ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

日本道路公団と企業による橋梁談合と国民の談合体質

2005年06月30日 | 政治・経済

道路公団本社の捜索終了、14時間で350箱分押収 (読売新聞) - goo ニュース

 


日本道路公団が発注した鋼鉄製橋梁工事をめぐって公正取引委員会は独占禁止法の違反で三菱重工業などを刑事告発した。談合社会の気風の相も変わらず根強いことを、あらためて思い出させる。

それにしても、悪質なのは、道路公団がOBと現役とがぐるになって、国民の税金を食い物にしてきたことである。企業、官僚(道路公団のみならず国土交通省の役人も含めて)などの腐敗の実態があらためて明らかになった。


先日、石弘光税制調査会会長がサラリーマンを中心として、消費税を含めた税率のアップは避けられないと言っていたが、この国の政治家、役人、御用学者たちは、相いも変わらず、国民から搾り取ることしか考えていない。


今度の橋梁談合事件に見るように、司直の手が入る前に、いったい、国土交通省の役人たちは、いったい何をしていたのか。道路公団をどのように指導監督してきたのか。国土交通省の役人も、道路公団に天下りして、道路公団の不正の手助けをしてきたのか。

この談合事件で手にした企業の利益や天下りによる役人たちの高給は、すべて国民の税金によってまかなわれているものである。こうした不正による税金の無駄遣いを放置したままで、税率のアップも何もないものだ。それに、消費者金融会社の高額所得者たちに対してこそ、もっと税率を上げてしかるべきだろう。(高額所得者の番付表を廃止しようという動きなどがあるようだが、可能な限り情報は公開して、公正な社会の実現を目指すべきである。) 


税収に不足があると言うのなら、まず、正当な税源を追求するべきで、多くの行政の無駄遣い、不効率を徹底的に改善し、そして、税制の公正さを追及して後に、はじめて、国民に対して税負担を求めるべきだろう。あまりにも安易である。まず税金の徴収者たる政府は、なすべきことを全力で果たしてから、国民に要請すべきである。現状では、税制調査会の要請は、あまりにも説得力がない。強者からは税金も徴収しにくいので、もっとも徴収しやすい国民一般からとろうという発想は認められない。国民ももっと強者になって、政治家や役人や御用学者の専横に抵抗して行くべきである。


いずれにせよ、このような不正義、不効率がはびこるのは、役人や行政が定期的に清掃されないからである。つまり、自民党の「独裁政治」が長く続き、役人と政治家が癒着して、今回の企業と同じように、政治家、役人、御用学者、企業人が談合して、国民の税金を不当に横取りしているのである。この談合体質は何も道路公団だけにとどまらない。それは、企業も政治家も役人も変わらない。また、日本経団連のトップであり、経済諮問会議の民間議員でもあるトヨタ出身の奥田碩会長の「(談合を)すぐに絶滅するのは難しい」という発言からも、現状の改革についての強固な意志が伝わってこない。国民全体の体質にまでなっている。根源は国民全般のモラル水準の低さにある。


これらを改善するためには、政権交代が適宜行われ、政権の交代とともに、政治家、役人も随時定期的に入れ換えられて、清掃される必要がある。そうしてこそ、前任者の不正などが明らかになりやすく、またそれが不正の予防装置として働く。


だが、もう一つの政権担当能力を持たなければならないはずの民主党が、あいも変わらず、労働組合などの一部の利益集団の代弁者となり、旧社会党政治家の隠れ蓑に成り下って、国民全般の利益を追求できないでいる。そのために、民主党は国民の期待するもう一方の政権政党の力量をもてないでいる。


岡田民主党はもっと現在の小泉政権の政策自体に限りなく近づいて良い。それは何も主体性を失なうことではない。結果として政策が小泉政権と同じものになるならそれで良いし、また、小泉政権の支持率から見て、民主党はそうなって行くべきである。肝心なことは、政権交代すること自体である。国家の基本政策の根本的な変更ではない。国民一般も民主党にそんなことは期待していない。民主党が国民の期待に応じていないことは、今回の郵政民営化問題に対する対応を見ても明らかである。

いつまでも政界や経済界の不正を糾すのに司直の手に頼ることなく、政治家は自らの手で、今回の橋梁談合のような不正の芽をなくして行かなければならない。民主党はそのためにも一刻も早く国民から政権担当を任されるにたる防衛、財政などにおける基本政策の確立し、行政能力の向上を図り、現在の自民党に変わって政権を担うことである。政権の交代そのものに意義がある。


岡田党首は、国民全体の利益という観点から、国民全般の求める政策を追及すべく、もっと指導力を発揮すべきである。何を愚図愚図しているのか。

 

 

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高校生の犯罪にちなんで──学校教育に民主主義を(1)

2005年06月16日 | 教育・文化

 

高校生の犯罪にちなんで──学校教育に民主主義を(1)

 

教室に爆発物が投げ入れられるという信じられない事件が起きた。

教育は国家の一大事であるので、私も少なからず関心を持っている。それで、こうした問題についてこれまでもいくつか発言してきたし、これからも発言して行きたいと思っている。それが現代の日本の教育の抱える問題の解明とその改善にいささかでも寄与するところがあれば幸いである。

事件を起こした少年が、彼の所属したクラスの同級生たちに対して恨みを持っていたことはわかる。もし彼が暖かい友情に囲まれ、周囲との人間関係に調和して、楽しく愉快に高校生活を享受していたのであれば、このような事件が発生することはなかった。この事件の物語る事実は、少なくとも推測させる事実は、この学校において存在した、生徒や教師の間の「索漠とした人間関係」であろう。

事実としてこの事件を起こした生徒がクラスの中で疎外感を持っていたことである。この感情には、生徒自身に原因があったのかも知れないし、また、クラスのほうに原因があったのかも知れない。恐らく、両方に原因があったのだろう。

しかし、生徒と学級のそれぞれに問題があったとしても、いずれにせよ、このように事件として顕在化することはまれである。光高校と同じように、全国に存在する多くの高校では、たとい、それぞれに何らかの問題を抱えているとしても、日常的に何とか処理し解決して行っているはずである。どんな高校であっても、生徒同士に、あるいは生徒と教師との間に全く問題がないということはありえない。

 

だから肝心なことは、生徒や教師の間にこうした問題が発生したときに、それをどのように対処し解決して行くかという問題処理のシステムが、それぞれの学校の中にきちんと存在していたか、そして、それが正しく機能しているかである。また、そのシステムが能力として正しく機能するように生徒や教師や保護者にきちんと日常的に教育されているかということである。光高校の場合はどうか。結果論としてであるが当然に、「否」である。ちゃんと機能していれば、今回のように事件として表面化することなく解決されていたはずである。

 今回のような光高校で起きた事件を単にこの高校だけの個別特殊な事件としてみなすべきなのか、あるいは、この特殊な事件の中に、普遍的一般的な性格を認識すべきなのか。それについては、単に光高校だけの特殊な事件としてのみ見ることは出来ないと思っている。今日の日本の青少年教育が、学校教育が一般的に抱えている普遍的な問題であると認識すべきだと考えている。

 

今回この光高校で起きたこのような事件は、そのほかのどんな高校でも、いつ、どこにでも起きても何ら不思議ではない普遍性を持っている。その根拠はここでは説明することは出来ないが、また、その論証はとにかく、こうした問題は、単に光高校だけの個別特殊問題として取り組んでも本質的な問題解決にはなり得ない。日本の抱える教育一般の問題として原因が究明され、問題が解決される必要がある。今日の学校教育が抱えている問題を象徴する事件の一つであると考えてよいと思う。

 

この事件から推測される問題を、一応確定しておこう。この事件の背後には、まず、この高校生自身に見られる倫理意識や道徳的自己規律の問題、あるいは、自己抑制能力の欠如といった生徒の家庭教育や家庭環境の問題がある。さらには、この生徒が今回のような「いじめ」にあったときに、生徒自身やさらに生徒の保護者である両親や学級担任教師、また学校側の生徒管理のなかでこうした問題の対処のし方についてきちんと教育されていたかという問題もある。そのほか多くの問題が含まれていると思う。これらはまた、現在文部科学省が問題にしている「学力低下」の問題とも無縁ではありえない。

ここでは家庭教育の問題について触れることはできない。
学校教育上の問題としては、この事件は本質的には今日においても相変わらず続いている「いじめ」と同じである。学校教育における生徒間、あるいは生徒と教師の間の人間関係の問題、倫理道徳の問題である。このような事件は、心理学者が特定の個人である犯罪少年の異常心理に対する処方箋を書いて済ますことの出来るような問題ではない。

 
なぜこうした事件が起きるのか。このような事件の発生を防ぐにはどうすればよいのか。さらには学校教育はどのようにあるべきか、そうした問題意識を持って、教育は、全国民的な課題として研究され、日常的に取り組まれる問題だろう思う。

この問題が示されているのは、学校教育における永年の病弊である。結論として言えば、現在の学校教育のにおいて、民主主義の倫理的内容が教育されておらず、また、内容のみならず制度としても、問題解決の方法としてもほとんど機能していないという現実である。
民主主義の思想と方法についての教育の必要が自覚されてもいず、文部科学省をはじめとする教育関係者も、その必要についての切実な問題意識を持つものがほとんどいないのが現実ではないだろうか。

 
学校教育の現場のみならず、どんな組織や団体にあっても、一般的な倫理的道徳的な規範と、共同体として必要な問題解決のためのシステムが存在しなければならない。ところが、現在の教育現場には、それらはなく、その機能も不全状態にある。

戦前の「教育勅語」の権威失墜と、上意下達の権威主義の教育システムの崩壊以来、それに代わる倫理道徳の規範と、学級や学校において発生するさまざまな問題を理性的に解決するシステムが、今日に至るまで教育現場にいまだ十分に確立していないという現実がある。これが問題なのである。

もっと民主主義の倫理規範としての意義を教育現場でも自覚する必要がある。そして、民主主義の方法を問題解決の手段として、その形式的方法を教育現場においても確立しなければならない。(この民主主義は、日教組や共産党の主張する「人民民主主義」ではもちろんない)。民主主義の精神と方法の真の活用が、こうした教育上の課題や問題に不可欠であること論証して行きたいと思う。

 

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プログラムの練習

2005年06月14日 | 日記・紀行
これからはDELPHI6を使って、日曜日の多少暇なときに、プログラムの勉強でもしてゆこうと思っている。二、三日前にネットをサーフィンしていたときに、DELPHI6が無料でダウンロードできることがわかった。それで、実際にダウンロードし、また、DELPHI6を紹介しているホームページで、ごくごく簡単なテキストエディタのウィンドウの作り方が書いてあったので、参考にしながら実際にやってみると、できた。これははじめて作った自分のアプリケーションと言うことができる。


あまり時間的にも余裕がないので、もちろん専門的に複雑なプログラムは作ることはできない。しかし、これで技術さえ磨けば、演算装置などを作って、統計や研究の道具も作ることができるわけで、たとえば、『検索』のプログラムを作って、『源氏物語』に、「とのゐ」という言葉が何回使われているのか勘定することができるかも知れない。気長に取り組みたい。


いずれにせよ、パソコンの構造や、C言語やPASCALといったコンピューター言語について多少なりとも理解の深まることを願っている。昔、会社に勤めていたとき、経理課の巨大な電算機で、伝票などの計算をし、パンチで孔を空けてプログラムを作っていたことがあった。その際に、会社から研修でCOBOL言語の学習に富士通まで通ったことがある。あのまま、経理課に在籍していれば、ひとかどのプログラマーにでもなっていたかも知れない。しかし、そんなことに本質的な関心のなかった自分は、まもなく退職してしまった。それ以来、電子計算機のことはすっかり忘れ去っていた。そして電算機やプログラムとはまったく無縁の世界で生業を立ててきた。それから、再びワープロやパソコンに出会うようになったのは、約15年後である。図体も大きく事務室の半分を占領いていた電算機もパソコンと名を変え、インターネットとの接続で、単なる計算屋から、まったく異なった機能を持って登場していた。


しかし、いずれにせよ、私の専門は哲学である。人は、特に現代人は、すべての分野で万能であることはできない。ゲーテが忠告したように、人は何者かであり得るためには、自己を一事に限定しなければならない。それにしても「哲学」といっても、あまりにも守備範囲が広大過ぎる。


私は、さしあたっては「ヘーゲル」を中心に勉強して行く。そして、その中から、専門を絞ってゆく。
もちろんヘーゲルは体系的な哲学者だったから、「論理学」「美学」「歴史」「法律」「宗教」など、ヘーゲルの研究活動は多方面にわたっている。彼はその強靭な論理的思考力で「世界を思索した」といえる。


私の最終的な理想は、田舎で農業に従事しながら、一方で、このパソコンを使って哲学を研究し、そして、自分の思想を建設して行くことである。単なる哲学の注釈家で終わるつもりはない。だがいまだなお、夢は実現していない。しかし、私は、まだ、私の夢を捨てたわけではない。今は、特に「私の哲学史」と題して、私がこれまでの人生で出会い、多少なりとも影響を受けてきた人物と思想について論評を試み始めたばかりである。今のところ、「ルソー」と「キルケゴール」の二人について論評を試みた。


もちろん、何も、言語作品に残されている思想作品や思想家にのみ関心があるわけではない。とくに私が関心を持った思想家は出来るだけ問題にするつもりなので、有名であるかどうかは関係はない。また著作を残しているか否かも関係はない。


特に、これから予定している思想家、哲学者としては法律家の「ケルゼン」や「科学的管理法」という研究によって労務管理思想や経営学で、とくにその創始者とも目される「F・Wテーラー」、その後この人事労務無関係理論を発展させた、人間関係理論で有名な「メーヨー」や「マズロー」「ドラッガー」など海外の有名な研究者の名前が挙げられる。日本人では経営学の分野では、「藻利重隆」氏やその他有名無名の学者経営者が数多く存在する。そして実際の経営者としては、自動車会社ホンダの創業者として有名な本田宗一郎氏、また松下電器の創業者である松下幸之助氏なども、いずれは取り上げたいと思っている。文学者や小説家についてはあまり取り上げることはないだろう。また、哲学者思想家といっても、著作を主たる業とした者に必ずしも限定することもない。イエスなども、彼自身は自分で筆を取って著作を残したと言うことはない。

今日一日の目標としては、ホームページの表紙を変えようと思っている。もう少し、一般になじみやすい、読みやすい物に変えてゆく必要があると思ったからである。いくら、「わが道を行く」と言っても、私の生活も意義も社会のと関連なくしたは考えられないからである。とくに、市場や金儲けということ、あるいは、職業というものは他者とのかかわりなくしては成立しない。とくに、社会性の問題については、個人的にも深く反省すべき点があると思っている。少しずつ「社会参加」を心がけるつもりでいる。


鈍才氏(http://ha3.seikyou.ne.jp/home/donsai/)にメールをはじめて送る。切磋琢磨しあえる関係になることを願っている。


それにしても、精神的労働と肉体的労働の調和した生活こそが私の理想である。労働と科学こそが私にとって哲学の具体的な展開である。単なる机上で従事するだけの、文学や宗教と区別のつかないような「哲学」は、私にとっては本来の哲学ではない。私にとって哲学とは何よりも「思考についての科学」にすぎないのである。しかし、残念ながら、今日の日本では「哲学」に興味があるということは、事実としてきわめてマイナーである。そんな人間は、大衆の目には奇人変人の類にしか映らないらしい。日々の生活に追われて物事を根本的に考える余裕もなかなかない。そのせいか、きわめて軽佻浮薄な連中の跋扈する社会になっていると思う。そして腐りきったマスコミも彼らを煽り立てる。そして、彼らから、「ダサい」「ウザイ」「クラい」と言った評語をレッテルに貼られることを、極度に恐れる。しかし、とくに、宗教や哲学を持たない今日の多くの青年男女は、人間というよりも、むしろ一種の動物に、獣にさえ見える。それに政治家も官僚も「物事を自分の頭で考える国民」を育てようとは思っていないし、またそんな国民を恐れているようでもある。自分たちの特権が失われるとでも思っているのだろうか。似非民主主義国家、日本の面目躍如たる一面である。気の毒で情けない国。


それに、残念なことにというべきか、現代の日本人は、宗教に関して深いトラウマを負ってしまった様である。本来宗教によって深い倫理性や哲学的根拠が与えられるのに、それがないために、人間関係にも潤いを失い、文字通りの金とセックス本位の「欲望社会」になってしまっている。同級生に爆弾を投げつける学校もある。上は政治家から「官僚」まで、青少年の暴力と少女の売春、両親による子供の虐待に至るまで、ただ単に少子化高齢化を待つまでもなく、社会の至るところに亡国の兆しが垣間見える。30年後、50年後の日本に、私たちの子供たちの世代に幸福な社会を残してやれないとすれば、なんと罪深いことか。杞憂に終われば幸いである。










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