西北条郡山下(現在の津山市山下68、津山文化センター)の津山城内に設置される。翌1872年(明治5年)1月25日には、 小豆島の飛地が香川県に移管となる。

 1873年2月23日の大蔵省は、先の太政官達で城郭の存廃が決定されたのを受け、北条県に対し現況、絵図の提出などを命ずるとともに、また同県管内の津山、真島(旧勝山)が廃城取扱いになったことを通知してくる。

 なお、これを実現するための細目として、同指令にいわく、「尤(もっと)も、地所、石垣、樹木等は、従前之儘(まま)存置候条、不取締無之様注意可致事」となっており、それらを除いて取り壊さなければならない。

 1873年2月28日には、同1873年1月14日の太政官通達を受ける形で、北条県の初代参事(後の知事)・淵辺高が、大蔵大輔の井上馨あてに津山城郭払下げを実施するとの届けを提出する。

 これの背景には、津山藩が土壇場になってようやく新政府側に恭順を示したのに照らし、警戒したのだという。そのため、旧徳川親藩の津山士族に対しては、厳しい態度で臨んだと理解するのか適当であろう。

 1874年5月29日には、同届けが認められる形で、内務省から払下げ許可された。そして、城郭内の天守閣を始めとする建物は、代金1125円で、慶助、岩吉両名に払い下げられる。それから取壊が着手し、翌年に終了となる。


 そして迎えた1876年(明治9年)4月18日には、 北条県は、第2次府県統合により岡山県に吸収合併となる。

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 (注)なお、当時は、暦の改定があったことでも、時代の大いなる転換期であった。したがって、以上の年代表記については、グレゴリオ暦との対比日本の明治時代に入って5年目の改暦は、統治体制が代わってからの懸案事項であったのは、疑う余地がない。
 しかし、わずか20日後に、1000年以上も続いた太陰太陽暦を、世界共通と目されるグレゴリオ暦に切り替えようというのだから、かなりの強硬実施となる。
 それでもなお改暦を実行したのは、別付随的な理由があったのではないか、そのことが窺えるのか、当時政府の参議を務めてい大隈重信の日記「大隈伯昔日譚」に記されている、経費節減説であるとのこと。
 それによると、そのままの暦だと明治6年にうるう月があり、月給制を採用した新政府は、1か月余計に給料を出さねばならない。それか、従来暦を太陽暦に変更することにより、その1か月、さらに2日間だけの12月もあわせて合計2か月分の給料を節約できたことになるのだと。
 かくて、一般に旧暦と呼ばれる天保暦(太陰太陽暦)の明治5年12月2日(グレゴリオ暦1872年12月31日)の翌日を、新暦と呼ばれる太陽暦の明治6年1月1日(グレゴリオ暦1873年1月1日)とした。そのため明治5年12月2日まで使用されていた天保暦は旧暦となった。ついては、当該12月は僅か2日にして翌年の1月1日となる。


(続く)

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○110『自然と人間の歴史・日本篇』新田荘(武家の荘園)

2021-04-14 10:22:30 | Weblog
110『自然と人間の歴史・日本篇』新田荘(武家の荘園)

 新田荘遺跡(にったのしょういせき)をひもとくと、中世までは遡ることになろう。上野国新田郡(現在の群馬県太田市)にあった荘園に関する遺構などであって、荘域は上野国新田郡全域・勢多郡・佐位郡・武蔵国榛沢郡の一部に及んでいたという。ちなみに、現在は、新田氏遺構群のうち、円福寺境内など11箇所が新田荘遺跡として国の史跡に指定されているとのこと。
 地形でいうと、おもに大間々扇状地と利根川左岸氾濫原からなるという。新田氏一族の根源地として成立し、ゆくゆくは鎌倉幕府を倒した新田義貞の勢力へと流れゆく。


 そもそも、新田荘の初代は、かの八幡太郎こと源義家の三男・義国だという。所領の足利庄を次男の義康に譲り、長男の義重(義康の異母兄)と共に、一族郎党の力であったのだろうか、新田に移って利根川北部の荒地を開墾したという。


 1157(保元2年)には、新田として開発しての私領を藤原忠雅に寄進、自らは下司職(げす、げしき、現地管理者・実務担当者)となって実を得る。


 その後、父義国を継いで新田氏の主となった新田義重(にったよししげ、?-1202、母は藤原敦基(ふじわらあつもと)の娘という。)は、新田荘で一族発展の基礎固めをするとともに、更に周辺の開発にも力を注いだようだ。1170年(嘉応2年)頃には、広大な荘園を経営する一族となった由。本領の新田中心部は、やがて義兼が相続し、周辺の所領は他の男子が受け継いで更に勢力を広げていく。
 
 頼朝挙兵の際は、新田氏も馳せ参じようとした。伝わるところでは、義兼が早くから参加したにも拘わらず、合流が遅れたらしい。ほかにも、新田荘が平家系の荘園だった事や、頼朝を格下げに見ていたことから、決断が遅れたとも。それでも、源氏の最長老ということでなんとか面目を保っていたともいう話が伝わる。
 
 その後の時の流れは、どうやら平坦とは言えなかったようだ。すなわち、新田の惣領は義重-義兼-義房-政義と継がれていく。政義の代になっての1242年(仁治3年)には変事が起こる。どうしたことかというと、幕府から預かった囚人に逃げられ、大番役として京都にいた1244年(寛元2年)には昇殿と任官を朝廷に求めて拒まれると突然出家し、職務を放棄して新田に帰ってしまった模様だ。


(続く)

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○124『自然と人間の歴史・日本篇』割符(13~16世紀)

2021-04-13 21:58:13 | Weblog
124『自然と人間の歴史・日本篇』割符(13~16世紀)

 ここに割符(わりふ)というのは、13世紀か16世紀前半にかけて、時代区分でいうならば室町・戦国時代にかけての中世において、遠隔地へ送金するために組んだ、今日でいうところの為替手形の一種だといえよう。当時の荘園制を金融・財政面で支えたということでの役割は小さくない、と見られている。

 まずは、割符発行の仕組みだが、 木片などの中央に証拠となる文字を記し、それに証印を押して、二つに割ったもの。当事者どうしが別々に所有し、後日その二つを合わせて証拠としたことから、「符契」「符節」などとも称される。

 主な使われ方とは、地方の荘園・公領からの年貢銭の輸送に代わる方法として、また訴訟費・旅費を送る際にも用いられた。

 室町時代になると、遠隔地取引に従事する商人たちの商取引にも使用された。京都・堺・坂本などに割符を扱う専業商人が現れる。
 たとえば備中の新見荘では、「紙片の割符」は京上夫が京進し、年貢銭で購入された特産品である「上り荷」は割符屋が運漕していた。
 北陸などの中間地域に属する荘園も、新見荘の割符のしくみとほぼ同様であった、という研究もあるところ(たとえば、、辰田芳雄「室町・戦国荘園制を支えた割符」)。

 その歴史的評価の際には、後の為替・両替制度の基礎固めとしての意義を持つのではないだろうか。


(続く)

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♦️79の5『自然と人間の歴史・世界篇』ポンペイ(79)

2021-04-12 08:54:59 | Weblog
79の5『自然と人間の歴史・世界篇』ポンペイ(79)

 イタリアのヴェスヴィオ火山といえば、イタリア南部・カンパニア州のナポリ近郊にある。


 79年、472年、1139年、1631年にも噴火、その都度大きな犠牲を出した。これらのうち最大のものは、79年のもので、古代ローマは帝政時代にあった。

 この噴火で吹き上がった大量の石と火山灰が、当時麓にあった、人口約2万人の都市ポンペイに降りかかる。それからは、噴火の状況は断続的に続いたのだろうか、町のほとんどを埋没させた。
 ここからは、諸説あるようなのだが、一説には、かなりの大部分のポンペイ市民は火山灰が降る中、町の外側へと避難していく。しかし、これに続かない人・家族もかなりいたとされ、翌日朝には火砕流や火砕サージが再び町を襲い、一説には町に残っていた約2000人が生き埋め、もしくは屋根の重みなどにより押しつぶされ、さらには瞬時に焼かれて死亡したともいう。

 この惨劇の様子は、以来、さまざまに記され、語りつがれてきた。けれども、物理的にも災害の痕跡は、風化してゆく。長らく地中に埋没していたポンペイの街は、18世紀になって農民が井戸掘りの最中に偶然大理石の柱を発見したことから脚光を浴びるにいたる、そこで学術的な発掘が進められ、当時の街並みがそのまま残っていたことが明らかとなった。一つの都市が丸ごと埋まっってあるのを発掘するという大事業であり、その経過は世界の耳目を一貫して集めてきた。


 ところが、2018年の発掘で、木炭で書かれた落書きが、「レッジョV」と呼ばれる発掘現場にある家屋の壁で見つかった。書かれているのは「XVI K Nov」というラテン文字で、「11月の16日前」を意味しているかのように見えるといい、その模様は国際的にもドキュメンタリー番組として放映されており、筆者も視聴したところだ。それによると、当該日は、「現在の日付で10月17日」に当たるというのだ。

 そのように考えると、噴火が起きた時期、当該の家屋では改修作業が行われていた。ついては、落書きの書かれた壁には、この後漆喰(しっくい)が塗られる予定だったのではないかと。それに、木炭で書かれた文字が長期にわたって消えずに残るのは考えにくいため、落書きは噴火と同じ紀元79年に書かれた可能性が高い。

 およそこのような次第で、発掘に携わる考古学者のチームは声明を出し、「落書きは紀元79年10月のものである公算が極めて大きい。より正確には、10月24日とされる火山噴火の1週間前の日付になる」と述べた。

 従来から、ベスビオ火山噴火の日付には、二つの見方がある。そのうち、どちらかというと、8月24日が定説とされてきた。これは帝政ローマ時代の文人、小プリニウスによる噴火から25年後の記述に、相応の根拠をおく。噴火当時、17歳の小プリニウスはナポリ湾の対岸から火山の様子を観測したという。

 この点、イギリスBBCの報道「Pompeii: Vesuvius eruption may have been later than thought」の一節にも、こうある。

 「The inscription discovered in the new excavations is nothing more than a scrawl in charcoal, likely made by a worker renovating a home.
But it is dated to 16 days before the "calends" of November in the old Roman calendar style - which is 17 October in our modern dating method.
"Since it was done in fragile and evanescent charcoal, which could not have been able to last long, it is highly probable that it can be dated to the October of AD 79," the archaeology team said in a statement.
They believe the most likely date for the eruption was, in fact, 24 October.」(Published16 October 2018)

 参考までに、重ねて、こうある。

 「So did Pliny the Younger record things incorrectly?
His letter to Tacitus was written some 20 years after the eruption in 79 AD. And the original copies have not survived the intervening 1,939 years.
Instead, our modern reading of the text is based on translations and transcriptions made over the centuries. In fact, various copies of the letters have contained dates ranging anywhere from August to November - though 24 August has long been accepted.
The differences between the texts could easily have been influenced by confusion over the ancient and modern systems of counting days.
The discovery was made in the new Regio V excavation, uncovering previously untouched areas of the ancient city.
In addition to the simple inscription, grand houses have been unveiled this week with elaborate frescoes and mosaics.」



 これにもあるように、これまでの噴火の定説が「西暦79年8月24日13時頃(現地時間)」であったとしても、総じて科学的な見地というものは、新たな証拠の提出により揺らぎうるものであることを、私たちに学ばせている。


(続く)

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○108『自然と人間の歴史・日本篇』荘園整理令(902~1069、そのあらまし)

2021-04-10 19:16:39 | Weblog
108『自然と人間の歴史・日本篇』荘園整理令(902~1069、そのあらまし)

 振り返ってみれば、荘園とは何だろうか。その元々の概念については、さしあてり、成立の契機から墾田地系荘園、寄進地系荘園の二つに区別するのが一般的だ。 このうち前者は、初期荘園とも呼ばれ、743年(天平15年)に公布され、墾田永世私財法によって形成された荘園である。墾田永世私財法は、土地の開墾者にその開墾地の私有を認めるものであった。
 土地の支配が先行し、多くの場合、荘内に定住している農民に毎年一定の耕地を耕作させる方法をとらず、周辺の班田農民を雇用、もしくは浮浪逃亡民の労働力に依存していた。そのため維持・管理は不安定であり、現地の豪族の協力に依存し、多くは10世紀末までに消滅した。
 それに対し、寄進地系荘園は平安後期に「富豪」と称される地方の豪族が、国衙による収公を免れ、現地における自分の地位を確保しようとするため、開発した私領を中央の貴族や大寺社に寄進して成立した荘園を指す。中央の貴族や大寺社は、「領家」と呼ばれる荘園領主となり、寄進主体の開発領主は下司などの荘官に任じられて荘園の実際の管理・運営にあたった。

 次に、荘園の展開についての基本的な事柄から。ここで用語について少し触れると、朝廷が任命する国司が管理する公領(国衙領(こくがりょう))というのは、公地公民制(班田制)が崩壊した後のことをいう。富裕層が保有する広大な私有地、これを荘園というのだが、これと公領との二本立てになった日本の土地制度のことを、狭い意味での「荘園公領制」と呼ぶ。土地に関する二重権力とは、ひとまず別の社会事象として考えるべきだろう。成立時期としては、10世紀から少しずつ荘園公領制へと向かい始め、11世紀後半期には全国的本荘園公領制の成立となった模様だ。
 
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 しかして、荘園整理令というのは、平安時代,荘園の増大を抑止するために出された一連の法令にして、全国を対象としたものと、国単位に出されたものとがある。
 全国を対象としたものとしては、902年(延喜2年) 、984年(永観2 年) 、987年(永延元年) 、1040年(長久元年) 、1045年(寛徳2 年) 、1054年(天喜2年) 、1069年(延久元年) 、1075年(承保2 年) 、1078年(承暦2年) 、1099年(康和元年) 、1127年(大治2 年) 、1156年(保元元年) など。


 当時、諸国の富豪層が課役を逃れる目的で、寄進や売却と称して王臣家の庄とする動きが頻発していた。そこで、農民と王臣家の結合を切断し、かかる朝廷からみた権門勢家領の横暴に打撃を与えようと考えた。ただし、これに人民大衆が感心するのは、そもそも似つかわしくない性格のものであったろう。


 審査というのは、つまるところ、(1) 荘園の成立の確かな証拠の有無、(2) 国務の妨げになるか否かの2点を基準に、当該荘園の所在地、領主、田畠惣数などの調査を行い、合否を判断するというもの。
 この二つを基準として、格前からの荘園は合法として公認し、一定の水準に満たない荘園は停止なり廃止するという方針がたえられた訳だ。とっかかりの902年(延喜2年)に出された官符が残っていて、「院宮王臣家の庄」を停止することをうたったもの。


 それが、寛徳荘園整理令になると、前任国司の在任中以後に立てられた新立荘園の停止という。これだと、整理の基準線が大幅に引下げられるにいたった。

 さらに、後三条天皇のときの1069年(延久元年)に出された荘園整理令では、記録荘園券契所(きろくしょうえんけんけいしょ)を設置してある。そこにおいて、既述の基準に照らし、寛徳の荘園整理令以降の荘園・券契が不明確などを吟味の上、そのかなりを停止したのだと伝わる。かかる整理を断行するに至るには、藤原氏専権の経済基盤である荘園を整理し、その抑制と天皇権力および国家財政の強化をはかる思惑があったようだ。


 ちなみに、かの「愚管抄(ぐかんしょう)」(天台座主(ざす)にして九条兼光の弟たる慈円(じえん)の作)には、こうある。

 「コノ後三条位ノ御時、(中略)延久ノ記録所トテハジメテヲカレタリケルハ、諸国七道ノ所領ノ宣旨・官符モナクテ公田ヲカスムル事、一天四海ノ巨害ナリトキコシメシツメテアリケルハ、スナハチ宇治殿ノ時、一ノ所ノ御領御領トノミ云テ、庄園諸国二ミチテ受領ノツトメタヘガタシナド云ヲ、キコシメシモチタリケルニコソ。」

 この文中に「後三条」とは後三条天皇を、「記録所」は記録荘園券契所を、「宇治殿」は当時この地に別荘を有していた藤原頼通を、「一ノ所」は摂関家を、受領(ずりょう、)とは任地に赴任して政務をとる国司の最上級官僚のことをいう。
 さしずめ、かかる別荘に建立され阿弥陀堂(平等院鳳凰堂)に鎮座している、定朝作・阿弥陀如来(西方浄土を司る、とされる)像などを造立するには、いかほどの費用がかかったのだろうかと。かたや国衙(こくが)や中央政府(朝廷)の方も、かかる整理令で取り戻した財源を広く民衆のために使うための措置という訳でもあるまい。そのように考えると、藤原氏の栄華を含んだ、広い意味での権力図絵の中からは一歩も出るものではなかったのかもしれない。

 あるいは、別の論者により、こう評される。
 「政治史の流れに話をもどせば、三年余の後三条天皇の治政とこれをうけた五七年間の白河天皇・上皇による治政は、たび重なる荘園整理令の発布と記録荘園券契所(記録所)の活発な活動によって、中世的土地制度=荘園公領制が確立した大きな画期であった。後三条天皇親政期の延久の荘園整理令は一般に、(1)寛徳二年(一〇四五)以後の新立荘園の停止、(2)公田加納の停止、(3)坪付の定まらない荘園の整理、(4)往古の荘園のうち券契の不明のものや国衙行政に支障のあるものの停止、の四項からなると考えられている。とくに(2)(3)については、各国衙レベルで国司による厳しい追及が続けられ、その過程で(4)すなわち券契(公験)の整備が進んだから、以上の全体を通じて荘園・公領の分離とそれぞれの領域の明確化が進展することとなった。」(「福井県史」(通史編、原始・古代)より引用)


 要は、この整理令では、1045年(寛徳2年)以降に新設の荘園を廃止したほか、それ以前の荘園に対しても、かかる記録所を設け、その幹部職員(寄人(よりうど))には反摂関家の大江匡房(おおえまさふさ)らに荘園領有の証拠文書を厳しく吟味させたのであった。

 このような整理令の展開であったが、そのうちに諸般の事情により内容を薄めなから継続を重ねていく。


(続く)

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964『自然と人間の歴史・世界篇』核の削減か近代化か(核兵器の現状と核兵器廃絶への道遥かなり)

2021-04-10 10:02:41 | Weblog
964『自然と人間の歴史・世界篇』核の削減か近代化か(核兵器の現状と核兵器廃絶への道遥かなり)


 2021年4月10日付けの新聞各紙において、アメリカのオバマ政権の時以来の、かれらの内部で核兵器をどうするかの議論の一端が伝えられた。
 それによると、以来、アメリカでは、核兵器の近代化計画を定め、次いで見直す動きにあるという。

 そこで、まず、最近の世界の核兵器がどうなっているかを、概観してみよう、かなりの信用度を持つであろう、資料を紹介したい。

  
(資料1)
国名、配備核弾頭、その他核弾、核兵器数(2020年1月時点)


米国は1,750、4,050、5,800、6,185。ロシアは、1,570、4,805、6,375、6,500。英国は、120、95、215、200。フランスは、280、10、290、300。中国は、–、320、320、290。インドは、–、150、150、130~140。パキスタンは、–、160、160、150~160。イスラエルは、–、90、90、80~90。北朝鮮は、–、[30~40]、[30~40]、[20~30]。
 以上の合計としては、3,720、9,680、13,400、13,865。


注釈:「-」は0(ゼロ)をいう。[○~○]は不明確のため,合計数には含まれていない。
出典:「SIPRI YEARBOOK 2020」



(資料2)

 その中でも、他の国々に比べて断トツの規模で核兵器を保有しているのは、アメリカ、ロシア、それに中国ということになるだろう。

○核弾頭数は、アメリカが5800発、ロシアが6370発、中国が320発。

○核弾頭の主要な運搬手段数(ICBM(大陸間弾道))は、アメリカが400発、ロシアが340発、中国が88発。

○核弾頭の主要な運搬手段数(SCBM(潜水艦発射弾頭))は、アメリカが280発、ロシアが160発、中国が48発。

○核弾頭の主要な運搬手段数(MRBM(準中距離弾頭))は、アメリカがー発、ロシアがー、中国が216発。

○核弾頭ミサイル搭載原潜数は、アメリカが14隻、ロシアが10隻、中国が4隻。

○核弾頭ミサイル航空機数は、アメリカが66機、ロシアが76機、中国が104機。

引用は、2021年4月10日付け朝日新聞より引用。原典は、「2020年6月現在。長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)による。退役・解体待ちを含む」とされる。

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(続く)

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◻️106『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓、倉安運河と幸島新田)

2021-04-09 18:51:00 | Weblog
106『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓、倉安運河と幸島新田)

 ここからさらに南下して、岡山市の御津町へと入っていく。その下流には、藩営による新田開発のための灌漑水路として旭川と結ぶ運河が造られ、「倉安川」もしくは「倉安運河」と称している。1679年(延宝7年)、前岡山藩主で隠居中の池田光政が藩士の津田永忠が計画書を上申していたのものに彼に命じて工事を起工させ、同年中に完成させた。
 これは、当時の児島湾の浅瀬であった上道郡に倉田、倉益(くらます)、倉富(くらどみ)の3カ所の新田開発の一環とされたもので、「倉田新田」とはその総称で豊作への期待が込められている。こうして開削された約290余町歩の土地は、一反辺りの地代銀を30匁(もんめ)として、くじで割り当てた。これにより、藩内の農民49名と他領者2名が土地の割増しを得たことになっている。

 具体的には、この時期には灌漑用水と、旭川と吉井川とを結ぶ「倉安川」という名の運河が開削された。主に高瀬舟の交通の便を図ったもので、当時のこの運河の幅は約7メートル、総延長は約20キロメートルもあるから、かなりの突貫工事だったのではないか。吉井川に通じる倉安川(運河)の取入口たる「倉安川吉井水門」をくぐり抜け、その運河の流れを伝って、岡山城下との間の河川運輸が可能となった。あわせて、そのルートは「裸祭りで知られる西大寺の会陽(えよう)にも人びとはこの高瀬舟で集まったのである」(「江戸時代図誌20、山陽道」筑摩書房、1976)という。

 これにあるように、一般の人びとの利便も大いに改善したものとみえる。あわせて、こうして開削された倉安川は、灌漑用水のみならず、吉井・旭の両川を結ぶ運河としても利用され、高瀬舟を通行させて米や薪などの物資運送の役割も果たしていく。

 津田はこのほか、吉井川の東岸沿いに、1684年(貞享元年)に幸島新田(邑久郡)の干拓工事も手掛けた。その河口のあるところには、古代のヤマトと結ぶ山陽道の大道が通っている。ここから西に辿れば、日生(ひなせ)、備前と続き、県境を越えると兵庫県の赤穂市である。兵庫との県境に近いあたりは日生である。なだらかな稜線の山々を背に湾のうねりが見られるとともに、その南の海上に浮かぶ大小14の日生諸島からなっている、清々しいところだ。日生はみかん狩りで有名だし、天然の良港を抱える牛窓が近い。


 なお、ここにいう幸島新田(こうじましんでん)とは、吉井川東岸辺り、当時の乙子村、それに神崎村沖の干拓の総称だ。1684年(貞享元年)の鍬入れから、同年中に潮止めが完成したもの。


 もう少し詳しくいうと、吉井川東岸部でも藩による干拓が持ち上がる。そもそもは、寛永の頃の初岡山藩主・池田忠雄は、藩士を動員して神崎村内に神崎崎新堀を掘削し千町川の水を児島湾に分流(千曲川・神崎川)させる。

 やがて池田綱政の時代になると、新たな規模での干拓が行われる。津田永忠が乙子村から小羽島・中羽島・大羽島・外渡島・西幸島・東幸島の各島を経て掛座まで、海面に堤を築いて河口両側に新田を造成しようというもの。

 この工事により、新田中央部を南北に千町川分流が貫流する形となり、河口には石の樋門が築かれ、内側に遊水池が設けられる。島の名前(西幸島・東幸島)にちなみ、幸島新田と名付けられる。


 ちなみに、この時の干拓に力のあったのが、河口部に設けた樋門(ひもん、水門のこと)と大水尾(遊水池)の結合による排水処理の技術であり、これを考えついた人物ははっきりとはわかっていないものの、津田永忠が大坂から呼び寄せた石工集団がいたればこその新技術であったのではないだろうか。

 新田の配置について、最初は、幸島西新田村・同中新田・同東新田村と分けられる。それが1687年(貞享4年)には、西新田は幸西村、中新田は幸田村、東新田は幸崎村と改称する。さらに1691年(元禄4年)には、幸田が南北に、幸西・幸崎は東西にそれぞれの村に分割される。

 参考までに、当地の一角(岡山市東区西幸西)には、橋長6.6m、橋幅:0.96m、桁厚:30cm、桁2列、3径間桁橋の「西水門の碑」が建てられていて、それにはこう記されているという。

 「幸西地区には、貞享元年(1684)池田藩によって、浅海を干拓して生まれた海抜ゼロメートルの新田である。 
 この西水門は、樋守人の経験と努力によって、海の干満を利用して遊水池の水を放流し、干拓が行われた当初は、冠水の防止や塩水の排除を、後には水田水や雨水の排水を主な目的として利用され、約280年の間、幸西地区の農業と住民の生活を守ってきた。
 しかし、昭和39年(1964)、東西の樋門を統合した近代的な新柿原樋門の完成と伴に、その役割を終えた。 往時、幸島新田には、これと同じ石造樋門が六ヶ所あったが、現在では全て撤去・改修され、昔の姿を留めるのは、西幸西にあるこの西水門の内側樋門だけとなった。 先人の苦労を偲び、その英知に心から敬意を表すると伴に、郷土の貴重な文化遺産として西水門の概要を記して後世へ伝えるものとする。平成十六年三月吉日岡崎務 撰文西幸西協同会 建立」


(続く)

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新◻️107の1の2『岡山の今昔』岡山から総社、倉敷へ(備前の干拓など、百間川の創設と沖新田)

2021-04-09 14:33:06 | Weblog
107の1の2『岡山の今昔』岡山から総社、倉敷へ(備前の干拓など、百間川の創設と沖新田)

 そもそも百間川の名の由来は、「二の荒手」(中島竹田橋直下流)の幅が堤防を含め百間(約180メートル)あったことから、そう名付けられたという。現在の岡山市北区三野・中区中島付近で旭川と分流し、操山の北を東流する。それからは、同市中区米田付近で、東に仰ぐ芥子山を避けるように、大きく南に流れを変える。
 それからほどなく南下してといおうか、干拓地の間を通って児島湾に注ぐ。 旭川の分流部より瀬戸内海に出る河口までの総延長は12.9キロメートル、その間の幅は200~300メートル位あるという。


 そもそも、岡山城付近を流れる旭川は、安土桃山時代の宇喜多政権により、に行われた築城工事の時に、蛇行するよう付け替えられ、河道も狭くされた。これだと、北からの水流がその曲がりのところで岸に激しくぶつかり、岡山、石山それに天神山以外の岡山城下は、以来たびたび洪水に見舞われるようになった。特に、1654年(承応3年)に起こった大洪水は、城下に甚大な被害をもたらしたという。

 これに意見したのが、当時岡山藩に出仕していた陽明学者の熊沢蕃山であって、蕃山は、1654年(承応3年)の旭川洪水の経験から、洪水対策として「荒手」と呼ぶ越流堤と放水路を組み合わせた「川除け(かわよけ)の法」を提案し、津田永忠に伝授した模様だ。これを「よし」とした永忠は、藩として取り組むべきと藩主に進言したようだ。

 まもなく藩主の池田綱政から岡山藩郡代の津田に対し、荒手堤をつくるようにとの命令が下り、かかる構想に基に、洪水の際にはここに分流を呼び込んで、3段の荒手を設けることにしたという。これにより水勢を弱めながら旭川の氾濫を越流・放水させるという仕掛けだ。

 この工事は、1669年(寛文9年)に永忠の指揮で着工された。その翌年にかけて、岡山藩普請奉行藤岡内助、石川善右衛門らによって工事が指揮され、御野郡竹田村(現在の岡山市竹田)、中島村(現在の岡山市中島)の間に荒手堤が築かれた。


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 要は、城の上流地点で土手の一部を低くした荒手堤を構えつつ、幅広の百間川溝を掘って東の中川までつなぐ。そうした仕掛けを設けたことにより、旭川の洪水時には水がそこで分流されるようにしたわけである。


 ところが、中川周辺の地域の人々としては、もとより排水の悪い干拓地に、それまでは城下へ流れていた水がどっとこちらへ押し寄せてくるではないか。折しも、1673年(延宝元年)の旭川大洪水では、この百間川のおかげで城下の被害は比較的軽くすんだかわりに、濁水は中川周辺の農村部を襲い、大災害となったという。


 津田としては、この時、しからぱどうしたらよいのかだけでなく、ある壮大な構想を描いていて、その計画の中で、百間川を大改造し、中川周辺の河川排水をすべて一本化する排水路として延長、かつ、その河口部に前代未聞の大干拓を行うというもの、これが、後にいう沖新田である。


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 そして迎えた1682年(天和2年)には、永忠が郡代となり、池田綱政の命が下り、上道郡沖新田開発を計画するにおよび、排水の処理問題とも関連して1686年(貞享3年)から翌年にかけて、百間川の改造、拡張を築造していく。



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 そして迎えた1692年(元禄5年)沖新田の開発に伴い百間川を児島湾まで貫流させ、その河口に大水尾(おおみお)遊水池を設け、そこに唐樋(からひ)を築き、排水を促し潮水の逆流を防ぐ仕組みを導入する。

 すなわち、沖新田の干拓は、倉田新田(1679年(延宝7年)に完成)、幸島新田(1684年(貞享元年)に完成)に続いて、1691年(元禄4年)に、池田綱政の命により津田永忠が主導して干拓工事が開始された。そして、翌1692年(元禄5年)には完成するという、非常なスピードで進められたのは驚きだ。

 同時に、百間川を延長して新田の中央を通すことが設計される。前述した1692年(元禄5年)の沖新田の開発に伴い、百間川を児島湾まで貫流させる工事を完成させる。


 あわせて、その百間川が瀬戸内海へ流れ出るところの河口に、百間川の水を海に排出するための施設として百間川河口水門を設けるとともに、大水尾(おおみお)遊水池を設け、唐樋(からひ)の設備を築き、排水を促し潮水の逆流を防いだ。

 それというのも、大水尾周辺の低地は、一度洪水が起きれば、満潮時とかさなる時もあろう、その時の潮位というのは、時に海側の水位が百間川の水位を上回りかねなかったのではないだろうか。そこで、樋門によって水量を調整するためにも広大な遊水池をつくる必要があった。さらに、かかる大水尾池を造るために、当該百間川河口部に築いたのが、百間川大水尾堤防(現在のいわゆる「旧堤」)というわけだ。


(続く)


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新◻️107の2の3『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、明治時代~現代)

2021-04-09 14:31:26 | Weblog
107の2の3『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、明治時代~現代)

 それからさらに大いなる時間が経過していった。1907(明治40年)から1925年(大正14年)にかけては、政府により高梁川の大規模な河川改修事業が行なわれた。その時は、酒津から南西に水路を開削して東高梁川と西高梁川を結んだ。そして八幡山の西流路を閉め切る工事を行った。また、酒津以南の東高梁川を廃川とする。これによって、高梁川は一本の大河となって、現在の倉敷市水島と玉島の間を流れ水島灘・瀬戸内海に流れ込む。その河川跡地には、454ヘクタールの新たな土地が生まれた。これにより、広大な新田ができたことも大きいが、それよりも第二次世界大戦後の高度成長期からは、水島工業地帯による工業用地となって現在に至っている。
 あわせて現在、玉島に乙島(おとしま)地区が広がるが、ここは元は海があって、島があった。昭和に入ってからのここでは、1934年(昭和9年)坂田新田(56ヘクタール)、ついで1943年(同18年)に養父ヶ鼻周辺の埋立てで太平新開地(33ヘクタール)を造成し、そこに企業(浦賀重工業)を誘致した。続いて、高梁川河口西側の大型干拓が国営事業として行われる。こちらには、玉島レイヨン(のちの倉敷レイヨン)を中心に。さらに、沖合水域が埋め立てされていった。こうした一連の動きにより、現在の乙島中南東部・高梁川河口西岸の広大な平地が生まれる。ひいては、水島から一連をなす工業地帯(水島臨海工業地帯E地区)が造成されたのである。
 これらのうち、元は海の中の島であった「乙島地区」(おとしまちく)には、作家・徳冨蘆花(とくとみろか)が訪ねたことがあり、その歌碑が建てられていて、こう刻んである。
 「ここ養父ヶ鼻の地は、もともと瀬戸内海岸でも有数の景勝地で、白砂青松の海辺として全国に知られていた。また遠浅で,潮干狩、海水浴釣魚などの場として四季を通じて賑わい、海中に点在する飛石、はね石、ごろごろ石などと呼ばれた布石の妙は人々の目を楽しませた。たまたま明治大正期の文豪徳富蘆花(1868~1927)が訪れたのは大正七年の夏で、滞在数十日、この地の明媚な風光とこまやかな人情を愛した。
 「人の子の貝堀りあらす砂原を平になして海の寄せ来る」
 この一首は当時の景観をえがいた名歌で、一読、今も満ち潮の押し寄せて来る様子が眼前に浮かんでくる。碑は地元の人々によって、昭和8年10月に建てられたが、同18年以来数次にわたって養父が鼻沖は干拓せられ陸続きとなり、さらに現在のような工場地帯と変わった。かえりみてまことに今昔の感にたえない。蘆花には「不如帰」「自然と人生」「思い出の記」などの代表作がある。玉島文化協会」

(続く)

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