昨年を振り返り、今年一年を展望する
昨年に作成した記事を振り返りながら、この一年を振り返り反省してみたい。
機会あれば「田舎」への移住を果たしたいと考えて古民家を見学したのが、2009年(平成21年)の年末だった。そして、年が明けた今年の1月5日に、新年を迎えて『新春のお慶びを申し上げます。 [2010-01-05]』の記事を書いて昨年は始まった。
その記事の中でも、民主党の政策について批判したが、民主党の諸政策が決して日本再生に直結するものでないこともわかっていた。
農家の戸別所得保障や高校の授業料無償化、子ども手当のように消費の拡大や産業の育成に直結するのことない無効な、小沢一郎氏を始めとする民主党の幹部が政権に就くことだけが目的のような、国民に耳触りの良い媚びるような、国民の性と依存心をさらに増長させるような政策を採りながら、その肝心の財源については、そのために消費税増税の導入を考えているらしい。
菅直人首相は日本財政の安定と健全化を目的として、2020年度までに基礎的財政収支の黒字化を達成すると妄想している。しかし、そのために必要なことは、整合性のないマッチポンプ的なこれらの民主党の場当たり的な政策ではない。根本的に必要なことは、国民個人に対する個人税制のみならず、株式会社や宗教法人などの法人税制をも含めて、より公平で公明な総合的で体系的に整合性のある税制体系を確立することである。その課税根拠を明確に公開して、より公平公正な税制であることを国民に自覚させることである。これらの税制を構想し実行できるのは、省利と私利にとらわれた官僚ではなく、自覚と使命感と能力を持った政治家である。
これまでの自民党や民主党の形成してきたような、大企業や労働組合、医師会のような政治力のある団体、法人にのみ有利な偏った不公平税制を改革して行く必要がある。それにもかかわらず、現在の民主党政権にはそのような税体系を構築する力はなく、連合や自治労を後ろ盾とする民主党政権には、公務員改革をやり遂げる意思も能力もなく、自分たちのバラマキ政策の付けを、国民に対する消費税増税に付け回そうとしている。
これまでの論考でも繰り返し述べているが、旧社会主義者たちの仙谷由人氏らの巣くう現民主党の諸政策では、かっての旧ソ連や東欧社会主義諸国、中国や北朝鮮などの閉鎖的で抑圧的な不自由な社会の失敗と不幸の歴史がわが国においても繰り返されるばかりだ。現在の民主党が政権に就くことによって、すでに情報統制や監視社会の兆しが芽生え始めている。
これまでの論考でも繰り返し主張しているように、わが国は大学・大学院の根本的な改革によって教育改革を実行してゆくとともに、現在の自民党や民主党などの「敗戦後の」既成政党を解体して、新しい自由党と民主党の能力のある二大政党を機軸としながら、現行の日本国憲法をまず廃棄することである。そうして明治時代の大日本帝国憲法を一旦は復活させ、それを日本国民自身の手で改正する形で、現在の自衛隊を解体し、新しい日本国軍の建設を核としながら二十一世紀の国家形成を行う必要がある。肝心なことはこの日本国家の概念を国民が明確に自覚してゆくことである。
それによって、太平洋戦争の敗北によって断絶させられた民族の文化と伝統を継承し、それをふたたび復活させてゆかなければならない。
旧年を回顧しても、個人的に見ても、きわめて不作の一年だったと言うしかない。これは私自身の能力の限界だから、悲しむべきことではあるが仕方がないのかもしれない。ただ、私の思想と哲学の基本的な骨格やその方向性はこれらの論考によっても明らかにされているだろうとは思う。今後の課題は、それらの概念を、観念的な種子として、その基本的な骨格をさらに具体化して詳細に展開して現実的なものにして行くことだと思う。具体的には、憲法論や国家論をさらに体系的に詳細に展開してゆかなければならない。
皆兵制と皆農制によって質実剛健な国民性を培い養いながら、国家と個人の概念を現実にしてゆくことだ。スイスやデンマークやイスラエルなどの国家体制も参考になるかもしれない。核戦争に備えて国土の要塞化と核弾頭を搭載した原子力潜水艦の建設を公然の秘密としてゆくこと(中国とアメリカの敵対を活用せよ)、これを国家の基本政策として行く必要がある。責任ある政治家は、これらの政策を秘密裏にも断行する覚悟を持たなければならない。「自由にして民主的な独立した立憲君主国家体制の建設」、このことを日本国の国家概念として国民は自覚して行くべきだろう。このことは一面においては、太平洋戦争後の異常な日本の国家体制を解体し、明治期の国家体制と国際関係を復活させることでもある。
2010年の論考
342 東三本木界隈――京都の町並み紀行(1)
・2010-12-13 日記・紀行
341 民主党の「民主主義的」性格―仙谷由人官房長官の体質資料集
・2010-11-15 ニュース・現実評論
340 府庁
・2010-10-19 日記・紀行
339 野の草(1)水引草
・2010-10-26 日記・紀行
338 遅い秋
・2010-09-30 日記・紀行
337 民主党の改革能力
・2010-09-14 ニュース・現実評論
336 久しぶりのブログ更新
・2010-10-13 日記・紀行
335 八月の雲
・2010-08-11 日記・紀行
334 日本族インディアン国酋長の感謝と詫び状―――歴史のカリカチュア
・2010-08-15 歴史
333 琵琶湖の花火
・2010-08-06 日記・紀行
332 国家主権の問題について(2)
・2010-07-27 国家論
331 哲学概念としての「わたし」の確立
・2010-07-20 哲学一般
330 風のそよぎ
・2010-07-18 日記・紀行
329 国家主権の問題について(1)
・2010-07-17 国家論
328 概念と自我
・2010-07-16 哲学一般
327 国家の再建
・2010-07-07 国家論
326 夏が来る
・2010-06-24 日記・紀行
325 生き残り日本兵の顔つきと日本サッカー陣
2010-06-18 教育・文化
324 ミネルヴァのフクロウは夕暮れに飛び立つ
・2010-06-10 哲学一般
323 南禅寺・疎水・先斗町
・2010-06-02 日記・紀行
322紫蘭
・2010-06-01 日記・紀行
321 歴史のパースペクティブ ―――20世紀のインディアン
・ 2010-06-03 歴史
320 柿の木の復活
・2010-05-05 日記・紀行
319 憲法記念日
・ 2010-05-03 国家論
318 沖縄における普天間基地問題
・ 2010-04-25 ニュース・現実評論
317 市民社会の分析
・2010-05-02 日記・紀行
316 民主党の倫理感覚
・2010-04-28 ニュース・現実評論
315 西行再訪
・2010-04-06 日記・紀行
314 京都における吉田松陰の足跡
・2010-04-27 歴史
313 梨花一枝春帶雨
・2010-04-18 日記・紀行
312 自由民主党の崩壊と日本政治の概念
・2010-04-05 ニュース・現実評論
311 国家、国籍、参政権をめぐる問題
・2010-03-19 ニュース・現実評論
310 菜の花畑とレンゲ畑
・2010-03-10 日記・紀行
309 反日と愛国
・2010-03-14 政治・経済
308 ひな祭り
・2010-03-03 日記・紀行
307 廻りくる春の萌し
・2010-03-02 日記・紀行
306 国民とは誰のことか
・2010-02-27 国家論
305 浅田真央選手、バンクーバー冬季五輪で銀
・2010-02-26 ニュース・現実評論
304 存在・概念・真理・国家
・2010-02-24 概念論
303 概念と種子
・2010-02-17 哲学一般
302 津山(二)――――種子と土壌の問題
・2010-02-16 歴史
301 津山(一)
・2010-02-12 日記・紀行
300 HIROSIMA MON AMOUR――広島、私の愛しい人
・2010-01-31 芸術・文化
299 新春のお慶びを申し上げます。
・2010-01-05 日記・紀行
上の写真は2010年1月2日午前8時の、忍野富士
富士山ライブカメラ
http://www.fujigoko.tv/live/index.html
新春のお慶びを申し上げます。
昨年はアメリカ発の疑似世界恐慌で、全世界が揺れた一年でした。しかし、金融不安からもっとも遠く安全地帯にいたはずの日本が、低温火傷の被害のように、もっとも深刻に、長く経済不況を蒙っているように見えます。鳩山民主党の掲げた、子ども手当や高校授業料無償化、農業の戸別補償などの雇用・環境、景気対策における「バラマキ」は、この緊急非常時に、国民に対して財政再建のための耐乏と貢献、犠牲の覚悟を促すのではなく、むしろ甘やかし政策になっている。これで財政破綻を招くことになれば(その可能性は高い)、国民経済を本当に救うことにはならないのです。一時しのぎのモルヒネ注射にしかなりません。
本当に必要なのは、「バラマキ政策」ではなく、新産業、新事業の開発、新しく若い企業家の育成であり、そのための財政金融支援、教育支援です。経済の再活性化のために重点的、集中的に財政投融資して、とくに人口少子化対策にはあらゆる手を打たなければなりません。今の鳩山政権の経済政策は、後ろ向きの「バラマキ、甘やかし」の弥縫策に終始してます。そんな時期に福島瑞穂少子化担当相など、とうていその任に堪えないブラックユーモアでしかありません。
昨年の一年は、戦後になってようやく曲がりなりにも政権交代らしい政権交代を果たしました(小沢一郎氏などについても悪口を言うばかりではなく、その功罪をきっちりと評価すべきでしょう)。しかし、だからといって日本の政治がまともなものになったとはとうてい言えません。さらに自民党を消滅させ、また、現在の「旧社会党」系民主党をも分解させて、政界の再編成を図ることが当面に残された次の課題になっています。
長く続いた55年政治体制の旧政界の廃墟の上に、新自由党と新民主党による真の二大政党によって、さらに日本国の自由と民主主義を充実させながら、立憲君主国家体制をさらに発展させて行く必要があります。そうして、本当に健全な国家社会を建設して行くことによって、バブル経済の崩壊以来、毎年三万人を越える自殺者が出ているような悲惨な社会状況を改革して行く必要があります。
こうした課題は、新憲法の制定と並行して実現して行く必要のあるものが多い。衆議院、参議院の定数削減、道州制国家体制、公務員制度の全面的な行政改革、全寮制の中高一貫教育(現在の民主党政権で高校教育の実質的な無料化は進んでいますが)や、保育所・幼稚園の統合、国民皆兵制度の制定など、教育制度の全面的な改革などとも並行してゆく必要があります。明治維新を越える平成維新として根本的な国家体制の変革をさらに準備して行かなければならないと思います。
鳩山民主党は、危ういながらも、アメリカ依存からの相対的な独立を実現し始めているのはよい。ですが国家に真の独立を求めることが、国民にどれほどの負担と覚悟を求められるものであるかを、国民に十分に周知、教育、納得させるという前提抜きで、早急にことを運ぼうとしています。こうした歴史的な課題の実現には、十分な歳月と準備が必要です。向後百年を要する政治的な課題でもあるのですから、工程表を明らかにして、着実に腰を据えて実行してゆくべきでしょう。
今年も世間に対する愚痴から、新年のご挨拶を始めてしまいましたが、何はともあれ、どうか本年が多くの人々にとって、平安と歓びに満ちたさらに豊かな一年になりますよう、ささやかな祈りを込めて、新年のご挨拶をお送りします。
相変わらず和歌の修行も余裕のない私には、自分の言葉で春の心を詠むことができません。せめて西行法師の心を懐かしむばかりです。
世にあらじと思ひける頃、東山にて、人々、寄レ霞述懐といふことを 詠める
722 そらになる 心は春の かすみにて 世にあらじとも 思い立つかな
おなじ心を
724 世をいとふ 名をだにもさは 留め置きて
数ならぬ身の 思い出にせむ
世を遁れける折り、ゆかりありける人の許へ 言ひ送りける
726 世の中を 背きはてぬと 言ひ置かん 思ひしるべき 人はなくとも
明けましておめでとうございます(3)
日本の根本的な課題は、「道州国家」の実現を追求してゆくことです。それによって現在の国のかたちを変え、中央集権的官僚政治を壊してゆくことです。その上で、教育を変革して「地方主権」の行政を実行できるようにすることです。全国民がこのことを理念として深くよく自覚して行動すべきです。
政治家などに働きかけてゆくことも必要でしょう。そして、東京への一局集中による経済行動の不効率な弊害の多い現状を変えて行くことです。もし私たちが「道州国家」「地方主権」を実現することができれば、現在の官僚の天下りの問題も、妊産婦のたらい回しによる死亡事故のような医療行政の破綻、また哀れな教育の現状――それは東京大学を頂点とする大学入試制度によって起こされる愚かしい受験戦争に現れていますが、これらの問題はよほど改善されてゆくのではないでしょうか。
多くの面で起きている日本の閉塞の状況は、徳川幕府から明治期へ、さらに戦前戦後を通じて今に至るまで続いている現在の中央集権的な行政機構と、その上にたつ官僚制度(公務員制度)に根元的な原因があることは明らかです。この現状を打開するためには、まず「道州国家」を実現して「地方主権」を確立することです。それによって現在の硬直した中央集権的官僚制度を破壊することなくして、日本の抱える多くの問題の解決はできないと思います。
日本の発展を阻害している「中央集権的官僚制度」を破壊するキィワードは「道州国家」と「地方主権」です。このブログでも引き続き、「道州国家」と「地方主権」の実現に向けてさらに論考を深めてゆくつもりです。今年も志を同じくする皆さんとの議論も活発に交換できることを期待しています。
正月早々、長々と政治や経済のことを論じてしまいましたが、せめて正月くらい、芸術の香気もほしいものです。
折に触れて開く西行の和歌、山家集などはいつ詠んでも味わい深いです。そのいくつかを詠んでみます。せめて西行の足の踏む砂粒ぐらいの歌でも自前で詠じることができればよいのですが。
716 わがやどは 山のあなたに あるものを
なにに憂き世を 知らぬ心ぞ
719 思ひ出づる 過ぎにし方を はづかしみ
あるにもの憂き この世なりけり
1227 かかる世に かげも変わらず すむ月を
見るわが身さえ うらめしきかな
1261 折る人の 手には留まらで 梅のはな
誰がうつり香に ならんとすらむ
1514 ささがにの 糸に貫ぬく 露の玉を
かけて飾れる 世にこそありけれ
1544 友になりて おなじ湊を 出舟の
ゆくへも知らず 漕ぎ別れぬる
今年もみなさんまた良いお年でありますよう。
明けましておめでとうございます(2)
正月の記事がとんでもない方向にそれてしまいましたが、もう少し続けます。
昨年の秋に、アメリカの証券会社リーマンブラザースの倒産に端を発して金融危機が全世界に波及しました。あれほど大きな収益を上げていたトヨタ自動車も一転して赤字予想を発表するなど、それ以降に世界の経済状況が一変しているようです。アメリカのそうした金融資本主義の動揺にも左右されることのない経済構造を、本当はわが日本国において造り上げてゆくべきなのでしょうが、対米従属国家の日本には、それは困難な課題であるようです。国民にその自覚はありませんし、指導者にもほとんど問題意識もなく、あっても、その努力すら怠っています。その付けが回ってきているというべきでしょう。国家も政府も多くの国民もそれぞれきびしい局面に立ち至っているようです。その打開は困難ですが、一人一人が何とか立ち向かって行くしかないようです。
年末年始の報道によると、東京の日比谷公園では、民間のボランティアが「派遣社員村」を開き、また、そのテントが足りないとかの理由で、桝添要一厚生労働大臣や大村副大臣などに、食料や住居など追加の要請をしていました。しかし、本当に必要なことは彼らが働いて暮らすことのできる「仕事」でしょう。もし、日本が本当のキリスト教国家、キリスト教の政府であるならば、民間のボランティアの要請を待つまでもなく、住む場所も食べるものもなく年を越さざるをえない人々のために、すでに中央政府も地方政府も十分な対策を講じていたはずです。またその事実は日本の現在の地方政府や中央政府の民主化がどれほど進んでいるかの尺度でもあります。
日本の国においても遅かれ早かれ、中央政府、地方政府ともに民主化されてゆくはずです。そのことによって2008年末の日本のように、住居や食料もなく年を越さざるを得ない人々もいなくなる時がくるでしょう。ただ、そうした時代の早く訪れることを期待したいものです。
今後の20年、50年の日本のさしあたっての課題として、具体的にはどのようなことが考えられるでしょうか。次のような目的を追求してゆくべきだと思います。
まず、日本において「道州制国家」の実現を全国民的な自覚的な運動としてゆくことです。そして現在のような東京の一極集中を分解して、それぞれの地方が政治と行政の権限を確かなものにして「地方主権」を確立することです。現在のように、中央官僚たちが全国の行政を一律に規制することによって生まれる役人利権という弊害が国家の癌になっている現状を改革してゆくことです。これを目的意識として国家の指導的位置にある人たちがもっと強烈にリーダーシップを取ることです。
現在の日本では、大企業の本社のほとんどが東京に一局集中しています。そのために、地震や戦争などの災害に脆弱な国家になり、また、交通渋滞などによるエネルギー消費や経済活動における無駄、不効率、環境破壊などの多くの問題が生じています。日本国におけるこの中央集権的な東京一局集中を破壊してゆくことが解決の根本的な方向になることは明らかです。またそれによって、新宿歌舞伎町に見られるような、退廃的な都市構造も解消してゆくでしょう。
中央集権的な上意下達式の、儒教的な官尊民卑の不効率な行政が、封建政治の遙か昔からの名残として現在も日本に残存しています。日本国民の意識と国家の制度もまだ事実として半封建社会にあると思います。地方の行政に自立性や主体性は育っていません。これを「道州国家」を実現してゆくことで解決してゆくことが鍵になります。歓楽街なども完全には無くならないかもしれませんが、「道州国家」によって「地方主権」を確立することで、少なくとも東京の歌舞伎町に代表されるような巨大な現代のソドムとゴモラのようなその醜い容貌はその様相を変えてゆくことでしょう。
しかし、たとえ「地方主権」が日本に実現したとしても、現在のような江戸時代のちょんまげの跡を残したままの日本人の意識では、衆愚民主主義になるだけかもしれません。今も「裏金問題」や労働組合の「闇専従」、地方行政の「情報公開」の不徹底、地方議会と議員などによるお手盛り行政、知事や市長、自治体議員などを選ぶ地方選挙の投票率のあまりの低さなど、地方行政の現状は、中央政府以上にひどく、とても「民主主義」の体をなしているとは言えないと思います。
明けましておめでとうございます(1)
今年は当地では元旦は少し天気がぐずったりしたようですが、全体として晴れやかで美しい天気が続きました。富士山も三ヶ日、きれいに見えたようです。
静岡から京都に戻って来て残念に思うことの一つは、お富士さんのきれいな容姿を容易に眺めることができないことでしょうか。しかし通信技術の発達した今は、実物でないけれどライブでその姿は眺めることができるようになっています。
富士山ライブカメラ
http://www.fujigoko.tv/live/index.html
歌人の西行も生涯を旅に生きました。晩年になって東大寺料勧進のために東北地方に旅したときに、富士の山を見て次のような歌を詠んでいます。
あづまの方へ修行し侍りけるに、富士の山を見て
aa 風になびく 富士の煙の 空にきえて
行方も知らぬ 我が思ひかな
この歌は、新潮社版の山家集にはありませんが、岩波文庫版には「覊旅歌」の中の和歌として載っています。藤原定家の編纂になる新古今集の中にもおさめられているらしいですが、手元にこの本がないのでわかりません。この歌からもわかるように西行にあっては旅そのものが仏道修行でした。この歌も「我が思ひ」をどのように解釈するかで、さまざまに詠みとることができるようです。たんに旅の叙情を歌ったものではなく、無常の歌とも恋の歌とも言われています。
昨年の秋に待賢門院璋子のゆかりのお寺の法金剛院を訪ねたり、また、桑子敏雄氏の著書『西行の風景』を読んだりして、西行についてもかなり理解も深まったと思います。この本は、まだ書評も書き上げていないのに、すでに図書館に返却してしまいました。
とにかく西行が日本の歴史のなかでも文化史的に大きな位置を占めている歌人だということはあらためてよくわかります。これまで山家集の西行しか知らなかったのですが、西行がとくに晩年にみずからの芸術の価値をよく自覚して残した「御裳濯河歌合」や「宮河歌合」などは、伊勢神宮に奉納もされたそうです。また、西行が和歌のなかで、月に仏教を、櫻に神道を象徴させているらしいことも、今になってはじめて知ったことです。
当時にあっても仏教は外来の思想、宗教であり、それが古来の神社信仰とは異質の、時には忌み嫌われる関係にあったこともあらためてわかりました。西行はこの矛盾する神社信仰と仏教の二者を、神仏冥合の思想によって、しかも和歌の世界でその統一を実現しようとしたようです。西行をはじめとするそうした試みは日本の先人たちの優れた思想的な営みだったと思います。
ところが、せっかくのこの優れた西行の頃からの伝統的な遺産も、明治期になると狂信的な「廃仏毀釈」運動によって破壊され、その生命を絶たれてしまったようです。明治維新や明治政府の指導者たちが、せめて西行などの神仏冥合の思想を正しく理解することができていれば、その後に昭和の時代の狂信的な国家神道もなく、太平洋戦争も避けることができたかもしれません。狂信的で破壊的で生ける命を殺してしまう悟性的思考の害悪を思うばかりです。たんに真言僧の歌人と思っていた西行が、神仏冥合の考え方のうえで文化史的にも大きな位置を占めていることを知りえたこともうれしい新しい発見でした。
さまざまな宗教の和解という問題は、たんにその昔に西行が仏教と日本の民族宗教である神社神道との関係で思想的に苦闘したばかりではなく、今もなおイスラム教とユダヤ教のあいだをめぐってイスラエルとパレスチナで殺戮の応酬が続いています。また、アフガニスタンやイラクでのアルカイダのテロ行為にもイスラム教とキリスト教との関係が背後にあります。
ヒンズー教と仏教の軋轢をめぐって、正月早々にセイロンでも戦闘が行われています。昨年の晩秋にインドのムンバイで起きた同時多発テロの背景にも、イスラム教とヒンズー教の軋轢があります。諸宗教の調和の問題は今世紀においても、引き続き人類の大きな問題であることに変わりはありません。このブログでもテーマにしてゆくつもりです。
この一年を振り返る
今年も今日で終わりです。この一年を振り返ってみても、残念ながら決して大きな進歩があったとも言えません。それは個人的にも社会的にもそうでした。
それでも小さな成果があったと言えば、今年になってニンジン、ダイコン、生姜、タマネギなどの野菜を、はじめて自家製で食卓に上らせることができたことでしょうか。農作業にかかわり始めてまだわずか一年の初心者ですが、果樹も本当に最初の一歩で、イチジク、モモ、柿などを植えました。もちろん果実を収穫できるようになるのは、もっと先のことで、それも柿の根づけすら第一年目のハナから失敗しました。
本当はもっと若い時から、自分のめざすべき道を進みたかったのですが、しかし、後悔先に立たずですから愚痴を言っても仕方がありません。生活のスタイルを新しく作って行くしかないようです。
この秋に始まった金融恐慌の嵐は、今も吹き荒れています。トヨタやホンダなどの自動車会社は、好況時には兆単位の収益を上げておきながら、いったん不況になると、真っ先に人員解雇を行っています。
こんなことでは、どんなに魅力的な自動車をこれらの会社が生産していようが、社会的にはまったく「つまらない会社」と言うしかないでしょう。人々の労働力を活用し利用して儲けていながら、不況時には冷たく従業員の生活手段を奪うことに何らのためらいもないようですから。現在の株式会社が雇用よりも利益を優先する社会的組織であることがこうしたことからも明らかです。これらの会社の株主たちも、また、いわゆる「正社員」たちも、配当や利ざやや自分たちの給料が肝心で、臨時社員の生活などどうでも良いのでしょうか。
これもやはり日本にはまだ本当の宗教が支配的な社会にはなっていないからです。政府は言うまでもなく、国家にも国民の間にもまだその精神が十分に浸透していません。それを実現するのもまだはるか遠い先のことかも知れません。しかし、いずれにせよ、願うことはこの日本国が世界に先駆けて、失業や貧困の不自由から解放された国家になることです。
来年は個人的にはさらに農的生活の方面をさらに充実させていきたいと思っています。できれば、生活の場もさらに農村地域に移せれば良いのですが。昨今の中国製の食品の安全性や畜産飼料の価格の高騰などによって、私たちの生活の根本である食料に問題のあることもわかっています。日本の食糧自給率なども話題になりました。それらは国民のすべてが食料生産に携わるようにすれば解決することだと思いますが、それにしても現在のあまりにもずさんで有害無益の農業政策を転換してゆくことでしょう。もはや現在のように、無能な政治家や官僚たちに任せていればいいという段階ではないようにも思います。自分たちでみずから行動してゆくことでしょう。
この国を少しでも良い国にして行くために、農業の現状など、さらに理論研究を深めてゆく必要もあります。また、たんに理論のみならずNPOなどで志を同じくする人々といっしょにその可能性を追求してゆくべきかもしれません。来年は少しでも夢が深められ、一歩でも前に進むことができますように。
袖触れ合うも他生の縁とも言います。この一年、つたなき当ブログを訪れてくださったみなさん、来年も良いお年でありますよう。
国家指導者論
まだ断片的にしか読み始めてはいなけれども、ただ樋口陽一氏らの憲法学者の思想を読んでいて感じることは、一言で言うと樋口氏ら憲法学者や法律家の思想があまりにも悟性的であるということだろうか。
「悟性的」とはどういうことであるか。このことを考えるのに、それとは対概念でもある「理性的」という概念と比べてみればいいと思う。ここでは比喩的にしか言えないが、「理性的」であることとは、その思想を衣装にたとえれば、縫い目の見られない天衣無縫の天女の着ている着物であると言えようか。論理が必然的で円環的かつ体系的である。それに対して「悟性的」とは、つぎはぎだらけにその破れを繕った、三流役者の舞台衣装のようなものだと言うべきか。
要するに、悟性的な三文学者の思想には、有機体としての生命感や完全性を感じられないのである。たしかに、彼らの衣装の一部は派手で、思想の一部は真実を語っているにはちがいない。しかし、それは、どうしても部分的な真実にしか過ぎないものである。だからその主張はどこか偏頗で、いつかその弊害や副作用が現れてくるような印象を受けるものである。
樋口陽一氏たちの憲法学は、ヘーゲルの『法哲学』などを十分に解釈研究した上で構築された理論だろうか。現在のところは直感的ではあるが、とてもそうであるようには思えないのである。そして、そのことは樋口陽一氏らの憲法学流派の致命的な欠陥となっているようにも思える。また、そうであるなら、その結果として、彼らの憲法観が国家としての日本や日本社会や国民に及ぼすその文化的な悪影響の側面は、事実として少なくないように思われるのである。少なくとも、マルクスなどは、その試みが成功したか否かはとにかく、ヘーゲル哲学をアウフヘーベンしなければ近代以降の哲学や憲法は成立しないという意識を持っていた。
国民の税金で運営されている国立大学程度の教授であるならば、少なくともそれくらいの見識はもっていただきたいものである。プラトンはその『国家論』のなかで、国家の指導者たるものは「弁証法の能力を教養として体得しているべきである」と語っている。それと同じように、近代国家の指導者であろうとするものは、最小限でもヘーゲル哲学、とくにその「法哲学」くらいは、教養として身につけていなければならないだろう。大学や大学院がせめてその責任を果たすべきである。
今日の日本社会の低迷の根本的な原因には、この憲法学者の樋口陽一氏をはじめとする大学教授たちが、少なくとも日本国のエリートたるべき人材の育成について、国民に対して十分にその責任を果たしてゆく能力を持ち得ていないということがあるのではないだろうか。
プラトンではないけれども、国家に対して指導的な人材を育成するような大学においては、少なくともヘーゲル哲学を中心とする、『弁証法の能力』を確立させるということを自覚的な教育目標として追求してゆくべきである。政治家をはじめとして、現代の日本の国家的指導者の資質、能力はあまりにもお粗末である。
どれくらいに時間を要するかは分からないけれど、引き続き日本国憲法などの問題点については検討してゆきたいと考えている。
(短歌日誌)
夕暮れの街を自転車で走り抜けて小畑川の橋の上にさしかかったとき、眼下の川岸に桜並木を眺めて
夕暮れて 桜雲 薄墨に染まりゆきし
棚引きて中空に流れ行く
(「 私たちはなぜ「国基研」を作ったか 」http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/archives/668)
櫻井よしこ氏については、ご承知のように氏のWEBサイトを当ブログでもブックマークとして登録させていただいています。そのことからもおわかりになるように、評論家やコメンテーターなどが数多く存在する中でも、本ブログの管理人にとっても、櫻井氏は思想的にというか考え方がもっとも近く、共鳴できる方といえます。個々の点に至るまで完全に一致しているとはもちろん言えませんが、それでも基本的な考え方の大枠、問題意識などについて共感できる点は少なくありません。
現在の日本国の問題点について――それは法律、経済、政治、文化、教育その他多岐にわたりますが、要するに、根本的な改革がはかられることなくして事態は打開できないところにまで来ていると思います。
日本が太平洋戦争で連合国に敗北してから現在にいたるまで六十余年を経過しています。ですから現在の日本国民の大部分は、戦後制定された日本国憲法下の日本の社会体制を自明のものとして生きて来たといえます。そのために、現在の日本国民の多くにとっては、今のそれとは異なった社会、経済、政治体制を想像することはなかなか難しいと思います。しかし、それでも櫻井よしこさんのような一部の方は、日本の現状に危機感を持ち、その改革に立ち上がろうとしておられます。
民主主義国家の国民には、一人一人が国家のあり方に切実な関心を持ち、また、その形成に積極的に関与してゆく権利と義務があります。その際に、考え方が同じかそれに近い方々と共同してゆくのは当然のことであると思います。
しかし現状では、残念ながらなかなか直接の行動で協働することはできませんが、こうしたネットでの情報発信では微力ながらも支援できるのでないかと思います。
もちろん、当ブログ管理人もそれなりに置かれた立場から、理想とする方向を追求してゆくつもりで、そのためにも微力ながらも献身してゆくつもりですが、今回櫻井さんが立ち上げたような運動にも、共感できる方がおられれば、できる限り多くの方がいろんな仕方で協力して、国民的な運動として大きな力にしてゆくことではないでしょうか。
確かに「国家基本問題研究所」の役員理事に石原慎太郎氏などが名を連ねています。それにはさまざまな違和感を持つ方も当然におられるだろうと思います。当ブログの管理人にとっても、石原氏などはその考え方や価値観のもっとも異なった方だろうと思いますが、それはそれで、必要に応じて言論で相互に批判しあえばよいことです。
肝心なことは、日本国民の一人一人がそれぞれの国家像を明確にして、その実現に各人のできる形で一人でも参加してゆくことではないでしょうか。
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国家基本問題研究所(国基研・JINF)の設立について
私たちは現在の日本に言い知れぬ危機感を抱いております。緊張感と不安定の度を増す国際情勢とは裏腹に、戦後体制から脱却しようという志は揺らぎ、国民の関心はもっぱら当面の問題に偏っているように見受けられます。平成十九年夏の参議院議員選挙では、憲法改正等、国の基本的な問題が置き去りにされ、その結果は国家としての重大な欠陥を露呈するものとなりました。
日本国憲法に象徴される戦後体制はもはや国際社会の変化に対応できず、ようやく憲法改正問題が日程に上がってきました。しかし、敗戦の後遺症はあまりにも深刻で、その克服には、
今なお、時間がかかると思われます。「歴史認識」問題は近隣諸国だけでなく、同盟国の米国との間にも存在します。教育は、学力低下や徳育の喪失もさることながら、その根底となるべき国家意識の欠如こそ重大な問題であります。国防を担う自衛隊は「普通の民主主義国」の軍隊と程遠いのが現状です。
「普通の民主主義国」としての条件を欠落させたまま我が国が現在に至っている原因は、政治家が見識を欠き、官僚機構が常に問題解決を先送りする陋習を変えず、その場凌ぎに終始してきたことにあります。加えて国民の意識にも問題があったものと考えられます。
私たちは、連綿とつづく日本文明を誇りとし、かつ、広い国際的視野に立って、日本の在り方を再考しようとするものです。同時に、国際情勢の大変化に対応するため、社会の各分野で機能不全に陥りつつある日本を再生していきたいと思います。
そこで国家が直面する基本問題を見詰め直そうとの見地から、国家基本問題研究所(国基研・JINF)を設立いたしました。
私たちは、あらゆる点で自由な純民間の研究所として、独立自尊の国家の構築に一役買いたいと念じております。私たちはまた、日本に真のあるべき姿を取り戻し、21世紀の国際社会に大きく貢献したいという気概をもつものであります。
この趣旨に御賛同いただき、御理解をいただければ幸いに存じます。御協力を賜りますようお願い申し上げます。
代表 櫻井よしこ
副代表 田久保忠衛
人間と自然
山へ畑仕事に出かけたりすると、様々のことを考えさせられる。たとえば、人間の健康や病気とその医療の問題などもある。また、さらにはより根本的に、人間と自然との関係、あるいはもっと広い意味での自然に対する人間の使命という問題もある。人間が自然の中から発生した意義と目的の問題である。
現代医学が発達して、今日では科学技術の結晶のような最先端の医療技術が受けられる。もちろん、そのために現代医学による治療には莫大な費用を要する場合がある。しかし、そうした一方でその高度化した医療の恩恵を被るべき人間自身の生命力は、肉体のみならず精神的にもむしろ退化していると見るべきではないか。
もちろん、病気に対する治療法の研究に最先端の科学技術を応用することに、反対するつもりはまったくない。
ただ、病気に対する治療法を研究する以上に、人間にとっての健康な生き方、病気にかからない生活の研究と実行、また予防医学の徹底にこそ重点を入れるべきだと思う。研究の対象と方向が根本的に誤っているのではないか。また、そのこと自体がすでに人間の「病」ではないか。
多くの病気や不健康は、人間のサイドからの理由によるもの、宗教的に表現するなら、「死」のみならず「病」もまたその多くは「罪」によってもたらされるにちがいない。
そして、人間の健康を考える時に、「自然」はつねに還るべき原点であると思う。
現代の日本のみならず、それは世界に共通する現象だろうけれども、社会問題として、医療・年金・保険など制度上の問題がある。それらは、もちろん、人間の福祉に大きな意義をもっていることは確かだけれど、また、多くの問題も抱えていること、むしろ「麻薬のような堕落作用」の潜んでいることは、政治や経済との関連においても明らかである。そういう意味でも今ひとたび、いわゆる「生き方としての資本主義」や「社会のあり方としての資本主義」が根本的に批判される必要があるのかもしれない。
それは、たんに肉体的だけではなく精神的な「人間の解放」の問題である。だが、人間は何から「解放」される必要があるのか。「金」か「罪」か。どのようにして。
写真は、麦踏みをへて成長する麦の芽。