ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

三浦容疑者逮捕 ロス市警会見――正義と国民性

2008年02月27日 | ニュース・現実評論

三浦容疑者逮捕 ロス市警会見 けむに巻く「新証拠」(産経新聞) - goo ニュース

米元捜査官「事件は解決していない」

「ロス疑惑」として騒がれてから、もう25年からになる。1881年にロサンゼルス市内で当時28歳だった妻の一美さんを銃で殺害するように誰かに委託した容疑とかで、ずいぶん社会を騒がせたことがあった。そして今回それと同じ容疑で、元雑貨輸入販売会社社長の三浦和義容疑者がサイパン島で再び逮捕されたという。(この島では多くの日本人軍民が命を失っている。)この三浦容疑者については少し前にどこかのコンビニで何かの万引きして逮捕されていたことがニュースにもなっていたが、すでに関心もなかった。最高裁で無罪判決を受けたことも記憶からほとんどなくなっていたくらいである。

殺人容疑者の本国で、しかも最高裁判所が無罪を言い渡しているのであるから、普通であれば、事件に幕が引かれても当然だった。しかし、ロサンゼルスの警察署には、殺人事件として立件できる可能性をあきらめなかった刑事がいたのだろう。こんなことにも、アメリカのもう一つの顔を見ることが出来る思う。少し持ち上げた言い方をすれば、国民として平均的に正義の観念が強いのだ。聖書国民はそれだけ善悪の悟性判断が強いのだと思う。アメリカでの聖書研究の隆盛を見るがいい。細木数子さんがもてはやされる国とはやはり違う。

日本などからよく銃規制の甘さなどで批判されることも多いアメリカではあるけれども、反面から見れば、それはアメリカ国民の自由と独立への指向の強さを証明していると言える。何事も一面だけを見ては正しい判断は下せない。たとえどんなに銃所有の弊害が大きくとも、そのことで海外からどんなに批判されようとも、自由と独立は銃で守られなければならないと信じているアメリカ国民は銃を捨てることはないだろう。

とくに我が国のように、安土桃山の時代から太閤秀吉によって、武器が武士以外の農民などの民衆からすべて召し上げられた国はアメリカとは対局にある。信長、秀吉の後の400年続いた封建時代の恐怖政治のもとで、民衆の間にはすっかり自由と独立の精神が失われて、事大主義の国民性に変質していったのとは対をなしている。朝鮮や中国など東洋諸国においては、絶対君主の強大な権力の前にして、民衆は自由と独立の精神を育てることが出来なかった。またそこに、国民のイデオロギーとしての宗教の差異もある。

それにしてもアメリカには殺人事件のような凶悪事件には時効がないらしい。あらためて法制のちがいに気づかされる。そして、それと同時に、日本においても、殺人事件などの凶悪犯罪については、時効をなくしたらどうかと思った。凶悪犯罪については、犯人を追及することの出来る条件があるかぎり、追求してゆくことである。日本国憲法を改正する際には当然に刑法の関連する条項も変えなければならないだろうから、そのときには、我が国も殺人犯などの凶悪犯罪については時効をなくすべきではないだろうか。

日本人の犯罪行為について、アメリカの司法当局の追求を受けているのは、何も殺人事件だけではない。日本は「人身売買」でもアメリカ政府から批判を受けている。(2007年人身売買報告書) 日本政府はこうした批判に正当にきちんと反論できるのか。日本の政治家や国会議員は、アメリカの批判が正しいのか誤っているのか、 きちんと検証して、問題があるのなら怠けず仕事をして、率先して国内の犯罪行為にも法の網をきちんとかけて取り締まるようにしてゆくべきだ。

 

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ピタゴラス派の教育論

2008年02月21日 | 教育・文化

ピタゴラス派の教育論

古代ギリシャの昔も極東の現代日本も、親が子供の教育のことで、頭を悩ますのは同じなのかもしれない。昔のギリシャで、かってある父親がピタゴラス派の一人の学徒に、どうすれば自分の息子にもっともよい教育を授けることが出来るかと訊ねたそうである。その問いに対して、彼は「良く統治された国家の市民にすることだ」と答えたそうだ。

今の日本が良く統治された国家であるかどうかは今は問わない。ただとにかく、現代の教育においては、個人は家族の中で育てられないのみならず、また、地域社会の中で育てられるということが忘れられているだけでなく、さらに祖国の中とか、国家の中で育てられるという意識もまったく失われてしまっている。戦前の日本国民は、たとえそれが建前であったとしても、天皇陛下のため、お国のために生きていた。しかし今、「グローバリゼーション」の嵐の吹き荒れる中で、かっての時代の寵児ホリエモンさんのように、祖国とか国家という言葉が死語になった人たちであふれている。

あの太平洋戦争の敗北が日本国民の国家意識に深いトラウマとなって残っている。国家というものは悪なるもの、国民を抑圧するもの、国民を引っ立てて死に追いやるものとしてとらえられている。だから、国家が正義の執行機関であり、神の意志の代理機関であるという意識など国民には毛頭ない。

そこには国家観の根本的な倒錯があると思う。たしかに、その倒錯には根拠がないわけではない。しかし、日本国民の精神の奥深くに刻み込まれているこの国家に対するトラウマは癒される必要がある。このことは、いまだ真実に自由で民主的な「自分たちの」政府や国家を、日本国民が自力で形成できていないという事実と無関係ではない。それが市民革命と呼ばれるものであるのだろうけれど。

はたして、どちらの国家観が国民を幸福にするか。少なくとも「民主主義国」を自称するのであれば、国民は、自らの意志と行動で、国家を正義の執行代理人として自覚できるまで、みずから努力して形成してゆく必要がある。

そのためには、まず国民が自分たちの倫理意識を高めて、悪しき政治家、利己的で無能力な政治家、公務員たちを国家と政府の舞台から追放してゆくことだ。そして、日本国が、たとえ極東の小国であるとしても、真実に「自由」で「民主的」な祖国となって「良く統治された国家」となるとき、はじめて国民は正義の国家の中に生きているという実感を自らのものにできる。そこで初めて個人は家族の中で育てられ、そして、市民社会の中で、次いで祖国という国家の中で育てられて、真実に自由な国民の規律の許に置かれることになる。そのときにこそ古代ギリシャのピタゴラス派の無名の一学徒の教育論も真実になるのだろう。

 

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国家の選択――マルクス主義か、ヘーゲル主義か

2008年02月20日 | 政治・経済

この二十一世紀の時代に生きる私たちの世界を見回して見ると、とくに、世界に存在する国家の姿を見ると、国家の形というものもそれほどに多くあるわけではないことがわかる。いくつかの形態に集約されているといえる。

その代表的なものがアメリカに見るような「大統領制民主主義国」である。共和主義国家といってよい。フランスやドイツなどはこれに準じる国である。

また、中華人民共和国のような「人民民主主義国」がある。これも民主主義の特殊な形態とも言えるが、かっての共産主義国に見られる国家形態である。1989年のベルリン壁の崩壊以後は東欧をはじめとして、この国家体制は世界的な規模で崩壊していった。そして今では北朝鮮やキューバ、中国などいくつかの国にその形をとどめているだけである。

そして、今ひとつの国家形態としてはイギリスに典型的に見られるような「立憲君主国」がある。その多くは北欧諸国に見られ、デンマークやスェーデン、ノールウェイなどの国がそうである。わが国も一応、「立憲君主国」と言われている。

これらの国家形態にイスラム教色の加わったイスラム共和国などがあるが、現代国家の基本的な国家形態は、この三つに分類できるといえる。ただ、そこに軍事独裁国家なども含まれるが、人類の歴史の大局的な流れから言えばそれは例外的で特殊なものである。

この三つの国家体制に共通して言えることは、それらがいずれも民主主義の具体化された特殊な形態であることだ。いずれも近代現代の進展に応じて形成されてきた歴史的な産物でもある。

そして民主主義の出現でもっとも象徴的な世界史的事件がフランス革命であって、この政治的事件は思想が政治革命を主導した点においても画期的なものだった。

こうした人類の歴史を大局的に見れば、それは民主主義の発展の歴史ともいえ、哲学者のカントなどはそれを洞察して自由の実現こそが人類の歴史の目的であるととらえることになった。ヘーゲルもそれを受けて、自由を理念としてとらえなおした。たしかに世界史を観察してみればそうした哲学者の認識も承認できる。

民主主義や自由の理念は以上のように、実際にも三つの特殊的な国家形態として具体化されているといえる。そして、カントの後を受けてその歴史の進展を、一つの必然として論証しようとした哲学者にヘーゲルとマルクスがいる。その歴史的進展の論理を明らかにしようとしたものが前者にあっては『法哲学』であり、後者においては『資本論』だった。

そして、ヘーゲルが『法哲学』において「立憲君主国家」こそが近代の理念であることを論証したのに対して、マルクスは『資本論』においてプロレタリアートの独裁の必然性を論証しようと試みた。だから、世界史の現代はなお、この二人の哲学者の論証の正否の承認をめぐる闘争の舞台であるともいえる。そして、ヘーゲルの真理観からいえば、概念に一致した存在こそが真理であり、真理のみが歴史のなかにつらぬかれることになる。二十世紀の現実の世界史は、人民民主主義の崩壊で幕をおろすことになったが、共和国と立憲君主国は存続している。それはなによりも人民民主主義国家が国家の概念に一致しなかったからではないか。

ベルリンの壁が崩壊したあと東欧諸国に見られたような社会主義国のドミノ倒しの要因について、計画経済がその効率性において市場主義経済に敗北したことに求める論調が多かった。たしかにそれも一つの理由であるには違いない。しかし、もっと根元的な要因としては、やはり、自由の問題を見なければならないと思う。カントがその人類史の考察で結論づけたように、自由は歴史の目的である。にも関わらず、人民民主主義国は立憲君主国以上の自由を実現することが出来なかったからである。マルクス主義の人民民主主義国では、市民の自由に意義を認めず、それを否定的にのみとらえたために、人民民主主義国家は国家としてそれを真に止揚することが出来なかったからである。

だから現代においてもなお、いやむしろ人民民主主義国家の限界の見えている現代だからこそ、あらためて家族、市民社会、国家の論理を明らかにしたヘーゲル主義は生きかえる。ヘーゲルの国家のみが市民社会を正しく止揚するものだからである。
マルクス主義かヘーゲル主義か、その選択の問いは今も生きている。

 

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西澤潤一氏の教育論(3)

2008年02月09日 | 教育・文化

たしかに、西澤氏が論じられているように、南原繁氏や彼を継承した矢内原忠雄氏を総長に戴いたこの東大法学部は、その後丸山眞男氏やその後の奥平康弘氏や樋口陽一氏らに代表される「進歩的文化人」民主主義者たちの「神なき民主主義」と「国家論なき民主主義」の本拠地となった。しかしその民主主義論の主張は、国民の野放図な欲望の解放とともに、国家意識なき国民の「ユダヤ化」の一つの原因ともなった。(東大法学部出身の「官僚」たちの国家意識を見よ。)

これらの問題は奥平康弘氏らの現行「日本国憲法」擁護論とも関係するが、今はここでは論じることはできない。もちろん、半導体の理学者である西澤潤一氏にはこれ以上の論考を期待できないのだろうけれども、東大法学部の民主主義論者に対して直感的に氏自身なりの見識を示されているのだと思う。

西澤氏が指摘するように、このような「進歩的文化人」たちは理想主義者であり人類愛論者であるかもしれない。ただそこに問題があるとすれば、その理想に対する夢想のゆえに、冷厳な国際政治の現実や人間の本性が見えなくなっていることである。その結果として、国際政治の中で日本国のとるべき進路を冷厳に判断できない。理想と現実を峻別できないでいる。この点でより現実的な判断をもっているのは、むしろ、西尾幹二氏や櫻井よしこ氏らのいわゆる「保守派」の人たちではないだろうか。最近になってかっての「進歩的文化人」たちの言論の世論における後退と衰微はやむを得ないのではないだろうか。もちろん、それをもって日本国の「右傾化」を危惧する人々には今も事欠かない。

しかし、いずれにせよ、この産経新聞の「正論」の論客の中で、教育改革の問題を論じた識者の中に、国家意識の回復と倫理道徳の根幹としての「民主主義教育」を取り上げたものは誰もいない。それほどに多くの日本国民にとって、戦前の日本の「国家主義」のその帰結と「戦後民主主義」の醜悪な現実とその実態にこりごりと言うことなのかもしれない。

しかし、事実として日本社会の「正常化」を――それは、西澤氏があげられているように、国家の防衛を他国任せにするとか、拉致問題を解決する意志も能力もない主権国家としてのゆがみであるが、――実現するためには、真実の民主主義を、いわば、イギリス・プロテスタンティズムに起源をもつ「古い民主主義」に国家の倫理道徳の教育的根拠を求める以外にないと思う。

それにもかかわらず、今日の教育改革の論議で、識者と呼ばれる人たちがそのことに誰も触れることがないのは、それだけ日本国民の民主主義に対する問題意識のなさやその自覚の水準を示すことになっているのではないだろうか。

この「正論」の識者たちが主張する徳育教育や道徳の教科化と、私の主張する道徳の時間における「民主主義教育の徹底」と異なる大きな点は、民主主義教育では、国民各個人の内心の価値観にはまず足を踏み入れないことである。それらは各個人の良心の自由に任せる。民主主義教育ではそういった内容の問題には立ち入らない。しかし、家庭や学校や企業やさらには国家などに規定されるルールについては徹底的に厳守させる。民主主義教育とは、いわばそうした社会的なルールを厳格に守らせるための形式を充実させることである。そしてさらに今に必要なことは、国民の自由の権利を保障し、その実現のために必要不可欠な国家についての自覚を、兵役の義務に代表されるような普遍的な義務意識を民主主義教育を介して回復してゆくことである。こうした根本の問題の解決なくして、教育問題や年金問題といった特殊な問題についても解決の糸口を見出すのはなかなか困難なのではなかろうか。

 

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西澤潤一氏の教育論(2)

2008年02月08日 | 教育・文化

すべての社会改革について言えることは、「破壊はたやすく創造は難しい」ということである。アナーキストやフェミニストたちは、家制度の破壊には成功したかもしれないが、それに代わる、より高い国民倫理の形成には失敗したと言える。そもそも、彼らにはそうした新しい創造への意欲はなく、破壊のみを欲したと言えなくもない。そうした破壊的改革論者の多くはその「改革」の結果に責任を感じない。

この論考で西澤氏が主張されるように、戦後から今日にいたる日本社会の混迷と分裂のその多くは、先の第二次世界大戦の日本の敗北に起因している。それほど先の戦争の敗北は、民族にとって大きな痛手となったということである。

歴史にイフは不可能であるとしても、もしあの戦争がなかったらと考えればどうか。それなりに落ち着いた「品位ある社会」であり続けたのではないだろうか。たしかに、もしあの戦争がなければ、果たしてこれだけ大きな国家的な変革は実現していただろうか。その意味でも、戦後の民主化は、日本国民の主体的な変革ではなく、「外圧」として上からの与えられた民主化だった。

その第一にして最大の問題は、その結果として国民から国家意識が失われるか、あるいは、それにゆがみをもたらしたということことだろう。それが戦前の反動であるかどうか否かその理由を問わないとしても、事実として国民の間から国家意識は失われてしまっている。

もちろんそれが戦後の日本において正しい国家意識の定着を避けることのいいわけにはならない。というのも国家とは何よりもそこにおいてはじめて国民の意志の概念が実現される場であるからである。国家は国民の特殊的な個人の権利などが普遍的な福祉によって調和させられる唯一の条件であるからである。

この要件を十分に充足しない現在の日本の現状が不完全なものであることはいうまでもなく、その結果としてさまざまな問題が生じているのである。この根本を是正することなくして、さまざまの改革は枝葉末節のそれにとどまるし、実現することはないだろう。

戦前の日本の国家形態が戦後のそれよりもすべて優越していたなどというつもりはない。たしかに、戦前には小作制度に起因する農村の貧困問題も存在したし、女性に参政権もなかった。実際戦争の敗北をきっかけとするのでなければ、それらの問題を日本国民が自力で解決できていたかどうかもわからない。

問題は西澤氏が述べられているように、その戦後の日本社会の改革が、太平洋戦争の敗北を契機としていたように、社会の内在的な発展の結果として行われるのではなく、性急でしかも主体的に行われなかったことである。

たしかに一部の官僚たちの間には、「進歩的な」労働法が準備されていたり―――先の南原繁氏などは内務官僚としてそれに少なからず関与していたのであろうが、また農地改革法の試案が作られたりしていたかもしれない。たとえそうであるとしても、戦後の改革が典型的な「外圧」によって行われたのも事実である。日本社会は外圧によらなければ何事も変わらないのである。明治維新も黒船の来航がきっかけだった。

たしかに明治時代にも自由民権運動はあったし、大正時代にも「大正デモクラシー」と呼ばれるような社会的な運動はあった。だから、戦前の日本社会にも、また伊藤博文たちが起草した戦前の大日本国帝国憲法にもそれなりに民主的な要素は含まれてはいたが、いずれにせよ、こうして戦後行われた戦後の「民主的改革」は日本国民によって自力で主体的に実現されたものではなかった。

戦後のGHQの改革の尻馬に乗ってというか、その機会に乗じてというか、戦後の「民主的」な改革に参画した一人に、西澤潤一氏が指摘されたように南原繁氏らがいた。南原氏が戦後の日本の教育改革にどのように寄与されたのかは、無知不明の私にはよくわからないが、南原繁氏らとともに並んで戦後60年の教育行政の基本となった「教育基本法」を中心になって制定したのは、田中耕太郎氏らであった。

この「教育基本法」は日本の教育問題の元凶のように一部の論者から憎まれたが、戦後60余年にわたって持続したのには、田中耕太郎らがこの教育基本法の制定をはじめとする戦後日本の教育の改革にかけた並々ならぬ執念の賜だった。主観的には彼らは、この教育基本法によって、戦前の日本の国家体制を精算しその弊害を是正しようと試みたのである。たしかにそれは一部実現されたと言える。その結果一部の復古主義者たちから批判を受けることとなった。しかし、たとえ戦後の日本の教育が荒廃しているとしても、それは、決してこの「教育基本法」が根本的な要因ではなかった。

南原繁も田中耕太郎もいずれもキリスト教徒であり、彼ら自身はしっかりとした倫理道徳の精神的な基盤をもっていたと言える。しかし、日本国民全体の観点から言えば、民主化とともに共産主義や社会主義思想が流行するとともに、従来の天皇制の権威は失墜し、学校教育の中からも教育勅語などが失われることになった。

とくに共産主義や社会主義の根底にある全人類的な抽象的な平和主義とマルクス主義の階級国家観の影響もあって、ブルジョア国家性悪説とともに日本国民から急速に国家意識が失われていった。その結果として、日本社会にとって従来の伝統的な倫理道徳教育の基盤がなくなっていったのである。そして、今日に至るまでそれに代わる全国民的な倫理道徳規準としての国家意識が形成されるにいたっていない。国家意識の形成なくしてまた倫理道徳の規準も確立されることはない。その意味では現在の日本社会の混乱と紛糾は理の必然として生じているといえる。

 

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西澤潤一氏の教育論(1)

2008年02月07日 | 教育・文化

先日の産経新聞のコラム欄「正論」に教育問題が取り上げられていた。半導体学者として有名な西澤潤一氏もそこで発言されている。日本では今、OECDの学力調査の結果をきっかけに、学生の学力低下問題などが大きな社会問題になっていることがその背景にある。資源小国の日本では、国民の資質のみが唯一の資源であるから、当然といえるかもしれない。人的資源の枯渇はそのまま国力の衰退に直結するからである。

西沢氏をはじめ多くの論者は徳育の教科への導入や道徳の教科書の採用をそこでも主張しておられるけれども、いずれも問題の根本的な核心をつく解決につながるような提案はなかったように思われる。

まず何よりも、「民主主義」教育を倫理道徳の根幹としてとらえる観点を示されておられる方が誰一人もいなかった。それほど、「戦後民主主義」に対する嫌悪感が強いということかもしれないし、あるいは、日本人における民主主義の水準を証明していることになっているのかもしれない。

もちろん、「民主主義」の確立のみが国民の文化的な問題の解決に役立つのではない。それだけでより完全な国家が形成されるわけではむろんない。西沢氏が述べられているように、ただ倫理道徳のみならず、歴史や芸術に対する素養などが国民の間に深く養われているのでない限り、とうてい「品格ある国民」として有機的な民主国家の完成は期待できない。

また、現在の学校教育上の問題が、その背景にある「資本主義社会」の弊害が学校社会にも降りてきているためであることも自明の事実である。だから、そうした背景にある社会問題の解決なくして学校教育の問題も解決することは難しいといえる。こうした観点からの本質的な問題点の指摘も、西沢氏の論考をはじめ、「正論」上の識者たちの論考中にも見られなかった。これは新聞のコラム欄という制約もあるからやむをえない面もある。

またしばしば教育の大きな問題として現在の受験競争が取りざたされるけれども、もちろん、「受験戦争」そのものが悪いとはもちろん言えない。人間社会に競争はなくならないし、「競争」にも意義があるからである。問題にすべきは「競争」の内容であり、無駄な「競争」を生んでいる公的教育の退廃と劣化である。それこそが教育改革の核心ではないだろうか。その一方で、いまだに残る国民の過度の学歴指向とともに、学校教育に多くの弊害を生む原因となっていることも事実だろう。

そこには国民全体の教育観そのものが問われているといえる。いったん受験に直接に不必要とされるにいたった場合、一人の国民として不可欠な歴史教育や道徳教育も二の次三の次にされてしまうのである。

それはさらには国民性の問題でもある。そこにはモンゴル人種特有の実利主義がさらに奥深い根底に存在しているといえるかもしれない。目先の利害を超越して真理そのものを指向するといった、たとえばインド人に見られるような、実利を度外視した強烈な形而上学への衝動は国民にはみられないのも確かだ。

そうしたさまざまな背景があるとしても、現在の日本がかかえる教育をはじめとする文化的な混乱のもっとも根本的な要因は、どこにあるとみるべきだろうか。

それは現在の日本国民全体に見られる「国家意識の欠落」の傾向とそれと関連する「民主主義教育の不全」に求められると考えている。これが現在の日本の教育問題の核心的な要因であると思われる。したがって、問題解決の方向としては、憲法改正を契機とする日本国民の国家意識の回復と、真実の民主主義の学校教育における徹底である。それによってしか、現在の日本社会が抱える諸問題のより根本的な解決は期待できないのではあるまいか。

「教育基本法」はすでに改正はされたが、単に「教育基本法」をいじくったからといって、現在の学校教育の諸問題の解決にはつながらない。因果関係の認識が間違っているからである。

もちろん現在の教育問題の現状をどのように見るかは、その評価の尺度をどこにおくかで結論も異なるだろうが、はたして現状をどこまで深刻に見るべきか。同じ産経新聞の「正論」でも、先に曾野綾子氏が日本の豊かさに対して皮肉を言われておられる。(【正論】新しい年へ どこまで恵まれれば気が済む 作家・曽野綾子

現実の問題としては、そもそも完璧な教育制度を期待する方が無理であり、六割方の成果を上げていればよしとすべきといえる(それすら過大な要求といえるかもしれない)。だから問題は、相対的にもっとも真理に近い教育制度とは何かであるだろう。

現状を全否定することも間違っていると思う。戦後教育や戦後の民主的改革についても評価すべきは正しく評価すべきである。戦前の教育を全否定して、より劣悪な教育制度を導入することになった戦後の教育改革と同じ間違いを繰り返してはならないだろう。戦後六十余年持続した南原繁氏や田中耕太郎氏らの労作である旧「教育基本法」の意義もきちんと評価すべきだ。持続するにはそれなりの意義があったからである。それを全否定するのも間違いである。

前置きはこれくらいにして、とにかく西澤潤一氏の論考を参考に、教育や文化の問題をもう少し検討してみたい。それによって現在の日本の教育問題を考える材料と見る観点が少しでもひろがれば幸いである。

西澤潤一氏の論考は次のようなものである。

引用

【正論】「教育改革」はどこへ 首都大学東京学長・西澤潤一2008.2.4

□硬直化した哲学は通用せず

 ■南原・丸山流の「理想論」を脱せよ

 ≪責任者の驚きの発言≫

 伊吹文明前文部科学大臣や山崎正和・中教審会長が昨年、相次いで「歴史教育は学校では要らない」とか「道徳教育は教科にはしない」といった発言をし、現在の狂った社会や家庭を生じた戦後教育を改めるために努力を続けてきた人たちを仰天させたことは記憶に新しい。

 その直後本欄にも市村真一先生(京都大学名誉教授)の反論が出て少々安堵(あんど)したものの、今時になっても、このような基本的な、しかも教育の最高責任者ともいうべき方々から対照的意見が出されたことに一驚した。

戦後の教育改革はあまりに急激であったこともあり、難点が出てきた。何よりも大きかったのは国家家族主義から家族主義、さらには利個主義にわたる、「全」から「個」への移動が急激に行われたことである。
 

 戦前の徴兵制はほかの国々でもみられ、特に日本だけということはなかったが、軍国主義が強烈だった。しかしそれが廃止されると一気に、自国の防衛すら米国任せ、ついには隣国から夜間上陸したやからに国民が拉致されるに至っても、国は何もしようとしない。

 国民の大多数はわが身が可愛(かわい)くて危険を冒さず、被害者の家族が立ち上がるまで何もしないという、世界で最も公的な束縛が弱く、それでいて個の主張の強い国になっていた。

 戦後の日本人は低賃金にもかかわらずよく働いた。その結果、高い経済水準が生み出されたが、かつて働くことが好きといわれた国民は、すっかり遊び好きになってしまった。当時は考えられなかった栄養過剰による健康障害者が続出しているというから、驚きである。

 ≪過去を反省し暴走を防ぐ≫

 社会の進歩を拒否することは許されない。しかし、周到な配慮を欠いた「進歩」は進歩を拒否するよりも恐ろしい被害をもたらすことがある。「昔」をよく反省、検討して暴走を予防しなければならない。

 戦後の教育改革のリーダー役をつとめたのは南原繁先生といってよかろうが、曲学阿世と批判されたことでも知られているように、日本の教育は大幅に米国型教育に移行した。天野貞祐先生らの日本文化を残そうという努力もむなしかった。

 最も激しいのは教科科目であった。当時、東大総長の南原先生はキリスト教徒だったこともあって、美濃部亮吉先生や丸山真男先生らと共に人格者としても知られ、率先して改革を実行した。家庭でキリスト教徳育がほどこされた先生方の家庭では改めて学校での日本式徳育の必要もなかったのであろう。

 しかし、それのない一般家庭では信念を失って、徳育はもっぱら学校に任すと考えることになった。さらにこうした教育で社会人になった父兄母姉が教育者側に立つようになるや、学力低下、犯罪が急速に社会に広がり、ひいては国力の低下まで心配される事態となった。

 このまま推移すれば、この傾向はいっそう強まり、拡散して社会崩壊をもたらす懸念すら生まれている。

 ≪「自分のもの」なくては…≫

 このような事態を招来したのが人格者である南原先生の教育改革である。かつて東大・安田講堂で警官隊に火炎瓶を投げていた学生らが籠城(ろうじょう)しながら、南原先生の後継者と目された丸山氏の哲学を読んでいたという記事が新聞に掲載されていたのを、いまさらながら思いだす。

 両哲学とも、人類愛にあふれ、それが若者の心を打ったのだと考えたが、年老いてなお、熱い情熱と共にロマンとして胸に抱きつづけている人も少なくないだろう。しかし、今日でも闘争回避の思想が、現実面で領土問題の解決を妨げたり、拉致問題の解決に打つ手なしといった事態を招いている要因となっていることが少なくない。

 ロシアのイワンの馬鹿は美談であるが現実ではない。他人事に理想論を振り回し、自己の問題になるまで考えを変えないということこそ、人類愛に悖(もと)ることを忘れてはならない。広げれば、理想論を守りつづければ自分自身の生命と生活の保障すら放擲(ほうてき)しなければならないことを覚悟すべきである。

 野中広務先生(元衆院議員)は「今の日本人には自分のものがない」といっておられた。自分の信念や考え方だろうが、どんな状況になっても、自分の信念を曲げない強さと共に、自分の考えを通し得るだけの対応の広さがなければならない。

 このためには、きれいごとだけをつないで、自分の哲学としているだけでは足りない。より練り上げて適用を練習しておく必要がある。日本人が、ものをうのみにして、考えない教育を実施してきた弊害がいま現れている。
(にしざわ じゅんいち)

引用終わり・・・・・・・・・・

まず氏の問題認識でのなかで共感できるとも思われる点を上げておこう。西澤氏は言われる。

まず、第一点は「戦後の教育改革はあまりに急激であったこともあり、難点が出てきた。何よりも大きかったのは国家家族主義から家族主義、さらには利個主義にわたる、「全」から「個」への移動が急激に行われたことである。」

たしかに、西澤氏が主張されるように、かっての日本の教育改革があまりにも性急で大胆であったために、たらいの水と一緒に赤子をも流してしまうように、戦争以前の教育制度がもっていた長所をも捨て去ることになってしまったのではないだろうか。

GHQは占領統治の目的の一つとして「日本国の民主化」をあげていた。その一環として、民法の改正が取り上げられた。そのことはあまり今日では反省や議論の対象にはなっていないが、そこで日本社会の国民生活の根本的な変革につながる改革が行われたのである。とくに家制度の消滅が日本人の倫理道徳意識に大きな影響を与えたことは疑えない。現在の日本人の倫理意識や学校や家庭の教育問題を論じるときに、こうした歴史的な背景を考慮に入れない論議は問題の分析を的確に行っているとはいえない。

日本国憲法の制定とともに、戸主権が廃止され、それに伴なって家制度がなくなった。しかし当時もこの問題をめぐって賛否両論が戦わされていた。法学者の間でも大きく議論が展開された。とくに、我妻栄氏や宮沢俊義氏ら、いわゆる進歩派の学者らは日本の家制度の廃止に積極的ではあったけれど、刑法学者の牧野英一氏らは日本社会の美風を損なうものとして猛烈に反対した。もちろんそれらの改正によって得たものもあれば失ったものもある。そうして、今日私たちが自明のものとしている完全な普通選挙権も、戸主権の消滅と同じように戦後の「民主化」とともに実現したものである。

今日では現行の民法の元での婚姻制度などの事実は歴史的にも自明のものとなっているし、過去の家制度がどういうものであったかも忘れられている。けれども、戦前にブラジルなどに移住した日本人などの間にまだ家制度の気風の余韻が残っているようである。いうまでもなく、この家制度は明治時代の自然主義文学者たちが深刻な問題意識をもって批判的に描いたもので、当時の「進歩派」にとっては、また、女性解放運動家たちにとって、克服すべき改革の対象となっていたものである。

戦後GHQのもとで行われた社会改革の結果、家制度がもっていた日本の伝統的な倫理道徳的な秩序意識もおなじように崩壊してゆくことになった。

従来の日本の家制度は欧米の価値観や倫理観とは明らかに矛盾するものである。――とくに欧米ではキリスト教の倫理道徳が根底にあり、そこでは夫婦単位の家庭観が確立されていたが、そうした背景のない日本においては、戦後の民法改正の結果、教育勅語に代表される倫理道徳の価値観を実質的に担ってきた家制度の解消によって、国民的な倫理基準を日本国民は失うことになった。

 

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櫻井よしこ氏の活動を支持する

2008年02月05日 | 日記・紀行
櫻井よしこ氏が「国家基本問題研究所」(国基研)http://jinf.jp/を設立されたそうです。

(「 私たちはなぜ「国基研」を作ったか 」http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/archives/668)

櫻井よしこ氏については、ご承知のように氏のWEBサイトを当ブログでもブックマークとして登録させていただいています。そのことからもおわかりになるように、評論家やコメンテーターなどが数多く存在する中でも、本ブログの管理人にとっても、櫻井氏は思想的にというか考え方がもっとも近く、共鳴できる方といえます。個々の点に至るまで完全に一致しているとはもちろん言えませんが、それでも基本的な考え方の大枠、問題意識などについて共感できる点は少なくありません。

現在の日本国の問題点について――それは法律、経済、政治、文化、教育その他多岐にわたりますが、要するに、根本的な改革がはかられることなくして事態は打開できないところにまで来ていると思います。

日本が太平洋戦争で連合国に敗北してから現在にいたるまで六十余年を経過しています。ですから現在の日本国民の大部分は、戦後制定された日本国憲法下の日本の社会体制を自明のものとして生きて来たといえます。そのために、現在の日本国民の多くにとっては、今のそれとは異なった社会、経済、政治体制を想像することはなかなか難しいと思います。しかし、それでも櫻井よしこさんのような一部の方は、日本の現状に危機感を持ち、その改革に立ち上がろうとしておられます。

民主主義国家の国民には、一人一人が国家のあり方に切実な関心を持ち、また、その形成に積極的に関与してゆく権利と義務があります。その際に、考え方が同じかそれに近い方々と共同してゆくのは当然のことであると思います。

しかし現状では、残念ながらなかなか直接の行動で協働することはできませんが、こうしたネットでの情報発信では微力ながらも支援できるのでないかと思います。

もちろん、当ブログ管理人もそれなりに置かれた立場から、理想とする方向を追求してゆくつもりで、そのためにも微力ながらも献身してゆくつもりですが、今回櫻井さんが立ち上げたような運動にも、共感できる方がおられれば、できる限り多くの方がいろんな仕方で協力して、国民的な運動として大きな力にしてゆくことではないでしょうか。

確かに「国家基本問題研究所」の役員理事に石原慎太郎氏などが名を連ねています。それにはさまざまな違和感を持つ方も当然におられるだろうと思います。当ブログの管理人にとっても、石原氏などはその考え方や価値観のもっとも異なった方だろうと思いますが、それはそれで、必要に応じて言論で相互に批判しあえばよいことです。

肝心なことは、日本国民の一人一人がそれぞれの国家像を明確にして、その実現に各人のできる形で一人でも参加してゆくことではないでしょうか。

 

※ 

国家基本問題研究所(国基研・JINF)の設立について

私たちは現在の日本に言い知れぬ危機感を抱いております。緊張感と不安定の度を増す国際情勢とは裏腹に、戦後体制から脱却しようという志は揺らぎ、国民の関心はもっぱら当面の問題に偏っているように見受けられます。平成十九年夏の参議院議員選挙では、憲法改正等、国の基本的な問題が置き去りにされ、その結果は国家としての重大な欠陥を露呈するものとなりました。

日本国憲法に象徴される戦後体制はもはや国際社会の変化に対応できず、ようやく憲法改正問題が日程に上がってきました。しかし、敗戦の後遺症はあまりにも深刻で、その克服には、

今なお、時間がかかると思われます。「歴史認識」問題は近隣諸国だけでなく、同盟国の米国との間にも存在します。教育は、学力低下や徳育の喪失もさることながら、その根底となるべき国家意識の欠如こそ重大な問題であります。国防を担う自衛隊は「普通の民主主義国」の軍隊と程遠いのが現状です。

「普通の民主主義国」としての条件を欠落させたまま我が国が現在に至っている原因は、政治家が見識を欠き、官僚機構が常に問題解決を先送りする陋習を変えず、その場凌ぎに終始してきたことにあります。加えて国民の意識にも問題があったものと考えられます。

私たちは、連綿とつづく日本文明を誇りとし、かつ、広い国際的視野に立って、日本の在り方を再考しようとするものです。同時に、国際情勢の大変化に対応するため、社会の各分野で機能不全に陥りつつある日本を再生していきたいと思います。

そこで国家が直面する基本問題を見詰め直そうとの見地から、国家基本問題研究所(国基研・JINF)を設立いたしました。

私たちは、あらゆる点で自由な純民間の研究所として、独立自尊の国家の構築に一役買いたいと念じております。私たちはまた、日本に真のあるべき姿を取り戻し、21世紀の国際社会に大きく貢献したいという気概をもつものであります。

この趣旨に御賛同いただき、御理解をいただければ幸いに存じます。御協力を賜りますようお願い申し上げます。

代表     櫻井よしこ

副代表    田久保忠衛

 

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餃子食中毒事件――悪について

2008年02月03日 | ニュース・現実評論

被害者、食べた直後に倒れる 中国製ギョーザ食中毒(神戸新聞) - goo ニュース

中国で作られた餃子を食べて食中毒を起こしたそうである。現在その原因を調査中とのことであるが、事故や過失で起きた事件ではなさそうである。つまり、誰か特定の個人による故意の行為であるらしい。

このような事件はアダムとカインの人類発生の時点から生じている。これは明らかに善悪の問題でもあり、いうまでもなく人間に特有の問題である。動物は悪を犯さない。ただ人間のみが、善悪を知る人間のみが犯しうる犯罪である。人類にとっていわば永遠の問題であり、個人と社会にとっても、この悪からの救済は切実な問題である。現在の一部の人たちから提起されている死刑廃止問題にも絡んでくる。

マスコミなどではもちろんこうした問題の事件性を取り上げるのみで、こうした事件を宗教的な、あるいは哲学的な観点から取り上げようという問題意識を持つものはほとんどいない。

こうした犯罪の許されるはずのないのはいうまでもないが、しかし、程度の差こそあれ、人間が大小の悪を犯さないことはあり得ない。しかし、同じ状況におかれても、悪を実行する人間とそうでない人間がいる。ここに、自然環境の必然に支配されない人間のみが持つ自由があり、悪を避け善を行う人間の尊厳の根拠もある。精神的に正常な成人のみがその行為の責任を問われる根拠もここにある。動物や子供や狂人はそれゆえ責任を問われることはない。

国家などの大きな単位での共同体においては、こうした悪の発生は自明の前提として、法律や刑法の処罰の対象となるが、小さな共同体、たとえば家族のような人間関係において犯される悪も、もちろん、犯罪として法律や刑法の対象とはならないまでも、それは最終的には国家によって規制されるとしても、それよりも高い善悪の次元である倫理や道徳に違背する悪は日常茶飯事に犯されている。

大は殺人から小は他人に対するののしりに至るまで、こうした善悪の認識とその実行は人間にとっては本質に属する問題であって、その意味で人間は神と悪魔の中間にいる。

だから、国家のような共同体においても、また家族のような小さな共同体においても、未来永劫にこの善悪の問題は必然的に起きるし、避けることはできない。とすれば、人間や社会共同体の進歩というのはそもそも可能であるのか。つまり、人間とその社会から悪をなくしてゆけるのかという問題がある。

それはまた、こうした悪を果たして教育やその他で防ぐことができるのか、悪を認識し実行した人間の犯罪が必然的に引き起こすその社会的、精神的な結果や影響にどのように対処するか、さらにそうした犯罪を犯す人間の精神そのものの問題とも関わってくる。

悪を犯す人間の精神が幸福であるとはいえないだろう。地獄とはこうした悪行を起こす人間の精神状況そのものの質を示す概念であるといえるかもしれない。

悪を選択することによって、その人間の精神状況は一方へ大きく傾くといえる。司法の女神テミスがその手に天秤を下げているのも、そのことと無関係ではないように思われる。もし、救いということが、この精神の天秤が再び平衡を取り戻すことであるとすれば、こうした犯罪を犯すことによって失われた人間の精神の平衡は、いったいどのようにしてその回復は可能だろうか。あるいは、そうした意識さえもなく、未来永劫その平衡は失われたままであるのか。この問題はいうまでもなく、法律や宗教が昔から、とくに後者が切実に関わってきた問題である。

 

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