国家の基礎としての聖書
これまでの論考でも、イスラエルやアメリカについてはその国家の基礎にキリスト教、もしくは聖書のあることについていくどか触れてきた。しかし、聖書やキリスト教を基礎としている国家は、アメリカやイスラエルの二カ国だけに留まるものではない。イギリスもスイスもデンマークもドイツもフランスもフィンランドなども、キリスト教や聖書の倫理を基礎としている。聖書の上に国家を築いている。ヨーロッパ諸国はそのほとんどはキリスト教国家である。
宗教を基礎にもたない国家はない。中国や北朝鮮などのように無神論という「宗教」の上に成立した国家もある。そして、国民生活の質は宗教によって規定される。だから劣悪な宗教の上に立つ国家と国民は不幸である。
たしかに日本では歴史的に伝統的にいまだ国民の圧倒的大多数は聖書やキリスト教とは無縁なところで暮らしている。伝統的な仏教や儒教、神道などの文化の現状からいっても、日本国の基礎が聖書にあるとかキリスト教にあるなど言うことはとうていできない。
日本は黒船ペリー提督がアメリカから来航して国を開いて以来も、和魂洋才を叫んで科学技術文明と精神文明を切り離し、実利的な国民性からも科学技術だけは手に入れても、キリスト教の流入は防ごうとした。しかし、伊藤博文らが制定の労をとった大日本帝国憲法も西洋キリスト教国の立憲君主制にその範をとったもので、すでに立憲君主制自体に西欧諸国の歴史的な由来がある。そして、西洋諸国の歴史からキリスト教を切り離すことはできない。現代においては世界のどの国も聖書とキリスト教の上に立つ西洋文明の影響からまぬかれることはできないのである。
たしかに仏教や儒教を倫理的な基礎としてきた日本には、論語や法華経などのような経典があった。しかし、西洋キリスト教国のように国民の書としての聖書やキリスト教のような日常的で体系的な倫理体系をもっているとは言えなかった。そのために、いわゆる文明開化後の日本において、国民道徳のみだれに直面した山県有朋たち明治政府の指導者たちは、西洋諸国の聖書のような国民道徳の規範ともすべく、教育勅語を儒学者で東大教授の井上哲治郎などに起草させ、それを天皇の権威において公布した。
教育勅語自体は普遍的な一般道徳を述べたもので、神道などの特定宗教に偏ったものではなかった。けれども、かならずしも十分に民主主義的ではない明治政府によって公布されたため、太平洋戦争時に国家主義を助長することになった。そして日本の敗戦後にGHQの占領政策によって失効することになる。
国民に道徳規範を人為的に国家権力の手によって強制することはできない。実際はむしろ逆で、国家が宗教によってその権威と正当性を獲得するものである。国家によって制定された道徳規範は、その国家の崩壊とともに権威と信用を失う。戦後の日本のように敗戦によって道徳の規範である教育勅語が失効してからは、国民は倫理的な価値基準を失って道徳的にもあてどもなく漂流し、その精神的な空白をカルトや新興宗教その他で代用し埋めようとする。
古来あらゆる戦争が民族と宗教の間に生じたように、太平洋戦争もまた宗教観をめぐる戦争でもあった。そして、日本の敗北の結果によって制定せられた日本国憲法には、その思想的な背景も大きく変わることになる。すでに伊藤博文の起草になる大日本帝国憲法そのものも「立憲君主制」というイギリスやプロシアのキリスト教諸国の歴史的産物に範を取ることによって、キリスト教の影響を間接的に受けていたが、戦後の日本国憲法にはその人権や個人の尊厳などの規定において、アメリカ・プロテスタンティズムの思想がより直接的に反映することになる。
だから、ある意味ではすでに日本国憲法の下にある現代日本も、思想的には聖書やキリスト教を基礎としていると言うことはできるが、ただそれが国民的な自覚の上には立っていないという現実がある。
戦後六〇余年をへてもなおそうした現状にあるとしても、事柄の必然性からいっても、いずれ日本国も国家としての基礎を聖書に求めるようになるのは、おそらく時間の問題だと思う。もちろん時間といっても、主なる神の眼には千年も一日のごとしという時間の単位の上での話である。いずれ日本国も国家の土台に聖書を据える時が来る。あるいはすでに来ている。聖書が日本国民の「国民的書物」となる日も近いのではないだろうか。毎冬繰り広げられるクリスマスのお祭り騒ぎもそれを証明している。