ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

参議院は本当に必要か

2006年11月28日 | ニュース・現実評論

復党組4人が会見 「郵政民営化には反対していない」(朝日新聞) - goo ニュース

参議院は本当に必要か

昨年の郵政民営化総選挙で小泉首相の郵政民営化に反対して自民党を離党させられた議員が自民党に復党した。なぜ自民党は彼らを復党させなければならなかったのか。

来年の夏には、参議院総選挙が行なわれる。現在の参議院の勢力地図は衆議院に比較して与野党は伯仲しており、二十余議席程度の議席の移動があれば、与野党逆転の可能性がある。衆議院において自民党は、参議院のドンである青木幹雄氏や片山虎之助氏らを中心に、来年夏参議院選挙の勝利を期している。

そのために、青木氏らは、郵政総選挙の離党組みの党員復帰を働きかける必要があると考えたのである。なぜなら、いわゆる離党組みは、地方において特定郵便局や医師会、商工業者、土木建築業者らを通じて強固な選挙地盤を確立しており、選挙に強いと見られているからである。実際彼らは、郵政総選挙でも、自民党の公認なくして選挙戦を勝ち抜いてきた。彼らの手を参議院選挙に活用したいためである。

また青木氏らは、「今の野党が中心となる政治では日本は国際社会で生き残ることはできない」と述べて、けん制してもいるが、たしかに、現在の民主党はきわめて問題も多いが、しかし、はたしてそれが参議院の現状を放置するだけの論理になりうるかどうかは問題である。


昨年の郵政総選挙でも考察したように、実際はあの選挙は、自民党が国民政党に脱却できるかどうかが、真の争点だった。そして、小泉氏と武部氏に指導された自民党は、公募候補を擁立して選挙戦を戦い、実際に労働組合などに依存して国民政党に変身し切れなかった民主党を尻目に、圧倒的な勝利を収めたのである。

その選挙から、まだ一年も経過するかしないかの現在、郵政民営化離反議員の復党問題を幹事長中川秀直氏に丸投げして事実上それを承認し、指導力を発揮しなかった安部晋三新首相に、来年の参議院総選挙で国民がどのように反応するかが問題である。

ここで安部首相の改革に対する志と能力の低さが露呈したにすぎない、と私は思う。これによって、参議院自民党は相変わらず既得権益重視の旧態依然とした議員集団であることが明らかになったし、小泉氏や武部氏らの改革の意志は参議院にまでは及んでいないことが確認された。

昨年の郵政民営化総選挙を通じて、小泉前首相や武部前幹事長の手によって、かろうじて、自民党は国民政党へと脱却しようとしたのに、旧態依然とした参議院自民党に対する指導力を発揮し得ない安部首相は、いわゆる無党派層とされる、特定の支持政党を持たない「国民」に目を向けるのではなく、参議院議員の支持基盤である特定郵便局長や地方の土木建築業者などの、旧来の既得権益集団の利益擁護に目を向けていることが明らかになった。

そして、衆議院と異なり、参議院のそれが病膏肓に入るのは、その既得権益集団の現実と実態がただ単に自民党議員にとどまらないからである。公明党や民主党の与野党議員にも共通する土壌になっている。参議院は改選期間も長く、衆議院ほどには日常的に国民の目にさらされる機会が少ない。だから国民は衆議院以上に選挙を通じて明確な意思表示を行なう必要があるだろう。

そうして選挙を通じて意思表示をすることも重要であるが、国民はさらに、参議院の存在理由や定数問題を、今一度根底から再検討する必要もあるのではないだろうか。

本来、参議院とは「良識の府」といわれて、国民大衆の「衆愚政治」に対する防波堤の役割を期待されていたものである。しかし、戦後六十年の歳月の間に、参議院は定年退職した天下り官僚たちや、財界企業と霞ヶ関の官僚集団、官公労働組合などの利益擁護を目的とする議員集団へと、また地方の時代の変化に即して自己改革を徹底できない農協や、政府からの交付金に依存する都道府県などの地方公共団体に頼る地域業者たちの既成利益擁護団体に変質しているのではないだろうか。

将来の国民と国家の全体の観点から、良識のある国家政策を提言できる議員集団ではなくなっている。そんな現状で、国民は参議院の存在する価値を認めることができるのだろうか。今一度、国民は参議院の国会におけるその意義と現実の機能を厳しく検証する必要があるだろう。

衆議院で命脈を失いつつある旧来の情実的民主主義の自民党既得権益集団は、まだ参議院ではその余命を保っているということである。国民は、来るべき選挙で、その選挙権を行使することによって、二十一世紀の国際社会の中で、国民よりも意識の遅れた政治家たちを退場させる必要があると思う。

その点では小沢民主党も五十歩百歩ではあると思うけれども、選挙権の行使を通じて、まずは自民党を国民政党へと更なる改革を促してから後に、民主党の改革に取り組む必要があるだろう。国民は一挙に日本の政党政治の改革を実現することはできない。時間と労力を払って、一歩一歩改革してゆくしかないからである。

政治の世界に国家国民の最高の人材が集まらないのは、日本の国家と国民にとって悲劇であることは、今も昔も変らない。というよりも、「国民はみずからの水準にふさわしい政治しかもてない」という西洋民主主義政治の命題が普遍的な真理であることを証明しているだけなのだろうか。


いずれにせよ、目指すべきは、真の民主主義と自由の精神に立脚する自由党と民主党の二大政党政治であると思う。その政党政治の実現のために国民は、教育の改革と選挙権の行使を通じて、現在の自民党や民主党の政治家たちの政治意識と政党政治の変革を促してゆく必要があると思う。

ご参考までに 

民主党の再建と政界の再編成について

自由と民主政治の概念

民主党四考

民主主義と孤独 

 

 

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防衛省と国防省

2006年11月21日 | ニュース・現実評論

昨日の私のブログ記事で国防軍の問題について触れたのにちなんで、防衛省と国防省という国軍の所轄官庁の呼称の問題について考えてみたい。

国防省という名称であるが、現在の防衛庁の昇格にあたって、自民党などは、「防衛省設置案」などで「防衛軍」や「防衛省」という名称を予定しているようである。しかし、それは、彼らの最悪の日本語教本「改正?教育基本法案」などと同じく、自民党員の言語感覚の水準を明らかにすることになっている。

「防衛軍」や「防衛省」の呼称の根本的な欠陥は、国民国家の軍隊の本質である「国を国民が護る」という基本概念が、そうした名称には顕われないことである。

成熟した民主主義国家の国民と国家体制が行なう戦争とは、自衛の戦争しかないから、ことさらに「防衛」などとうたう必要はない。それなのに、わざわざそんな名称にするのは、日本のように民主主義が未熟で、文民統制に自信のもてない潜在意識があって、だから国民や政府は、せめて自国の軍隊に「防衛」という名称でも付しておかないと、いつ自国軍がクーデタをおこしたり他国を侵略するかも知れず不安で自信がもてないためではないか。

イギリスやアメリカの軍隊も「国防軍」であり、それを統括するのは「国防省」である。わが国の軍隊も、国際的にこれらの諸国と国軍として同格であるべきであり、その意味でも、自国の軍隊やその所轄官庁を呼ぶのにも「国防軍」や「国防省」が適している。

 

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「日本国の概念」とイギリス

2006年11月20日 | ニュース・現実評論

「日本国の概念」とイギリス

日本国は日本国であって決して英国ではない。しかし、英国と日本とは、ユーラシア大陸を挟んで極東と極西と地理的には正反対に位置するけれども、同じ立憲君主国家であり、大陸の周辺国家であり、また島国であるなどの類似点も多い。

なぜこのようなことを言うかというと、今日の日本国の現状は周知のように教育亡国、政治亡国の瀬戸際にあるからである。それらは日本国民の教育や国家意識など多くの点で、太平洋戦争における日本の敗北の結果としてもたらされた国家概念のゆがみと、その戦後政治体制の行き詰まりに起因していると考えられるからである。そうした状況から脱却してゆくうえで、明治維新に伊藤博文などが欧州に国家観を学んで新しい日本の国家体制を確立したように、まだなお多くの点で英国などの国家体制を参考にできるし、すべきであるからである。


英国は、日本のように第二次世界大戦で敗者として、政治的にも文化的にも外圧的に国家体制の強制的な転換を余儀なくされることもなく、今日に至っている。また、明治維新のように、黒船などの諸外国の暴力的な圧力によって強制的に開国されることも文化的な断絶を国家として経験することもなかった。それゆえに英国などは、私たちがオーソドックスな国家の概念を考える上で参考になる。


自由で独立したあるべき正しい国家概念を、そうしてまず日本国民が日本国の再生のためにしっかりと自覚し、目的としてゆく必要がある。その際に英国やスイスなどの国家体制は参考にしうる。


まず第一に、自由で独立した国家として英国やスイスは、その国内に日本のように外国駐留軍を置いていない。日本国民のモラルの退廃の一つの原因としてアメリカの駐留軍の存在が大きいのである。

もちろん、政治的には今すぐには在日アメリカ駐留軍の撤退を実現させることはできないが、それは国民の「悲願」であるべきである。国内に外国の軍隊が駐留していることを国民は恥じるだけの誇りを持たなければならない。

いつの日か、アメリカ軍にお礼を言って国内から帰ってもらい、日本人自身の手で、国家と国民の安全を確保できるようにしてゆくことである。そして、アメリカとは現在のような半植民地のような従属的パートナーの関係ではなく、イギリスのように、より対等な同盟国家関係にしてゆく必要がある。

そのためにも防衛庁は国防省に、自衛隊は国防軍に改組し、さらに必要とあれば、自発的な兵役の義務も国民に復活させる必要があるだろう。また、国家情報機関も強固な組織に編成する必要があるかも知れない。

そして、そのために何よりも大切な前提としては、現在の日本の自由民主党や民主党などの政党で行なわれているような偽物の自由と民主主義ではなく、イギリスやスイスで行なわれているような自由と民主主義についての真正の自己教育を国民一人一人に実行してゆく必要がある。

 

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