ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

太平洋戦争をどう評価するか

2005年03月31日 | Weblog

太平洋戦争をどのように評価するか、という問題に決着をつけることは大きな課題だった。これは、単に歴史の問題だけではなく、現在の政治的な選択の問題、価値観の問題でもあるからだ。そして、この問題が困難な問題であるのは、私達の同一の民族の、父祖の政治的な行為を、まさしく、どう評価するかということにかかわってくるからである。


特に太平洋戦争の敗北によって、日本が民主化されたという側面は紛れもなく事実であるのだから、民主主義をどう評価するかにしたがって、私達の父祖、同じ民族の選択と行為を否定することにもなるからである。民主主義を肯定するなら、戦前の父祖たちの選択を、軍国主義、全体主義として否定せざるを得ない。
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雨降り

2005年03月28日 | Weblog
今日は雨が降った。午後の5時が過ぎても、小ぬか雨が降り続く。洗車して車検に出す予定だったが中止する。明日は晴れるようである。

このブログでは、日常私たちの手に入れることのできるニュースを追いながら、アメリカの国際戦略を中心にして、可能な限り、国際情勢の分析を心がけて行きたいと思う。そして、少しでも世界に対する認識が深まることを願っている。

世界を動かしている根本的な要因は何か。人間の欲望である。人間の欲望には物質的な欲望と精神的な欲望があるが、人類全体としてみるとき、後者が圧倒的に、根源的な要因である。マルクスはその唯物史観で人間社会を、上部構造と下部構造として把握し、根本的な規定要因は後者であるとした。下部構造とは人間の経済行動のことである。マルクスの世界観を受け入れているわけではない。しかし、彼の科学研究の成果は原則において承認できる。


現在のイラク戦争の根本的な動因は、イラクにおける石油利権をめぐる闘争と見る見方が、この戦争の本質をもっとも的確に捉えていると思う。フセインの独裁体国家とアメリカというの民主主義体制の国家の間に生じた石油利権をめぐる闘争である。アメリカの中東民主化政策も決して偽りではない。しかし、根本的動因は前者にあるということをきっちりと抑えておかないと、国際情勢の本質を掴みそこなうことになる。


これは国家と国家との間の戦争の原因をどこに求めるかという問題にもつながる。太平洋戦争は、アメリカを中心とする欧米列強と日本の中国大陸を巡る利権の対立が根底にあった。


アメリカはイラクを民主化することによって、特に石油に対する利権を手中にしたことになる。もちろん、民主化は促進されるべきものである。石油利権をめぐる戦争という悪によって、民主化という善が実現されてゆく。これもヘーゲルのいう歴史の狡知、理性の狡知、神の計り知れぬ知恵ということになるのかも知れない。


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竹島問題

2005年03月24日 | Weblog
これからは国家と国家の間の領土問題は、戦争などの武力による手段ではなく、国際司法裁判によって決着をつけるのが一番よい。
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どこにいる大和撫子

2005年03月19日 | Weblog
撫子は私の好きな花の一つである。一番好きな花かと問われると、必ずしもそうも断言できない。桜の花も好きだし、菊も、ダリアも、リンドウも、キキョウも、蘭も皆それぞれの趣があって好きである。しかし、撫子は、大和撫子を連想させることもあって、取り分けて好きな花の一つである。初夏の堤や海辺で、草むらの影にひっそりと咲いている撫子に出会うと、その清楚な美しさについ足を止め、見つめてしまう。



  放つ矢のゆくへたずぬる草むらに見いでて折れるなでしこの花

 
                    (草径集 大隈言道 なでしこ)


それにしても、なぜ大和撫子と言うのだろうか。どうして、日本の女性が撫子に結び付けられたのか、いつ、誰の発想に拠るのか調べようがなく私には分からない。しかし、撫子と日本の女性が結び付けられた大和撫子という可憐な言葉は本当に美しく、また、日本の女性にとっても名誉な言葉だと思う。


それにしても、最近残念に思うことは、この大和秋津島から、本当に大和撫子がすっかりいなくなってしまったように思われることだ。本当に美しいと思う大和撫子に、すっかり出会わなくなったと思う。現代の女性には失礼かも知れないが。寂しいし、残念なことである。どうしていなくなったのだろう。本当の大和撫子はどこに行ってしまったのだろう。西洋タンポポに土着の日本タンポポが追い払われたように、戦後の圧倒的なアメリカ文化の、洋風文化の流入によるものだろうか。


大和撫子の伝統はそんなに浅く、弱いものだったのか。もちろん、こんなことを言っても、現代の日本女性には一笑に付されるのが落ちだということも良く分かっている。しかし、私はこの事実を哲学の問題として考えて見たいのである。


まず、私が何に美を見出しているのか。また、美とはなにか。それを哲学的に理論的に考察することはここではできない。ただ、この国から内面的な精神的な深さを感じさせる女性がすっかりいなくなってしまった。それは、真の宗教がこの国から蒸発してしまったことに起因していると思う。真の宗教こそが、女性を内面から本当の美人に作るのである。その宗教が亡くなってしまったからなのだ。心に赤いバラ黒いバラを咲かせている女性がどこにもいなくなってしまったのである。


しかし、私はまた楽観している。キリスト教の真理が不滅であるように、この国においても、やがて可憐な大和撫子が復活すると信じている。ただ、儒教や神道の仏教の土壌の中から芽を出すのではないと思う。そうではなく、古臭い伝統主義者から蛇蝎のように嫌われたキリスト教の、そのキリスト教婦人の中に、大和撫子の再生を見ることを。


まもなく春が来て、きれいな桜が咲く。そして、また日本の初夏がやってくる。そのとき、どこかの浜辺で、岸辺で、ひっそりと咲いている大和撫子に会えるかも知れない。


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