ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

女系天皇と男系天皇──いわゆる世論なるもの

2006年02月27日 | ニュース・現実評論

女系天皇容認は64% 前回調査より8ポイント減 (共同通信) - goo ニュース

女系天皇容認が8ポイント減少したそうである。そして、男子優先を容認する傾向も増加したそうである。当然であると思う。時間をかけて慎重に議論し、その真理を追究してゆけば、男子一系とならざるを得ない。

まず、男子一系天皇制を維持する方策を最大限に追及し、それが現実に不可能であることが確定した後で、女性天皇制その他を検討してゆけばよいと思う。「有識者」会議の提言のように、最初から、女性天皇、女系天皇ありきの議論では、明らかに伝統破壊であり、その文化破壊は取り返しがつかない。

私も以前に、日本の君主制が男子一系天皇制を目指さざるを得ないことを論証したことがある。(男系天皇制か女系天皇制か──皇室典範に関する有識者会議をめぐる議論至高の国家形態)だから、世論も最終的には、男子一系天皇制を容認することになるだろうと楽観している。

しかし、それにしても、世論については、すでにヘーゲルが非常に深い認識を示している。世論なるもののもつ二つの側面である。すなわち、その普遍性と特殊性である。前者の見方からすれば、世論は神の声であるが、後者の見方からすれば、ゲーテも言うように、「大衆の判断とは憐れなものだ」ということになる(ヘーゲル法哲学§317)。世論の中には「真理ととんでもない誤謬が一体になっている」からである。だから、「世論とは尊敬され、かつ、軽蔑されるべきものである」(ibid§318)


しかし、真理の科学的な論証をめざす哲学は、世論なるものに一喜一憂するものではない。

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荒川選手の金メダル

2006年02月24日 | 日記・紀行
 

低迷を続けていたトリノオリンピックでようやく荒川静香選手が金メダルを獲得して消えかけていた希望をかろうじてつないだ。すばらしい芸術的ともいえる演技だった。こうした才能は作ろうと思っても作れるものではない。どうしても天賦の素質が必要とされる。一方で、今回のその他の日本チームの不振は問題が大きい。

国内では、民主党がホリエモン氏の「偽メール」をめぐって混乱している。政治における人材の不足、政治家の貧困は、わが国の長年の宿痾である。
その根底には教育と文化の問題がある。
戦後六十年をかけて劣化させてきた教育と文化の「成果」がこれから徐々に蝕み始める。その復興は困難を極める。

中国やロシアの台頭という困難な国際情勢の中で、政党政治の一角を担うべき民主党がこの体たらくでは。
民主党に対する期待と要望についてはこれまでもいくつか述べてきたが、「自由党」と「民主党」の二大政党が日本の政党政治を担ってゆくという政治の理念、自由と民主政治の概念はいささかも揺るがない。

 

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至高の国家形態

2006年02月09日 | ニュース・現実評論

皇室典範の改正問題を小泉首相が提起することによって図らずも、国民の世論が分裂しかねない危機を招いている。愚かなことである。最低の政治的な選択というほかはない。皇室典範(伝統として確立された「自然法」としての)については、本来的に改変ということはありえない。なぜなら、皇室典範の概念からいってそれは過去を踏襲し、将来に世襲してゆくこと自体に意義があるからである。この問題について前に論じたことがある。

男系天皇制か女系天皇制か──皇室典範に関する有識者会議をめぐる議論

保守と改革──守るべきもの改めるべきもの

これらの問題について、もう少し考察してみたい。

至高の国家形態とは、すなわち国家の概念は、その現実的な形態としては立憲君主制を取る。それは自由秩序が相互に緊張しながら調和している国家である。

自由は人間にとって至高のものであって、人間にとって光や空気がなければ肉体が死ぬように、精神的な存在である人間にとっては、自由がなければ精神は死ぬのである。だから自由のない国家は悲惨である。

しかし、神ならぬ人間はこの自由を正しく行使できず逸脱する。自由は専横でもなければ恣意でもない。自由とは守るべき秩序を正しく守ることがほんとうの自由である。

しかし、フランス革命や中国、カンボジアの文化大革命に見られたように、秩序なき「自由」において人間の悪は往々にして多数者の暴虐に帰結する。それは、過去の革命国家に例を見るように、いわゆる「人民民主主義」国家が、国家としての概念に一致せず、いわば奇形国家だからである。そうした国家ほど国民に不幸をもたらすものはない。

もっとも完成され調和の取れた、理念として正しく安定した国家は、君主の人格の中に国家全体の秩序を見る国家である。この秩序の中に国民の自由は最大限に確保されるのである。

秩序は君主制において実現される。君主制の中でも、もっとも純粋な君主制は一系君主制である。人間は男性と女性しかないから、現実には男系君主制か女系君主制かのいずれかでしかない。日本は伝統的に男子一系君主制に従ってきた。そして、君主制とは世襲そのものに意義があるから、日本にとっては従来どおり男系君主制を過去と同様に未来においても持続することがもっとも正しい選択である。もし日本が伝統的に女子一系君主制をとってきたのであれば、将来においても女系君主制を維持してゆくのが最善の選択である。男女同権とか男尊女卑といった、悟性的な浅薄な論議ではない。


欧米にも君主制があるが、それは、日本の男子一系君主制ほどその世襲は純粋なものではない。にもかかわらず、わが国が世界にもまれに貴重な男子一系世襲制を取り替えて、そこに女系君主制を導入するのは、世襲制の純粋を損なうものであって、君主制の本来の概念からいって、改悪というほかはない。それは、タリバンのバーミヤンの佛像破壊などとは比較にならない、過去の貴重な伝統遺産の破壊以外の何ものでもない。小泉首相をはじめ「有識者」と称される人々は、悟性的な理解力しか持たない人には、それが理解できないのである。君主制の価値を正しく理解するのは最も困難なことである。(欧米人の多くも理解できない)

明治の大日本帝国憲法で、伊藤博文は、「立憲君主制」の理念にしたがって、日本国を、正しい国家概念へと、「至高の国家」へと形成するのに少なからず貢献した。しかし、「立憲制」についての、すなわち「民主主義」について、伊藤博文をはじめ国民の理解に未熟と欠陥があったために、昭和の初期に、正しい「立憲制」を逸脱して「全体主義」にいたる道を開けてしまった。

自由とは共同体の意思が国民の個々の意思と一致することにある。民主主義が自由と不可分の関係にあるのはそのためである。戦前の大日本帝国憲法の「立憲君主制」では、その「立憲」における民主主義の未熟のために、「全体主義」を許し、太平洋戦争の開戦を抑止し切れなかった。現在の日本国憲法が今後改正されるに当たっても、この過去の教訓に深く学んで、より完成された民主主義と君主制にもとづく「立憲君主制」の理念を新しい憲法で追求してゆく必要がある。

曲がりなりにも保持しているわが国の「立憲君主国家」体制は、至高の国家体制である。日本国民は、自らの国家体制に誇りを持つべきであるし、さらに、国家と国民は「立憲君主制」国家の理念を追求してゆくべきだと思う。

アメリカなどに見られるような大統領制国家は、剥き出しの市民社会国家であって、ただ多数であることだけが「真理」とされる、恣意と悟性の支配する、往々にして品格と理性に欠ける国家であることを日本国民は忘れるべきではないだろう。

 

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