2本件の間接的制約該当性
本件の起立斉唱行為は,一般的,客観的にみて,卒業式等の式典における慣例上
の儀礼的な所作としての性質を有するものであるが,国旗,国歌への敬意の表明の
要素を含むものであることから,「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義等との
関係で一定の役割を果たしたとする上告人の歴史観等に由来する外部的行動(国
旗,国歌への敬意の表明の拒否)と矛盾抵触し,その歴史観等の核心部分を否定さ
れるものと,あるいは自己が否定する歴史観等を外部に表明する行為と評価される
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ものと受け止められるであろうから,精神的葛藤を生じ,上告人の歴史観等に係る
制約となる面があるところ,社会一般の規範等である本件職務命令は,後にも述べ
るが,特定の歴史観等は前提とせず,いわんやこれを否定するようなことは予定さ
れておらず,一般にそのようにみられるものでもないから,上記の制約は,結果と
しての間接的制約となるものである。また,「日の丸」,「君が代」は賛否が分か
れている問題を含むのであり,学校の卒業式における起立斉唱は本来一律の強制で
なされるべきでなく,したがって起立斉唱してはならないという信条を有している
ということで,その信条の制約ということも考えられる。そうすると,本件職務命
令が憲法に違反するか否かは,これらの間接的制約等を許容し得る程度の必要性及
び合理性が認められるか否かによって定まることとなる。
3必要性及び合理性
(1)まず,本件職務命令の趣旨,目的は,高校生徒が,起立斉唱という国旗,
国歌への敬意の表明の要素を含む行為を契機として,日常の意識の中で自国のこと
に注意を向けるようにすることにあり,そのために,卒業式典という重要な儀式的
行事の機会に指導者たる教員に,いわば率先垂範してこれを行わしめるものといえ
る。けだし,「日の丸」,「君が代」は国旗,国歌であるので(国旗及び国歌に関
する法律。以下「国旗国歌法」という。),それが日本国(以下,適宜,「国」又
は「自国」と称する。)をメッセージしているからである。
制約を許容し得る程度の必要性,合理性の根拠はできれば憲法自体に求められる
ことが望ましいという前述の視座から検討するに,我々は,「平和を愛する諸国民
の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持」(憲法前文)しなければな
らないが,益々国際化が進展している今日こそ,自国の伝統や文化に対して正しい
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理解をした上で,他国を尊重し,柔軟な国際協調の精神を培って国際社会の平和と
発展に寄与することがあるべき姿であろう。教育基本法(平成18年法律第120
号による改正前のもの。以下同じ。)1条は,教育は,「平和的な国家及び社会の
形成者として」の国民育成を期して行わなければならないと規定し,学校教育法18条2号は,小学校教育の目標として,「郷土及び国家の現状について,正しい理
解に導き,進んで国際協調の精神を養うこと」と,同法36条1号及び42条1号
は,それぞれ,中学校教育,高校教育の目標として,小学校,中学校の教育の基礎
の上に,「国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと」,「国家及び社会
の有為な形成者として必要な資質を養うこと」と規定しているところである。実
際,高校生は,やがて,国の主権者としての権利を行使し社会的責務を負う立場に
なるのであり,また,自らの生活や人生を国によって規定されることは避けられな
い。公共の最たるものが国であり,国は何をする存在なのかを知り,国が自分のた
めに何をしてくれるのかを問いかけることも,自分が国のために何をなし得るのか
を問いかけることも,大切なことと思われる。そして,そのためには,自国の歴史
の正と負の両面を虚心坦懐に直視しなければならない。そうすると,職務命令にお
いて,高校生徒に対していわば率先垂範的立場にある教員に日常の意識の中で自国
のことに注意を向ける契機を与える行為を行わしめることは当然のことともいえ
る。他方,国民は普通教育を受けさせる義務(責務)を負うところ(憲法26条2
項),上告人が従事していた高校教育も,その段階の一つである(学校教育法50
条)。そして大切なことは,その義務(責務)を果たすことの前提として,国民
は,教育を受ける権利を基本的人権として保障され(憲法26条1項),法律に定
められた内容において普通教育,専門教育についての高校教育の提供を要求する権
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利を有するものである。そうすると,国民は,日常の意識の中で自国のことに注意
を向ける契機を与える教育について,その提供を受ける権利を有するということが
でき,国はこれに対応してそのような教育の提供をする義務があるともいえるので
あるから,教育関係者がその実践に及ぶことはその観点からしても当然のこととい
える。さらに,都立高校の教諭たる上告人は,公務員として,また,教員として,
「全体の奉仕者」であるところ(憲法15条2項,地方公務員法30条,教育基本
法6条2項),平和的な国家及び社会の形成者として新しい世代を育成し,国民の
教育を受ける権利を実現する上での上記の契機を与えるための教育は,国民全体の
関心事でもあるから,そのような教育を行うことは,全体の奉仕者としての当然の
責務であるともいえる。そうすると,特定の国家観を前提とせず,普通教育の従事
者たる教員に,自国のことに注意を向けるための契機を与えようとする教育を行わ
しめることは,教育を受ける権利や全体の奉仕者という観点においても,憲法上の
要請ということも可能である。
以上のように,本件職務命令は,その趣旨,目的自体において,十分に必要性や
合理性が認められるというべきである。
(2)上記の契機を与えるための教育の手段としては,様々なものがあり得るか
ら,「日の丸」や「君が代」を用いてこれに対して敬意の表明の要素を含む行為を
させることは唯一の選択肢ではないものの,これらは,国旗,国歌として国を象徴
するものであるがゆえに,直截で分かりやすく,これに敬意の表明の要素を含む行
為をすることが,日常の意識の中で自国のことに注意を向ける契機となるものと思
われる。教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の中であれば,他にも様々
な方法が考えられるが,進行上のめり張り,厳粛性,統一性などが要求される卒業
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式などの全校的な統一的集団行事としての儀式的行事において,みるべき代替案あ
るいは拮抗する対案が提唱されていることもうかがわれない。のみならず,自国の
国旗,国歌に敬意の表明の要素を含む行為をすることは,他国の国旗,国歌に対す
る敬意の表明の要素を含む行為を行うことにつながり,他国の国旗,国歌を尊重す
ることは他国を尊重することを含意すると思われるところ,さきに述べたところか
らして他国を尊重するように教育をすることは大切なことである。以上によれば,
本件の卒業式において,「国」のことに注意を向ける契機を与えるための教育の手
段として,「日の丸」や「君が代」を用い,教員をして,いわば率先垂範してこれ
に対する敬意の表明の要素を含む行為をさせることには,必要性及び合理性が認め
られるといえる。
しかして,仮にこの「日の丸」,「君が代」が特定の歴史観等や反憲法的国家像
を前提とするのであれば,本件のような職務命令は,公権力が思想教育ないしは特
定の思想について一定の価値判断を教員に教え込ませようとするものとして許され
ないことになろうが,国旗国歌法上,国旗たる「日の丸」も国歌たる「君が代」
も,特定の歴史観等や反憲法的国家像が前提とされているわけではないから,本件
職務命令はそのような前提には立っていないというべきである。仮に,このような
職務命令によって,実は一定の歴史観等を有する者の思想を抑圧することを狙って
いるというのであるならば,公権力が特定の思想を禁止するものであって,前記の
とおり憲法19条に直接反するものとして許されないことになろうが,本件職務命
令はそのような意図を有しているものとも認められない。
もっとも,「日の丸」,「君が代」については,かねて国民の間に少なからぬ議
論のあるところであり,様々な考え方があるのも現実である。「日の丸」,「君が
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代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人の歴史観等
からすれば,「日の丸」,「君が代」がメッセージしているのは,その過去の
「国」であるということなのであろう。しかし,他方において,それは,負の歴史
をも踏まえた上での現在の「国」,つまり,国民主権主義,基本的人権尊重主義,
平和主義といった基本原理を有する日本国憲法の秩序の下にある国である,あるい
はそのような国であるべきだとの考え方もあり得るところであろう。むしろ,一般
的には,「日の丸」,「君が代」がメッセージしているのは,特定の国家像などが
前提とされていない国であり,したがって,本件におけるような卒業式典における
起立斉唱も,慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものと捉えられるといえ
る。
(3)以上のとおり,本件職務命令は,その趣旨,目的において,必要性,合理
性の根拠を憲法上に求めることができる。ところで,間接的制約等を許容し得る程
度の必要性,合理性が認められるためには,進んで具体的な方法,態様において
も,必要性,合理性が要求されるものであるので(その方法,態様自体が憲法的価
値そのものを否定するものであれば,必要性,合理性を認めることができな
い。),この観点から更に考察するに,起立斉唱という方法は,国旗,国歌への敬
意の表明の要素を含む行為としては,唯一の選択肢ではないであろうが,それが直
截的であり,これに代替し又は拮抗する方法は容易に見いだし難いように思われ,
この方法を採ることには必要性,合理性が認められる。また,卒業式典は,全校的
な統一的集団行事であり,教育的観点から重要な儀式的行事として位置付けられる
という性格からして,厳粛かつ効果的に執り行われるべきことが要求されるので,
会場の雰囲気を損なってその円滑な進行に水を差したり,生徒をして日常の意識の
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中で自国に注意を向ける契機を与えるという教育の効果を一部減殺するなどの事態
を招かないようにするために,いわば率先垂範的な立場にある教員に一律に強制
し,そのための制裁手段としての懲戒処分(過度に重いものしか定められていない
というものではない。)を設けるという方法を採ることも必要性,合理性が認めら
れるというべきである。そして,本件職務命令の対象たる起立斉唱の形式,内容,
進行方法,所要時間,頻度等をみても,起立斉唱に付加して,例えば,国家への忠
誠文言の朗誦とか,愛国心を謳った誓約書への署名などの行為を求めるものではな
く,しかも,短時間で終了し,日を置かずして反復されるようなものでもなく,そ
の結果,慣例上の儀礼的な所作の域にとどまるといえる。また,上記の点よりする
と,本件職務命令は,少なくとも,その間接的制約等を最小限にとどめるような慎
重な配慮を著しく欠いているとはいえない。そうすると,本件職務命令は,その態
様においても,必要性,合理性が認められる(これらの方法,態様自体は憲法的価
値そのものを否定するものとも思われない。)。
(4)ところで,上告人が起立斉唱拒否行為(不起立)を行うことは,「日の
丸」,「君が代」にまつわる前記歴史観等が正しいとの強い確信を基にして,起立
斉唱はなすべきではないとする信条を,結果的にであるにせよ,表示することにな
る一面も否定できない。自己の良心に忠実かつ真摯な態度との側面もあるといい得
るし,上告人がそのような歴史観等や信条を有するのは絶対に自由であるが,他方
で,上告人の歴史観等とは異なる考え方などもあり得ると思われる。高校生活の目
標は,歴史認識を含め,物事には多様な考え方,正反対の見方があることを知り,
自主独立の精神の下に自分自身の価値観,人格を形成させ,主体的に判断する能力
を身に付けることであり,教育はそれを支援することであろう。ところが,卒業式
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という学校にとって最も重要でしかもやや劇的な場面で,上告人が,そのことを特
に意図するものではないにせよ,強固な信条を表示するのであれば,それは,結
局,対立する考え方を公平かつ平等に紹介するというよりも,自己が絶対視した価
値観を一方的に教育の場に持ち込むということになろう。その結果,担任クラス,
担当教科,クラブ活動などで緊密な信頼関係で結ばれている生徒らを中心に,上記
の考え方が一義的に正しいものとして受け取られるなどで強い影響力,支配力を及
ぼすことにもなり得ると思われる。しかし,高校生徒の側では,学校や教員を選択
する自由も乏しく,また,大学生などとは異なり,一般に教員の教授内容について
批判する能力がいまだ十分備わっているとはいい難いことに照らすと,それは,高
校生徒の自由な思想の形成を損なうことになりはしないかと懸念されるのである。
上告人は,地方公務員として全体の奉仕者であり(憲法15条2項,地方公務員法
30条),かつ法律で定める学校の教員として全体の奉仕者であって(教育基本法
6条2項),そのことからすると,公立学校の教員として生徒への教育において公
正中立でなければならないと思われるが,それに反することになるようにも思われ
るのである。また,国民の教育(普通教育)を受ける権利は特定の価値観ではな
く,国民が一般に共通に願う基礎的かつ均質な内容の教育の提供を要求できる権利
であろう。そのような意味においては,憲法上の疑念も生ずるところである。職務
命令による要求が一律であることには,上記の点からも必要性,合理性が基礎付け
られよう。
(5)なお,前記のような歴史観等とは離れて,単に一律の強制で起立斉唱する
というような方法で行うべきではないという社会生活上の信条もあり得るところで
ある。上告人は,卒業式は生徒と教師が作り上げるべきであり,他者から一律に強
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制されるべきではない旨の主張をしているところであり,本件職務命令はこのよう
な信条の制約である旨を主張するものとも理解し得る。もとより,そのように考え
ることは全く自由であるし,また,起立斉唱を強制されることにより,精神的葛藤
を生じるであろう。この信条の制約の場合,間接的制約の場合と同様にその制約を
許容し得る程度の必要性,合理性があるかどうかという判断枠組みがなお用いられ
るべきであるということは,既に述べたとおりであるが,その比較考量において
は,前記の歴史観等に係る間接的制約の場合と異なり,特段の事情がある場合は別
として,その許容性が一般に容易に肯定されるであろう。もちろん,思想内容に立
ち入ってその価値の軽重について外から序列を付けることは適切でないとしても,
そのような社会生活上の信条は歴史観等の核心部分からやや隔たるといえるし,ま
た,その種の社会生活上の信条は甚だ広範にわたるのであって,特に公教育にあっ
ては,自己の社会生活上の信条に反するからという一事で,一般に拒否する自由が
認められれば,公教育(特に普通教育)そのものが成り立たなくなり得るし,教育
公務員が全体の奉仕者であることと端的に矛盾することになると思われるからであ
る。本件の社会生活上の信条に関しては,特段の事情は認められず,その制約を許
容し得る程度の必要性,合理性が認められるといえよう。
(6)なお念のために付言すれば,以上は飽くまで憲法論であって,職務命令違
反を理由とする不利益処分に係る裁量論の領域で,日常の意識の中で国のことに注
意を向ける契機を与えるために,起立斉唱がどれほど必要なのか,卒業式はその性
格からしてそれを行う機会としてふさわしいのかなどの方法論や,不起立によって
どのような影響が生じその程度はいかほどか,不利益処分を行うこととその程度は
行き過ぎではないかといった点を考量した上で,当該処分の適法性を基礎付ける必
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要性,合理性を欠くがゆえに,当該処分が裁量の範囲を逸脱するとして違法となる
ということはあり得る。
このことに関連して更にいえば,最も肝腎なことは,物理的,形式的に画一化さ
れた教育ではなく,熱意と意欲に満ちた教師により,しかも生徒の個性に応じて生
き生きとした教育がなされることであろう。本件職務命令のような不利益処分を伴
う強制が,教育現場を疑心暗鬼とさせ,無用な混乱を生じさせ,教育現場の活力を
殺ぎ萎縮させるというようなことであれば,かえって教育の生命が失われることに
もなりかねない。教育は,強制ではなく自由闊達に行われることが望ましいのであ
って,上記の契機を与えるための教育を行う場合においてもそのことは変わらない
であろう。その意味で,強制や不利益処分も可能な限り謙抑的であるべきである。
のみならず,卒業式などの儀式的行事において,「日の丸」,「君が代」の起立斉
唱の一律の強制がなされた場合に,思想及び良心の自由についての間接的制約等が
生ずることが予見されることからすると,たとえ,裁量の範囲内で違法にまでは至
らないとしても,思想及び良心の自由の重みに照らし,また,あるべき教育現場が
損なわれることがないようにするためにも,それに踏み切る前に,教育行政担当者
において,寛容の精神の下に可能な限りの工夫と慎重な配慮をすることが望まれる
ところである。
裁判官千葉勝美の補足意見は,次のとおりである。
私は,法廷意見に補足して,本件職務命令に対する合憲性審査の視点について,
また,本件のような国旗及び国歌をめぐる教育現場での対立の解消に向けて,私見
を述べておきたい。
1本件職務命令に対する合憲性審査の視点について
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(1) 憲法19条が保障する「思想及び良心の自由」の意味については,広く人
の内心の活動全般をいうとする見解がある。そこでは,各人のライフスタイル,社
会生活上の考えや嗜好,常識的な物事の是非の判断や好悪の感情まで広く含まれる
ことになろう。もちろん,このような内心の活動が社会生活において一般に尊重さ
れるべきものであることは了解できるところではあるが,これにも憲法19条の保
障が及ぶとなると,これに反する行為を求めることは個人の思想及び良心の自由の
制約になり,許されないということになる。しかしながら,これでは自分が嫌だと
考えていることは強制されることはないということになり,社会秩序が成り立たな
くなることにもなりかねない。したがって,ここでは,基本的には,信仰に準ずる
確固たる世界観,主義,思想等,個人の人格形成の核心を成す内心の活動をいうも
のと解すべきであろう。本件の上告人についていえば,「日の丸」や「君が代」が
戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人自身の歴史観ない
し世界観(以下「上告人の歴史観等」という。)がこれに当たるであろう。そし
て,このような思想及び良心の自由は,内心の領域の問題であるので,外部からこ
れを直接制約することを許さない絶対的な人権であるとされている。これを直接制
約する行為というのは,性質上余り想定し難いところではあるが,例を挙げれば,
個人の思想を強制的に変えさせるために思想教育を行うことなどがあろう。
このように,個人の思想及び良心の自由としての歴史観ないし世界観は,内心の
領域の問題ではあるが,現実には,それにとどまらず,歴史観等に根ざす様々な外
部的な行動となって現れるところである。その中には,各人の歴史観等とは切り離
すことができない不可分一体の関係にあるものがあり,これも歴史観等とともに憲
法上の保障の対象となり,これを直接的に制約しあるいはこれに直接反する行為を
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命ずること(例えば,本件では上告人の歴史観等を否定しあるいはこれに直接反す
る見解の表明行為に参加することを命ずることなど)も,同様に憲法19条により
禁止されると解してよいであろう。
そうすると,この歴史観等及びこれと不可分一体の行動(以下これらを「核とな
る思想信条等」という。)が憲法19条による直接的,絶対的な保障の対象となる
のである。
(2) 次に,核となる思想信条等に由来するものではあるが,それと不可分一体
とまではいえない種々の考えないし行動というものが現実にはあり(以下,これが
外部に現れることから「外部的行動」という。),これが他の規範との関係で,何
らかの形で制限されあるいはこれに反する行為を命ぜられることがあろう。このよ
うな制限をする行為(以下「制限的行為」という。)がどのような場合に許される
のかが次に問題になる。
本件において,上告人の起立斉唱行為の拒否という外部的行動は,特に在日朝鮮
人・在日中国人の生徒に対し,「日の丸」・「君が代」を卒業式に組み入れて強制
するべきでないと考え,教師の信念として起立斉唱行為を拒否する考えないし行動
であるところ,これは,上告人の「日の丸」・「君が代」に関する歴史観等そのも
の,あるいはそれと不可分一体のものとまではいえないが,それに由来するもので
ある(仮に,これも不可分一体であるとなると,それはおよそ制限を許さない不可
侵なものということになるものと考える。)。他方,本件職務命令は外部的行動に
反する制限的行為となるから,その許否が検討されることになる。
(3) 一般に,核となる思想信条等に由来する外部的行動には様々なものがある
が,本人にとっては,そのような外部的行動も,すべて核となる思想信条等と不可
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分一体であると考え,信じていることが多いであろう。そのような主観的な考え等
も一般に十分に尊重しなければならないものであり,この内心の領域に踏み込ん
で,その当否,評価等をすべきでないことは当然である。もっとも,憲法19条に
いう思想及び良心の自由の保障の範囲をどのように考えるかに際しては,このよう
な外部的行動を憲法論的な観点から客観的,一般的に捉え,核となる思想信条等と
の間でどの程度の関連性があるのかを検討する必要があるというべきである。これ
が客観的,一般的に見て不可分一体なものであれば,もはや外部的行動というより
も核となる思想信条等に属し,前述のとおり,憲法19条の直接的,絶対的な保障
の対象となるが,そこまでのものでないものもあり,その意味で関連性の程度には
差異が認められることになる。これを概念的に説明すれば,この外部的行動(核と
なる思想信条等に属するものを除いたもの)は,いわば,核となる思想信条等が絶
対的保障を受ける核心部分とすれば,それの外側に存在する同心円の中に位置し,
核心部分との遠近によって,関連性の程度に差異が生ずるという性質のものであ
る。そして,この外部的行動は,内側の同心円に属するもの(核となる思想信条
等)ではないので,憲法19条の保障の対象そのものではなく,その制限をおよそ
許さないというものではない。また,それについて制限的行為の許容性・合憲性の
審査については,精神的自由としての基本的人権を制約する行為の合憲性の審査基
準であるいわゆる「厳格な基準」による必要もない。しかしながら,この外部的行
動は核となる思想信条等との関連性が存在するのであるから,制限的行為によりそ
の間接的な制約となる面が生ずるのであって,制限的行為の許容性等については,
これを正当化し得る必要性,合理性がなければならないというべきである。さら
に,当該外部的行動が核心部分に近くなり関連性が強くなるほど間接的な制約の程
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度も強くなる関係にあるので,制限的行為に求められる必要性,合理性の程度は,
それに応じて高度なもの,厳しいものが求められる。他方,核心部分から遠く関連
性が強くないものについては,要求される必要性,合理性の程度は前者の場合より
は緩やかに解することになる。そして,このような必要性,合理性の程度等の判断
に際しては,制限される外部的行動の内容及び性質並びに当該制限的行為の態様等
の諸事情を勘案した上で,核となる思想信条等についての間接的な制約となる面が
どの程度あるのか,制限的行為の目的・内容,それにより得られる利益がどのよう
なものか等を,比較考量の観点から検討し判断していくことになる。
なお,さきに述べたように,このような比較考量は,本人の内心の領域に立ち入
って,本人が主観的に思想として確信しているものについて思想としての濃淡を付
けたり,ランク付けしたりするものではなく,飽くまでも外部的行動が核となる思
想信条等とどの程度の関連性が認められるかという憲法論的観点からの客観的,一
般的な判断に基づくものにとどまるものである。例を挙げれば,最高裁平成16年
(行ツ)第328号同19年2月27日第三小法廷判決・民集61巻1号291頁
における事案のように,本件の上告人と同様の歴史観等(核となる思想信条等)を
有する市立小学校のピアノ教師が,自己の信念として卒業式等で「君が代」のピア
ノ伴奏をすべきではないとし,それを拒否するという外部的行動と,本件の起立斉
唱行為の拒否という外部的行動を比べると,各人の内心における信念としては,い
ずれも各人の歴史観等と不可分一体のものと考えているものと思われ,そのこと自
体は,十分に尊重に値するが,核となる思想信条等としての歴史観等との憲法論的
な観点からの客観的,一般的な関連性については,本件起立斉唱行為の拒否の方
が,後述のとおり,「日の丸」・「君が代」に対する敬意の表明という要素が含ま
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れている行為を拒否するという意味合いを有することなどからみて,関連性がより
強くなるものということになろう。
(4) 本件の上告人の上記の「日の丸」等に関する外部的行動(起立斉唱行為の
拒否)は,上告人の歴史観等(核となる思想信条等)に由来するものであるが,上
記(3)で述べた趣旨において,それとの関連性は強いが不可分一体とまではいえな
いというべきである(なお,この外部的行動は,上告人の内心において,起立斉唱
行為をすべきでないし,しないという強い信念となっているとしても,この内心の
信念と起立斉唱行為の拒否とは表裏の関係にあり,前者は不可侵の領域で後者は外
部的な事象,というように両者を分けて憲法上の意味を考えることはできないとこ
ろであると考える。)。
また,上告人は,儀式的行事において行われる「日の丸」・「君が代」に係る起
立斉唱行為のように,公的な式典において本人が意図せぬ一定の行為を他の公的機
関から強制されるのは自己の信念に反し苦痛であるという趣旨の主張もしている
が,これは,いわゆる反強制的信条(前記最高裁判決における藤田裁判官の反対意
見参照)というべきものの一つであろう。このような反強制的信条は,それが,上
告人の個人的な卒業式の在り方についての観念や,そもそも教育の場で教師として
一定の行動を他から強制されることへの強い嫌悪感ないし否定的な心情のようなも
のである場合もあろう。そうであれば,これらは,前記のとおり,個人の内心の活
動に属する問題であり,一教師としてあるいは個人としての立場から尊重され得る
事柄ではあるが,憲法上の絶対的な保障の対象となる思想及び良心の自由の領域そ
のものの問題ではない。もっとも,このような観念等は,上告人の歴史観等の核と
なる思想信条等と関連性があり,それに由来するものであると解する余地がある。
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その場合には,上告人の起立斉唱行為の拒否という外部的行動と同じ観点から制約
の許容性が検討され,その結果,同様の判断となるのである。
(5) ところで,本件職務命令が求める起立斉唱行為は,国旗・国歌である「日
の丸」・「君が代」に対し多かれ少なかれ敬意を表する意味合いが含まれており,
その点において,本件職務命令は,上告人の歴史観等それ自体を否定するような直
接的な制約となるものとはいえないが,その間接的な制約となる面があり,また,
その限りにおいて上告人の上記の反強制的信条ともそごする可能性があるものであ
る。しかしながら,法廷意見の述べるとおり,起立斉唱行為は,学校行事における
慣例上の儀礼的な所作としての性質を有し,外部から見ても上告人の歴史観等自体
を否定するような思想の表明として認識されるものではなく,他方,起立斉唱行為
の教育現場における意義等は十分認められるのであって,本件職務命令は,憲法上
これを許容し得る程度の必要性,合理性が認められるものと解される。
2本件のような国旗及び国歌をめぐる教育現場での対立の解消に向けて
(1)職務命令として起立斉唱行為を命ずることが違憲・無効とはいえない以
上,これに従わない教員が懲戒処分を受けるのは,それが過大なものであったり手
続的な瑕疵があった場合等でない限り,正当・適法なものである。しかしながら,
教員としては,起立斉唱行為の拒否は自己の歴史観等に由来する行動であるため,
司法が職務命令を合憲・有効として決着させることが,必ずしもこの問題を社会的
にも最終的な解決へ導くことになるとはいえない。
(2)一般に,国旗及び国歌は,国家を象徴するものとして,国際的礼譲の対象
とされ,また,式典等の場における儀礼の対象とされる。我が国では,以前は慣習
により,平成11年以降は法律により,「日の丸」を国旗と定め,「君が代」を国
-31
歌と定めている。入学式や卒業式のような学校の式典においては,当然のことなが
ら,国旗及び国歌がその意義にふさわしい儀礼をもって尊重されるのが望まれると
ころである。しかしながら,我が国においては,「日の丸」・「君が代」がそのよ
うな取扱いを受けることについて,歴史的な経緯等から様々な考えが存在するのが
現実である。
国旗及び国歌に対する姿勢は,個々人の思想信条に関連する微妙な領域の問題で
あって,国民が心から敬愛するものであってこそ,国旗及び国歌がその本来の意義
に沿うものとなるのである。そうすると,この問題についての最終解決としては,
国旗及び国歌が,強制的にではなく,自発的な敬愛の対象となるような環境を整え
ることが何よりも重要であるということを付言しておきたい。
(裁判長裁判官 須藤正彦裁判官 古田佑紀裁判官 竹内行夫裁判官 千葉勝美)
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出典
再雇用拒否処分取消等請求事件http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20110530164923.pdf