■■■ 解法者氏による解説 ■■■
◆◆◆ 明治憲法と現行憲法との人権制約の基準 ◆◆◆
(1)
(第二十八条関連)
現行憲法では「憲法が保障する国民の自由・権利については・・・国民は乱用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う(12条)」、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り・・・最大の尊重を必要とする(14条)」と定めております。
この「公共の福祉」と「安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限り」とは、どのような違いがあるでしょうか。
判例は、利益衡量の考え方を採っているといわれております。これは、権利と権利がぶつかり合う場合に、これを調整する機能として「公共の福祉」を考える。例を挙げて説明しますと、ある宗教団体Aが他の宗教団体Bの排斥を求めて街頭宣伝活動に出て、その宗教団体Bの本部の前で宗教団体撲滅運動を繰り広げた場合、宗教団体Bが宗教団体Aは<信教の自由>を侵すものだといい、宗教団体Aもこの街頭宣伝活動は<信教の自由>の範囲に属し<表現の自由>の範囲内の行為にある、と主張したとします。
このような場合に、<信教の自由>とは、自己の宗教の拡大を目指すことは宗教として内在する目的に合致するが、他の宗教を排斥するなどの独善的な権利までも保障したものではなく、それによって宗教団体Bが蒙る損害と比較すればとうてい認めるわけには行かない。と判断した場合の<他の宗教を排斥する権利(信教の自由)>と<それによって蒙る損害を宗教団体Bが排除する権利(信教の自由)>との比較においてなされるもので、これの判断基準が「公共の福祉」であるというものです。「公共の福祉」の具体的内容については憲法に定めがありませんから、抽象的な表現でしか言い表すことができないのは致し方ありません。憲法の解説書でも「公共の福祉」を明確に言い換えているものはありません(「日本国憲法〔第2版〕」松井茂記 有斐閣、「憲法〔第2版〕」 辻村みよ子 日本評論社、「日本国憲法論〔第3版〕」 吉田善明 三省堂)。
そして、利益衡量の基準となるのが、「明白かつ現在の危険の原則」です。つまり、「明らかに現在行われていて、しかも重大な害悪が発生する危険性」ということです。
先の例を見ればこの原則が適用されることが理解されるでしょう。
(2)
それでは、この「公共の福祉」と「安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限り」とは、異なるのでしょうか。
これは、同じです。「公共の福祉」を言い換えたに過ぎません。
これについては、「公共の福祉」の方が、厳格に国民の権利の制限基準を定めたものであるという考えが成り立つかも知れません(ただ、これに言及してる憲法解説書は見当たらなかったー例 前掲書)。「安寧秩序」にしても、表現は今の感覚ではすこし<おどおどしい>感じはしますが、<国民の完全と秩序>という意味ですし、「臣民たるの義務」にしても、<他人の幸福を奪ってはならない>という意味です。正に、「公共の福祉」
そのものです。
ところで、「安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背かざる限り」とする<制約>は、「法律の定めるところに依り」という<制約>がありませんから、「法律」に依ることなく「命令」でも<制約>できます。これを以て、明治憲法を非難するものがおりますが(松井茂記・辻村みよ子―前掲書)、《大きな誤り》です「公共の福祉」も同じです。むしろ、「法律の定めるところに依り」という<制約>の方が、権利の保護に<厚い>ということになります。
こう考えれば、明治憲法のように<ほとんど>の臣民(国民)の権利の制限を「法律の定めるところに依り」という<制約>を設けた方が、臣民(国民)の権利の尊重したことになります。「公共の福祉の範囲内で」と規定した「現行憲法」の方が、国民の権利の制限をよりし易くしたものと考えることもできます。このことは、現行憲法で認められている「国民の権利」はすべて(法律の規定なく)「公共の福祉」によって制約されるという考え方さえあるのです(美濃部達吉、判例もこの立場―こちらも同じ)。
このように、憲法学者のほとんどは、明治憲法より現行憲法の方が<人権主義>に貫かれていると説いていますが、明治憲法の理解が不足しているとしか考えられません。
なお、「オウム真理教」事件、<信教の自由>の尊重などと言っているうちに、このような戦前では見られなかった<宗教的惨禍>をもたらしたのではありませんか。これが、明治憲法下でしたら、とっくに「安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に背いた」として芽が摘まれていました。
今だに「オウム真理教」が跋扈しているのですから。<人権>とは誰の<人権>でしょうか。憲法学者にはこれについての言及もなく、反省も一切聞こえて来ません。
なお、「公共の福祉」などの「共同の利益」で、人民の権利を制約するのは珍しいことではなく、フランスの人権宣言(1789年)でも認められております。
(3)
法律は議会によって制定されます。議会は国民の代表ですから、ここで制定された「法律」によって臣民(国民)の権利が制限されますから、すこぶる民主的であると言えます。
もちろん、法律を含む総てのものによって国民の権利が制約されないなどと定めていたり、運用されている国はどこを探してもありません。
先に説明したとおり、権利と権利が衝突しますから、どちらかの権利を制約しなければなりません。権利は両立しがたいのです。これの<制約理論>が「安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務」であり、「公共の福祉」などなのです。世界の憲法を見ても、ドイツでも「他人の権利を侵害せず、かつ憲法的秩序または道徳律に反しない限り」、フランスでも「社会的有害行為については法律を以て禁止できる」(フランスでは、権利に関しては先の人権宣言(1789年)が最高法規となっている)、アメリカでも先の説明のとおり「明白かつ現在の危険の原則」によって制約される、イギリスでも「法律」による制約が排除されていない(例 「自己帰罪拒絶特権」の制約)。韓国でも日本と同じく「公共の福祉」によって制約される、となっております。
ところで、明治憲法ではどうして「信教の自由」のみが、「法律」ではなく、「安寧秩序を妨げず及び臣民たるの義務に反しない限り」とされていたのでしょうか。
それは、伊藤博文の「憲法義解」において述べている次のことにあります(この現代語読みは、HISASHIさんのhttp://www.nn.iij4u.or.jp/~yoshida0/index1.html)から引用します)。
<信仰帰依は専ら内部の心識に属すと言っても、更に外部に向って礼拝・儀式・布教・演説及び結社・集会を行うに至っては、もとより法律又は警察上、安寧秩序を維持するための一般の制限を遵は無い事は出来ない。そして、何れの宗教も神明に奉事するために法憲の外に立って国家に対する臣民の義務を逃れる権利を持たない。故に内部における信教の自由は、完全であり一つの制限も受けない。そして外部における礼拝・布教の自由は法律・規則によって必要な制限を受け、及び臣民一般の義務に服従しなければならない。これは憲法の裁定するところであり、政教が相互に関係する界域である>
これについて、国家が神道を強要した根拠になったと非難する者がおります。確かに、そうような現象はありましたが、どうでしょうか。
いわゆる「オカルト教団」や宗教に名を借りた政治への干渉、これが社会に与える害悪と比較すれば容易に結論が導きかれるはずです。
この伊藤博文の考え、現在にも当てはまる立派な理論です。
つまり、彼は「信教の自由」を法律によって制約することが可能ではあるが、「内心の自由」に属するものであり、これを法律などによって制約するに際し、その指針となるものを提示したものと考えることができると思います。<法律などによる制約>に一定の歯止めを掛けたと考えていたものと思います。このことは、その前にある<本心の自由は人の内部に存在する者であり、もとより国法の干渉する区域の外にあり、そして国教をもって偏信を強いるのは、もっとも人知自然の発達と学術競進の運歩の障害になるものであり、何れの国も政治上の威権を用いて、教門無形の信依を制壓しようとする権利と機能とを持ち得ない。
本条は実に維新以来取る進路に従い、各人無形の権利に向けて濶大な進路を与えた>から読み取ることができます、 このことを以てしても、明治憲法が<内心の自由>の一類型である「信教の自由」を排除するのではなく保護しなければならないが、他方、それが持つ<危険性>を十二分に認識していたのです。さすがの<英知>を感じ取ることができます。
◆◆◆ 国会 ◆◆◆
(1)
日本は「両院制」を採っている。現行憲法の制定の時点では、アメリカは「一院制」を提唱したが、なぜか「両院制」となってしまった経緯がある。
憲法学者にも「参議院の独自性がどこにあるかわからない」などと揶揄されている始末である(「日本国憲法(第2版) 松井茂記 有斐閣 2002年7月30日出版」)。
両院制は、3つの型がある。
1.連邦型 連邦国家(アメリカ、ドイツなど)において見られ、<議員>が、第1院(下院)は各州の人口比例によって選出され、第2院(上院)は人口に関らず各州から2名ずつ選出される
2.貴族院型 第1院(下院)は貴族、職能代表などによって選出され、第2院(上院)は各選挙区から1名ないし数名選出されるイギリス、戦前の日本で見られた制度で、民意によって選出された第1院(下院)の横専防止することに目的がある。
3。民選議会型 第1院(下院)、第2院(上院)とも各選挙区から1名ないし数名選出される 日本で見られる制度で、第2院(上院)は第1院(下院)の横暴を防止する、あるいは、地域代表、職能代表を以って構成される独自性を有することに目的がある(「憲法(第2版) 辻村みよ子 日本評論社 2004年3月1日出版」)。
このうち、民選議会型は機能が重複するので、あまり意味がない。このことは、現在の「参議院」を見れば、すぐに理解されるであろう。また、日本は連邦国家でもなく、連邦型を採用すればいたずらに地方対立を生む可能性もあり、しかも、「一院制」との差別化の利点が見出し難いということがあり、採用しがたい。
(2)
最後の「貴族院型」も現在、貴族が存在しないので、職能代表ということになるが、この定義と配分が困難で実現は難しい。ただ、数の横暴から来る第1院(下院)を第2院(上院)が牽制するのは意味がある。明治憲法がこの点に着目したのは意義があった。
この貴族院型が、現代の「民主主義的議会制度」から不必要あるいは弊害であるというのは誤りである。これを考えるために、イギリスの貴族院を見てみよう。これまでは、貴族院議員は、貴族(世襲・一代)によって構成されていたため、保守的で「保守党」支持者が多く、議論は沈滞していた。ところが、1999年の改革で、世襲議員を減らし一代議員を増員した結果、「労働党」支持者が増加し、議会での議論は盛んになった。
「金銭問題(予算関係など)が第1院(下院)の専権事項であるなど第2院(上院)に制約があるが、司法制度などの重要法案には第2院(上院)に<先議権>があり、また、政府の提出法案がしばしば修正を余儀なくされているなど、第2院(上院)の独自性が確保されている(「イギリスの政治 川勝平太など 早稲田大学出版会 1999年12月15日」)。国民から「貴族院」を廃止せよ、という声は少なくなっている。
伊藤博文もこのような貴族院型を理想としていたと考えられる。この貴族院型が、現代の「民主主義」に反するなどと即断しては(辻村みよ子 前掲書)ならない。職能代表との定義と配分について知恵を出せば、現在の「参議院」も存在価値が出てくる。
今のままでは<存在価値>を見出せない。
なお、「国会議員」、選挙区の<代表>ではない。伊藤博文の「憲法義解」で指摘するとおり、「全国民の代表」である。現行憲法にも規定がある(43条1項)。実態は全く違っている。
出典
http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/kenpou_gikai.htm