ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

敗戦国民の焼き印――「浮雲」―成瀬巳喜男監督作品から

2009年01月17日 | 文化・芸術

敗戦国民の焼き印――「浮雲」―成瀬巳喜男監督作品から

もう1月も半ばを過ぎて、お正月気分ももうどこかへ消えかかっているが、お正月休みの時、テレビ番組も低俗でマンネリ化していてつまらないので、久しぶりにDVDで今は亡き成瀬巳喜男監督の「浮雲」という古い作品を取り出して見た。

浮雲
http://www.geocities.jp/yurikoariki/ukigumo.html

主演女優は高峰秀子、男優は森雅之である。こうした一昔前の俳優は今の人にはすでに忘れられて知らない人も多いかもしれない。成瀬巳喜男の監督した作品は芸術として事実を淡々と描写して行くだけで、社会批判や理屈をとくに大上段に振り上げているわけではない。しかし、この「浮雲」のなかで高峰秀子さんが演じていた「ゆき子」も、太平洋戦争の日本の敗戦の過程でみずからの運命を大きく変えられ、薄幸のうちに亡くなった一人の無名の女性だった。現代国家の運命は女性や子供も含めて国民ひとりひとりの運命に直結している。

映画の発端となる舞台は太平洋戦争で、日本軍が仏領インドネシアに進駐するに従って農林省の技官であった富岡(森雅之)も日本から出張してくる。その時に事務所にタイピストとして働きに来ていたのが、ゆき子(高峰秀子)だった。そこでふたりは知り合うが、富岡は現地に単身で赴任してきており、日本に妻を残していた。だから、ふたりの関係はいわば不倫の関係であった。そして当時のすべての日本人がそうであったように、敗戦によってふたりの運命は暗転する。

映画「浮雲」の批評そのものはまた別の機会に語りたいと思うけれども、要するに、主人公の「ゆき子」は、空襲によって荒廃した日本に終戦にともなって帰国したものの、すでに妻のいた富岡との復縁もかなうことはなく、それでとうとう食い詰めてオンリー(進駐軍兵士専門の娼婦)に身を落としてしまう。敗戦後も間もなく流行した「星の流れに」という歌の中にも、「こんな女に誰がした」という歌詞があったが、主人公ゆき子のような境遇の事例は数多くあったのだと思う。実際にも多くの日本人女性が戦争花嫁としてアメリカなどに渡っていった。ゆき子のつらく悲しい生涯に戦後の日本が象徴されている。

日本の敗戦によって威信や信用を失ったのは、だれよりも旧大日本帝国軍の軍人たちだった。実際どのような国においても、敗戦国の軍人や男性が信頼や価値を失うのはやむをえないといえる。とくに戦前の日本はかならずしも民主化が十分に進んでおらず、封建時代の名残もあって軍隊には階級意識や権威主義、事大主義が濃厚で、偉ぶっていた軍人も事実として多かった。だから、敗戦をきっかけに旧日本国軍や軍人たちが国民の信用を大きく失うことになったのもやむをえない面があったといえる。

それに輪を掛けたのがGHQなどの占領軍の手によって行われた占領政策だった。日本をアメリカに二度と対抗できない国にするための戦後教育を受けて育った女性たちには、旧日本国軍人についてとりわけ悪印象を植え付けられている。彼女たちの多くが兵士について抱いているイメージと言えば、売春宿の入口で眼の色かえて「順番待ち」をしている脂ぎって汚れた兵士たちの顔であったり、二等兵をいじめている醜い顔の軍曹であったりする。

こうした軍人観がとくに戦後の日本女性の多くの中に戦後教育や映画などを通じて刷り込まれているために、軍隊や軍人たちに対して、さらにはそこから父や兄弟など男性そのものに対して尊敬心など持てなくなってしまっている場合が多いのではないだろうか。少なくとも潜在意識の中ではその傾向にあるといえる。とくに法政大学教授の田島陽子女史や東京大学の上野千鶴子教授など教育を受けたインテリ女性ににその傾向が顕著に見られるように思える。

しかし、国家と国民の身体、生命、財産の安全を、みずからの命を呈して守ろうとする軍隊や軍人に対して尊敬の念を持てないでいる国民は不幸で哀れだ。アメリカやイギリスなど、かって大きな敗戦をこうむったことのない国民の間では軍隊や軍人ははるかに尊敬されているし憧れられてもいる。日本の自衛隊のように、たんに占領時代に制定された憲法上ばかりでなく、これほどに多くの国民から白眼視されている「軍隊」の存在も他国には例を見ないだろうと思う。

映画「浮雲」の女性主人公ゆき子に象徴されているように、戦争では多くの女性が薄幸の運命を担わされた。満州からの避難民や広島、長崎の原爆、東京大空襲のような悲惨な体験をした日本の女性の多くに軍隊や軍人に対する嫌悪や忌避の傾向の強いのも仕方がないと思う。また、戦後の日本の教育をになった教師などに共産主義者も多かったから、彼らは自分たちの階級史観から戦前の旧大日本国帝国軍隊や軍人を全否定する教育を行ってきた。

その教育宣伝による意識形成の典型が先の田島陽子女史やノーベル賞作家の大江健三郎氏なのだと思う。彼らの軍隊観、軍人観には肯定的な要素はまったく見られない。自国の軍隊や軍人の道義性に対する信頼やその意義についての認識が完全に失われているのである。しかし、このような国が日本以外にあるのだろうかと思う。占領統治が終わって戦後60数年も経った現在もなお軍人、軍隊に対するコンプレックスを克服しえていない現状には、日本国民の資質に、とくに主体的な民主化能力に欠陥があるというしかない。そのコンプレックスは今なお、茶髪や一重まぶたの整形手術にも現れている。

評論家の櫻井よし子さんは、戦後の女性の変化に触れ、次のように述べておられる。
「手本となる先人に思いを馳せその学びを新しい年に生かしたい」
http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2009/01/03/


>>
「戦後の日本でいちばん大きく深刻に変わったのが女性ではないかと、私は感じている。家庭のあり方が妻や母たる女性の価値観や姿勢で決定づけられるように、戦後の日本社会の変化は、男性よりも、女性によってなおいっそう促されたと思う。だからこそ、かつて世界の人びとを感嘆させた日本人と日本社会のすばらしさの原点が、控えめながらも芯の強い、公の意識を持った女性たちであった面を思い起こし、その実例を知ってほしいのだ。」
>>


女性解放が声高に叫ばれる現代においても、とくに「女性解放」の遅れていると言われる日本では、確かに女性はいまだ社会の表面では表だって目立つ存在でないかもしれない。しかし、社会のあり方を決める上で女性の存在のあり方が決定的に重要であることは、「女性解放」などという安っぽいスローガンが叫ばれる以前に、封建時代と言われる江戸時代においても現代においても変わりがない。

とくにわたしたちの話すことばが母語とも言われるように、人は誰でも、まず母親から感化されるのである。民族の文化はとくに母親を通じて受け継がれてゆく。ユダヤ人社会でも、母親がユダヤ人であれば子供もユダヤ人になる。父親がユダヤ人であるだけではユダヤ人とは見なされないのである。

だから、母親の受け継いでいる伝統文化や倫理が歪められ損ねられた民族は崩壊してゆくだけである。もし明治期に優れた人物を多く輩出したとするなら、その背景には彼らを生み育てた明治の立派な母親たちの存在を抜きにしては考えられない。その母親たちは、たしかに田島女史や上野女史のように社会的にも有名にもならず歴史に名も残さずひっそりと消えていったかもしれない。しかし、その誰にも知られない生涯の価値は決して見過ごされてよいものではない。女性はその国家、民族の気質、伝統を守り育てる母胎である。

だから、ある国家、民族を崩壊させようと思えば、その女性の気質を破壊すればいいのである。そのために田島陽子女史のようなもっとも亡国的なウマシカ女性を無数に作り出せばよいのである。

さらに、日本の軍隊や軍人に対する忌避や軽べつの感情の根源には、日本の敗戦のために、日本軍人による過失や戦争犯罪を、日本軍自身の手による軍法会議などによって自律的に裁く機会を持ち得なかったということもある。日本の敗戦のために、日本の将兵たちの過失や戦争犯罪を旧日本国軍みずからの軍法会議で裁くことができず、それらをすべてこの戦争の勝者である連合国占領軍の手にゆだねざるをえなかった。

そのために軍人政治家から参謀本部の指導者、末端の将兵にいたるまで、日本軍人の過失や戦争犯罪を日本の軍法会議や司法の権限で裁きにかけることができなかった。そのことも、日本軍人に対する国民の信用をさらに大きく失墜させることになった。

日本軍兵士たちが戦争の混乱にまぎれて非戦闘員である女性や子供たちに対して犯した戦争犯罪や軍規違反、またインパール作戦のなどの戦略上の重大過失を、日本軍の軍法会議や一般司法裁判所で自律的に糾弾し処断することができていれば、もう少しは日本軍人たちの名誉も信用も権威も保つことができたかもしれない。

敗戦によって一切の権威と権力を失っていた旧日本軍には、みずからの軍法会議と司法によって、戦争の混乱のどさくさにまぎれて行われた日本軍の将兵たちの戦争犯罪を、旧日本軍自身がみずからの手で主体的に厳しく断罪することはできなかった。

もし旧日本国軍がそれだけの自浄能力を備えていれば、後世幾世代にもわたって同じ日本国民から、とくに日本女性たち自身から、彼女たちの祖父や父や兄弟に当たる旧日本国軍人に対する、あることないこと一切合切の軽べつの罵詈雑言その他の言辞を投げつけられるような哀れな状況を避けることができたかもしれない。

 

 

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民主党の党首選挙(2)

2008年07月19日 | 文化・芸術

もちろん、何も狂信的に何が何でも「党首選」を実行せよ、と言うのではない。
民主党の幹部が、直嶋正行政調会長が主張するように、本当に圧倒的な多数の支持を獲得できるリーダーで、その能力の評価において衆目の一致するところであれば、対抗馬がなく無投票で選出されると言うこともあり得るだろう。しかし、現在の小沢一郎氏は「民主党」のリーダーとして、真実の民主主義者であるといえるのか。そして、現在の民主党には小沢氏の民主主義者としての体質に異議を唱える論者は一人もいないのか。小沢氏に対抗して真実の民主主義者がどういう者であるのか、日本国民に範を示すために立とうという 覇気のある政治家は民主党の中に誰もいないのか。

現在の小沢民主党党首は、かっては自由民主党の幹事長として、自民党総裁選に出馬表明していた宮沢喜一、渡辺美智雄氏らを事務所に呼んで総裁選の実質的な権限を握るほどに、若くして権勢を振るっていた。小沢氏は故田中角栄氏の弟子もしくは申し子として政治家として成長したのである。その後、自民党を離党したが、また、イギリス議会に倣って国会に党首討論を取り入れたり、また濡れ手に粟のような現在の政党助成金制度の導入に能力を発揮し貢献したのも、この小沢一郎氏だった。

確かに小沢一郎氏は、青臭い書生派国会議員の多い現在の民主党の中では、かっての田中角栄氏を師として仰ぎその薫陶を受け、また大衆の機微をわきまえたいわゆる角栄流に日本的に有能な政治家ではあるだろう。だからこそ管直人氏や鳩山由紀夫氏らの支持を得るとともに、同じ民主党内の前原誠司氏らからは批判を受けている。

民主党と対抗する自民党においては、たとえレトリックであるとしても小泉純一郎氏が、「自民党をぶっ潰す」というキャッチフレーズで登場し、郵政解散総選挙で、事実上自民党内のいわゆる「抵抗勢力」を排除して、曲がりなりも自民党内の道路族をはじめとする党内の利権構造にメスを入れようとした。たとえそれが中途半端に挫折に終わったとしても、自民党は旧来の利権政治家集団から脱して、国民政党に脱皮しようという片鱗は見えていた。それゆえにこそ当時は自民党も国民の一定の支持も集めたのである。そして、政策的にも心情的にも、民主党の前原誠司氏などは、氏の日常の言動から見ても、いわゆるこの「小泉改革」に共感するところが少なくないはずである。

それに対して、現在の民主党の党首小沢氏は郵政解散総選挙で自民党を離党した国民党の綿貫氏らと会談し、「郵政民営化を正すためにも政権交代を実現したい」と選挙協力を確認しあっている。そうした郵政民営化をご破算にする動きや農業の個別所得補償や子育て支援などの「バラマキ政治」に故田中角栄氏の旧自由民主党政治を髣髴させるものがある。だから、いわば前原誠司氏などの政治的な立場からすれば、民主党にあって小沢一郎氏は、故田中角栄氏の旧い自由民主党の政治体質を復元しようとしているようにさえ見えるにちがいない。

さらにまた、かっての戦後間もなくの自民党のボス政治家たちのように、小沢一郎氏がいわゆる「料亭政治家」の体質を抜けきっていないことがある。これは政策以前の政治家の体質の問題で、小さなことであるともいえるが、日本の政党政治は、酒席をはずしたところで、アルコールや酒と無縁のところで運営される必要がある。江戸期の大名や明治の元勲たちのように酒席に女を侍らして天下国家を語るような政治文化の名残から日本の政治は足を洗わなければならない。こうした点も小沢一郎氏が「新しい」民主党のリーダーとしてふさわしいか懸念する点である。

一方で、民主党内にあって小沢一郎氏に対抗する政治家として前原誠司氏らが取りざたされることが多い。この前原誠司氏について少し論及するなら、かって氏が民主党の代表の地位にあったときに、いわゆる「偽メール事件」で永田議員が辞職したときの前原代表の対応に見られたように、何よりも前原氏は戦後民主主義の申し子ともいえる。それゆえ前原誠司氏には戦後民主主義を歴史的に相対化する観点も能力もない。この点では、中途で哀れにも挫折したとは言え、少なくとも「戦後政治体制の脱却」をスローガンに掲げた安倍晋三前首相にすら及ばない。

「戦後日本の民主主義」を日本史や世界史の通史の中に、また、人類の全歴史から見たときに、どのように評価され位置づけられるかという、自己相対化の視点や能力が前原誠司氏にはほとんど欠けている。自己の生きる国土と時代を客観的に把握し相対化できないものには、その時代と国民の限界を克服することはできないのである。

何度も言うように、要は国民全体の民主主義における能力の問題である。民主主義が歴史的にその出自がプロテスタントキリスト教にあるのに、この根本的な事実さえも明確に自覚されていない。

だから、いくら民主党が分裂したからといって、そのことが直ちに真実の「民主主義政党」の誕生にはつながらない。最終的には「人」であり「人材」である。真の民主主義を能力として実行、実現できる人材なくして、いくら看板だけを新しく掛け替えても、その中身は旧態依然のままである。

比較的にも少なくとも国民が全体として真実の民主主義を体現できるようになるためには、その前提としてまず優れた思想家、指導者、哲学者たちによって国民に対して、真実の「民主主義の概念」が明らかにされていなければならない。

続いてその「正しい民主主義の概念」を学んだ教育者、政治家たちが、10年、20年、さらに半世紀、100年と倦まず弛まず国民に対して教育活動を行った成果として、大地に雨垂れが染みこむように、正しい民主主義の精神と方法が国民性や文化の一部としてようやく血肉となってゆくものである。

期待したいのは、現在の小沢民主党が真実の「民主主義政党」に変身して行くことである。しかし、これも砂漠に蜃気楼を見るようなものか。

 

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理論と実践

2008年05月21日 | 文化・芸術

このブログの記事の中には、いくつかの独自の見解が含まれていると思う。とくにヘーゲルの概念論については、マルクスや「唯物論者」たちなどによって浅薄に誤解された概念観を訂正して、ヘーゲル自身のありのままの概念観を把握しようとつとめた。私の知る限りでは、これまで日本の大学教授や哲学者の中にも、まだ誰も私の示したような概念観を展開した者はいないように思う。

もちろん、それもまだ極めて未熟で内容も不十分であることはわかっているけれども、根本においてはこれまで誰も示さなかった独自の新しい解釈を示しているとは思う。この「概念」についての研究の充実と深化は引き続きこれからの課題でもある。

政治理論の面でも、自由主義者の集結する自由党と民主主義の思想に生きようとする者の集結する民主党によって、理念実行実現型政治に転換することを主張しているのも独自の見解だと思う。自由党と民主党による政権交代可能な政党政治については誰もが着想しそうなことだが、それを明確に定式化して主張した者はいなかったのではないだろうか。考え方や原理は単純であるけれども、それを理念として自覚し実行してゆく意識と能力をもった政治家が出て来ないだけだ。また世界と日本の歴史的な方向としてはそれしかないと思う。

そして、自由と民主主義の理念を深化させながら、人類は少しずつ自己を解放してゆく歴史になるのだと思う。

19世紀、人々は共産主義革命に、未来の明るい生活の展望を見いだそうとした。しかし、人類の解放を目指したこの運動も一世紀も経たぬうちに完全に挫折する。その後をうけて、フランシス・フクヤマの『歴史の終焉』という本も出たが、人類の将来は、自由と民主主義を模索しながら、その方向に進んで行くと思われる。理念としての自由と民主主義の必然性の解明が課題である。とくに、民主主義の否定的な限界こそ明らかにする必要がある。民主主義をただに「信仰」することなく。「信仰」にはすべからく注意深くあらねばならない。

 

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男系天皇制か女系天皇制か──皇室典範に関する有識者会議をめぐる議論

2005年12月06日 | 文化・芸術
 

皇室典範に関する有識者会議での答申が小泉首相に提出され、そこでの結論が、女性天皇と女系天皇を肯定したものであったことから、天皇制の伝統を破壊するものであるといった批判的な意見が出て来ている。それと同時に、一方で、男女同権の現代の時代の趨勢に合致して賛成だといった意見に至るまで、さまざまな議論が出ているようである。


しかし、天皇制についての本質的な、理性的な、あるいは同じことであるが哲学的な論証に基づく議論はあまり多くないように思われる。


天皇制の問題の考察には、国家の概念が前提になるし、それを前提にしない議論は、必然性の証明や論証のない軽佻浮薄なものにならざるを得ないと思う。


国家の本質からいえば、君主制は必然的に出てくるものであるし、また、そうであるなら君主の本質からいってもっとも妥当であるのは、男系による天皇制以外にはありえないということになるだろう。ここでは、その具体的な論証をおこなう余裕はないが、国家にとって君主制が必然的であるとするならば、その君主は必然的に男系でなければならないのである。君主制の本来の概念とはそういうものである。日本の歴史がそれを実証してきた。それは、哲学的に論理的に絶対的であって、それ以外にありえないものである。それは国家の概念から必然的に出てくるものであるから。


だから、男系は「男女同権」の現代思想に合致しないからとか、皇室の安定性を図るためには、長子や女子の継承が認められなければなければならないといった議論は、すべて本末転倒した本質を見ない議論であると言わざるを得ない。

天皇制の議論の本質は、国家の秩序の問題から論じる必要があり、この秩序が国民の福祉に絶対的に不可欠なものであるという要請からくるものである。だから、この観点を外した、皇室典範に関する議論は誤ったものにならざるを得ないと思う。

今回の有識者会議の議論は、やはり拙速に過ぎると思う。議論の内容は、少数意見か多数意見かといった数量的に「民主的」に決せられるべき事柄ではなく、その判断が真理であるかどうか、その判断の質だけが問題にされるべきものであるから。もっと時間をかけて、そして有識者の選抜そのものにも、もっと議論を深めるべきであると思う。

 

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改革のテーマ──テレビ局の改革(1)

2005年10月27日 | 文化・芸術
 

 

郵政民営化総選挙で国民の支持を得て小泉自民党が圧勝したことで、改革路線は定着しつつあるといえる。また、野党の民主党の党首に前原誠司氏が就任して、互いに改革を競い合うことによって、改革路線が定着しつつあるのは喜ばしいことである。政治においては前進か停滞かがあるのみで、前進がなければ停滞であって、自転車と同じように改革し前進してこそ国家社会の安定も保たれる。時代の変化に応じて常に改革されてゆくべきものであると思う。

 

いわゆる抵抗勢力が勝利して、政治の主導権を確保していれば、日本社会は停滞と後退とを余儀なくされ、国家的な損失はどれほど大きく、社会もどれほど息苦しいものになっていただろう。
とはいえ、改革についてはいまだ端緒についたばかりであると思う。また、一応の改革の姿勢がとりあえず定着しつつある現在、これからは改革の内容と効率が問われてくると思う。

 

郵政民営化や道路公団の改革も、国民の要求からは遠く、きわめて妥協的な産物となった。一体誰と妥協したのか。そもそも民主主義の国家社会においては、国民全体の意思が政治に実現されるだけの話で、本来、国民的な意思の実現においては、そもそも妥協などありえないのである。妥協があるというのは、抵抗する勢力が力を持っているということであって、こうした現実の存在することが意味するのは、国民全体の意思が実現されないと言う、半民主主義あるいは反民主主義の国家の現実を証明していること以外ではない。

 

犯罪人や政治家や大金持ちや公務員やその他の国民の特権的な一部ではなく、大多数の平均的な「普通の」国民が可能な限りもっとも幸福に生きることのできるようにすることが民主主義の理念と言ってよい。この点からいえば、まだ多くの点で日本国は真の民主主義国家となりえていない。多くの点で障害となっている問題が多い。

 

たとえば銀行の金利の問題などもある。経済の回復という大義のもとに、ほとんどゼロ%に近い預金金利を国民は余儀なくされているが、これはいわば合法的な略奪行為ともいうべきもので、それは普通一般国民の財産である預貯金が収奪されている状況なのである。経済状況が健全化すれば直ちに適正な金利水準に回復されるべきものである。

 

また圧倒的な大多数の庶民の小口預金などから構成される郵便貯金なども、その資産残高などは、もっと平均的な国民や中小企業の産業と福祉に役立てられるべきものである。戦後復興時においては産業基盤の確立のために資金運営部資金として国家経済のために特定産業に優先的に運用されることもやむ得なかったかも知れない。しかし、今日ではもっと中小企業や一般国民の産業や福祉を融資対象として運用されてしかるべき資金である。しかし、そうなってはいないために、中小企業や一般国民は高金利の融資に泣かされることになっている。今後の政治的な課題として銀行や金融の民主化なども課題としてゆくべきだろう。

 

その他にも、医療改革、弁護士制度や裁判制度など法曹関係の改革(裁判員制度など司法制度はいくらか改革されたが)、地方自治体制度や教育制度なども憲法改正と同時に根本から改革される必要のある多くの分野があると思う。

 

また、切実な問題としてマスメディアの改革という課題もある。今日ではメディアとしては新聞、ラジオ、テレビ、それらにさらにインターネットを加えるべきかも知れないが、とりあえず、新聞、ラジオ、テレビの改革も大きな国民的なテーマであると思う。インターネットなどは使い方次第で、大手の新聞が商業上の営業上の理由で伝えられない真実も明らかにし伝えられる可能性をもっている。もちろん、インターネットの現状は、ゴミの投げ合い、阿鼻叫喚のエール、オス猫とメス猫との喚きあいに近いものになってしまっている例も少なくないとしても。インターネットを健全なメディアに育ててゆくのも国民の課題であると思う。

 

特に問題にしたいのはテレビ局である。NHKの不祥事が取り沙汰され、今も受信料不払いなどに尾を引いているが、テレビ放送の腐敗と堕落の問題は何もNHKだけではないと思う。ただ、NHKには国民が受信料を払っているだけに国民の権利意識も強く直ちに問題化したが、その他の民営テレビ放送も、ただ受信料は払ってはいないものの、限られた周波数を優先的に割り当てられ、特権的に放映権を獲得していると言う点で、その公共性はNHKと何ら変わるものではない。国民もまた、NHKのみならずテレビ放送一般の公共性をもっと自覚し、その番組内容の質的な向上のために、もっと積極的に発言し行動してゆくべきであると思う。

 

最近、韓国ドラマがNHKでもよく放送されているが、もちろん、そのこと自体は否定されることでもないが、問題は、NHKの番組製作能力が低下し、NHKの手による優れた質的な内容のあるドラマが放映されなくなったということを問題にしたいのである。私たちは韓国ドラマを見るために受信料を支払っているのではない。NHKも優れたテレビ番組を製作して、もっと外貨を稼ぎ出すくらいの自覚と自主的な努力が必要である。このことは、民間放送にも言える。民間だからと言って、きわめて公共的なメディアを使いながら、国民の総白痴化を促進するだけしか意味のないような番組を垂れ流すことが許されているわけではない。

 

テレビ放送は、現在総務省の管轄下にあると思うが、独占的な放映権のために、優れた番組の製作において競争原理の働いていないことも、番組の質的低下に拍車をかけているのではないか。国民文化に大きな影響を与えるテレビ放送において、もっと楽しく本当の意味で面白い番組を見ることができないのかと思う。テレビドラマの韓流ブームも、テレビ局に対する国民の欲求不満の現われに他ならないと思う。

 

テレビ局のチャンネル開放も含めて、番組放送の質的向上のために、また、番組製作における国際競争力の強化のために、どのような改革が必要であるか、現在の放送制度について調べながら、引き続き考察してゆきたいと思う。また一般国民をふくめて、テレビ文化や国民文化の向上に関心をもつ方々の議論も期待したい。

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