ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

君が代斉唱拒否再雇用拒否処分取消等請求事件 (2)

2012年01月19日 | 日の丸・君が代問題

 

2本件の間接的制約該当性

本件の起立斉唱行為は,一般的,客観的にみて,卒業式等の式典における慣例上
の儀礼的な所作としての性質を有するものであるが,国旗,国歌への敬意の表明の
要素を含むものであることから,「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義等との
関係で一定の役割を果たしたとする上告人の歴史観等に由来する外部的行動(国
旗,国歌への敬意の表明の拒否)と矛盾抵触し,その歴史観等の核心部分を否定さ
れるものと,あるいは自己が否定する歴史観等を外部に表明する行為と評価される

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ものと受け止められるであろうから,精神的葛藤を生じ,上告人の歴史観等に係る
制約となる面があるところ,社会一般の規範等である本件職務命令は,後にも述べ
るが,特定の歴史観等は前提とせず,いわんやこれを否定するようなことは予定さ
れておらず,一般にそのようにみられるものでもないから,上記の制約は,結果と
しての間接的制約となるものである。また,「日の丸」,「君が代」は賛否が分か
れている問題を含むのであり,学校の卒業式における起立斉唱は本来一律の強制で
なされるべきでなく,したがって起立斉唱してはならないという信条を有している
ということで,その信条の制約ということも考えられる。そうすると,本件職務命
令が憲法に違反するか否かは,これらの間接的制約等を許容し得る程度の必要性及
び合理性が認められるか否かによって定まることとなる。

3必要性及び合理性

(1)まず,本件職務命令の趣旨,目的は,高校生徒が,起立斉唱という国旗,
国歌への敬意の表明の要素を含む行為を契機として,日常の意識の中で自国のこと
に注意を向けるようにすることにあり,そのために,卒業式典という重要な儀式的
行事の機会に指導者たる教員に,いわば率先垂範してこれを行わしめるものといえ
る。けだし,「日の丸」,「君が代」は国旗,国歌であるので(国旗及び国歌に関
する法律。以下「国旗国歌法」という。),それが日本国(以下,適宜,「国」又
は「自国」と称する。)をメッセージしているからである。
制約を許容し得る程度の必要性,合理性の根拠はできれば憲法自体に求められる
ことが望ましいという前述の視座から検討するに,我々は,「平和を愛する諸国民
の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持」(憲法前文)しなければな
らないが,益々国際化が進展している今日こそ,自国の伝統や文化に対して正しい

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理解をした上で,他国を尊重し,柔軟な国際協調の精神を培って国際社会の平和と
発展に寄与することがあるべき姿であろう。教育基本法(平成18年法律第120
号による改正前のもの。以下同じ。)1条は,教育は,「平和的な国家及び社会の
形成者として」の国民育成を期して行わなければならないと規定し,学校教育法18条2号は,小学校教育の目標として,「郷土及び国家の現状について,正しい理
解に導き,進んで国際協調の精神を養うこと」と,同法36条1号及び42条1号
は,それぞれ,中学校教育,高校教育の目標として,小学校,中学校の教育の基礎
の上に,「国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと」,「国家及び社会
の有為な形成者として必要な資質を養うこと」と規定しているところである。実
際,高校生は,やがて,国の主権者としての権利を行使し社会的責務を負う立場に
なるのであり,また,自らの生活や人生を国によって規定されることは避けられな
い。公共の最たるものが国であり,国は何をする存在なのかを知り,国が自分のた
めに何をしてくれるのかを問いかけることも,自分が国のために何をなし得るのか
を問いかけることも,大切なことと思われる。そして,そのためには,自国の歴史
の正と負の両面を虚心坦懐に直視しなければならない。そうすると,職務命令にお
いて,高校生徒に対していわば率先垂範的立場にある教員に日常の意識の中で自国
のことに注意を向ける契機を与える行為を行わしめることは当然のことともいえ
る。他方,国民は普通教育を受けさせる義務(責務)を負うところ(憲法26条2
項),上告人が従事していた高校教育も,その段階の一つである(学校教育法50
条)。そして大切なことは,その義務(責務)を果たすことの前提として,国民
は,教育を受ける権利を基本的人権として保障され(憲法26条1項),法律に定
められた内容において普通教育,専門教育についての高校教育の提供を要求する権

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利を有するものである。そうすると,国民は,日常の意識の中で自国のことに注意
を向ける契機を与える教育について,その提供を受ける権利を有するということが
でき,国はこれに対応してそのような教育の提供をする義務があるともいえるので
あるから,教育関係者がその実践に及ぶことはその観点からしても当然のこととい
える。さらに,都立高校の教諭たる上告人は,公務員として,また,教員として,
「全体の奉仕者」であるところ(憲法15条2項,地方公務員法30条,教育基本
法6条2項),平和的な国家及び社会の形成者として新しい世代を育成し,国民の
教育を受ける権利を実現する上での上記の契機を与えるための教育は,国民全体の
関心事でもあるから,そのような教育を行うことは,全体の奉仕者としての当然の
責務であるともいえる。そうすると,特定の国家観を前提とせず,普通教育の従事
者たる教員に,自国のことに注意を向けるための契機を与えようとする教育を行わ
しめることは,教育を受ける権利や全体の奉仕者という観点においても,憲法上の
要請ということも可能である。

以上のように,本件職務命令は,その趣旨,目的自体において,十分に必要性や
合理性が認められるというべきである。

(2)上記の契機を与えるための教育の手段としては,様々なものがあり得るか
ら,「日の丸」や「君が代」を用いてこれに対して敬意の表明の要素を含む行為を
させることは唯一の選択肢ではないものの,これらは,国旗,国歌として国を象徴
するものであるがゆえに,直截で分かりやすく,これに敬意の表明の要素を含む行
為をすることが,日常の意識の中で自国のことに注意を向ける契機となるものと思
われる。教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の中であれば,他にも様々
な方法が考えられるが,進行上のめり張り,厳粛性,統一性などが要求される卒業
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式などの全校的な統一的集団行事としての儀式的行事において,みるべき代替案あ
るいは拮抗する対案が提唱されていることもうかがわれない。のみならず,自国の
国旗,国歌に敬意の表明の要素を含む行為をすることは,他国の国旗,国歌に対す
る敬意の表明の要素を含む行為を行うことにつながり,他国の国旗,国歌を尊重す
ることは他国を尊重することを含意すると思われるところ,さきに述べたところか
らして他国を尊重するように教育をすることは大切なことである。以上によれば,
本件の卒業式において,「国」のことに注意を向ける契機を与えるための教育の手
段として,「日の丸」や「君が代」を用い,教員をして,いわば率先垂範してこれ
に対する敬意の表明の要素を含む行為をさせることには,必要性及び合理性が認め
られるといえる。

しかして,仮にこの「日の丸」,「君が代」が特定の歴史観等や反憲法的国家像
を前提とするのであれば,本件のような職務命令は,公権力が思想教育ないしは特
定の思想について一定の価値判断を教員に教え込ませようとするものとして許され
ないことになろうが,国旗国歌法上,国旗たる「日の丸」も国歌たる「君が代」
も,特定の歴史観等や反憲法的国家像が前提とされているわけではないから,本件
職務命令はそのような前提には立っていないというべきである。仮に,このような
職務命令によって,実は一定の歴史観等を有する者の思想を抑圧することを狙って
いるというのであるならば,公権力が特定の思想を禁止するものであって,前記の
とおり憲法19条に直接反するものとして許されないことになろうが,本件職務命
令はそのような意図を有しているものとも認められない。

もっとも,「日の丸」,「君が代」については,かねて国民の間に少なからぬ議
論のあるところであり,様々な考え方があるのも現実である。「日の丸」,「君が

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代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人の歴史観等
からすれば,「日の丸」,「君が代」がメッセージしているのは,その過去の
「国」であるということなのであろう。しかし,他方において,それは,負の歴史
をも踏まえた上での現在の「国」,つまり,国民主権主義,基本的人権尊重主義,
平和主義といった基本原理を有する日本国憲法の秩序の下にある国である,あるい
はそのような国であるべきだとの考え方もあり得るところであろう。むしろ,一般
的には,「日の丸」,「君が代」がメッセージしているのは,特定の国家像などが
前提とされていない国であり,したがって,本件におけるような卒業式典における
起立斉唱も,慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものと捉えられるといえ
る。

(3)以上のとおり,本件職務命令は,その趣旨,目的において,必要性,合理
性の根拠を憲法上に求めることができる。ところで,間接的制約等を許容し得る程
度の必要性,合理性が認められるためには,進んで具体的な方法,態様において
も,必要性,合理性が要求されるものであるので(その方法,態様自体が憲法的価
値そのものを否定するものであれば,必要性,合理性を認めることができな
い。),この観点から更に考察するに,起立斉唱という方法は,国旗,国歌への敬
意の表明の要素を含む行為としては,唯一の選択肢ではないであろうが,それが直
截的であり,これに代替し又は拮抗する方法は容易に見いだし難いように思われ,
この方法を採ることには必要性,合理性が認められる。また,卒業式典は,全校的
な統一的集団行事であり,教育的観点から重要な儀式的行事として位置付けられる
という性格からして,厳粛かつ効果的に執り行われるべきことが要求されるので,
会場の雰囲気を損なってその円滑な進行に水を差したり,生徒をして日常の意識の
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中で自国に注意を向ける契機を与えるという教育の効果を一部減殺するなどの事態
を招かないようにするために,いわば率先垂範的な立場にある教員に一律に強制
し,そのための制裁手段としての懲戒処分(過度に重いものしか定められていない
というものではない。)を設けるという方法を採ることも必要性,合理性が認めら
れるというべきである。そして,本件職務命令の対象たる起立斉唱の形式,内容,
進行方法,所要時間,頻度等をみても,起立斉唱に付加して,例えば,国家への忠
誠文言の朗誦とか,愛国心を謳った誓約書への署名などの行為を求めるものではな
く,しかも,短時間で終了し,日を置かずして反復されるようなものでもなく,そ
の結果,慣例上の儀礼的な所作の域にとどまるといえる。また,上記の点よりする
と,本件職務命令は,少なくとも,その間接的制約等を最小限にとどめるような慎
重な配慮を著しく欠いているとはいえない。そうすると,本件職務命令は,その態
様においても,必要性,合理性が認められる(これらの方法,態様自体は憲法的価
値そのものを否定するものとも思われない。)。

(4)ところで,上告人が起立斉唱拒否行為(不起立)を行うことは,「日の
丸」,「君が代」にまつわる前記歴史観等が正しいとの強い確信を基にして,起立
斉唱はなすべきではないとする信条を,結果的にであるにせよ,表示することにな
る一面も否定できない。自己の良心に忠実かつ真摯な態度との側面もあるといい得
るし,上告人がそのような歴史観等や信条を有するのは絶対に自由であるが,他方
で,上告人の歴史観等とは異なる考え方などもあり得ると思われる。高校生活の目
標は,歴史認識を含め,物事には多様な考え方,正反対の見方があることを知り,
自主独立の精神の下に自分自身の価値観,人格を形成させ,主体的に判断する能力
を身に付けることであり,教育はそれを支援することであろう。ところが,卒業式
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という学校にとって最も重要でしかもやや劇的な場面で,上告人が,そのことを特
に意図するものではないにせよ,強固な信条を表示するのであれば,それは,結
局,対立する考え方を公平かつ平等に紹介するというよりも,自己が絶対視した価
値観を一方的に教育の場に持ち込むということになろう。その結果,担任クラス,
担当教科,クラブ活動などで緊密な信頼関係で結ばれている生徒らを中心に,上記
の考え方が一義的に正しいものとして受け取られるなどで強い影響力,支配力を及
ぼすことにもなり得ると思われる。しかし,高校生徒の側では,学校や教員を選択
する自由も乏しく,また,大学生などとは異なり,一般に教員の教授内容について
批判する能力がいまだ十分備わっているとはいい難いことに照らすと,それは,高
校生徒の自由な思想の形成を損なうことになりはしないかと懸念されるのである。
上告人は,地方公務員として全体の奉仕者であり(憲法15条2項,地方公務員法
30条),かつ法律で定める学校の教員として全体の奉仕者であって(教育基本法
6条2項),そのことからすると,公立学校の教員として生徒への教育において公
正中立でなければならないと思われるが,それに反することになるようにも思われ
るのである。また,国民の教育(普通教育)を受ける権利は特定の価値観ではな
く,国民が一般に共通に願う基礎的かつ均質な内容の教育の提供を要求できる権利
であろう。そのような意味においては,憲法上の疑念も生ずるところである。職務
命令による要求が一律であることには,上記の点からも必要性,合理性が基礎付け
られよう。

(5)なお,前記のような歴史観等とは離れて,単に一律の強制で起立斉唱する
というような方法で行うべきではないという社会生活上の信条もあり得るところで
ある。上告人は,卒業式は生徒と教師が作り上げるべきであり,他者から一律に強
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制されるべきではない旨の主張をしているところであり,本件職務命令はこのよう
な信条の制約である旨を主張するものとも理解し得る。もとより,そのように考え
ることは全く自由であるし,また,起立斉唱を強制されることにより,精神的葛藤
を生じるであろう。この信条の制約の場合,間接的制約の場合と同様にその制約を
許容し得る程度の必要性,合理性があるかどうかという判断枠組みがなお用いられ
るべきであるということは,既に述べたとおりであるが,その比較考量において
は,前記の歴史観等に係る間接的制約の場合と異なり,特段の事情がある場合は別
として,その許容性が一般に容易に肯定されるであろう。もちろん,思想内容に立
ち入ってその価値の軽重について外から序列を付けることは適切でないとしても,
そのような社会生活上の信条は歴史観等の核心部分からやや隔たるといえるし,ま
た,その種の社会生活上の信条は甚だ広範にわたるのであって,特に公教育にあっ
ては,自己の社会生活上の信条に反するからという一事で,一般に拒否する自由が
認められれば,公教育(特に普通教育)そのものが成り立たなくなり得るし,教育
公務員が全体の奉仕者であることと端的に矛盾することになると思われるからであ
る。本件の社会生活上の信条に関しては,特段の事情は認められず,その制約を許
容し得る程度の必要性,合理性が認められるといえよう。

(6)なお念のために付言すれば,以上は飽くまで憲法論であって,職務命令違
反を理由とする不利益処分に係る裁量論の領域で,日常の意識の中で国のことに注
意を向ける契機を与えるために,起立斉唱がどれほど必要なのか,卒業式はその性
格からしてそれを行う機会としてふさわしいのかなどの方法論や,不起立によって
どのような影響が生じその程度はいかほどか,不利益処分を行うこととその程度は
行き過ぎではないかといった点を考量した上で,当該処分の適法性を基礎付ける必
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要性,合理性を欠くがゆえに,当該処分が裁量の範囲を逸脱するとして違法となる
ということはあり得る。

このことに関連して更にいえば,最も肝腎なことは,物理的,形式的に画一化さ
れた教育ではなく,熱意と意欲に満ちた教師により,しかも生徒の個性に応じて生
き生きとした教育がなされることであろう。本件職務命令のような不利益処分を伴
う強制が,教育現場を疑心暗鬼とさせ,無用な混乱を生じさせ,教育現場の活力を
殺ぎ萎縮させるというようなことであれば,かえって教育の生命が失われることに
もなりかねない。教育は,強制ではなく自由闊達に行われることが望ましいのであ
って,上記の契機を与えるための教育を行う場合においてもそのことは変わらない
であろう。その意味で,強制や不利益処分も可能な限り謙抑的であるべきである。
のみならず,卒業式などの儀式的行事において,「日の丸」,「君が代」の起立斉
唱の一律の強制がなされた場合に,思想及び良心の自由についての間接的制約等が
生ずることが予見されることからすると,たとえ,裁量の範囲内で違法にまでは至
らないとしても,思想及び良心の自由の重みに照らし,また,あるべき教育現場が
損なわれることがないようにするためにも,それに踏み切る前に,教育行政担当者
において,寛容の精神の下に可能な限りの工夫と慎重な配慮をすることが望まれる
ところである。

裁判官千葉勝美の補足意見は,次のとおりである。

私は,法廷意見に補足して,本件職務命令に対する合憲性審査の視点について,
また,本件のような国旗及び国歌をめぐる教育現場での対立の解消に向けて,私見
を述べておきたい。

1本件職務命令に対する合憲性審査の視点について

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(1) 憲法19条が保障する「思想及び良心の自由」の意味については,広く人
の内心の活動全般をいうとする見解がある。そこでは,各人のライフスタイル,社
会生活上の考えや嗜好,常識的な物事の是非の判断や好悪の感情まで広く含まれる
ことになろう。もちろん,このような内心の活動が社会生活において一般に尊重さ
れるべきものであることは了解できるところではあるが,これにも憲法19条の保
障が及ぶとなると,これに反する行為を求めることは個人の思想及び良心の自由の
制約になり,許されないということになる。しかしながら,これでは自分が嫌だと
考えていることは強制されることはないということになり,社会秩序が成り立たな
くなることにもなりかねない。したがって,ここでは,基本的には,信仰に準ずる
確固たる世界観,主義,思想等,個人の人格形成の核心を成す内心の活動をいうも
のと解すべきであろう。本件の上告人についていえば,「日の丸」や「君が代」が
戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人自身の歴史観ない
し世界観(以下「上告人の歴史観等」という。)がこれに当たるであろう。そし
て,このような思想及び良心の自由は,内心の領域の問題であるので,外部からこ
れを直接制約することを許さない絶対的な人権であるとされている。これを直接制
約する行為というのは,性質上余り想定し難いところではあるが,例を挙げれば,
個人の思想を強制的に変えさせるために思想教育を行うことなどがあろう。
このように,個人の思想及び良心の自由としての歴史観ないし世界観は,内心の
領域の問題ではあるが,現実には,それにとどまらず,歴史観等に根ざす様々な外
部的な行動となって現れるところである。その中には,各人の歴史観等とは切り離
すことができない不可分一体の関係にあるものがあり,これも歴史観等とともに憲
法上の保障の対象となり,これを直接的に制約しあるいはこれに直接反する行為を

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命ずること(例えば,本件では上告人の歴史観等を否定しあるいはこれに直接反す
る見解の表明行為に参加することを命ずることなど)も,同様に憲法19条により
禁止されると解してよいであろう。

そうすると,この歴史観等及びこれと不可分一体の行動(以下これらを「核とな
る思想信条等」という。)が憲法19条による直接的,絶対的な保障の対象となる
のである。

(2) 次に,核となる思想信条等に由来するものではあるが,それと不可分一体
とまではいえない種々の考えないし行動というものが現実にはあり(以下,これが
外部に現れることから「外部的行動」という。),これが他の規範との関係で,何
らかの形で制限されあるいはこれに反する行為を命ぜられることがあろう。このよ
うな制限をする行為(以下「制限的行為」という。)がどのような場合に許される
のかが次に問題になる。
本件において,上告人の起立斉唱行為の拒否という外部的行動は,特に在日朝鮮
人・在日中国人の生徒に対し,「日の丸」・「君が代」を卒業式に組み入れて強制
するべきでないと考え,教師の信念として起立斉唱行為を拒否する考えないし行動
であるところ,これは,上告人の「日の丸」・「君が代」に関する歴史観等そのも
の,あるいはそれと不可分一体のものとまではいえないが,それに由来するもので
ある(仮に,これも不可分一体であるとなると,それはおよそ制限を許さない不可
侵なものということになるものと考える。)。他方,本件職務命令は外部的行動に
反する制限的行為となるから,その許否が検討されることになる。

(3) 一般に,核となる思想信条等に由来する外部的行動には様々なものがある
が,本人にとっては,そのような外部的行動も,すべて核となる思想信条等と不可
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分一体であると考え,信じていることが多いであろう。そのような主観的な考え等
も一般に十分に尊重しなければならないものであり,この内心の領域に踏み込ん
で,その当否,評価等をすべきでないことは当然である。もっとも,憲法19条に
いう思想及び良心の自由の保障の範囲をどのように考えるかに際しては,このよう
な外部的行動を憲法論的な観点から客観的,一般的に捉え,核となる思想信条等と
の間でどの程度の関連性があるのかを検討する必要があるというべきである。これ
が客観的,一般的に見て不可分一体なものであれば,もはや外部的行動というより
も核となる思想信条等に属し,前述のとおり,憲法19条の直接的,絶対的な保障
の対象となるが,そこまでのものでないものもあり,その意味で関連性の程度には
差異が認められることになる。これを概念的に説明すれば,この外部的行動(核と
なる思想信条等に属するものを除いたもの)は,いわば,核となる思想信条等が絶
対的保障を受ける核心部分とすれば,それの外側に存在する同心円の中に位置し,
核心部分との遠近によって,関連性の程度に差異が生ずるという性質のものであ
る。そして,この外部的行動は,内側の同心円に属するもの(核となる思想信条
等)ではないので,憲法19条の保障の対象そのものではなく,その制限をおよそ
許さないというものではない。また,それについて制限的行為の許容性・合憲性の
審査については,精神的自由としての基本的人権を制約する行為の合憲性の審査基
準であるいわゆる「厳格な基準」による必要もない。しかしながら,この外部的行
動は核となる思想信条等との関連性が存在するのであるから,制限的行為によりそ
の間接的な制約となる面が生ずるのであって,制限的行為の許容性等については,
これを正当化し得る必要性,合理性がなければならないというべきである。さら
に,当該外部的行動が核心部分に近くなり関連性が強くなるほど間接的な制約の程

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度も強くなる関係にあるので,制限的行為に求められる必要性,合理性の程度は,
それに応じて高度なもの,厳しいものが求められる。他方,核心部分から遠く関連
性が強くないものについては,要求される必要性,合理性の程度は前者の場合より
は緩やかに解することになる。そして,このような必要性,合理性の程度等の判断
に際しては,制限される外部的行動の内容及び性質並びに当該制限的行為の態様等
の諸事情を勘案した上で,核となる思想信条等についての間接的な制約となる面が
どの程度あるのか,制限的行為の目的・内容,それにより得られる利益がどのよう
なものか等を,比較考量の観点から検討し判断していくことになる。

なお,さきに述べたように,このような比較考量は,本人の内心の領域に立ち入
って,本人が主観的に思想として確信しているものについて思想としての濃淡を付
けたり,ランク付けしたりするものではなく,飽くまでも外部的行動が核となる思
想信条等とどの程度の関連性が認められるかという憲法論的観点からの客観的,一
般的な判断に基づくものにとどまるものである。例を挙げれば,最高裁平成16年
(行ツ)第328号同19年2月27日第三小法廷判決・民集61巻1号291頁
における事案のように,本件の上告人と同様の歴史観等(核となる思想信条等)を
有する市立小学校のピアノ教師が,自己の信念として卒業式等で「君が代」のピア
ノ伴奏をすべきではないとし,それを拒否するという外部的行動と,本件の起立斉
唱行為の拒否という外部的行動を比べると,各人の内心における信念としては,い
ずれも各人の歴史観等と不可分一体のものと考えているものと思われ,そのこと自
体は,十分に尊重に値するが,核となる思想信条等としての歴史観等との憲法論的
な観点からの客観的,一般的な関連性については,本件起立斉唱行為の拒否の方
が,後述のとおり,「日の丸」・「君が代」に対する敬意の表明という要素が含ま

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れている行為を拒否するという意味合いを有することなどからみて,関連性がより
強くなるものということになろう。

(4) 本件の上告人の上記の「日の丸」等に関する外部的行動(起立斉唱行為の
拒否)は,上告人の歴史観等(核となる思想信条等)に由来するものであるが,上
記(3)で述べた趣旨において,それとの関連性は強いが不可分一体とまではいえな
いというべきである(なお,この外部的行動は,上告人の内心において,起立斉唱
行為をすべきでないし,しないという強い信念となっているとしても,この内心の
信念と起立斉唱行為の拒否とは表裏の関係にあり,前者は不可侵の領域で後者は外
部的な事象,というように両者を分けて憲法上の意味を考えることはできないとこ
ろであると考える。)。
また,上告人は,儀式的行事において行われる「日の丸」・「君が代」に係る起
立斉唱行為のように,公的な式典において本人が意図せぬ一定の行為を他の公的機
関から強制されるのは自己の信念に反し苦痛であるという趣旨の主張もしている
が,これは,いわゆる反強制的信条(前記最高裁判決における藤田裁判官の反対意
見参照)というべきものの一つであろう。このような反強制的信条は,それが,上
告人の個人的な卒業式の在り方についての観念や,そもそも教育の場で教師として
一定の行動を他から強制されることへの強い嫌悪感ないし否定的な心情のようなも
のである場合もあろう。そうであれば,これらは,前記のとおり,個人の内心の活
動に属する問題であり,一教師としてあるいは個人としての立場から尊重され得る
事柄ではあるが,憲法上の絶対的な保障の対象となる思想及び良心の自由の領域そ
のものの問題ではない。もっとも,このような観念等は,上告人の歴史観等の核と
なる思想信条等と関連性があり,それに由来するものであると解する余地がある。

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その場合には,上告人の起立斉唱行為の拒否という外部的行動と同じ観点から制約
の許容性が検討され,その結果,同様の判断となるのである。

(5) ところで,本件職務命令が求める起立斉唱行為は,国旗・国歌である「日
の丸」・「君が代」に対し多かれ少なかれ敬意を表する意味合いが含まれており,
その点において,本件職務命令は,上告人の歴史観等それ自体を否定するような直
接的な制約となるものとはいえないが,その間接的な制約となる面があり,また,
その限りにおいて上告人の上記の反強制的信条ともそごする可能性があるものであ
る。しかしながら,法廷意見の述べるとおり,起立斉唱行為は,学校行事における
慣例上の儀礼的な所作としての性質を有し,外部から見ても上告人の歴史観等自体
を否定するような思想の表明として認識されるものではなく,他方,起立斉唱行為
の教育現場における意義等は十分認められるのであって,本件職務命令は,憲法上
これを許容し得る程度の必要性,合理性が認められるものと解される。
2本件のような国旗及び国歌をめぐる教育現場での対立の解消に向けて

(1)職務命令として起立斉唱行為を命ずることが違憲・無効とはいえない以
上,これに従わない教員が懲戒処分を受けるのは,それが過大なものであったり手
続的な瑕疵があった場合等でない限り,正当・適法なものである。しかしながら,
教員としては,起立斉唱行為の拒否は自己の歴史観等に由来する行動であるため,
司法が職務命令を合憲・有効として決着させることが,必ずしもこの問題を社会的
にも最終的な解決へ導くことになるとはいえない。
(2)一般に,国旗及び国歌は,国家を象徴するものとして,国際的礼譲の対象
とされ,また,式典等の場における儀礼の対象とされる。我が国では,以前は慣習
により,平成11年以降は法律により,「日の丸」を国旗と定め,「君が代」を国
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歌と定めている。入学式や卒業式のような学校の式典においては,当然のことなが
ら,国旗及び国歌がその意義にふさわしい儀礼をもって尊重されるのが望まれると
ころである。しかしながら,我が国においては,「日の丸」・「君が代」がそのよ
うな取扱いを受けることについて,歴史的な経緯等から様々な考えが存在するのが
現実である。

国旗及び国歌に対する姿勢は,個々人の思想信条に関連する微妙な領域の問題で
あって,国民が心から敬愛するものであってこそ,国旗及び国歌がその本来の意義
に沿うものとなるのである。そうすると,この問題についての最終解決としては,
国旗及び国歌が,強制的にではなく,自発的な敬愛の対象となるような環境を整え
ることが何よりも重要であるということを付言しておきたい。
(裁判長裁判官 須藤正彦裁判官 古田佑紀裁判官 竹内行夫裁判官 千葉勝美)

-32

出典

再雇用拒否処分取消等請求事件http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20110530164923.pdf

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君が代斉唱拒否再雇用拒否処分取消等請求事件 (1)

2012年01月19日 | 日の丸・君が代問題

 主 文

 本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

 理 由
第1 上告代理人津田玄児ほかの上告理由第2のうち職務命令の憲法19条違反
をいう部分について

1本件は,都立高等学校の教諭であった上告人が,卒業式における国歌斉唱の
際に国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること(以下「起立斉唱行為」という。)
を命ずる旨の校長の職務命令に従わず,上記国歌斉唱の際に起立しなかったとこ
ろ,その後,定年退職に先立ち申し込んだ非常勤の嘱託員及び常時勤務を要する職
又は短時間勤務の職の採用選考において,東京都教育委員会(以下「都教委」とい
う。)から,上記不起立行為が職務命令違反等に当たることを理由に不合格とされ
たため,上記職務命令は憲法19条に違反し,上告人を不合格としたことは違法で
あるなどと主張して,被上告人に対し,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償等を
求めている事案である。

2原審の適法に確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。

(1)学校教育法(平成19年法律第96号による改正前のもの。以下同じ。)
43条及び学校教育法施行規則(平成19年文部科学省令第40号による改正前の
もの。以下同じ。)57条の2の規定に基づく高等学校学習指導要領(平成11年
文部省告示第58号。平成21年文部科学省告示第38号による特例の適用前のも
の。以下「高等学校学習指導要領」という。)第4章第2C(1)は,「教科」とと
もに教育課程を構成する「特別活動」の「学校行事」のうち「儀式的行事」の内容
-1

について,「学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わ
い,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。」と定めてい
る。そして,同章第3の3は,「特別活動」の「指導計画の作成と内容の取扱い」
において,「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚する
とともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と定めている(以下,この
定めを「国旗国歌条項」という。)。

(2)都教委の教育長は,平成15年10月23日付けで,都立高等学校等の各
校長宛てに,「入学式,卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について
(通達)」(以下「本件通達」という。)を発した。その内容は,上記各校長に対
し,① 学習指導要領に基づき,入学式,卒業式等を適正に実施すること,② 入
学式,卒業式等の実施に当たっては,式典会場の舞台壇上正面に国旗を掲揚し,教
職員は式典会場の指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱するなど,所定
の実施指針のとおり行うものとすること等を通達するものであった。
(3)上告人は,平成16年3月当時,都立A高等学校に勤務する教諭であった
ところ,同月1日,同校の校長から,本件通達を踏まえ,同月5日に行われる卒業
式における国歌斉唱の際に起立斉唱行為を命ずる旨の職務命令(以下「本件職務命
令」という。)を受けた。しかし,上告人は,本件職務命令に従わず,上記卒業式
における国歌斉唱の際に起立しなかった。そのため,都教委は,同月31日,上告
人に対し,上記不起立行為が職務命令に違反し,全体の奉仕者たるにふさわしくな
い行為であるなどとし,地方公務員法29条1項1号,2号及び3号に該当すると
して,戒告処分をした。
(4)定年退職等により一旦退職した教職員等について,都教委は,特別職に属
-2



する非常勤の嘱託員(地方公務員法3条3項3号)として新たに任用する制度を実
施するとともに,常時勤務を要する職(同法28条の4)又は短時間勤務の職(同
法28条の5)として再任用する制度を実施している。

上告人は,平成19年3月31日付けで定年退職するに先立ち,平成18年10
月,上記各制度に係る採用選考の申込みをしたが,都教委は,上記不起立行為は職
務命令違反等に当たる非違行為であることを理由として,いずれも不合格とした。

3(1) 上告人は,卒業式における国歌斉唱の際の起立斉唱行為を拒否する理由
について,日本の侵略戦争の歴史を学ぶ在日朝鮮人,在日中国人の生徒に対し,
「日の丸」や「君が代」を卒業式に組み入れて強制することは,教師としての良心
が許さないという考えを有している旨主張する。このような考えは,「日の丸」や
「君が代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人自身
の歴史観ないし世界観から生ずる社会生活上ないし教育上の信念等ということがで
きる。

しかしながら,本件職務命令当時,公立高等学校における卒業式等の式典におい
て,国旗としての「日の丸」の掲揚及び国歌としての「君が代」の斉唱が広く行わ
れていたことは周知の事実であって,学校の儀式的行事である卒業式等の式典にお
ける国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典におけ
る慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,かつ,そのような所作
として外部からも認識されるものというべきである。したがって,上記の起立斉唱
行為は,その性質の点から見て,上告人の有する歴史観ないし世界観を否定するこ
とと不可分に結び付くものとはいえず,上告人に対して上記の起立斉唱行為を求め
る本件職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということ

-3

はできない。また,上記の起立斉唱行為は,その外部からの認識という点から見て
も,特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価
することは困難であり,職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合に
は,上記のように評価することは一層困難であるといえるのであって,本件職務命
令は,特定の思想を持つことを強制したり,これに反する思想を持つことを禁止し
たりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものと
いうこともできない。そうすると,本件職務命令は,これらの観点において,個人
の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきで
ある。

(2)もっとも,上記の起立斉唱行為は,教員が日常担当する教科等や日常従事
する事務の内容それ自体には含まれないものであって,一般的,客観的に見ても,
国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そ
うすると,自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の
丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が,これら
に対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは,その行為が個人の歴史
観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ,
個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行
為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり,その限りにおいて,
その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し
難い。
なお,上告人は,個人の歴史観ないし世界観との関係に加えて,学校の卒業式の
ような式典において一律の行動を強制されるべきではないという信条それ自体との

-4

関係でも個人の思想及び良心の自由が侵される旨主張するが,そのような信条との
関係における制約の有無が問題となり得るとしても,それは,上記のような外部的
行為が求められる場面においては,個人の歴史観ないし世界観との関係における間
接的な制約の有無に包摂される事柄というべきであって,これとは別途の検討を要
するものとは解されない。

そこで,このような間接的な制約について検討するに,個人の歴史観ないし世界
観には多種多様なものがあり得るのであり,それが内心にとどまらず,それに由来
する行動の実行又は拒否という外部的行動として現れ,当該外部的行動が社会一般
の規範等と抵触する場面において制限を受けることがあるところ,その制限が必要
かつ合理的なものである場合には,その制限を介して生ずる上記の間接的な制約も
許容され得るものというべきである。そして,職務命令においてある行為を求めら
れることが,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求め
られることとなり,その限りにおいて,当該職務命令が個人の思想及び良心の自由
についての間接的な制約となる面があると判断される場合にも,職務命令の目的及
び内容には種々のものが想定され,また,上記の制限を介して生ずる制約の態様等
も,職務命令の対象となる行為の内容及び性質並びにこれが個人の内心に及ぼす影
響その他の諸事情に応じて様々であるといえる。したがって,このような間接的な
制約が許容されるか否かは,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生
ずる制約の態様等を総合的に較量して,当該職務命令に上記の制約を許容し得る程
度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当であ
る。

(3)これを本件についてみるに,本件職務命令に係る起立斉唱行為は,前記の
-5

とおり,上告人の歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となるものに
対する敬意の表明の要素を含むものであることから,そのような敬意の表明には応
じ難いと考える上告人にとって,その歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の
表明の拒否)と異なる外部的行為となるものである。この点に照らすと,本件職務
命令は,一般的,客観的な見地からは式典における慣例上の儀礼的な所作とされる
行為を求めるものであり,それが結果として上記の要素との関係においてその歴史
観ないし世界観に由来する行動との相違を生じさせることとなるという点で,その
限りで上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があるものと
いうことができる。

他方,学校の卒業式や入学式等という教育上の特に重要な節目となる儀式的行事
においては,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式
典の円滑な進行を図ることが必要であるといえる。法令等においても,学校教育法
は,高等学校教育の目標として国家の現状と伝統についての正しい理解と国際協調
の精神の涵養を掲げ(同法42条1号,36条1号,18条2号),同法43条及
び学校教育法施行規則57条の2の規定に基づき高等学校教育の内容及び方法に関
する全国的な大綱的基準として定められた高等学校学習指導要領も,学校の儀式的
行事の意義を踏まえて国旗国歌条項を定めているところであり,また,国旗及び国
歌に関する法律は,従来の慣習を法文化して,国旗は日章旗(「日の丸」)とし,
国歌は「君が代」とする旨を定めている。そして,住民全体の奉仕者として法令等
及び上司の職務上の命令に従って職務を遂行すべきこととされる地方公務員の地位
の性質及びその職務の公共性(憲法15条2項,地方公務員法30条,32条)に
鑑み,公立高等学校の教諭である上告人は,法令等及び職務上の命令に従わなけれ

-6

ばならない立場にあるところ,地方公務員法に基づき,高等学校学習指導要領に沿
った式典の実施の指針を示した本件通達を踏まえて,その勤務する当該学校の校長
から学校行事である卒業式に関して本件職務命令を受けたものである。これらの点
に照らすと,本件職務命令は,公立高等学校の教諭である上告人に対して当該学校
の卒業式という式典における慣例上の儀礼的な所作として国歌斉唱の際の起立斉唱
行為を求めることを内容とするものであって,高等学校教育の目標や卒業式等の儀
式的行事の意義,在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿い,かつ,地方
公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえた上で,生徒等への配慮を含
め,教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るも
のであるということができる。

以上の諸事情を踏まえると,本件職務命令については,前記のように外部的行動
の制限を介して上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあ
るものの,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等
を総合的に較量すれば,上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認めら
れるものというべきである。

(4)以上の諸点に鑑みると,本件職務命令は,上告人の思想及び良心の自由を
侵すものとして憲法19条に違反するとはいえないと解するのが相当である。
以上は,当裁判所大法廷判決(最高裁昭和28年(オ)第1241号同31年7
月4日大法廷判決・民集10巻7号785頁,最高裁昭和44年(あ)第1501
号同49年11月6日大法廷判決・刑集28巻9号393頁,最高裁昭和43年
(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁,最
高裁昭和44年(あ)第1275号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5

-7

号1178頁)の趣旨に徴して明らかというべきである。所論の点に関する原審の
判断は,以上の趣旨をいうものとして,是認することができる。論旨は採用するこ
とができない。

第2 その余の上告理由について

論旨は,違憲をいうが,その実質は事実誤認若しくは単なる法令違反をいうもの
又はその前提を欠くものであって,民訴法312条1項及び2項に規定する事由の
いずれにも該当しない。

よって,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官竹内行
夫,同須藤正彦,同千葉勝美の各補足意見がある。

裁判官竹内行夫の補足意見は,次のとおりである。

私は,本件職務命令が,上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約と
なる面があることを前提とした上で,このような制約を許容し得る程度の必要性及
び合理性が本件職務命令に認められるか否かの点について,これを肯定的に解する
ものとする法廷意見のアプローチ及び結論に賛同するものであるが,若干の意見を
記しておきたい。

1間接的な制約の存在を前提とするアプローチ

思想及び良心の自由は個人の内心の領域に係るものであり,「日の丸」や「君が
代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人のような個
人の歴史観ないし世界観は,内心にとどまる限り,絶対的に自由であり法的に保護
されなければならない。そして,一般的,客観的に見た場合には,卒業式における
起立斉唱行為は儀礼的な所作であって,上記のような個人の歴史観等を否定するも
のではなく,また,そのような個人の歴史観等を直ちに露顕させるものであるとも

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解されないとしても,そのようないわば第三者的な見地だけから本件職務命令が思
想及び良心の自由についての制約に当たらないとの結論に到達し得るものではな
い。思想及び良心の自由は本来個人の内心の領域に係るものであるから,当該本人
自身において起立斉唱行為が敬意の表明の要素を含む点において自己の歴史観等に
由来する行動と相反する外部的行為であるとして心理的矛盾や精神的な痛みを感じ
るのであれば,そのような状態は思想及び良心の自由についての制約の問題が事実
上生じている状態であるといわざるを得ない。そして,そのような間接的な制約が
許容されるか否か,許容される場合があるとすればなぜ許容されるかということに
ついて,審査が行われなければならない(この点において,私はいわゆるピアノ伴
奏事件判決(最高裁平成16年(行ツ)第328号同19年2月27日第三小法廷
判決・民集61巻1号291頁)における那須弘平裁判官の補足意見の基本的視点
に共感するものである。)。

2外部的行動に対する規制

個人の歴史観ないし世界観が,内心にとどまる限り,社会規範等と異なるところ
があっても,その間の抵触が問題とされることはない。他方,人がその歴史観ない
し世界観に基づいて行動する場合には,その外部的行動が社会による客観的評価の
対象となり社会規範等に抵触することがあり得るのであり,そのような場面におい
ては,外部的行動が社会規範等により制限されることがある。この場合において,
制限の対象はあくまでも外部的行動であるが,そのような外部的行動に対する制限
を介して,結果として,歴史観ないし世界観についての間接的な制約となることは
あり得るところである。本件はそのようなケースであり,本件職務命令により制限
の対象とされるのは,上告人の卒業式において起立斉唱をしないという行動であっ

-9

て,その歴史観ないし世界観ではない。

このような場合に,表見的には外部的行動に対する制限であるが,実はその趣
旨,目的が,個人に対して特定の歴史観等を強制したり,あるいは,歴史観等の告
白を強制したりするものであると解される場合には,直ちに,思想及び良心の自由
についての制約の問題が生ずることになるが,本件職務命令がそのようなものであ
るとは考えられない。

なお,以上に述べたような外部的行動に対する制限を介しての間接的な制約とな
る面があると認められる場合においては,そのような外部的行動に対する制限につ
いて,個人の内心に関わりを持つものとして,思想及び良心の自由についての事実
上の影響を最小限にとどめるように慎重な配慮がなされるべきことは当然であろ
う。

また,本件のような思想及び良心の自由についての間接的な制約に関して,その
必要性,合理性を審査するに当たっては,具体的な状況を踏まえて,特に慎重に較
量した上での総合的判断が求められることはいうまでもない。このこととの関連
で,一言触れておくと,思想信条等に由来する外部的行動について,当該行動と核
となる思想信条等との間の関連性の程度には差異があるとの見方を採用した上で,
本件上告人の起立斉唱行為の拒否は本人の歴史観等と不可分一体なものとまではい
えないと解し,そのような解釈に立って合憲性の審査を進めるという見解がある
が,そのようなアプローチは私の採るところではない。人の外部的行動が歴史観等
に基づいたものである場合に,当該行動と歴史観等との関連性の程度というものは
およそ個人の内心の領域に属するものであり,外部の者が立ち入るべき領域ではな
いのみならず,そのような関連性の程度を量る基準を一般的,客観的に定めること

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もできない。あえてこれを量ろうとするならば,それは個人の内心に立ち入った恣
意的な判断となる危険を免れないこととなろう。本件上告人があえて起立斉唱をし
ないという行動を採ったのは,それが自己の歴史観等に基づく行動と両立するもの
ではないと確信しているからであると解されるのであり,私は,本件上告人の起立
斉唱行為の拒否が,その内心の状態に照らして,上告人の歴史観等と不可分一体な
ものではないとの判断を下す何らの根拠も有していない。

3国旗,国歌に対する敬意

法廷意見が本件職務命令による上告人に係る制約が許容され得るとした判断に賛
同するに当たり,次の二つの点を特記しておきたい。

第一は,国旗及び国歌に対する敬意に関することである。一般に,卒業式,国際
スポーツ競技の開会式などの種々の行事や式典において国旗が掲揚されたり,国歌
が演奏されたりするが,そのような際に,一般の人々の対応としては,通常,慣例
上の儀礼的な所作としてごく自然に国旗や国歌に対する敬意の表明を示しているも
のと考えられる。そして,国際社会においては,他国の国旗,国歌に対する敬意の
表明は国際常識,国際マナーとされ,これに反するような行動は国際礼譲の上で好
ましくないこととされている。先年,ある外国における国際サッカー試合の前に慣
例により「君が代」が演奏されたとき,その国の観客が起立をしなかったというこ
とがあり,これが国際マナーに反するとして我が国を含め国際世論から強く批判さ
れたことがあったのは記憶に新しい。他の国の国旗,国歌に対して敬意をもって接
するという国際常識を身に付けるためにも,まず自分の国の国旗,国歌に対する敬
意が必要であり,学校教育においてかかる点についての配慮がされることはいわば
当然であると考える。

-11

第二に,上告人は教員であり,学校行事を含めて生徒を指導する義務を負う立場
にあるという点が重要である。国旗,国歌に対する敬意や儀礼を生徒に指導する機
会としては種々あるであろうが,卒業式や入学式などの学校行事は重要な機会であ
る。そのような学校行事において,教員が起立斉唱行為を拒否する行動をとること
は,国旗,国歌に対する敬意や儀礼について指導し,生徒の模範となるべき教員と
しての職務に抵触するものといわざるを得ないであろう。本件職務命令による上告
人に係る制約の必要性,合理性を較量するに当たっては,このような観点も一つの
事情として考慮される必要があると考える。

裁判官須藤正彦の補足意見は,次のとおりである。

私は,法廷意見に同調するものであるが,その理由について以下のとおり補足す
る。

 1 基本的視点

(1)特定の思想の強制や禁止,特定の思想を理由とする不利益の付与は,憲法
19条で保障された思想及び良心の自由を侵すものとして絶対に許されない。ま
た,この趣旨から,特定の歴史観ないし世界観(以下「歴史観等」という。)又は
その否定と不可分に結び付く行為の強制も,特定の思想又はその否定を外部に表明
する行為であると評価される行動や特定の思想の有無についての告白の強制も,い
ずれも許されない(この点につき,最高裁平成16年(行ツ)第328号同19年
2月27日第三小法廷判決・民集61巻1号291頁参照)。
(2)この意味で,内心における思想及び良心の自由の保障は絶対であるが,特
定の思想が内心にとどまらない場合は,外部的行動との関わりにおいて他の利益と
抵触するため,それは常に絶対というわけではない面がある。例えば一夫多妻制や
-12

一妻多夫制が正しいとの歴史観等を有することは絶対に自由であるが,これに従っ
て重婚に及んだ者は処罰される(刑法184条)。この場合,国家はその者の歴史
観等に対する否定的評価を刑法に取り込んでいるとみることも可能であるように思
われ,そうすると,その疑いもなく少数の者は外部的行為の介在によって思想及び
良心の自由につきいわば直接的制約を受ける(以下では,このような直接的制約を
「いわゆる直接的制約」と呼ぶことがある。)こととなるが,憲法19条は明らか
に刑法184条を許容しているといえる。

(3)一般に,外部的行為を,社会一般の規範等が個人に要求する場合,それが
元来ある歴史観等や信条などについて否定的評価をするものではなく,その趣旨,
目的が別にあるにもかかわらず,ないしは,その外部的行為の要求が一般的,客観
的にも歴史観等や信条などを否定するような意図を含んでいるとはみられないにも
かかわらず,その外部的行為が,個人の歴史観等やそれに基づく信条などに由来す
る外部的行動と異なり,その者はそれには応じ難いというときがあり得る。この場
合,外部的行為を要求することを通じて,結果として個人の思想及び良心の自由
(内心の自由)についての制約を生じさせることになる。これは,前記のいわゆる
直接的制約に対して,間接的制約と呼ぶことができるが,本件は主として社会一般
の規範等に当たる本件職務命令による間接的制約の問題といえる。
もっとも,このように一般的,客観的観点からは間接的制約と評価されても,そ
れを受ける者にとっては,当該外部的行為を要求されることで,自己の歴史観等の
核心部分を否定されたものと,あるいはその外部的行為を自己が否定する歴史観等
を外部に表明する行為と評価されるものと受け止めて,精神的葛藤を生じることが
ある(直接的か間接的かという区別は,当人自身の主観としては無意味であろ

-13

う。)。

また,外部的行為の要求が一律に強制される場合,当該要求が一律に強制される
べきではないという信条を有する者にとっては,その信条の直接的な否定となり,
これはそのような信条に係るいわば直接的制約ともいえる。その信条に賛否が分か
れているような問題が含まれる場合は,特に精神的葛藤を避けられないのである
が,本件はその信条に係る制約の問題をも付随的に含む(以下では,このような信
条に係る制約を「信条の制約」と呼ぶことがある。)。

もとより,憲法における思想及び良心の自由の保障は,個人の尊厳の観点からし
て,あるいは,多様な思想,多元的な価値観の併存こそが民主主義社会成立のため
の前提基盤であるとの観点からして,まずもってその当人の主観を中心にして考え
られるものであり,このような憲法的価値の性質からすると,間接的制約や信条の
制約の場面でも,憲法19条の保障の趣旨は及ぶというべきである。思想及び良心
の自由は,少数者のものであるとの理由で制限することは許されないものであり,
多数者の恣意から少数者のそれを護ることが司法の役割でもある。思想及び良心の
自由の保障が戦前に歩んだ苦難の歴史を踏まえて,諸外国の憲法とは異なり,独自
に日本国憲法に規定されたという立法の経緯からしても,そのことは強調されるべ
きことであろう。

(4)しかしながら,外部的行為が介在する場面での思想及び良心の自由の保障
は,必ずしも絶対不可侵のものとしての意味のそれではない。けだし,社会一般の
規範等に基づく外部的行為の要求が間接的制約を生ずるがゆえに絶対的に許されな
いのであれば,結局社会が成り立たなくなってしまうと思われ,憲法は社会が成り
立たなくなってしまう事態まで求めるものとは思われないからである。したがっ
-14

て,このような外部的行為を介しての間接的制約の場面では,その規範等に間接的
制約を許容し得る程度の必要性,合理性がある場合には,憲法自身が,それを内在
的制約としてなお容認しているものとみるのが相当であると考える。信条の制約の
場合も同様であり,その信条が歴史観等に由来するものであればそれとその信条と
が不可分一体であるという意味において,また,それが単なる社会生活上の信条で
あれば正にそのことのゆえに,間接的制約に準じて,その制約を許容し得る程度の
必要性,合理性がある場合には,なお容認しているものと思われる(以下では,
「間接的制約等」を間接的制約と信条の制約とを併せた意味で用いる。)。なお,
この制約を許容し得る程度の必要性や合理性は飽くまで憲法論におけるそれである
以上,その必要性,合理性の根拠はできるだけ憲法自体に求められるのが望ましい
と思われる。同時に,必要性や合理性は広い意味に捉え得るので,特に外部的行為
の方法,態様などの点に関しては,憲法論で捉えるよりも,裁量統制の観点から,
当該外部的行為の拒否を理由とする不利益処分が裁量の範囲を逸脱するものとして
違法と評価されるか否かとの判断方法で捉える方が適切であるという場合も現実に
は多いと思われ,その意味で一種の棲み分けがなされることになろう。もっとも,
例えば,対象となる当人の歴史観等に係る間接的制約等が容易に予見される状況で
あるのに,これを最小限にとどめるような慎重な配慮を著しく欠くという場合や,
違反に対する制裁が初めから過度に重いものしか定められていないような場合など
は,憲法的価値そのものを否定するものとして,制約を許容し得る程度の必要性,
合理性は認められないといえよう。

(5)上記の判断枠組みについていえば,それは,思想及び良心の自由が外部的行為の介在によって社会一般の規範等と抵触する場合の調整の在り方として,一般
-15

的,客観的な見地の下に,その規範等の趣旨,目的や思想及び良心の自由について
の制約の有無に加え,制約の直接性,間接性,思想及び良心の核心部分との遠近,
制約の程度等をも検討し,それらを前提とした上で,間接的制約等についての必要
性,合理性を考量すべきものとする考え方である。これについては,思想及び良心
の自由の保障が元来当人の主観を中心にして考えられることとの整合性が一見

問題となるように思われないでないが,この判断は,飽くまで法的判断として主観を前提とした上での客観的な評価を行う作用であって,その判断方法自体は異とするに足りない。思想及び良心の自由につき,外部的行為の介在による規範等との抵触の場合の調整の在り方としては,前記のいわゆる直接的制約のような場合には,いわ
ゆる厳格な基準などによるべきことと思われるが,間接的制約等の場合には,上記
の判断枠組みは,必要性,合理性の考量が安易になされないことを必須の条件とし
て,適切な方法と考える。この場合の制約は,憲法自身が容認する内在的制約であ
るが,憲法13条の公共の福祉による制約と趣旨において共通するといえよう。今
後は,その必要性及び合理性の内容について深く掘り下げていくことが現実的であ
ると思われる。

 

 

 

 

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日の丸 ・ 君が代訴訟問題・資料

2012年01月18日 | ニュース・現実評論

水島朝穂教授「直言」

   http://www.asaho.com/jpn/bkno/2011/0606.html

「君が代起立条例」と最高裁判決 2011年6月6日

ほぼ同じ日に発行された2つの文書がある。1つは『日の丸と君が代――その由来と意義』(東京日日新聞社・大阪毎日新聞社、1934年2月10日)。新聞社が「紀元節」にあたり、「日本精神の高揚」のため、日の丸と君が代について改めてその意義を説いたものである。「国旗は死をもって守らる」という項では、日の丸を守るため命を投げ出した兵士の「美談」が紹介され、国民に対しては「国旗掲揚奨励」がなされている。君が代も同様で、例えば「歌ひ方について」という節では、「さざれ石の」の「さざれ」で一息ついてはならず、「一気に歌はるべし」とある。「巌(いはほ)となりて」は決して「いはほど」や「いはほと」と歌ってはならないと注意も細かい。これと同時に発行されたのが、『思想戦』(陸軍省軍事調査部、同2月11日)である。国民の思想統制の基本が示され、生活のなかで「皇道文化聖戦」すなわち「皇化」をはかるべく「国民の用意」が説かれる。国旗と国歌も「皇化」の重要な手段だった。

このような日の丸・君が代の「過去」に鑑み、これを国旗や国歌として受け入れることができないという人は決して少なくない。1999年に「国旗・国歌法」の制定過程でも対立があり、当時の政府は、「義務づけなどを行うことは考えていない」と答弁している(小渕恵三首相)。これは重要である。国旗・国歌法の条文は、「国旗は、日章旗とする」(1条)と「国歌は、君が代とする」(2条)という2箇条しかない。別記に日章旗の制式と君が代の歌詞・楽曲が定められているだけで、掲揚や斉唱などについて何も定めていないのである。

だが、法律が制定されると、義務づけを伴う方向に運用する動きが強まっていく。石原慎太郎東京都知事は過激に教育現場に介入し、短期間に義務づけを定着させた。東京都教育委員・米長邦雄はその勢いで、2004年秋の園遊会で天皇に向かって、「日本中の学校において国旗を掲げ国歌を斉唱させることが、私の仕事でございます」と胸をはった。ところが、天皇は、「やはり、強制になるということでないことが望ましいですね」と返した。米長の狼狽ぶりは、テレビのニュースで全国放映された。この「やはり」という言葉は、天皇自身、強制になることを危惧する認識を持っていたからではないか。

今年8月13日は、国旗・国歌法施行12周年である。この間、斉唱時に起立しなかったことで処分された教職員は延べ1238人(1991~2009年)。うち東京都は444人である(『東京新聞』5月31日付)。都教委が2003年10月23日、起立斉唱を義務づける通達を出して以降、懲戒処分が相次いで出され、その取り消しや損害賠償を求める訴訟が提起された。下級審では、思想・良心の自由侵害を理由として、国歌斉唱の際のピアノ伴奏義務が存在しないことを確認し、伴奏しないことを理由としたいかなる処分もしてはならないとするとともに、慰謝料請求を認容する判決も出ている(東京地裁2006年9月21日判決〔予防訴訟〕。東京高裁2011年2月28日判決で原告逆転敗訴。上告中)。また、起立斉唱・ピアノ伴奏拒否に対する懲戒処分を、裁量権の逸脱・濫用で違法として取り消す高裁判決も出ている(東京高裁2011年3月10日)。だが、全体としては、職務命令で国歌斉唱や起立を求めることは特定の思想の強制や禁止にあたらず、思想・良心の自由を侵害しないとか、職務命令に裁量権の逸脱・濫用はないとして、処分を容認する傾向が強い。

最高裁は、ピアノ伴奏拒否訴訟判決(2007年2月27日第3小法廷)で、原告の世界観・歴史観(君が代がアジア侵略で果たした役割など)が、入学式において伴奏拒否するという行為と「不可分に結び付くものということはできず」、伴奏を求める校長の職務命令が、「特定の思想を持つことを強制したり、あるいはこれを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無を告白することを強要するものでもなく、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制するものとみることもできない」として、当該命令は思想・良心の自由を保障した憲法19条に違反しないと判示した。

この判決で注目されるのは、藤田宙靖裁判官の反対意見である。藤田裁判官は、君が代についての歴史観・世界観それ自体よりも、むしろ、「公的儀式の場で、公的機関が、参加者にその意に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って、このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)」が問題であって、この信念・信条は憲法の保護を受けるという観点から、歴史観・世界観とは別に、斉唱への協力の強制が、この信念・信条に対する「直接的制約」になるとする。その上で、校長の職務命令によって達せられる公共の利益の具体的内容を丁寧に検討し、学校行政の目的が「子供の教育を受ける利益の達成」にあるとすると、それを達成する手段がピアノ伴奏の強制なのかについて重大な疑いを投げかけ、「教育公務員の職務の公共性」から簡単に思想・良心の自由の制約を導く多数意見を批判する。

先週、最高裁第2小法廷(須藤正彦裁判長)は、都立高校の卒業式で「君が代」を斉唱するときに教諭を起立させる校長の職務命令が、憲法19条の「思想・良心の自由を侵害しない」という判断を示した。起立斉唱命令については最高裁として「初判断」として注目された。新聞各紙は「君が代起立命令は合憲」(『朝日新聞』『読売新聞』『毎日新聞』5月31日付)という一面見出しを打ち、社会面で「『静かな抵抗』実らず」(『朝日』)、「君が代論争に終止符」(『読売』)、「起立定着に『無力感』」(『東京』)という受けの記事を掲載した。

判決は、(1)国歌の起立斉唱は広く行われており、教員への職務命令は特定の思想の告白を強要するものとは言えず、思想・良心の自由を保障する憲法に違反しない、(2)起立斉唱には国旗・国歌への敬意表明という要請があり、命令はこれに応じ難いと考える者が、自己の歴史観や世界観と異なる行動を求められる点で、思想・良心の自由を間接的に制約する面がある、(3)しかし、命令は式典における慣例上の儀礼的な所作を求めるものであり、卒業式等の秩序の確保や式典の円滑な進行を図るもので、法令や地方公務員の職務の公共性などに照らせば、その制約には必要性と合理性が認められる、というものだった。裁判官4 人の全員一致の結論である。

特に(2)について詳しく見ると、判決は、「個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることになり、その限りにおいて、その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い」とした上で、本件職務命令が、上告人の思想及び良心の自由について間接的な制約となる面があると認定している。ただ、卒業式などは「教育上の特に重要な節目となる儀式的行事」であり、(3)のような結論が導かれるわけである。

注目されるのは、3 人の裁判官の長大な補足意見が付いたことである。最高裁のホームページからダウンロードしたPDFファイルで全32頁(12454字)。そのうち判決本体の法廷意見は7頁半(5448字)だが、3人の補足意見が23頁(18527字)にもなる。実に判決の77%が補足意見で占められている。憲法判断を行う大法廷で反対意見や補足意見が多く付くことはあるが、小法廷で8割近くが補足意見というのも珍しい。

まず、3人とも共通して、個人の歴史観・世界観が内心にとどまる限り、絶対的な保障を受けることを確認している。問題は、それが「外部的行動」となったときの評価である。竹内行夫裁判官は、「外部的行動に対する制限を介して、結果として、歴史観ないし世界観について間接的な制約になることはあり得る」として、本件がそれにあたるとする。その上で、起立斉唱行為が本人の歴史観等と一体不可分なものとは言えないから制約できるというアプローチ(前述のピアノ伴奏拒否事件最高裁判決の多数意見)は採らないと断言する。竹内裁判官は、人の歴史観等と外部的行動との関連性の程度もまた、個人の内心の領域に属するから、それを一般的に決めることはできず、それをやれば「個人の内心に立ち入った恣意的な判断となる危険」があるとする。つまり、本件起立拒否が本人の歴史観等と「不可分一体なものではない」と簡単に決めつけてはいけないというのである。それゆえに、「間接的制約」となる「外部的行動」への制限は、「思想及び良心の自由についての事実上の影響を最小限にとどめるように慎重な配慮」が必要であり、制約の必要性・合理性の審査にあたっても「特に慎重な較量」が求められるとしている。イラク戦争時の小泉内閣の外務事務次官だが、裁判官としての議論の仕方は誠実である。

須藤正彦裁判官は、「外部的行為の要求が一律に強制される場合、当該要求が一律に強制されるべきではないという信条を有する者にとっては、その信条の直接的な否定となり、これはそのような信条に係るいわば直接的制約ともいえる」とする。これは前述のピアノ伴奏事件での藤田裁判官の意見と響き合うだろう。
    須藤裁判官はまた、「間接的制約」を正当化する必要性・合理性の判断を、行政法上の「裁量統制」の観点から行うことを提言する。その上で、必要性・合理性を欠くがゆえに、当該処分が裁量の範囲を逸脱するとして違法となる場合があり得るとして、教育現場の事情にかなり詳しく立ち入る。各紙社説が一様に引用する部分である。

 

「最も肝腎なことは、物理的、形式的に画一化された教育ではなく、熱意と意欲に満ちた教師により、しかも生徒の個性に応じて生き生きとした教育がなされることだろう。本件職務命令のような不利益処分を伴う強制が、教育現場に疑心暗鬼とさせ、無用な混乱を生じさせ、教育現場の活力を殺ぎ萎縮させるというようなことがあれば、かえって教育の生命が失われることにもなりかねない。教育は、強制ではなく自由闊達に行われることが望ましいのであって、上記の契機を与えるための教育を行う場合においてもそのことは変わらないであろう。その意味で、強制や不利益処分も可能な限り謙抑的であるべきである。のみならず、卒業式などの儀式的行事において、『日の丸』、『君が代』の起立斉唱の一律の強制がなされた場合に、思想及び良心の自由についての間接的制約等が生ずることが予見されることからすると、たとえ、裁量の範囲内で違法にまでは至らないとしても、思想及び良心の自由の重みに照らし、また、あるべき教育現場が損なわれることがないようにするためにも、それに踏み切る前に、教育行政担当者において、寛容の精神の下に可能な限りの工夫と慎重な配慮をすることが望まれるところである」。

 

千葉勝美裁判官は、「外部的行動」(核となる思想信条等に属するものを除いたもの)は、絶対的保障を受ける思想信条等の「核心部分」とは異なって制限が許容されるとする。そして、「核心部分」との関連性の「遠近」によって、「間接的制約」にも強弱ができてくる。「核心部分」に近づくほど、制限の必要性・合理性の程度もより厳しいものが求められる。それは比較考量の問題だが、「本人が主観的に思想として確信しているものについて思想としての濃淡を付けたり、ランク付けしたりするものではなく、飽くまでも外部的行動が核となる思想信条等とどの程度の関連性が認められるかという憲法論的観点からの客観的、一般的な判断に基づくものにとどまる」とする。核心と外的部分とを「同心円」のなかの位置関係に例えて論ずるなど、いま一つ理解しづらい。千葉裁判官のこの意見は、竹内裁判官が批判する、「個人の内心〔核心部分〕に立ち入った恣意的な判断となる危険」があるのではないか。この千葉意見でマスコミが注目したのは、憲法解釈論ではない部分、すなわち、結びの「国旗及び国歌をめぐる教育現場での対立の解消に向けて」の次の下りだった。

 

「国旗及び国歌に対する姿勢は、個々人の思想信条に関連する微妙な領域の問題であって、国民が心から敬愛するものであってこそ、国旗及び国歌がその本来の意義に沿うものとなるのである。そうすると、この問題についての最終解決としては、国旗及び国歌が、強制的にではなく、自発的な敬愛の対象となるような環境を整えることが何よりも重要であるということを付言しておきたい」。

 

補足意見で言われていることは他にもたくさんあるのだが、紹介はこの位にしておこう。長々とした補足意見を書いた裁判官たちの心象風景はいかなるものだったのだろうか。新聞各紙は「起立斉唱命令が合憲」という点に注目しているが、補足意見まで読めば、思想・良心の自由の「間接的制約」を経由して、教育現場での起立斉唱を求める職務命令の危うさを示唆しようとしたのではないか。「紙一重の合憲性」であって、これをもってこの種の職務命令がお墨付きを得たとするのは安易だろう。

上記の写真の通り、『毎日新聞』31日付は「間接的制約」に大きな見出しを付けて、その点に着目する紙面構成を行った。そこには奥平康弘氏(東大名誉教授)のコメントもある。奥平氏は、「3人の補足意見を見ると、『起立命令の合憲性がぎりぎりだ』という悲鳴が聞こえてくるようだ。結論はピアノ訴訟と同じだが、裁判官たちの判断の経緯に苦労がうかがえ、実質的に違憲判決に近くなった印象を受ける」と指摘している。
   もちろん、この判決は、必要性や合理性の基準についてはなお曖昧であり、「間接的制約」の部分の認定の精緻さに比べ、必要性・合理性を認定には粗さが目立つ。思想・良心の自由のデリケートな性格に着目すれば、必要性・合理性の審査は、目的と手段の関係の、特に合理性(適合性)・必要性(必要最小限性)をもっと精緻に審査すべきであった。例えば、「子どもの教育を受ける利益」という目的、その達成手段は、起立斉唱強制命令という手段で、はたして合理性・必要性を充たしているのか、もっと丁寧に審査すべきであったろう。

ところで、この「合憲判決」を出すにあたって、ここまで長い補足意見を書いて「言い訳」させる事情があったように思う。それが、大阪府「君が代起立条例」の動きである。
   大阪府議会で単独過半数をもつ「大阪維新の会」(代表・橋下徹大阪府知事)が提案していた「君が代起立条例」は、判決の4 日後、6月3日に可決・成立した。
   条例は、「学校における服務規律の厳格化を図ることを目的」として、市町村立を含む府内公立学校の教職員に対して、国歌斉唱時の起立を義務づけるとともとに、府施設における国旗の常時掲揚も義務づけている。罰則規定はないが、「維新の会」は、不起立を繰り返した教職員に対しては懲戒免職処分で臨む意向で、その処分基準を定めた別の条例を9月議会に提案するという。

判決が出た先月30日、橋下知事は、「最高裁の判断が出て、条例までつくる必要はないとの議論も出ると思う。それでも条例が必要な理由をしっかり説明しなければならない」と述べた(『朝日』同)。「合憲判決が出たから条例は不要」という声だけを意識したコメントのようだが、早大政経学部94年卒で司法試験に合格した橋下知事は、3人の補足意見をどのように読んだのだろうか。私は、大阪の動きが、この時期に「合憲判決」を出すにあたって、最高裁裁判官をして長々とした補足意見を書かせる「動機」になっていたのではないか、と推測している。なお、橋下知事は上記のコメントに続けて、「職務命令を出すかどうか。教育委員会の裁量に委ねられているのが問題。政治が一定の規範を立てることが条例の一番重要なところだ」と述べている。まさに、教育への政治介入である。教育現場にふさわしくない、強制と威嚇の仕組み。これこそ、最高裁裁判官たちが補足意見で執拗に警告していたことではなかったか。

軍急進派が2.26事件まで突き進む「昭和維新」の時代状況と異なるとはいえ、一つ共通しているのは、経済的困窮と政治への失望のなか、「敵」を明確にして、強引な手法で既存の仕組みを「ぶちこわしていく」動きに対して喝采を送る人々が少なくないことである。教育への「不当な支配」を禁じた教育基本法も、イデオロギッシュな問題意識をもつ安倍晋三内閣のときに「改正」された。職務命令で教師を威嚇・強制する手法が政治介入によってさらに強化されれば、教育現場は萎縮し、「疑心暗鬼」が生まれていく。長文の補足意見によって支えられた本判決の論理を一貫させれば、大阪府条例、特に懲戒免職を含む9月の条例は違憲と判断されることになろう。

出典

②琉球新報

 「起立斉唱」判決 重い処分乱用への警鐘2012年1月18日

 入学式や卒業式での国旗国歌の起立斉唱をめぐり最高裁判決があり、教諭らに対する停職や減給など一部の懲戒処分を「裁量権の乱用で違法」として取り消した。起立斉唱を指示する校長の職務命令は「合憲」との判断が示されていたが、命令違反に対する懲戒処分の乱用に警鐘を鳴らす判決と言え、一定の評価ができる。
 判決は、不起立行為について「歴史観、世界観などに起因するもので物理的に式次第の進行も妨げない」と指摘。処分については、懲戒処分の最も軽い「戒告」は妥当としたが、「減給」や「停職」は給与上の不利益や将来の昇給にも影響が及ぶとして「慎重な考慮」を求めた。
 戒告を超えた処分が許されるのは、国旗掲揚の妨害や引き下ろしなど「具体的な事情が必要」と明示。起立しないだけで重い処分を下すことは違法になり得るとの初の判断で、処分に一定の歯止めとなるのは間違いない。
 昨年5月の最高裁判決は命令を初めて合憲としながらも、憲法が保障する「思想、良心の自由」を間接的に制約すると指摘していた。どの程度の処分まで許されるかが焦点だったが、処分の在り方に一定の方向性を示した今回の判決は、今後の教育行政の指針となる。
 桜井龍子裁判官は補足意見で「東京都は不起立1回目は戒告、2、3回目は減給、4回目は停職とする方針がうかがえ懲戒権を逸脱している」と批判。都教委は早急に処分方針を改めるべきだ。
 一方、橋下徹大阪市長率いる大阪維新の会は、国歌斉唱時の起立など同一の職務命令に3回違反すると免職対象とする「教育基本条例案」を府議会に提出。一度は否決された市議会でも再提案の方向だ。判決を受け、橋下市長は条例案を部分的に修正する考えだが、分限免職規定など根幹部分は維持する意向だ。判決の曲解は言語道断で条例案を即刻撤回すべきだ。
 桜井裁判官が補足意見で指摘するように、教育現場で紛争が繰り返される事態の一日も早い解消のため、具体的方策を探る関係者の努力が必要だ。
 特に注目すべきは宮川光治裁判官の反対意見だ。「教員の精神の自由はとりわけ尊重されなければならない」と全ての処分が違法とし、職務命令自体も違憲と主張した。多様な価値観や意見を尊重する民主主義社会はどうあるべきか。議論を深める始まりとしたい。

①愛媛新聞

http://www.ehime-np.co.jp/rensai/shasetsu/ren017201201187708.html

特集社説2012年01月18日(水)

日の丸 ・ 君が代訴訟 懲戒の抑制的運用求めた判決

 「戒告を超える減給以上の処分の選択には慎重な考慮が必要」。日の丸・君が代への起立、斉唱の職務命令違反を理由とした懲戒処分をめぐる最高裁判決は、裁量権の範囲を限定的にとらえることで厳しすぎる処分に対して一定の歯止めをかける形となった。
 学校行事で日の丸へ向かっての起立や君が代の斉唱などを拒否し、地方公務員法に基づく懲戒処分を受けた東京都の公立学校の現・元職員計約170人が処分取り消しを求めた訴訟3件の上告審。
 判決は「不起立行為は職務命令違反であり、式典の秩序や雰囲気を一定程度損なう」としたものの、「動機や原因は教職員個人の歴史観ないし世界観などに起因するもので積極的な妨害でなく、物理的に式次第の進行も妨げない」と指摘した。
 その上で、停職の2人のうち1人と、減給の1人に対する処分は「裁量権の乱用で違法」として取り消した。停職のもう1人と、残る原告の戒告は妥当とした。
 判決は過去1、2年に不起立のような行為で受けた数回の処分歴では、減給や停職の理由としては重すぎると例示した。また、減給以上の処分では過去の積極的な式典妨害の有無などの個別事情を考慮すべきだとして、国旗の引き下ろしなどの積極的な妨害を繰り返した教員の停職処分は維持した。
 つまり、どの程度の処分までなら許容されるか。最高裁が一定の方向性を示した判決といえる。教育行政の場で、今後の指針となるのはまちがいない。
 地域政党「大阪維新の会」が大阪府、大阪市で成立をめざす教育基本条例案は見直しを迫られることになった。府で継続審議となっている条例案では、職員が同一の職務命令に3回従わない場合は免職の対象とする条文があり、最高裁判決が示した考え方に反するからだ。
 日の丸や君が代に関する職務命令違反で懲戒処分を受けた教職員は、2003年度の194人をピークに年々減少傾向という。そして処分をした自治体の内訳は東京都が大半である。都教委が03年、君が代斉唱などを義務付ける通達を出したためである。
 最高裁は昨年、斉唱などを指示した校長の職務命令について合憲の判断を下したが、「思想、良心の自由を間接的に制約する面がある」ともしている。不起立などは自らの信条に忠実に従ったもので、違法性は極めて希薄である。逆に職務命令は懲戒処分を前提にした側面が強い。
 都教委などの手法は、命令と懲戒で意見を封じ込めようとするもので教育現場にはふさわしくない。懲戒の繰り返しによる対立を終わらせなければならない。

 

 

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