愛国心とは、国民一人一人の個人にとって、家族や社会が、共同体や国家、民族が、要するに「国」が、自分たちの心と身体の拠りどころであり、大切な目的であると考えるような心のあり方である。何も、大げさに旗を振ったり、ことさらにがなりたてたりすることではない。そして、愛国心には本当の自由があるが、戦後日本の浅薄に理解され誤解された「自由と民主主義」は、個人と民族や国家との有機的な連関を切断してしまった。
この愛国心は、法律家や政治家が作成した一篇の法律から、生まれたり作られたりするものなどではない。この国に新しく生まれ来る子供たちが、周りの家族や社会や民族や国家(制度)によって、大切に守られ愛され育まれていることを実感することによって、自然に生まれてくるものである。国民の間に相互扶助の精神が浸透することによって生まれてくる。
この愛国心が、たった一編の法律によって生まれ育つことはないし、まして強制して作ることのできるものではないことはいうまでもないことである。
現代日本人の愛国心の欠乏は、何も現行の教育基本法の欠陥によるものではない。政治家、公務員(官僚)、法律家、教師、宗教家など国民に対して指導的な地位にある者たちに、本当に同胞と国を愛する心が、愛国心がないからである。子供たちに「愛国心」を教育するなどというおこがましいことを考える前に、音頭を取る者たち自らがまず自分の胸に手を当てて見るべき問題だろう。
どこかの小学校で、通信簿の中に「愛国心」について評価する項目を設けていたらしいが、言うも愚かな行為である。自由の価値と人間の尊厳がどこにあるかを教師が全く理解していないことの証左である。これが現代の日本国民の現状なのだろうか。学校教育がこれほど普及し、そこで多くの知識や技術は教えられているが、教師たち自身に自由の価値が本当には理解されていないのである。残念ながら、これが戦後六十年たったわが国の民主主義の水準なのかも知れない。
この事実に見るように、まだ国民自身が自分たちの思想・信条等についての「自由の保証」に自信がもてない。漠然とした不安がある。だから、与党の改正案が示すように「愛国心を育てる」と言い切ることができない。そして「国を愛する態度を養う」などという笑うべき記述を、基本法の中に書き込んで恥じることもない。心や精神を養わずして、どうして「態度」が培われるのか。それとも「改正」教育基本法は偽善者を造るための法律か。いずれも国民の間に十分に「自由」を尊重する意識が確立しておらず、浸透もしていないからこういうことになる。
「愛国心を養う」といったことを、教育基本法に書き込んでも何の意味がないと思うが、仮に、百歩譲って、そうした文言を入れたとしても、愛国心を持たない人間が存在するのはやむをえない。善と悪を自由に選択する能力を持つのが人間である。善であれ悪であれ、その選択は完全に個人の自由に任せなければならない。人間はただその選択の結果に対してだけ責任を負うようにすべきなのである。通知簿で子供や生徒たちの愛国心の度合いを、一体誰がどのようにして測定するというのか。そんなことをすれば、教師に対するゴマすりか、面従腹背の偽善的な子供をせいぜい作るだけである。
たとい、教育基本法の中に、「愛国心を養う」という文言が入れられたとしても、愛国心のあり方については完全に個人の自由に任せるべきものである。仮に「愛国心」を持たない者が存在してもそれはしかたがない。思想や信条、信仰についてと同じように、そのあり方については一切の強制からは自由でなければならない。こうしたことは成熟した自由の意識を持つ国民にとっては自明のことである。
この自由についての自覚が国民の間に自明のものになっていないために、「国を愛する態度を養う」という偽善者を育成することを目的とするような条文を入れなくてはならなくなる。精神を、心を、内面を養わないで、どうして態度が養われるというのか。
北朝鮮に拉致された同胞を、自らの命を賭してでも、戦争という手段を用いても、取り返し解放しようと決意するのでもなく、また、年間に三万人に及ぶ同胞の自殺者の問題の解決に真剣に取り組むこともなく、また大衆の預金者にゼロ金利を強制しておきながら、その同胞から、三割を超える高金利と暴力的な取り立てを放置する国民自身の同情心のなさが、愛国心の欠乏をもたらすのである。「情けは他人のためならず」という。自業自得である。何億円もの賄賂を取って正義を損ない、自分と一部の特権層の利益のために、国民全体のための政策を歪める役人や政治家たちが、子供たちや国民から愛国心を干からびさせるのだ。