ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

地方自治の再生

2006年12月25日 | ニュース・現実評論

片山知事が不出馬 鳥取、後継指名せず(共同通信) - goo ニュース

地方自治の再生

今年になって、知事が汚職問題で失職する事件が相次いだ。2006年9月には福島県で佐藤栄佐久知事が、今月の12月に入ってからも、和歌山県ではの木村良樹知事、宮崎県では安藤忠恕(ただひろ)知事らが相次いで逮捕され起訴された。さかのぼっては、2002年に徳島県で円藤寿穂知事が収賄で逮捕されるという事件があった。

こうした事件の発生の背景には、民主主義の政治制度自体の抱える問題もある。民主政治のもとでは、当然のことに知事は選挙に当選しないことには知事にはなれない。そして、選挙に当選するためには選挙運動は不可欠である。そして、現在の日本のように選挙運動が市民によるボランティア、手弁当でになわれるという選挙文化のない場合には、当然に一部の利害関係者の利害を目的とした参加と協力によってになわれる。

そして、その利害関係者の協力によって選挙に当選した知事はその在職中にはとくに公共工事関係の発注によって、選挙協力に対する恩義に報いることになる。しかし、最近になって知事が逮捕される要件になったのは、かってのような収賄罪ではなく、競争入札妨害罪によってである。

その背景には、今年の2006年の独占禁止法の改正によって談合事件の告発が行なわれやすくなった環境がある。公正取引委員会もかってのような行政の単なる飾り物ではなく、実際に公共正義のために実際に機能し始めるようになったという背景がある。

しかし、地方自治の公正と健全さが、司法の手によって維持されなければならないというのも異常ではある。どうすれば、民主主義の学校とも言われる地方自治が正常に機能することができるだろうか。

知事が競争入札の談合に関与したり、収賄によって逮捕されたりするのは、まず、地方自治行政の中で、必然的に、知事が大きな権限をもたざるを得ないからである。地方行政は道路や河川や治水工事、山林保守など、地方住民の生活運営に深く関係せざるをえない。そこに土木建築工事などの関連においてその工事発注などの過程で、無数に利害関係が生まれてくるという背景がある。

そうした中で、とくに知事が多選されて、知事を初めとする公務員としての行政職員と特定工事関連の業者との人間関係に多年にわたる交際から、いわゆる「癒着」状態が生じる。人間のことであるから、そこに不公正の余地が生まれる。

とくに、公共事業が不況などに強いうまみのある仕事であるとなると、なおいっそうそういう危険が生まれる可能性が増える。そうして生じた腐敗不正の結果、損害をこうむるのは、税金を無駄に使われる市民である。また、公務員や市民の倫理的な堕落そのものが大きな社会的な損失である。

今日の25日の記事で、鳥取県の片山善博知事が、来年の春の知事選に出馬しないことを明らかにし、「あまり一つのポストに長くいると、弊害が出る。10年が限度」と記者会見で知事自身の見識を明らかにしたのは、高く評価される。現職の知事自身の発言だけに、知事という職責にからむ弊害に対する自制、自戒の言葉として貴重である。また自民党なども来年から都道府県知事と政令市の市長の推薦を4選以降はしない方針を打ち出したりされてはいる。

その一方で、今月19日には神奈川県の松沢成文知事が提案した全国初の「知事多選禁止条例」案を県議会が否定したりする動きがあったし、大阪府の太田房江知事らは、能力や府民からの支持のある知事の多選禁止に疑問を呈したりもしている。

しかし、何よりも今日のような情報化された、とくに交通などの高度技術社会において、従来の都道府県制度とその行政単位は限界にきていると思う。行政単位としても、地理的にも物理的にもあまりにも小さすぎる。情報が瞬時に世界を駆け巡るこの情報化社会の中で、地方自治の行政の効率が非常に悪く、むしろ阻害要因にすらなっている。どう考えても、行政単位としての都道府県は中途半端である。道州制を早く実現して、知事の数も減らし簡素化するべきだろう。

そして、地方行政の効率的な運営のために現行のように知事に強力な指揮権限を与えるのはやむを得ないものとして、その強力な権力付与に対して、その一方でアメリカの大統領のように、二期八年か、鳥取県の片山善博知事が語っているように、せいぜい任期十年でそれ以上の多選を法律で禁止すべきであると思う。

知事にどれほどの能力と府民の支持があるとしても、やはり、人間性悪説にたって、任期十年多選禁止が人間の歴史に学ぶ知恵であると思う。それがまた、知事自身にも刑法犯罪に触れるという不名誉な機会から遠ざけ免れさせる予防にもなる。

そして、現在の地方交付税の実態に見られるような地方自治の行政に対する国家公務員の関与と介入によって、地方の産業を公共工事への依存という形で補助、援助するのではなく、産業技術の開発とその革新や経営指導という形で、地方産業の自立を促す形で支援してゆくほうが健全でのぞましい。

現在の日本の財政の危機的な状況からいっても、道州制の実現など諸制度の根本的な改革は急がれるべきであると思う。国家のレベルだけではなく地方においても、その体制を根本的に変革し、多くの無理無駄を省いて、とくに、財政を早急に健全化することが求められている。そのためにも、安部首相は構想力を持ち、もっと主体的に強力な指導力を発揮するべきであるし、もし、それが不十分であるなら、国民自身が世論を喚起することによってそれを促してゆかなければならないだろう。

神奈川県の松沢成文知事が提案した全国初の「知事多選禁止条例」案を県議会が否定した例に見られるように、国会議員や地方議員の意識は、国民よりも遅れ、いわゆる国民の「選良」は選良でなくなっているのが実情であると思われるからだ。学校での民主主義教育の充実と併行してゆく必要がある。

「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ(1) (2) (3) (4)

 

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政治の貧困

2006年12月18日 | ニュース・現実評論

政治の貧困

安部首相が指導力を発揮しないことによって、支持率を下げています。日本の政治が劣悪なものであるのは、今に始まったことではないでしょう。岸信介や大野伴睦らの政治屋たちが、右翼の児玉誉士夫たちの采配と取り仕切りのもとで金権政治を展開する様子が、日経新聞の12月から「私の履歴書」欄に掲載され報告されています。

そのなかで、読売新聞の元社長の渡邉恒雄氏が、自民党番記者として自民党の有力政治家たちに「密着」取材していた現役記者時代を回顧し記録しています。戦後の焼け跡から経済復興しつつあった、いわゆる「高度成長期」の日本の政治の様子を描写していますから、そうした頃を知らない今の若者たちは、ぜひ読まれるとよいと思います。

そのころの日本の政治に生まれた金権政治体質はその後に田中角栄に引き継がれ、その派閥政治が残した膨大な借金政治の附けは現在と将来の日本国民が背負って解決してゆかなければならないものになっています。ある意味ではそうした日本政治の体質は、日本国民自体の体質であり、その反映でもあるわけですから、日本国民の体質が変わらないかぎり、日本の政治の体質も変わらないのも道理です。

政治の改革なくして日本の経済、文化、教育の再建がありえないことを、小泉政権の誕生によって国民も理解し始めたといえますが、そして一時期の、渡邉恒雄氏の描写しているような派閥政治の腐敗からはいくらかは改善の兆しは出始めたとはいえ、道のりは容易ではないようです。はたして国民は改革による痛みに耐え、克服できるのでしょうか。与党のみならず、民主党も人材を得られず混迷しているようです。

政治の混迷は、何も人材を得ないことだけから来るのではないと思います。何よりもその政治の理念(イデー)がはっきりとしていないからではないでしょうか。安部首相の「美しい国」のような情緒的であいまいなものでは、国家の理念として論理がないと思います。
日本政治の根本イデーを、日本国民がまずはっきりと自覚し、それを目的として追求してゆく必要があります。

政治の根本イデーとは、どのようなものでしょうか。それは日本国を自由と民主主義に立脚する自由民主主義国家とし、その政治的原理を基本的には、民主党と自由党による二大政党政治が担ってゆくことです。

そのためには、現在の自民党が合併する以前の、自由党と民主党へと再度に分割分離して、民主主義を原理とする民主党と自由主義を原理とする自由党に、それぞれ政治家を再結集し、政党政治を再構成しなおすことです。一方で、国民一人一人に対して、自由主義と民主主義についての教育を充実させてゆく必要があります。民主党と自由党の違いは、民主主義と自由主義のいずれに重点をおくかのニュアンスの違いであって、政策などは、八割方同じであってよいと思います。

政治において、このような根本理念(イデー)を明らかにして追求してゆけばよいと思います。そして、政治家は、このような理念の追求と実現によって評価されるべきであると思います。政治家が先にありきではなく、理念が先にありきです。

それと併行して、「宗教改革」も実行されるべきでしょう。政治の改革は国民の体質を変えてゆく「宗教改革」の実行とその基礎の上にこそ、真に実の挙がるものになると思います。それはまた、100年、200年500年と幾世代もの積み上げの必要な息の長い仕事であると思います。歴史の歩みはゆっくりとしたものです。

参考までに

自由と民主政治の概念

宗教と国家と自由

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真珠湾奇襲から六十五年

2006年12月08日 | ニュース・現実評論

真珠湾奇襲から六十五年

1941年12月8日月曜日に、大日本帝国海軍がアメリカ・ハワイの真珠湾を奇襲攻撃してから今日で六十五年を経過した。この奇襲攻撃を端緒として、日本はアメリカ・イギリス・ロシア・中国・オランダ・オーストラリアなどの連合国を相手に、全面戦争に突入することになる。

戦後に生まれた私たちは、当時の日本国民と政府の選択した決断の結果として、その後に国家と国民がどのような運命に至ったか、歴史的にこの目で見届けて知っている。

この戦争によって、日本国民の間に三百万人に及ぶ死傷者の被害を出した。もちろん、アメリカや中国などの敵国にも少なからぬ被害をもたらし、それらが今日に至るまで、中国の反日運動などに尾を引くことになっている。

それに何よりも敗戦後に日本国自体がアメリカに占領され、憲法を強制的に改定させられ、国家体制も強権的に変えられることになった。その結果として国内に生じた政治的、文化的な混乱は今日に至るまで続いている。日本国民は国家や民族としての誇りを失い、教育や道徳の劣化と崩壊を招いて、その再建もままならぬまま現在に至っている。真珠湾攻撃から65年後の今日の日本の現実を見るとき、この太平洋戦争は行なわれるべき戦争ではなかったことは明らかである。

当時の政府の選択としては、日米開戦を避けるべきであった。日本はなぜそれができなかったのか。この点について、太平洋戦争に対する批判と反省は、民間においても、また政府機関としても、まだきわめて不十分であると思われる。この戦争は、一般的な傾向としては、あたかも自然災害のように、また感情的に道徳的に「一億総懺悔」されるだけのように思われる。

もちろん歴史的な批判というものは、安易にできるものではなく、ある意味で歴史や現実は「理性的」なものである。歴史に対して謙虚であるべきなのは言うまでもない。しかし、それは何も批判を避けるということではない。むしろ、歴史的な事実に対する客観的で全面的な真摯で徹底した批判と反省こそが、真の謙虚さを示すものであると思う。

経済、政治、文化、教育、道徳などの観点から、また憲法をはじめとして、当時の大日本帝国憲法下の国家体制そのものの持つ問題点や欠陥などについて、その意義と限界について、全面的で客観的な歴史研究は、民間においても、公的機関においても実行されて、歴史的な文書として蓄積されてゆく必要がある。しかし、残念ながらそれは十分に実行されているとは言えないのではないだろうか。

今日のような開戦記念日や8月などの終戦記念日などには、いわゆる識者とされる人たちの意見が明らかにされるけれども、全体としてまだ十分とはいえないと思う。官民ともに、先の太平洋戦争などについての批判的研究の蓄積は質量ともにきわめて貧弱なものにとどまっている。

在野においてのみでなく、大学や大学院のアカデミズムの世界においても、また、内閣や国会などの国家機関のレベルにおいても、大日本帝国憲法や現行日本国憲法などの国家体制の組織上における欠陥などについての批判的な研究が極めて不十分であると考えられる。

先の太平洋戦争で火蓋を切った大日本帝国憲法下の国家体制では、内閣総理大臣の指揮権限の問題などが、とくに、憲法の制度上との関連で、その欠陥についての分析と批判がもっと深められていいと思う。当時の首相として近衛文麿氏などの指導力に対する批判なども見られるけれども、それは、単に近衛文麿氏の個人の資質の問題にとどめられるべき問題ではなく、明治憲法下の議院内閣制における、内閣総理大臣の権限規定にこそ問題があったと見るべきではないだろうか。

この議院内閣制の制度上の問題は、今日の日本国憲法にも引きずっていると思われる。明治憲法下でも現行の日本国憲法下でも、内閣総理大臣が強力な指揮権限を行使することのできないのは同じである。そのために問題が先送りにされたり、政治に停滞を招くことも多い。民主主義の政治体制の中でそれが十分に機能するためには、国家の最高指導者である首相に、どの程度の権限を与えるべきかという観点からも、大日本帝国憲法はどのような限界があったのか、また現行日本国憲法の実情はどうかといった観点からも検討されるべきだろう。

明治憲法の最大の欠陥として、軍隊の統帥権が内閣総理大臣に付属していなかったことが指摘されているのは周知のとおりである。内閣総理大臣は、陸軍大臣や海軍大臣に対して、強力な任免権をもたないのみではなく、陸海軍大臣によって内閣自体の命運を左右されることになった。

また、陸軍と海軍がそれぞれ陸軍省と海軍省として、独自の政治的な発言権を持っていたことも、軍事政策における政治的な統制が行き届かなかった原因である。その結果、海軍と陸軍がそれぞれ独自の省益を主張して、国家としての統一の取れた戦略を実行できなかった。このことも軍事戦略上の大きな弱点になった。

それは中国大陸における軍部の一部の跳ね上がりの暴走を許し、結果として、国家と国民に莫大な損害を与えることになった。海軍や陸軍などは、本来は、国防省の管轄のもとに国防大臣による国家の統一した意思の下に置かれて指揮、監督されるべきものである。

それらは明治憲法の起草者であった伊藤博文たちの政治的な判断によるものであるが、こうした明治憲法のもつ本質的な欠陥との関連で、先の太平洋戦争はまだ十分に批判的に研究されてもいないし、それはそのまま、戦後の日本国憲法の制度上の欠陥として無批判に引き継がれているのではないだろうか。それがまた今日の政治的な停滞の理由の一つにもなっている。

たんに大日本帝国憲法に対してのみではなく、この批判能力の不在は、今日の現行日本国憲法の欠陥についての国民の認識レベルにも現れているのではないだろうか。現行憲法の第9条問題などが戦後半世紀以上も放置されたままでいるのは、結局は国民の国家観に問題があるためではないか。

それはまた、最終的には大学や大学院における憲法や国家に対する学問的批判能力の水準の問題でもある。本来はそうした批判的研究は、日本国憲法の改定に生かされて、もっと早く、さらにより完全な憲法改正などに役立てられていなければならなかったはずである。

明治維新の指導者たち、大久保利通や伊藤博文、井上馨、板垣退助たちは、維新後に大日本帝国憲法を制定して、立憲君主国家としての体制を整備しつつ、欧米列強に対峙すべく、富国強兵政策を進めた。総体的にはそれはすぐれた国家運営として評価できるものである。その結果として、明治維新後わずか半世紀に足らずして、日本は日米通商条約などの不平等条約の改正を実現し、極東に自由で独立した強力な国家としての日本を形成しつつあった。

そうして日本は極東アジアの一角に、強力な独立国家として地歩を固めつつあったが、それは、その一方において、スペイン戦争以降、ハワイやフィリッピンを植民地とし、また中国に深く利権を確立しつつあったアメリカと太平洋を挟んで利害が対立することになった。

そうした当時の国際情勢において、日本はどのような戦略でもって対応すべきであったのかということについても、先の太平洋戦下の国家の組織体制の観点からと同様に、当時の指導者たちの判断と政治的な決断についても、個々に具体的に批判され吟味されなければならないだろう。

軍隊の統帥権が議会から独立していて、それが軍人の独走や軍部の政治への介入を許したことなどはすでに周知の事実である。しかし、そうした組織上の欠陥のみが、その後の歴史的な結末をもたらしたのではない。軍部における封建的な非民主的傾向や、軍人たちの、さらには国民一般の精神的な主体的な側面も批判されるべきだろう。

日米開戦の1941年からさかのぼること20年前の1921年に、第一世界大戦後の国際的な秩序形成のためにワシントン会議が開かれた。この会議において、日本とアメリカ、イギリス、フランス、イタリアなどの諸国の間で海軍の軍縮問題が話し合われた。このとき、海軍艦艇の保有比率を、英・米・日それぞれ、5・5・3にすることに決まったが、すでにその際にも、軍部からは強い反対があった。もし、この時に会議が成立していなければ、もっと早い時期に戦争状態に突入していたはずである。

それがかろうじてワシントン海軍軍縮条約として実現したのは、加藤友三郎や東郷平八郎といった、軍部に対して少なくとも指導力を発揮できる人間が当時には存在したからである。しかし彼らの死後は、英米との協調体制を主導できる人材はいなくなった。それも日米開戦を防ぎ得なかった大きな原因である。そうした人材の有無もまた戦争回避を大きく左右することになった。

昭和初期に日本が軍国主義的な国家体制に至るまでに、大正デモクラシーと呼ばれる民主主義的な時代趨勢は一時期としてはあったけれども、民主主義における国民全体の意識や制度はまだ未成熟な状況にあったといえる。

真珠湾奇襲に至る昭和初期の、そうした歴史的な状況に対して批判と反省が今日まだ十分であるとはいえないし、だから、その歴史的な教訓も生かされようがない。この程度では、同じ状況にふたたび立ち至ったとき、同じ間違いを犯すことになるかもしれない。

政府の失政によって、国民が悲惨な戦争を二度と体験せずに済むように、その結果として国民が動物以下の腐敗し堕落した状況にふたたび陥らなくとも済むように、また、平時においても、政府の政策の適切を期するためにも、国民は過去の歴史を教訓として、自分たちの指導者を育成し、また、自分たちの政府と国家と作って行かなければならないと思う。


 

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