32の8の2『岡山の今昔』備中松山城の築城(水谷氏時代まで)
この城の天守閣たるや、ほど高い山の上に現れる。なので、山麓の城下町から大手門までは徒歩で、片道1時間弱かかるみたいだ。そんな中でも、約1500メートルの急な山路を登っていかねばならないという。
たしかに、かくいう私が訪れた時、天守はかなり遠くの天空に鎮座するというあんばいにて、それまで一気呵成に登れるのではないかと甘く見ていたのを、改めたことがある。
これの経緯だが、当初からの城普請のあらましを振り返ると、1240年(仁治元年)に、秋庭氏(あきばし)の秋庭重信が、大間松山に初代の城郭を構築する。
この城の天守閣たるや、ほど高い山の上に現れる。なので、山麓の城下町から大手門までは徒歩で、片道1時間弱かかるみたいだ。そんな中でも、約1500メートルの急な山路を登っていかねばならないという。
たしかに、かくいう私が訪れた時、天守はかなり遠くの天空に鎮座するというあんばいにて、それまで一気呵成に登れるのではないかと甘く見ていたのを、改めたことがある。
これの経緯だが、当初からの城普請のあらましを振り返ると、1240年(仁治元年)に、秋庭氏(あきばし)の秋庭重信が、大間松山に初代の城郭を構築する。
1571年(元亀2年)には、三村元親(みむらもとちか)が修築を行うとともに、山全体に城を拡張する。その後の1575年(天正3年)には、毛利氏に城を攻められて、激しい戦いが半年余り行われる。
それというのも、あの信長が城主の元親に「毛利の上洛を阻止してほしい、できたなら礼として備前、備中の二国を与える」との連絡があった模様。元親の父三村家親は宇喜多直家に謀殺されていたから、「父の仇を討つのはこの時」となり、信長に味方した。もとの動きを知った毛利方の小早川秀秋は、備中を急襲し、備中松山城を囲み、近在の青麦を刈り取るなどして兵糧が尽きるよを待つ作戦をとる。
そのうちに、山頂から山麓にかけて、全長約 1,800 mにわたり築かれた稜線のうち、北から大松山(おおまつやま)、天神丸(てんじんまる)、相畑城戸(あいはたのきど)、小松山(こまつやま)、中(なか)と下(しも)の太鼓(たいこ)の丸と曲輪(くるわ)が並ぶ、そのうちの)天神の丸が内応者によって毛利方に落ちると、城勢は大きく傾いていく。元親は、一端城を抜け出してものの、もはや逃れる道は残されていないと思ったのであろうか、再び城下に入り自害し、ここに三村氏は滅亡する。
そのうちに、山頂から山麓にかけて、全長約 1,800 mにわたり築かれた稜線のうち、北から大松山(おおまつやま)、天神丸(てんじんまる)、相畑城戸(あいはたのきど)、小松山(こまつやま)、中(なか)と下(しも)の太鼓(たいこ)の丸と曲輪(くるわ)が並ぶ、そのうちの)天神の丸が内応者によって毛利方に落ちると、城勢は大きく傾いていく。元親は、一端城を抜け出してものの、もはや逃れる道は残されていないと思ったのであろうか、再び城下に入り自害し、ここに三村氏は滅亡する。
以後、毛利氏の代官が在城していてのか、1600年の関ヶ原の戦いで西軍が負けたことから、江戸幕府ができ、この地は幕府領となり、代官として小堀正次(こぼりまさつぐ)が統治を行う。
1609年に正次が死ぬと、その子の小堀政一(こぼりまさかず、文化人・遠州)がその2年後から備中松山城の修復、次いで、山麓の三村氏の居館跡に陣屋を設け、次いで小松山に築城を始める。
そこで、かかる城郭の山上での配置をいうと、弓のようにしなる形での小松山の屋根には本丸、ニノ丸、三の丸を階段状につくってある。そして、御根小屋との間には、上・下の太鼓丸を配置する。本丸中央には、二重の天守を構え、平櫓10、櫓門2、冠木門(かぶきもん)7、それに番所を設けた。
大手門の周りには、10メートル以上の岩壁と組み合わせた石垣があり、そそり立つかのよう。土塀に目を向けると、矢を射るための矢狭間(ざま)、鉄砲を撃つ筒狭間が並ぶ。
実戦も強く意識したであろうか、三の丸、二の丸の鉄門(二の門)跡へと至る石段は直角に何度も曲がらせてある。
もう一度、石垣と櫓に囲まれた本丸をあおぐと、一見3層に錯覚するように設計された2層2階の天守が立つ、まさに「難攻」の城構えといって差し支えあるまい。
その後、池田氏の池田長幸が、1617年(元和3年)、鳥取から6万5千石で松山の地に移ってきた。幕府領時代の小堀氏の町づくりの基礎の上に立って、城下町の建設を進める。
この政権ではまた、消費都市としての松山城下への物資輸送をするため高瀬舟の管理運営に当たる問屋を松山と玉島に設けている。そして、高梁川の下流で三角洲が発達しているのを良しとし、1624年(寛永元年)には、玉島長尾内新田十町歩を開く。
ところが、藩政が軌道に乗りつつあった1641年(寛永18年)には、藩主の長常が死去したため、備中松山藩池田家は無嗣絶家となる。結果、当地は幕領となり、福山藩主水野勝俊が在番する。1642年(寛永19年)には、水谷勝隆が成羽より5万石で松山に移って来る。水谷氏は、3年前に常陸の下館(茨城県)より成羽に移封されてきて、成羽川の流路を北寄りに付け替え、鶴首山の麓に陣屋造りに着手したばかりであったという。
この政権ではまた、消費都市としての松山城下への物資輸送をするため高瀬舟の管理運営に当たる問屋を松山と玉島に設けている。そして、高梁川の下流で三角洲が発達しているのを良しとし、1624年(寛永元年)には、玉島長尾内新田十町歩を開く。
ところが、藩政が軌道に乗りつつあった1641年(寛永18年)には、藩主の長常が死去したため、備中松山藩池田家は無嗣絶家となる。結果、当地は幕領となり、福山藩主水野勝俊が在番する。1642年(寛永19年)には、水谷勝隆が成羽より5万石で松山に移って来る。水谷氏は、3年前に常陸の下館(茨城県)より成羽に移封されてきて、成羽川の流路を北寄りに付け替え、鶴首山の麓に陣屋造りに着手したばかりであったという。
1693(元禄6年)に水谷家が断絶したため、播磨赤穂藩主・浅野内匠頭が一時的に管理するよう、幕府に命じられる。城明け渡しの後は、筆頭家老の大石内蔵助が1年間城代を務める。その後、安藤家、石川家と城主は次々と変わったが、1744(延享元)年から幕末までは板倉家が8代にわたって受け継いでいく。
(続く)
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