新◻️107の2の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、安土桃山時代~江戸時代、そのあらまし)(興除新田、福田新田、阿賀崎新田)

2021-04-09 14:28:30 | Weblog
107の2の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備中の干拓、安土桃山時代~江戸時代、そのあらまし)(興除新田、福田新田、阿賀崎新田)

 そもそも、備中における干拓の歴史は、今からおよそ500年前にも遡る。時代を区切れば、近世も後半になってからのことだ。豊臣政権の成立後は、時流に乗っていち早く織田方についていた宇喜多直家の子、秀家が、新たに備前と備中の領有を正式に認められる。
 その秀家は、鋭意新田開発に取り組んだ。折よく、近世の松山川(高梁川)下流1では、上流からの土砂の堆積により、三角州が発達し、干潟が諸々にできていた1581年(天正9年)に、倉敷と早島(はやしま)の間に広がっていた干潟に潮止(しおどめ)のための堤防を築き、そこを埋め立てた。この堤防は「宇喜多堤」と呼ばれる。
 この時は、現在の倉敷市北部一帯500ヘクタール余りの土地が緑溢れる作物の実る農地になった。この時の水の便を整えるため、彼は湛井十二ヶ郷(たたいじゅうにかごう)用水から水を引くつもりで調査していた。
 しかし、これが無理とわかったので断念し、その4年後、酒津(さかづ)(倉敷市酒津)からの用水を築く。これが倉敷東北部・早島一帯を潤す「八ヶ郷用水」の始まりである。
 時代は移って、江戸期からは、かなりの規模で埋立てや運河の建設が行われてきた。水門の設けられたのは、これらのうちの船穂町エリアの水江にある。

 江戸期に入ると、それかさらに南方に干拓が進んで、その範囲は現在の玉島エリアの全体まで及ぶようになっていく。ちなみに、その当時の玉島というのは、海に張り出したところというよりは、福島、七島、連島、乙島、柏島などの独立の島も含んでのことである。全体として、あたりは瀬戸内の風光明媚な島々に育まれた土地柄であると言える。

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 さて、岡山藩による興除新田(こうじょしんでん)とは、備前児島湾岸を目当てに幕府倉敷代官の絶大な援助の下、1823年(文政6年)に完成した。これの地名としては、開発途上の1822年(文政5年)、詩人でもあった岡山藩士小原大之助が、中国の思想家・管子の「興利除害」から興除の文字を提案したことに由来するという。同時に、当時藩政の責任者であった郡代が地域を3つに分けて、東村、中村、西村と方向性を示した。

 その開発経費の工面などについては、こうある。

 「ともかく、文政3年(1820)幕命によって倉敷代官の監督のもとで、岡山藩が請負って興除新田(児島郡、839町歩、5096石)を開発する運びとなった。ただし、実際に干拓工事を引きうけたのは児島郡の大庄屋5人で、人夫は同郡内の42か村へ割付けて着工した。
 幕府へ申達して開発経費は銀5322貫目(金8万8705両)であって、そのうち藩当局が4万7817両を負担し、残り4万両余は児島郡側で調達したようである。ちなみに最大の銀主は、のちに興除新田内尾(うちお)の大地主・名主となった城下町人の紙屋利兵衛(のち岩崎姓)であった。」(谷口、前掲論文)


 しかし、こうして出来た新田ながら、これへの水の供給を巡り問題が起きる。それというのも、高梁川上流の湛井十二ヵ郷用水の末を庄村から引く東用水路、それより下流の同じ高梁川岸の酒津から引水する八ヵ郷用水の定水川の流末を引く西用水路の2本が造られたものの、その先はどのようにしていけばよいのだろうか。

 それというのも、そもそもこの両用水路を造ることには、上流井組の村村から異議が倉敷代官に出されていたものの、結局、幕府の役人の立ち合い検分によりひとまず決着したのだが。参考までに、その用水工事費は合わせて銀約720貫目であった(谷口澄夫「岡山藩」、児玉幸多・北島正元編「物語・藩史6」人物往来社、1965)という。

 それが、いざ新田ができてみると、周辺に流入する河川水は開発期の古い、上流部村々の設けたせきによる引水によってほぼ使いつくされてしまうとか。つまり、すでに余裕がなく、高西用水路からの水はしばらくで不通となりかねない。
しかも、「このようにして、用水路はできたが、備中の他領にある既設の用水から、その余水や流末水をもらうのであるから、つねに水不足になやまされ、一つもつれたら血の雨が降るというきびしい慣行にしばられざるを得なかったのである」(谷川、前掲論文)とも言われる。

 それともう一つ、この新田への入植にあたっては、貧富の差によって大いに厳しい話になっていく。総括的には、例えば、こう言われる。

 「さて、文政6年に興除新田の検地が行われ、石盛は上田一石二斗・上畑一石、免は二ツ五分五年(地内)ないし十年(外通り)の鍬(くわ)下年季」がきめられた。
 新田の土地配分は、地代銀を取り立てて売りさばく方針をとったが、地代銀が高額なため、年賦払いにしたり、藩当局から手元銀・農具代・肥料代などの無利子年賦払いでの貸与、家屋の建造・修繕費の支給などの撫育政策をとって入百姓の定着をはかった。
 しかし、土地はおのずから地主・富商のもとに集中的に買得され、中・下層農民はほとんど小作民にならさるを得なかったようである。」(谷口澄夫「岡山藩」)

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 この期に入ってからの玉島地区の埋立のとっかかりは、松山の前藩主、池田長幸による、長尾内新田10町歩をもって嚆矢としてよいのではないか。その後の水谷氏になってからは、本格的な干拓が始まる。具体的には、1624年(寛永元年)から1624年から19年がかりにて、松山藩が「長尾内外新田」を手掛けたのが創始とされる。
 やがての1661年(寛文元年)の上竹新田(上竹は、現在の道口、富、七島地区)からは、隣の岡山藩も新田開発に乗り出す。また、1659年(万治2年)には、松山藩(当時の藩主は水谷勝隆)により、玉島新田が完成する。工事が始まったのは1655年(明暦2年)で、足かけ5年の工事で、乙島、上成、爪崎を結ぶ広大な海域が埋め立てられる。
 同じ1659年(万治2年)には、備中松山城主の水谷勝隆が、家臣の大森元直に対し、高梁川下流域(現在の玉島・船穂地区)に、水流の高低差を調整するのに水門を使った運河を開削するように命じた。その頃の高梁川は、そのやや上流で二本に別れていた。
 その一つ、西高梁川からの灌漑用水路を拡張・整備し、新見までを結ぶ高瀬舟の運行をより便利にしようとしたもので、完成した年代は、正確な記録がないものの、1664年(寛文4年)頃であろう。
 さらに1671年(寛文11年)には、これまた松山藩(当時の藩主は水谷勝宗)により阿賀崎新田が拓かれる。以下、勇崎押山新開と柏島森本新開(1670年)、柏島水主町新開などを干拓する。
 このほか岡山藩も、上竹新田(1661)に続き、七島新田(1670)、道越新田(1669)を手掛けていて、主として西岸からは高梁の松山藩水谷氏が、東からは岡山藩池田氏の両藩が競うように干拓を進めていたことになる。なお、これに応じて、埋め立て地における両藩の境界も設定されていく。なお、これらの位置関係については、たとえば、森脇正之著「玉島風土記」(岡山文庫169)を参照ありたい。

 顧みるに、両藩による、これら一連の埋立ての中でも、松山藩の阿賀崎新田は大規模で知られる。この工事にとりかかる1658年(万治元年)、松山藩主の水谷勝隆は神社を勧請し、阿賀崎新田の工事成功を祈願した。その社は、水谷勝宗、克美までの3代55年で完成したもので、拝殿瓦に「からす天狗」を鎮座させているのが、元はといえば山形県の羽黒神社に棲むという伝説上の生き物をあしらったものらしく、なんとも珍しい。ここに羽黒神社というのは、この工事の前は阿弥陀山、工事後は羽黒山と名前が変わっている。
 この埋立てのため、阿弥陀山と柏島との間に汐止めための堤防を築いて埋め立てた所(羽黒神社の西側)には、人々が集まり、「新町」を形成していった。問屋街として栄えていくのだが、それから350年余を経た現在は、県の町並み保存地区に指定され、倉敷美観地区につぐ町並み観光スポットなっている。潮止堤防の上に築かれたこの町は、かつてこの堤防上に回船問屋が立ち並んでいた。最盛期には、かれらの富の象徴である、切り妻造り、本瓦葺き、虫籠窓の商家や重厚な造りの土蔵が設けられていて、土蔵の数はざっと200以上に及んでいたというから、驚きだ。
 かくして、海に臨んだその町の南側には、北前船などの千石船が船着場に頻繁に入船、出船していて、ほど近い下津井港に負けず劣らずの賑わいを見せていたことだろう。その新町への行き方だが、新倉敷駅からバスで、爪崎南、爪崎西、八島、七島、文化センター入り口、玉島支所入口と南に下り、玉島中央町で降りる。
 次に運河について、俯瞰しておきたい。一の口水門は、高瀬川の下流部、小田川との合流点下にあった。このあたりは、倉敷市玉島長尾、爪崎を経て高瀬舟による河川水運と海運船による内陸水運の接点として栄えたところで、ここが運河の取水口となる。
 この一の口水門には、今でも堰板(せきいた)を巻き上げる木製のウインチが残っている。これにより、二つの水門の開閉によって水深を調節し船を通す仕組みであって、「閘門(こうもん)式」の運河と呼ばれる。ここで生じていた水位の差は、2~3メートル位ではなかったかとも言われている。この一の口水門と、その下流約300~350メートルの二の水門、通称船溜水門との間で水位の調整を調整する仕組みが導入されたことになっている。
 かかる水路としては、船穂町の一の口水門から高梁川の流れを導き、長尾・爪崎を経て、玉島港に通じる。「高瀬通し」と呼ばれる区間(現在の倉敷市船穂~玉島間)約9~10キロメートルにかけてが、それに当たる。


 さて、この松山藩の阿賀崎新田造成に伴う運河の完成によって、新田の灌漑用水と、高梁川流路との高瀬舟、北前船の出入りが容易になったことが窺える。同時に、一の口水門から、水江又串、元組、長崎鼻・長尾・爪崎南端を経て七島東端、さらに羽黒山麓へと連なることから、これによって玉島港までの舟運についても舟運による道筋ができたことになる。
 かくして、この運河を遣っての高瀬舟の上りでは、船頭が竿で舟を押し、残りの二人は岸辺で綱を引く。高梁川のような大きな川では川岸が整備されていないので舟を引くのも大変と考え、高梁川の脇に用水路を開削し、この水路を使って舟運を行なおうとしたものとみえる。
 ちなみに、現在では、かつての高瀬舟などが往来していた水路はもう役割を終えて、ごく一部の施設のみ露出している。水の取入口にあたる「一の口水門」は、倉敷市の史跡文化財になっており、その前に次の案内板が設けてある。
 「旧高瀬通しの終点、玉島舟だまり跡。松山藩水谷候が玉島阿賀崎新田を開拓した万治寛文延宝にかけての約330年前、高梁川の水を入れた灌漑、水運両用の高瀬通しが船穂町水江の堅盤谷(カキワダニ)から糸崎七島を経て、玉島舟だまりまで91粁巾37米ー8.5米で開通された。一の口水門から二の口水門へ水を入れた閘門(コウモン)式運河で、パナマ運河に先んずること240年前であった高瀬舟は、下りは、水棹を用い上りは曳子が引いて通過した。
 下り舟には、米・大豆・茶・薪炭・煙草・漆・和紙・鉄・綿・べんがらなど、上り舟には北海道鰊粕・干鰯・昆布・塩・種粕・雑貨など積まれた港の北前船と並んで江戸期の玉島繁栄の基となった。荷を積み下ろす舟だまりは、羽黒山東側のこのあたり約10アールの水域であった。羽黒山北側に延びる水路は、新町裏側に通じ阿弥陀水門から舟は港に出た。明治になってからは、港町に地下トンネルが出来、舟はそこから港に出た。昭和になって、高瀬通しはその機能を失い道路となり、家並みが建ち現代に至った。平成6年(2009年)11月6日、玉島文化協会、玉島観光ガイド協会」
 それからについては、水谷氏は3代目の藩主が早世し後継ぎがなかったため、元禄7年(1674)断絶してしまった。幕府は領地を接収し、数年後浜松藩の本庄氏、丹波亀山藩の青山氏、その他の大名に分封して与えた。更に、この地は1729年(享保14年)に松山領、幕領、亀山領、岡山領、鴨方領、岡田領の六つの藩の領有にと細分され、きちんと計画を立てての、それまでの事業はしだいに影が薄くなりつつ、明治維新を迎えたことになっている。明治の世(慶長4年~)になっても、こうした高梁川にまつわる干拓事業は形を変えてなおも続いた。


(続く)

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新◻️107の1の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓、児島湾、近世~戦後)

2021-04-09 14:24:40 | Weblog
107の1の1『岡山の今昔』岡山から総社・倉敷へ(備前の干拓、児島湾、近世~戦後)

 さて、近世もかなり大詰めになっての江戸時代の後期まで、封建時代の生産関係の下で基本となる生産力のは発展は、およそ次のような推移をたどったようである。

 「1661~1670年代の貢米(単位は100石)は1992、1665年の人口(単位は100人)は2472。1671~1680年代の貢米(単位は100石)は1908、1679年の人口(単位は100人)は2442。
 1721~1730年代の貢米(単位は100石)は1821、1721~1726年の人口(単位は100人)は3418。1751~1760年代の貢米(単位は100石)は1878、1750~1756年の人口(単位は100人)は3243。1781~1790年代の貢米(単位は100石)は1831、1786年の人口(単位は100人)は3216。
 1861~18706年代の貢米(単位は100石)は1738、1872年の人口(単位は100人)は3319。(山崎隆三「江戸後期における農村経済の発展と農民層分解」、岩波講座日本歴史12・近世、1963.12に所収)

 さらに、戦国・近世からの干拓の延長線上にあるのが、現在の児島湾の西の端、湾奥には締切堤防の建設なのであって、その西は児島湖となっている。岡山県岡山市南部の児島半島に抱かれた児島湾中部に位置し、江戸時代以来の干拓でやや縮小していた地帯である。
 この堤防建設を計画したのは農林省で、土地改良事業として、1951年(昭和26年)に着工する。この事業の中身は、児島湾干拓地の水不足解消と灌漑(かんがい)用水の供給が主目的。つまり、農業用水の確保が本命であったらしい。用水確保のほか、塩害・高潮被害の除去などの目的も含まれていたという。
 計画では、総延長1558メートル、幅30メートル(現在の岡山市南区築港から同区郡(こおり)まで)をつくる。これに沿って工事が進み、1959年(昭和34年)には潮止めが、1959年(昭和34年)には完工となる。こうして、淡水湖としての児島湖が誕生した。
 この人工湖の面積は10.9キロ平方メートルで、ダム湖を除いた人造湖としては建設当時世界第2位、ただし水深は浅い。笹ヶ瀬川(ささがせがわ)と倉敷川、妹尾(せのお)川などが、これに流入する。これらから流入する水、土砂などによって湖水の汚染が進んでいるともいわれるが、この締切堤防は岡山市中心市街地から児島半島東部への短絡路線にもなっていて、このあたりの人びとの交通の利便の役割も果たしている。

(続く)

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◻️66の1『岡山の今昔』戦後の高度成長期(岡山城の再建、1966)

2021-04-07 11:07:05 | Weblog
66の1『岡山の今昔』戦後の高度成長期(岡山城の再建、1966)


 戦前までの岡山城天守閣は、国宝であったという。戦国時代の1597年(慶長2年)に8年の歳月をかけて築城された、流れを変更した旭川に囲まれた小高い山(岡山)の上に君臨するかのようなその姿は、「鳥城(うじょう)」とも言い慣わされた。

 それが、1945年6月の岡山空襲で、その天守閣を含めて、月見櫓以外が壊滅的打撃を受けたのは、まだ記憶に新しい。ちなみに、天守のほか30の櫓、3つの御殿が林立していた。わけても、3階建て以上の櫓9棟が防衛の要所要所に配せられていた由、その偉容が、唯一残ったのが月見櫓では、1964年に国の重要文化財となっているとのこと。


 戦争が敗戦となってしばらくしての1966年(昭和41年)には、鉄筋コンクリート造の外観復元で天守が再建された。往時と同じく、本丸の土台は岡山の強固な岩盤を利用して造られていて、3つの段(下の段、中の段、本段)に分かれ、その最上段の北西の端をしめる配置で建てられた。一説には、「これで江戸時代さながらによみがえった」とも。


 では、新たな天守のありようは、どのようなものだろうか。最上段への入口たる不明門(あかずのもん)を潜り抜けて石階段を含む道をしばらく進むと、奥御殿があったとされるその奥に、天守が見えてくる。壁は黒塗りのようであり、往時は、黒漆を下見板(外壁)に直に塗っていたのだという。屋根の各層の先端部は、金箔で綾どられており、説明によれば、安土桃山時代からの振り付けであるらしい。


 しかして、この天守の特徴的なこととして最もよく取り上げるのは、不等辺な立体構造のゆえではないたろうか。それまでは四角形の平面やその組み合わせが主流であったとか、ところが、岡山城天守の一層目は相当変わっていて、不等辺五角形であるという。


 それだからして、眺める角度から、それによって姿形が変わって見えることだろう。すなわち、本丸御殿から、つまり南がわからは「飾り気のない」、幅広のどっしりした偉容というべきか。東側からの眺めは、細長い、さながら太い棟のようで、中国の西安に立つ唐代からの有名な塔になんとなく似ているようだ。北西からは、人間でいうと粋な着流しというか、バランスのよい姿が印象的だ。そして北側からとなると、「巨大な軍艦」が大地に乗っかっているような、重厚にして、一説には「威圧的」姿となって斜め横に映る。

 これの種明かしとしてよく持ち出されるのが、万事は、一階が不等辺五角形ということにあるという。
 いいかえると、上の階にあがるにつれて、設計上、最上階をできるだけ正方形に近づけたいということがあり、再建後でいうと、2階(やや出っ張りを緩やかに)、3階(十字形)、4階(長方形)、5階「太目のレール断面のよう」と修正がなされてきて、さいごの6階が正方形となっている。


 それでは、なぜわざわざ石垣を天守が不等辺になるように積み上げる必要があったのだろうか、調べてみる限りでは、定説らしきものは見当たらないものの、有力視されているのが、これは、岩盤そのものが、その形になっていて、すべてはそこから始まることであるという。


(続く)

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◻️171の13『岡山の今昔』岡山人(太田直太郎、内藤定次郎、内藤孝次郎)

2021-04-06 22:15:41 | Weblog
171の13『岡山の今昔』岡山人(太田直太郎、内藤定次郎、内藤孝次郎)


 太田直太郎(おおたなおたろう、1798~1829)は大坂に遊学して、武田流算学家元の武田無量斎に和算を学ぶ。

 武田真元(たけだしんげん、号は真空堂または無量斎、。?~1847)は、和算家だ。和泉(いずみ)堺の人。土御門(つちみかど)につかえる。坂正永(さかまさのぶ)、村井宗矩(むらいむねのり)に和算を、間重富(はざましげとみ)に暦法をまなぶ。

 さて、それからの太田は、どのような経緯をたどっていったのだろうか、武田流(真元流)をおこす。易学にも精通し、著作に「階梯算法」「算法便覧」などがあるという。


この流派は、特に近畿以西に勢力をもっていた。
 その武田から算術に関わる「秘術」の伝授される機会を得て、滞在50日でその奥義を極めたというから、秀才に違いない。帰郷後も、研鑽を積んで、算術図説数十条を作る。
 太田の没後、岡山市の吉備津神社と倉敷市玉島の羽黒神社に掲げたという。「新撰浪華武田流諸国算者見方角力」に関脇、また「諸国算者高名鑑」にも頭取として名を連ねている。

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 武田流の兄弟弟子に倉敷の内藤定次郎(ないとうさだじろう、1796~1870)がいて、内藤が太田に産題の依頼をしている文章が残っていることから、交流が続いていたことがわかっている。その彼は、当時の窪谷郡倉敷村の穀物商・角屋の出身にして、29歳の時大坂に商用でいったおり、武田無量斎に師事し、しばらく算法の習得に努めたという。どのくらいの滞在であったのだろうか、それはともかく、その道を極めたというのなら、秀才に違いあるまい。
 やがて故郷に戻っては、仕事のかたわら私塾を開いて岡山の商人わその師弟らに算法を教授したという。


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内藤孝次郎(ないとうこうじろう、1820~1893)は、角屋本家の養子となり、内藤定次郎の家業の米肥問屋を継ぐ。幼くして、定次郎に算法を学び始め、近隣の同学からは「神堂」とも言われていたという。こちらも、父と同じように、商売のほか、算法の教育者としての人生を送ったものと考えられているようだ。


続く

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◻️107の1の2『岡山の今昔』岡山から総社、倉敷へ(備前の干拓など、百間川の創設と沖新田)

2021-04-06 21:05:09 | Weblog
107の1の2『岡山の今昔』岡山から総社、倉敷へ(備前の干拓など、百間川の創設と沖新田)

 そもそも百間川の名の由来は、「二の荒手」(中島竹田橋直下流)の幅が堤防を含め百間(約180メートル)あったことから、そう名付けられたという。現在の岡山市北区三野・中区中島付近で旭川と分流し、操山の北を東流する。それからは、同市中区米田付近で、東に仰ぐ芥子山を避けるように、大きく南に流れを変える。
 それからほどなく南下してといおうか、干拓地の間を通って児島湾に注ぐ。 旭川の分流部より瀬戸内海に出る河口までの総延長は12.9キロメートル、その間の幅は200~300メートル位あるという。


 そもそも、岡山城付近を流れる旭川は、安土桃山時代の宇喜多政権により、に行われた築城工事の時に、蛇行するよう付け替えられ、河道も狭くされた。これだと、北からの水流がその曲がりのところで岸に激しくぶつかり、岡山、石山それに天神山以外の岡山城下は、以来たびたび洪水に見舞われるようになった。特に、1654年(承応3年)に起こった大洪水は、城下に甚大な被害をもたらしたという。

 これに意見したのが、当時岡山藩に出仕していた陽明学者の熊沢蕃山であって、蕃山は、1654年(承応3年)の旭川洪水の経験から、洪水対策として「荒手」と呼ぶ越流堤と放水路を組み合わせた「川除け(かわよけ)の法」を提案し、津田永忠に伝授した模様だ。これを「よし」とした永忠は、藩として取り組むべきと藩主に進言したようだ。

 まもなく藩主の池田綱政から岡山藩郡代の津田に対し、荒手堤をつくるようにとの命令が下り、かかる構想に基に、洪水の際にはここに分流を呼び込んで、3段の荒手を設けることにしたという。これにより水勢を弱めながら旭川の氾濫を越流・放水させるという仕掛けだ。

 この工事は、1669年(寛文9年)に永忠の指揮で着工された。その翌年にかけて、岡山藩普請奉行藤岡内助、石川善右衛門らによって工事が指揮され、御野郡竹田村(現在の岡山市竹田)、中島村(現在の岡山市中島)の間に荒手堤が築かれた。


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 要は、城の上流地点で土手の一部を低くした荒手堤を構えつつ、幅広の百間川溝を掘って東の中川までつなぐ。そうした仕掛けを設けたことにより、旭川の洪水時には水がそこで分流されるようにしたわけである。


 ところが、中川周辺の地域の人々としては、もとより排水の悪い干拓地に、それまでは城下へ流れていた水がどっとこちらへ押し寄せてくるではないか。折しも、1673年(延宝元年)の旭川大洪水では、この百間川のおかげで城下の被害は比較的軽くすんだかわりに、濁水は中川周辺の農村部を襲い、大災害となったという。


 津田としては、この時、しからぱどうしたらよいのかだけでなく、ある壮大な構想を描いていて、その計画の中で、百間川を大改造し、中川周辺の河川排水をすべて一本化する排水路として延長、かつ、その河口部に前代未聞の大干拓を行うというもの、これが、後にいう沖新田である。


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 そして迎えた1682年(天和2年)には、永忠が郡代となり、池田綱政の命が下り、上道郡沖新田開発を計画するにおよび、排水の処理問題とも関連して1686年(貞享3年)から翌年にかけて、百間川の改造、拡張を築造していく。



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 そして迎えた1692年(元禄5年)沖新田の開発に伴い百間川を児島湾まで貫流させ,その河口に大水尾(おおみお)遊水池を設け、そこに唐樋(からひ)を築き,排水を促し潮水の逆流を防ぐ仕組みを導入する。

 すなわち、沖新田の干拓は、倉田新田(1679年(延宝7年)に完成)、幸島新田(1684年(貞享元年)に完成)に続いて、1691年(元禄4年)に、池田綱政の命により津田永忠が主導して干拓工事が開始された。そして、翌1692年(元禄5年)には完成するという、非常なスピードで進められたのは驚きだ。

 同時に、百間川を延長して新田の中央を通すことが設計される。前述した1692年(元禄5年)の沖新田の開発に伴い、百間川を児島湾まで貫流させる工事を完成させる。


 あわせて、その百間川が瀬戸内海へ流れ出るところの河口に、百間川の水を海に排出するための施設として百間川河口水門を設けるとともに、大水尾(おおみお)遊水池を設け、唐樋(からひ)の設備を築き、排水を促し潮水の逆流を防いだ。

 それというのも、大水尾周辺の低地は、一度洪水が起きれば、満潮時とかさなる時もあろう、その時の潮位というのは、時に海側の水位が百間川の水位の方が上回りかねなかったのではないだろうか。そこで、樋門によって水量を調整するためにも広大な遊水池をつくる必要があった。さらに、かかる大水尾池を造るために、当該百間川河口部に築いたのが、百間川大水尾堤防(現在のいわゆる「旧堤」)というわけだ。


(続く)


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◻️3『岡山の今昔』旧石器・縄文時代の吉備(遺跡から)

2021-04-05 19:14:28 | Weblog
3『岡山の今昔』旧石器・縄文時代の吉備(遺跡から)

 現在の行政区である岡山県は、それより前の地名でいうと、「備前」(びぜん)、「備中」(びっちゅう)そして「美作」(みまさか)という3つのエリアから成り立っている。さらに前の上代・律令国家時代の初め、この地域は、「吉備国」(きびのくに)と呼ばれ、この3つの地域と今は西隣の備後(びんご、現在の広島県西部)とを中核として、かなり強力な力を誇示していたのであった。それでは、この地のその前はどのようであったのだろうか。時代は、これらをあわせての4つの国(地域国家)の区割りのまだなかった弥生時代以前に遡ることになろう。

 ところが、当時のこの地域がどう呼ばれていたかは、未だにはっきりしていない。そもそも、当時この地域を支配していたであろう国が、かれらの連合体(さしあたり、古代のユナイテット・ステイツと呼びたい)である倭(「わ」もしくは「やまと」、後者の呼び名は例えば人事屋に奉納する「倭舞」(やまとまい)に見られる)の中に存在していたのかもしれない。
 ところが、その当該の国が、3世紀を知る中国の史書『魏志倭人伝』で挙げられる三十余国中のどの国であったのか、当時の「邪馬台国」という連合国家の一員であったのか、そのことを特定することがかなわないままなのだ(ただし、諸説は寄せられている)。

 とはいえ、弥生時代の中期(紀元前400年位~紀元前後)にかけては、現在の大阪湾から瀬戸内地方にかけての海岸地層からは、石鏃(せきぞく、鏃はやじり)などの石器が多数出土している。これととともに、わざわざ高地を選んでの集落形成跡が広く認められる。これらの備えや防衛手段なりに出ていたことからは、この時代に集団間の激しい争いが続いていたことが広く窺える。

 ついては仮に、この時代においてもこの地は、仮に「吉備」(きび)と言う名で呼ばれていたとして話を進めようと思うのだが、この名の由来がわかっていない。そこで思いつくのは、あの穀物の「黍」(きび)ではないか。ほかにも、「連合」を意味しているのではないか、等々の説があるが、いずれも決め手に欠ける。

 おそらくは、縄文時代の初期位までに、このあたり、笠岡・倉敷・岡山・児島、下津井辺りの平野までやって来た人々の中には、そのまま東へ向かわずにこの当たりに住み着くか、それとも高梁川(たかはしがわ)、旭川、吉井川の3本の河川を伝って北上したグループがいたとみられる。こちらへ進出した人々が定住し、そこで本格的な農耕を行うことでの弥生時代の特徴は、集団での農耕であるが、この地方においては、定住の拠り所となっていた遺跡は瀬戸内に面した平野を中心に散在していて、いずれも小規模なものの寄り合わせであったのであろうか。

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 この岡山で石器時代から縄文時代のものとおぼしき遺跡としては、鷲羽山遺跡(旧石器時代)、恩原遺跡(旧石器時代)、貝殻山遺跡(かいがらやまいせき、弥生時代)、百間川遺跡(弥生時代)、津島遺跡(弥生時代)、沼遺跡(弥生時代)などが挙げられるのだろう。
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 鷲羽山遺跡(わしゅうざんいせき)は、現在の倉敷市大畠、鷲羽山久須美鼻にある、西日本で最初に注目された旧石器時代遺跡だ。当地は、隣接する人家はない。そして、南に向かって海に長く突出する岬をなしており、浸食がいちじるしく花こう岩が全面にわたって露出している。
 ここが発見された経緯としては、戦後の混乱期なのであった。それも、すでに瀬戸内海国立公園でありながら無秩序に木が伐採され一時、禿山になりかけたらしい。生活に用いる燃料の不足からの伐採ということで、地元の人々を責めることもままならずの有り様であったとか。
 ところが、その事で表土があらわとなり、遺跡を窺わせる痕跡なりが、これら花こう岩の風化土層中に認められた。
 1951年頃より専門家を含めての検討が行われ,1954年に発掘が行われた。第1層は、二次的に堆積した約30センチメートルの表土層であり、ここからの出土には、細石刃核、細石刃、ナイフ形石器、小型ナイフ形石器、尖頭器、彫器などの多様な用途に使っていたであろう石器が混在していると伝わる。

 同遺跡での特徴としては、サヌカイトという石で作った、さまざまな石器が多く出土したことだ。この石は、1891年にドイツの岩石学者ワイシェンクが来日して研究し、産地の旧国名讃岐にちなみ、サヌキット(Sanukit)と命名した。現在は、英語読みのサヌカイト(Sanukite)が通称となっている。あわせて1919年には、小藤文治郎が、サヌカイトと近縁な性質を有する瀬戸内地域の中新世火山岩を、まとめてサヌカイト類(またはサヌキトイド)と名付ける。
 なにしろ、この石で作られる石器は、外力で割ると鋭利な面を割り出すことができる、黒曜石にも匹敵するのではないだろうか。用いられ方としては、主に狩などに幅広く使用されたのではないかと考えられている。
 なお、日本列島の旧石器時代は、氷期(現在の間氷期につながる最終氷期(Last glacial period)とは、およそ7万年前に始まって1万年前に終了した一番新しい氷期のことである)と呼ばれる寒い気候で、そのまま東へ関東に至るも、最寒時(およそ2万1000年前)には海が今より100メートル内外低かったともされ、その頃の当地山上から見える瀬戸内海の一部は陸地となっていたと考えられている。

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 恩原遺跡(おんばらいせき)は、後期旧石器時代のものとされる。現在の苫田郡鏡野町の恩原高原にある。中国山地尾根筋付近にある、標高が約730メートルというから、かなりの高原地帯だといえよう。遺跡は、現在は河川域が恩原貯水池となって、その南岸に位置するとのの、元々は、瀬戸内海へそそぐ吉井川の源流を望む平坦な台地上にあったのだという。
 1981年頃、日野琢郎氏が、土器や石鏃などを採集しているうちであろうか、遺跡を発見したという。1984年から1997年まで、岡山大学文学部考古学研究室を中心とした恩原遺跡発掘調査団による発掘調査が実施された。表土層下の火山灰層中で後期旧石器時代に属する4つの文化層が確認された。細かくは、「恩原1遺跡」(2009)と「恩原2遺跡」(1996年)に分かれる。
 一番古い遺跡と判断できる地層は、「約33,000~28,000年前」ともされ、旧石器時代遺跡と認定される。もう少しいうと、より古い台形石器の時期と、より新しい石刃素材ナイフ形石器の時期とに分かたれるという。

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 貝殻山は、今は岡山市内から南に位置する児島半島(当時は島であった)にある。市内からの手頃な山歩きコースの一つであって、その登山口は神武由来の高島の対岸宮浦地区になるのだと言われる。「貝殻山」という名称はいつ頃から使われているかは知らないものの、「縄文海進」(じょうもんかいしん)や「吉備穴海」(きびのあなうみ)の頃から、このあたりにいた人々は、浜辺や海水を含んだ沼などで豊富な貝や魚などを捕って、海岸で土器などを用いて茹(ゆ)でる、焼くなどして食べていたことに関係するのではないか。

 ちなみに関東では、横浜の夏島(なつしま)の貝殻遺跡のような案配なのかとも推察している。貝殻山遺跡の貝層を掘り下げた砂質土層からは、少数だが土器と石鏃が出土しているとのことであり、少量ながら縄文時代後期のものだと見られている。

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 今度は、埋葬人骨に焦点を当てて考えてみよう。2019年の新聞記事に、こうある。

 「倉敷市教委は10日、発掘調査している縄文時代の貝塚遺跡・中津貝塚(倉敷市玉島黒崎)で、縄文晩期(約3千年前)の土壙墓(どこうぼ)と埋葬人骨が見つかったと発表した。中津貝塚は戦前、縄文土器の一形式「中津式土器」が全国で初めて出土した重要な貝塚だ。
 倉敷市は船元、磯の森貝塚などもあり、西日本屈指の縄文貝塚の密集地。中津貝塚は縄文後期初頭を代表する「磨消(すりけし)縄文」文様の土器が確認されたことで知られる。
 今回の調査は貝塚の分布状況の把握を目的に、2018年度から3年計画で実施。18年度に設けた試掘溝の1カ所で、土壙墓2基とそれぞれから1人分の人骨を確認した1基からは肋骨(ろっこつ)、脊椎骨、鎖骨や手足の骨など、ほぼ全身の骨が出土。もう一方では頭蓋骨が見つかった。本年度は頭蓋骨の出た試掘溝の隣を発掘しており、上腕骨、大腿(だいたい)骨など体部の骨が残っているのを確認した。別の試掘溝では中津式の土器片も出土している。
 前年度見つかった人骨は、国立科学博物館(東京)に送り、年代や性別などを分析中。(以下、略)」(山陽新聞デジタル、2019年12月10日付け)。
 こうしてみると、選択と集中ということで、今後の発掘、研究次第では、わが郷土の縄文人の顔や骨格なりはどうなのがが語れるようになるのではないか。ちなみに、筆者は埼玉県秩父の長瀞(ながとろ)にある県立博物館にて二度ばかり、縄文人の標本(出土の骨格)を拝見して、痛く感動した。

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 里木貝塚(さとぎかいづか)というのは、縄文時代中期の生活の一端を伝える遺跡だ。
 現在の浅口郡船穂町大字船穂字北谷、里木にある貝塚にして、高梁川の西岸,沖積平野に接する丘陵南端部に位置している。
 その地層を見ると、鹹水(かんすい)性の貝が堆積していて、これを、1919年と1922年の2回を始めとして、発掘が行われる。すると、遺跡上層から縄文時代中期の里木式土器が、下層から縄文時代前期末の、現在は里木式土器と呼ばれる珍しい形の土器が発見された。人類の痕跡そのものということでは、屈折葬及び伸展葬の人骨20体、それにガラス細工のような緑褐色の耳飾り、貝製腕輪・鹿角製腰飾・骨製ペンダント・鹿角製ペンダントなど数多くの装身具などが発見されたという。
 ほかに、縄文人骨や玦状(けつじよう)耳飾のほか、石鏃・石錐・石匙(いしさじ)・打製石斧から磨製石斧までの石器類も出土しているとのこと。


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 それに、2005年の岡山からの報告には、こうある。

 「縄文時代前期とされる岡山県灘崎町彦崎貝塚の約6000年前の地層から、稲の細胞化石「プラント・オパール」が出土したと、同町教委が18日、発表した。同時期としては朝寝鼻貝塚(岡山市)に次いで2例目だが、今回は化石が大量で、小麦などのプラント・オパールも見つかり、町教委は「縄文前期の本格的農耕生活が初めて裏付けられる資料」としている。しかし、縄文時代晩期に大陸から伝わったとされる、わが国稲作の起源の定説を約3000年以上もさかのぼることになり、新たな起源論争が起こりそうだ。
 町教委が2003年9月から発掘調査。五つのトレンチから採取した土を別々に分析。地下2・5メートルの土壌から、土1グラム当たり稲のプラント・オパール約2000―3000個が見つかった。これは朝寝鼻貝塚の数千倍の量。主にジャポニカ米系統とみられ、イチョウの葉状の形で、大きさは約30―60マイクロ・メートル(1マイクロ・メートルは1000分の1ミリ)。
 調査した高橋護・元ノートルダム清心女子大教授(考古学)は「稲のプラント・オパールが見つかっただけでも稲の栽培は裏付けられるが、他の植物のものも確認され、栽培リスクを分散していたとみられる。縄文人が農耕に生活を委ねていた証拠」(2005年2月19日付け『読売オンライン』より引用)云々。
 ここにいうイネのプラントオパールは、イネ科植物の葉などの細胞成分ということで、これまで栽培が始まったとされている縄文時代後期(約4000年前)をさらに約3000年遡る可能性を示唆しているというのだが、この列島の稲の栽培に適した地域の所々において、あくまで数ある食料の一つとしてのイネの栽培が入ってきているということであろう。

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 鑑みるに、縄文時代には、県内の一部でも、部分的な稲作が導入されていたものと推測される。史料としては、「陸稲」としてのイネが栽培されていたこともわかっている。直近の氷河期が終わって温暖な時代に生きた縄文時代の人々は、狩猟や漁撈(ぎょろう、南部の海沿い)あるいは採取とともに、農耕を行いながら食料を確保していたようだ。
 折しも、縄文時代も晩期にさしかかると、水田稲作が朝鮮半島から北九州付近に伝わり、弥生時代になって九州から本州、そして四国へと広まってくる。
 また、おそらくこの時期にコムギやオオムギも伝えられ、ウメやモモなどの栽培果樹も伝わったようだ。およそ、そういうことだから、追って水田稲作に関する本格的技術が、朝鮮半島からの渡来人によってもたらされていく、それを受け止める下地は形成されていたといえなくもあるまい。彼らと縄文人との混血によって今日に続くの日本人が、それを担う存在として浮かび上がる。かくして、それまでに比べてハイレベルな水田稲作は、日本社会に大きな変革をもたらすところとなっていったのだと考えられよう。

(続く)

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◻️4『岡山の今昔』弥生時代の吉備

2021-04-05 19:12:17 | Weblog
4『岡山の今昔』弥生時代の吉備

 判別が難しいのは、この岡山・貝殻山遺跡の貝塚周辺には弥生時代と見られる遺跡も点在していることだ。具体的な遺物・遺構としては、少なくとも6棟の竪穴式住居や貝塚、分銅形土製品などが発見されていて、弥生時代中期からの後期にかけてあったものだと言われる。そこで、これらを総称して貝殻山遺跡とよぶ場合もあるようだが、これまでの発掘調査では、縄文文化と弥生文化との間に連続は認められないようだ。この弥生時代に入ってからの遺跡の特徴として、「方形周溝墓」を伴っていることや、高地性集落の存在が挙げられることがある。ここに高地性集落とは、弥生時代中後期に瀬戸内海沿岸から近畿などに現れる少し高いところにある見張り施設のことだ。これは、かなりの人々がこのあたりに定住し、それなりの縄張りというか、他からの勢力に対し対抗できることを目して使節を構えて住んでいたことを覗わせるのである。
 さて、この弥生時代を特徴づけるのは、狩猟・採集が主体というよりも、農耕の本格的な開始であったろう。1970年代になって、この地域における農耕の発達を示す典型的な遺跡が見つかった。その場所は、備前岡山(現在の岡山市中区)の百間川(ひゃっけんがわ)緑地公園のあたりにある。今では、弥生時代から古墳時代にかけての竪穴住居として、整然とした形で復元されている。
このような住居をつくるには、まずは敷地を確保し、数十センチメートル位の穴を掘って、そこを土間とする。その上には、茅などを敷いたのであろうか。それから敷地から放射状の屋根となるように柱を立ち上げていき、それらの隙間を茅などで塞ぐ。見つかっている遺跡の復元した姿を想像すると、大まかに住居と水田の跡に分かたれ、考古学上の大発見と目されているのが、水田の発達がここから読み取れることである。この百間川に沿っては、原尾島遺跡、沢田遺跡、兼基遺跡、今谷遺跡、米田遺跡などが点在している。
 弥生時代の水田跡は、岡山市北区の津島〈つしま〉遺跡でも見つかっている。こちらは、弥生時代前期の水田だと見立てられている。水田が営まれるためには地面が平坦でなければならないが、津島では地面にわずかな傾斜があるのを踏まえ、水を効率良く張るために水田を畦〈あぜ〉で細かく区切った跡が残っている。
それに引換え、百間川原尾島〈ひゃっけんがわはらおじま〉遺跡においては、均一な正方形に近い区画となっていた。標高のやや高い場所(微高地〈びこうち〉)を削って水田を拡張した跡も見られる。後者は、弥生時代も後期になってからの遺跡であると考えられている。この違いの背景には、大規模な土地造成を可能とする各種鉄器の普及があったと考えられている。
 笠岡・倉敷・岡山・児島、下津井辺りの平野までやって来た人々の中には、そのまま東へ向かわずに高梁川、旭川、吉井川の3本の河川を伝って北上したグループがいたとみられる。こちらへ進出した人々が定住し、そこで本格的な農耕を行うことでの弥生時代の特徴は、集団での農耕であるが、この地方においては、定住の拠り所となっていた遺跡は散在していて、いずれも小規模なものであったのかもしれない。


 美作での弥生期の遺跡としては、沼の住居跡が有名である。大陸から九州北部に米づくりが伝わってきたのは、今から2500年ほど前だといわれており、以後稲作は、短い間に列島各地に広がっていった。当時のそこらにおいては、布の中央に穴をあけ、その穴に頭を通すタイプの衣服を着た人々が連れだって住居を構え、この辺りを開拓して水田をつくったりして、歩き回っていたのだろうか。谷口澄夫は、この史跡の発掘の成果をこう語っている。 

 「この沼の遺跡には十数個の竪穴が群集しており、これが一つの集落をなしていたと考えられるが、その中央にあってひときわ大きな竪穴が一つある。約一メートルの深さに掘った竪穴のなかほどに、二本の主柱が東西に並んでたてられ、それに棟木(むなぎ)をわたし、さらに二本の主柱のまわりに10本の支柱がならべられて、棟木から地面にいたる桁(けた)のささえとされ、その上をカヤで葺(ふ)いたものと考えられる。
入母屋(いりもや)づくりの屋根をそのまま地面に伏せたかたちであるが、その木組みはなかなか手のこんだものであった。この家屋はこの集落の族長の住居であったらしく、鉄製の「やりがんな」やガラスの小玉もこの竪穴から発見されている。」(谷口澄夫「岡山県の歴史」山川出版社、1970)
 これに同じ市内の鮒込(ふなごめ)遺跡も加え、1978年に刊行された津山市教育委員会「図録、津山の史跡」はこう説明している。
 「津山市弥生住居趾群は中国山地南麓の丘陵上に営まれた中期末の集落遺跡であるが、発掘調査によりほぼその全容が明らかにされている。すなわち、丘陵突出部の基部に周溝をめぐらして他と区別した内部に大小5軒の竪穴住居趾がほぼ半円形にならび、その中央に作業場あるいは物置と思われる長方形の遺構がある。さらに周溝の外にはやや離れて3棟の高床倉庫趾が発見されている。これら5軒の住居からなる集団は当時の低い技術段階のもとでは、主として地下水の湧出があり、普段に水が自然供給される谷水田の経営に従事していたと考えられている。津山市鮒込(ふなごめ)遺跡もこの時期のやや規模の大きな集落遺跡である。」
 これらから推し量って、この辺りでもある種の族長制が始まっていたものと考えられている。ここには、大きな住居の中には「まがたま」と呼ばれる湾曲した玉をひもに通して、それを首から下げたりして着飾った人々もいたのだろうか。大珠(たいしゅ)の方は、「まがたま」に先行するもので、出土状況から縄文中期から後期の前半(およそ前5500~前4000)その大きさは2センチセンチから10センチメートルとやや大振りな長円形をしていて、神聖な呪具(のろいぐ)や装身具として、当時の集落の長や祭司を司る者が身につけていたと推測されている。
いずれにしても、その頃にはもう階級分化が始まっていたのかも知れない。また、この辺りは「沼」といわれてきたのであるから、自然に恵まれ、その「沼」のそこかしこに、こんこんと湧き出る中国山系の伏流水が得られたはずだ。そのことで、水田の運営が可能となったと考えられる。
 1978年に刊行された津山市教育委員会「図録、津山の史跡」はこう説明している。
 「津山市弥生住居趾群は中国山地南麓の丘陵上に営まれた中期末の集落遺跡であるが、発掘調査によりほぼその全容が明らかにされている。すなわち、丘陵突出部の基部に周溝をめぐらして他と区別した内部に大小5軒の竪穴住居趾がほぼ半円形にならび、その中央に作業場あるいは物置と思われる長方形の遺構がある。さらに周溝の外にはやや離れて3棟の高床倉庫趾が発見されている。これら5軒の住居からなる集団は当時の低い技術段階のもとでは、主として地下水の湧出があり、普段に水が自然供給される谷水田の経営に従事していたと考えられている。津山市鮒込(ふなごめ)遺跡もこの時期のやや規模の大きな集落遺跡である。」

(続く)

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◻️5『岡山の今昔』弥生時代の吉備社会の構造

2021-04-05 19:10:14 | Weblog
5『岡山の今昔』弥生時代の吉備社会の構造

 吉備の社会が弥生時代を迎えるまでをざっと振り返ろう。そもそも、このあたりの生活の最初は、最終氷期が終わり、間氷期が始まった頃であろうか、一説には、約1万3000年BP(西暦にして今や世界暦2000年を基準、すなわち0(ゼロ)BP(Before  Present)とする表記。これは、考古学や地質学の用語で、2000年を「現在」とする年代測定の単位。放射性同位元素や地層などによる測定法をいい、「2000 years BP」のように略語のBPを後置するのが習わし)から始まったのではないかと見られているようだ。
 そのあたりを、旧石器時代(約1万5000年BP~約1万3000年BP)とそれ以降の新石器時代(地質学の文献に、この時代は取り上げられていない場合が見られる)及び縄文時代(約1万3000年BP~約3000年BP)との境界と考える向きもあろう。なお、北海道と沖縄では、縄文時代からの年代の定義が相当に異なることになっている。

 おそらくは、縄文時代の初期位までに、このあたり、例えば、大まかに北(日本海側)からと西(瀬戸内海側)からの渡来ルートのうち、前者の道、笠岡・倉敷・岡山・児島、下津井辺りの平野までやって来た人々の中には、そのまま東へ向かわずにこの当たりに住み着くか、それとも高梁川(たかはしがわ)、旭川、吉井川の3本の河川を伝って北上したグループがいたとみられる。

 ちなみに、この列島に最初の人々が到来したのは、約3万8千年前ともされている。かりにそうであれば、このあたりにもほどなくやって来ていたのではないか。ちなみに、国立科学博物館の見解(2016)によると、人類がこの列島に渡ったの道筋としては、第一に北海道ルート(2万5千年前頃)、第二に対馬からのルート(3万8千年前頃)、第三に沖縄ルート(3万年前頃)が考えられるとのこと。なお、同館では、「クラウトファンティング」の助けを借りて、三番目のルートで実証を試みているという。

 そして迎えた弥生時代(約3000年BP~1800BP)、こちらへ進出した人々が定住し、そこで本格的な農耕を行うことでの弥生時代の到来の初期には、人々はどのようにして暮らしていたのだろうか。例えば、この地方においては、定住の拠り所となっていた遺跡は瀬戸内に面した平野を中心に散在していて、いずれも小規模なものの寄り合わせであったのであろうか。
 そんな彼らの活動の規定的要因となっていたであろう社会のあり方につについては、ここで文化人類学者のジャレド-ダイヤモンド(「銃・病原菌・鉄ー1万3000年にわたる人類史の謎」)によりたい。彼によると、人間社会は、最初の「小規模血縁集団(バンド)」から「部族社会(トライブ)」、「首長制社会(チーフダム)」、そして「国家(ステイト)」へと発展してきた。
 このカテゴリー分類でいうと、私たちが今問題にしている、本格的農耕以前の社会というのは、「部族社会」か、精々首長制社会までの範囲のものであったのではないだろうか。それというのも、首長の統治する社会では、人々は村落数が一つもしきは複数集まっての定住生活を営んでいた。その社会の基本的関係とは、階級化された地域集団にして、大局的な意思決定は集権的・世襲的なものであったもの、官僚組織はまだないか、あっても精々一つか二つ位であったのではないか。

(続く)

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◻️171の14『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤田秀斎、佐伯義門、佐藤善一郎)

2021-04-03 22:02:55 | Weblog
171の14『岡山の今昔』岡山人(19~20世紀、藤田秀斎、佐伯義門、佐藤善一郎)

 藤田秀斎(ふじたしゅうさい、1822~1878)は、下道郡(吉備郡)総社の薬種業者にして、和算家である。いつの頃からか、算数を勉強する。やがて、小野光右衛門宅に通うようになる。新しい環境が得られて、算法ばかりでなく、和算全般を精力的に学ぶようになっていく。

 そのうちに、小野の学統を継ぐだけの実力を養うに至ったようで、たとえば、1858(安政5)年の日付で岡山市の吉備津神社に奉納された算額がある。の桧製画面の大きさは、縦46.3センチメートル、横178.8センチメートルだ。前文は小野以正(おのゆきまさ)こと小野光右衛門が記し、藤田秀斎(小野の門人)ら4人が解答を寄せている。

 そんな藤田秀斎を佐伯義門(さえきぎもん、1831~1911)らが引き継ぐ。その佐伯は、小田郡里山田村矢掛村の庄屋の出身だ。早くに、総社の藤田の塾に入り、算法測量にいそしむ。青年となっては、京都に行き、福田理軒に天文や暦を学ぶ。さらに、阪谷朗盧の開いた興譲館で漢文を学ぶという用意周到さであった。維新後は、矢掛村(現在の小田郡矢掛町)に住み、師の藤田秀斎とともに小田県に出仕し、地籍測量に携わる。(追って、追記)

 さらに、その系統はさらに佐藤善一郎 (さとうぜんいちろう、1841~1902)へと引き継がれていく。その佐藤は、後月郡井原村(現在の井原市井原町)の生まれ。やがて、前述の矢掛村(現在の小田郡矢掛町)の佐伯義門(さえきぎもん、1881~1911)に、和算(算法測量)を学ぶ。
 その後の佐藤は、佐伯の師の藤田秀斎(ふじたしゅうさい)について小田県庁に入る。

 地租改正の元になる準備作業として、地番ごとの評価を割り出さねぱならない。ここで、山陽道・四国・播磨・山陰地方を歩いて、それぞれの地での地籍測量に携わる。

 関連して、佐藤小夜女 (さとうさよめ、1874~1889)は、佐藤の一人娘であり、父から和算を学び、才能を開花させた。
 たとえば、福知山市下夜久野額田の妙龍寺に、複雑な図形が描かれた一枚の額が残されている。これは算額といい、和算家が難解な数学の問題もしくはその解答を添えて社寺へと奉納したものである。こうした算額は全国各地にみられ、近世に和算が関孝和らにより大成した後の文化文政期に最盛期を迎えた。
 しかして、この妙龍寺に残されている算額は、1887年(明治20年)4月に板生村中川安太郎の追善として、佐藤善一郎により奉納された。これに記されている問題は全部で4問であり、その中に後月郡井原(現在の井原市)の「佐藤小夜女」の名がある。いわく、佐藤の娘(戸籍名はいま)とのことであり、当時は13歳にも満たないながら、近隣の村らしき男性たちとともに出題者に名を連ねている。
 ところが、16歳で、父の赴任先の京都で亡くなる。さらに紹介すると、刺繍図案帳を遺しているほか、父とともに算額を足次山神社に奉納した算額が残っている。

 愛娘が亡くなってからの佐藤は、幾らか気落ちしたのかもしれない。役人をやめて、郷里の井原に戻る。郷里で算盤や俳諧を教えていたという。他に、楽しみということであろうか、「一竹」という雅号をもって絵を描いていたようで、妙龍寺には蟹と蓮の掛け軸が残っているという。


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 太田直太郎(おおたなおたろう、1798~1829)は大坂に遊学して、武田流算学家元の武田無量斎真元に和算を学ぶ。この流派は、近畿以西に勢力をもっていたという。
 その武田から算術に関わる「秘術」の伝授される機会を得て、滞在50日でその奥義を極めたというから、秀才に違いない。帰郷後も、研鑽を積んで、算術図説数十条を作る。
 太田の没後、岡山市の吉備津神社と倉敷市玉島の羽黒神社に掲げたという。「新撰浪華武田流諸国算者見方角力」に関脇、また「諸国算者高名鑑」にも頭取として名を連ねている。武田流の兄弟弟子に倉敷の内藤真矩がいて、内藤が太田に産題の依頼をしている文章が残っていることから、交流が続いていたことがわかっている。


(続く)


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♦️新361の1『自然と人間の歴史・世界篇』アインシュタインの相対性理論の二つの仮説

2021-04-01 22:00:03 | Weblog
361の1『自然と人間の歴史・世界篇』アインシュタインの相対性理論の二つの仮説

 自然がどのように成り立っているかを見るには、現代では、アインシュタイン(1879~1955)が唱えた相対性理論の理解を避けては通れない。その元々の前提については、二つの仮説が立てられていて、最初のものは次のようなものだ。

 「たがいに平行に、速度一定の直線運動をしている慣性系、すなわち外部から力が働いていない座標系を考える。そのような慣性系に対して、物理法則は同一の形式で表される。」

 「電気力学の現象は力学の現象と同様に、絶対静止という考えを立証するような性質を持っていないように見える。むしろこれらの事実から、力学の方程式が成り立つ全ての座標系に対して、電気力学や光学の法則がいつも同じ形で成り立つと考えられる。このことは、小さな物理量の1次の近似については既に立証ずみのことである。
 このような推測を第一の要請とみなして、相対性原理と呼ぶことにする。」(A.Einstein「Zur Elektrodynamik bewegter Korper」、日本語訳は湯川秀樹監修「動いている物体の電気力学」「アインシュタイン選集1」共立出版)


 もう一つの仮定は、こうした慣性系との関係として、光の速度を考え、次のようにいう。

 「さらに次のような第二の要請をつけ加えよう。
 光は常に真空中を一定の速さcで伝搬し、この速さは光源の運動の状態には無関係である。
 これは、ちょっと考えると、第一の要請とは矛盾するように見えるかもしれない。しかしこれら二つの要請は、静止物体に対するマックスウェルの理論にもとづいて、運動物体の電気力学を簡単にかつ一貫して建設するためには充分である。」(A.Einstein「Zur Elektrodynamik bewegter Korper」、日本語訳は湯川秀樹監修「動いている物体の電気力学」「アインシュタイン選集1」共立出版)

 そこで本題に入ると、まず出てくるのが、「ローレンツ変換」という原理である。これを見つけたのは1904年のローレンツ(1853~1928、そもそも彼は電磁現象を表現するための式としてこれを導いていた)らなのだが、アインシュタインはこれを自身の理論を構築する際の媒介項として、改めて措定する。

 そこでこの場合でのローレンツ変換の大まかな内容だが、光速度に近い速さで動く物体の運動を二つの慣性系から記述するときの、二つの慣性系間の座標変換のことだ。アインシュタインが発見した特殊相対性理論において用いられる。

 その特殊相対性理論の側からの導出の解説では、相互の間で力が働かない物体が等速度運動するようにみえる座標系、つまり慣性系を考えて、説明を行うことが多いようだ。その二つの系の名前を、慣性系 Sおよび S′といい、空間の中での座標 x,y,z,および x',y',z' は、座標軸が平行で,この座標系S′は 座標系Sに対して、その x軸の正の方向(図に表した場合は右側)に一定の速度 vで運動していると仮定してから、話を進めている。
 しかし、ここでは話を簡単にするための数式上の操作として、矢野健太郎氏の著作「数学への招待」(新潮文庫)を導きとさせていただき、相対性理論の中でローレンツ変換が大方どのように導かれるかを紹介したい(なお、以下では、同文中の系O、同O′はS、同Sと言い替えて、引用を進めさせていただこう)。

 「すなわち、いま一つの直線上に点Sを原点とする座標系を考えて、それを慣性系とします。この直線上の一点Pの位置はこの座標系に関する座標系に関する座標xで表されます。

 いまこの座標系Sに対して、その原点 S′が一定の速度vで運動している慣性系S′を考えます。点Pの位置は、この新しい慣性系に対して、それに対応する座標xで表されます。


 さてわれわれは、同じ点Pの二つの慣性系に関する座標xとx′との関係を求めてみましょう。


 いま、S′は、慣性系Sでの時間が0のときに点Sと重なっていたものとすれば、S′の慣性系Sに関する座標は、vtで与えられます。

 ところが、 S′Oの慣性系 S′に関する座標はもちろん0です。したがってxとx′との関係は一次式で与えられると仮定すれば、aを定数として、x=a(x-vt)....(1)とおくことができます。


 ここで慣性系Sと慣性系 S′の立場をかえて、点Sが慣性系 S′に対して一定の速度-vで運動しているのであると考えれば、xとx′との関係は、相対性原理によって、xとx′を交換し、vを-vにかえるだけで、(1)とまったく同じ式で与えられるはずですから、x=a(x′+vt′)....(2)となります。ただしここにt′は、慣性系SとS′が重なっていたときから測りはじめたS′に関する時間であるとします。

 さて、ここまでは相対性原理だけを使ってきましたが、ここで光速不変の原理を使います。すなわち、点Sと点S′とが重なっていた瞬間にここで光の信号を発し、それが慣性系Sに関してはt′という時間後に、慣性系S′に関してはt′という時間後にPに到達したとしますと、SS′x=ct、x′=ct′


 ここにcは、光の速度であって、どちらの慣性系に対しても同じ値をもっているはずです。こ!らをそれぞれ(1)(2)に入れますと、
ct′=a(c-v)t、ct=a(c+v)t′」(矢野健太郎「数学への招待」新潮文庫、1977)


 続けて、こうある。

 「したがってこれらを掛け合わせて、
c2=a2(c2-v2)←「2」とは、「2乗」といい、この例でいうと、その前のcを2回掛け合わせること、つまりc×(かける)cを示す。(中略)

 したがってけっきょく、x、tとt′との関係を与える式として

x′=(x-vt)/(1-v2/c2)1/2
t′=(-v/(c2)x+t)/(1-v2/c2)1/2
(引用者から、本来、式の表示とされているのは、立体的なものだが、この紙面では簡略化させていただいた)

(中略)
が得られます。
(中略)

 なお、これらの式には分母に
(1-v2/c2)1/2
という項が現れていますが、負の数の平方根は考えられませんし、分母が0ということも考えられませんから、
(1-v2/c2)1/2>0
でなければなりません。すなわち、
-c<v<c
でなければなりません。すなわち相対性理論では、光の速度より早い速度で運動する慣性系は考えられません。
また、v2/c2とv/c2を無視することができますから、ローレンツ変換は
x′=x-vt
t=t′
x=x′=x′+vt′
t=t′となって、ガリレオ変換と一致します。」(矢野健太郎「数学への招待」新潮文庫、1977)



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「六、長さの収縮と時計の遅延

 つぎに、このローレンツ変換を用いて導かれる、相対性理論の有名な結論を二、三述べてみましょう。
 いま、慣性系S′に対して静止している長さl′のその両端A、Bの、慣性系S′に関する座標をそれぞれx1′、x2′とすれば、
l′=x2′-x1′です。つぎに、この慣性系S′は他の慣性系Sに関して一定の速度vで運動しているとします。このとき、慣性系Sに関してこの棒の長さlを計算してみましょう。

 ここで注意しなければならないことは、この棒は慣性系Sに対して運動しているのてすから、その両端A、Bの慣性系Sに関する座標x1、x2を測って、l=x2-x1とするとき、これらの慣性系Sの時計で同時刻tに測らねばいけないということです。そうしますと、ローレンツ変換の式から、

x1′=(x-vt)/(1-v2/c2)1/2、x2′=(x-vt)/(1-v2/c2)1/2
ですから、
x2′-x2′=(x2-x1)/(1-v2/c2)1/2
したがって、
l=[ (1-v2/c2)1/2 ]l′
となります。
この式は、慣性系S′に対して静止している長さl′の棒を、慣性系S′
に対して速度-vで運動している慣性系Sから観測すれば、その長さが
l=[ (1-v2/c2)1/2 ]
倍に収縮して見えることを意味しています。

 したがってvの絶対値が大きければ大きいほど、この収縮の度合は大きいわけです。この現象をわれわれはローレンツ収縮と呼んでいます。


 つぎに、慣性系Sの原点にある時計の示す時刻をt、慣性系S′の原点にある時計の示す時刻をt′としましょう。これらの、両方が0という時刻を示すときに、点Sと点S′とは重なっていたのです。そこでローレンツ変換の最後の式で、x′を0とおいてみますと、
t=(t′/(1-v2/c2)1/2
が得られます。
これは慣性系S′の時計がt′という時刻を示しているときに、慣性系Sの時計はすでに、
t=[ (t′/(1-v2/c2)1/2]>t′
という時刻を示しているということを意味しています。
 これを逆に言いますと、慣性系Sから、それに対して運動しつつある慣性系S′上にある時計を見れば、それは次第に遅れていくように見えるということを意味しています。
 これを時計の遅延の現象と言います。」(矢野健太郎「数学への招待」新潮文庫、1977)


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「七、速度合成の法則

x′=(x-vt)/(1-v2/c2)1/2
t′=(-v/(c2)x+t)/(1-v2/c2)1/2
いま慣性系がS′′が慣性系S′に対して速度v′で運動しているとすれば、その間のローレンツ変換は、
x′′=(x′-v′t)/(1-v′2/c2)1/2
t′′=(-v′/(c2)x′+t′)/(1-v′2/c2)1/2
で与えられます。
 このとき、慣性系S′′とS′との間のローレンツ変換を見出すために、前者を後者に代入して計算をしますと、
v′′=(v+v′)/(1+vv′/c2)
とおいて、
x′′=(x′-v′′t)/(1-v′′2/c2)1/2
t′′=(-v′′/(c2)x+t)/(1-v′′2/c2)1/2
が得られます。
 この式は、慣性系S′がS′に対して速度vで運動し、慣性系S′′がS′に対して速度v′で運動していれば、慣性系S′′は、慣性系S′に対して、このv′で与えられる速度で運動していることを示しています。
 すなわちこの式は、相対性理論における速度合成を表わす式になっています。
 いま、vもv′も正で、もちろんcより小さいとしますと、すなわち、
0<v<c′
0<v′<c
としますと、
c-v′′=[c(c-v)(c-v′)]/(c2+vv′)>0
したがって、
0<v′′<c
てす。これはc以下の速度をいくら加えてもcを超さないことを示しています。」(矢野健太郎「数学への招待」新潮文庫、1977)


 かくて、このローレンツ変換と呼ばれる交換式は、ローレンツがローレンツ収縮を導いた際に、具体的には電磁現象を表現するためのマクスウエルの方程式を不変にする変換として用いたものと同じ形であるものの、ここでの用いられ方のもっとも著しい特徴は、アインシュタイン以前のような(それは(座標の「ガリレオ変換」と呼ばれる)、時間とはあらゆる座標系に共通な流れであり、どんな座標変換を行っても絶対不変に保たれるもの、すなわちt′=tであると暗黙のうちに仮定されていたのとは異なり、空間と時間(xとt)とが互いに移り変わることである。


(続く)

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◻️171の12『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、谷東平)

2021-04-01 15:12:18 | Weblog
171の12『岡山の今昔』岡山人(18~19世紀、谷東平)

 谷東平(たにとうへい、1774~1824)は、小田郡大江村(現在の井原市大江町)の庄屋の家に生まれる。
 幼少の頃、大江村の松岡常入(まつおかじょうにゅう)に測量術を学ぶ。そのうちに自分は将来何をやりたいのかに目覚めたのかもしれない。

 「備中国の和算の流れは大きく分けると、幕府直轄領の多い山陽道沿いの農村の有力者子弟に流伝した関流宅間流の算法計数地理測量を主とする流れと、倉敷玉島などの商業海運問屋業者に流伝した武田流の算法計数および実用そろばん術を特徴とする流れの二つに分けられる。前者が農村在住の豪商庄屋の出身者であるのに対し、南部はすべて問屋商家出身者であるのは面白い対比の妙といえる。」(岸加四郎「備中の和算家と算学」、雑誌「和算」第22号、日本数学史学会近畿支部による発行、1978年7月31日発行)
 なお、ここで広義の和算というのは、「①算法計数(狭義の和算)②天文歴法③地理測量④実用そろばん術」を含んでいる。

 やがて、大坂へ出て、和算を松岡龍一(まつおかりゅういち)に、暦学を麻田剛立(あさだごうりゅう)に学ぶ。
 大江村では庄屋をつとめながら私塾「龍岡舎」(りゅうこうしゃ)を開き、和算、暦学などを教える。
 特筆すべきは、伊能忠敬の全国測量に従事し、備中備後から蝦夷地まで赴く。

(続く)

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