ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

書評  中川八洋『日本核武装の選択』(2)

2006年01月31日 | ニュース・現実評論
 

本書による日本の安全保障論議についての中川氏の批判の核心は、以下にあると思われる。氏は言う。


>「五十年に及ぶ「反核」運動が、日本人を、カルト宗教の呪文「反核」「非核」でどっぷりと洗脳していたのである。かくして、知識人といわれる人ですら、核兵器に関する知見も思考力も小学生未満へと、蛇の足のように退化してしまった。これほどに空恐ろしい、お寒い光景がどこの国にあるだろうか。日本は、独立国家の資格たる自国の安全保障を検討する能力を喪失している。日本人の無教養さは、GHQの占領政策によるのではなく、日本人の資質の生来の低級さが生んだのである」(p147)

「日本が現実に核武装すべきかどうか」という問題については、現在のところ私には判断は下せず保留するが、少なくとも、核武装をはじめ、あらゆる角度から、日本の安全保障問題について国民によって大いに議論することについては何の異論もない。多くの国民によって議論され、さらに研究されるべきであると思う。

日本国の安全保障問題を、単に「反核」「非核」をスローガンとしていたずらに叫ぶのではなく、客観的に科学的に、その核保有と非核のいずれにせよ、その両面から、二面性について日本の独立と安全にとってのそれぞれの意義と限界、長所と短所、国際外交上の有利と不利などについて冷静にまず議論の俎上にのせることが必要であることを、中川氏が主張している点には全く賛成である。これまで日本の安全保障論議については、少なからず、「平和主義」「原水禁」一辺倒で、自由で科学的な議論が行われる背景から遠かったように思われるからである。

狂信的な「平和主義者」の最大の害悪は、何事についても自由な本音で議論する雰囲気を許さず、言論にタブーを生んでいることである。自分の盲信する「正義と平和」を狂信して、正義家ぶって傲慢にならないこと、自分の信念を相対化する謙虚さを失ってしまわないことが大切であると思う。

まず今日の日本に必要なことは、「非核」であれ「反核」であれ、また核武装論であれ、日本の安全保障にとって諸外国との外交交渉において、何がもっとも有効で必要かという、客観的で科学的な自由で活発な議論である。もちろん、人間は単なる動物ではないから、安全至上主義に終始すべきではないことは言うまでもない。私たちが守るべき価値とは何か、守るべき国家の価値とは何か、自由や独立はどういうものかという、議論や教育が、核武装論議の前に必要である。残念ながら、日本の教育ではそうした問題を真剣に取り上げられてこなかった。このことは、日本国民が真に自分たちの民主主義政府をいまだ持ち得ていないことと無関係ではない。

国家の安全は、ただに市民の生命と財産の保全を至上の目的としているのではない。そうではなく、むしろ逆で、市民もまた一国民として、国家の自由と独立のためには、自らの生命と財産とをもって国家のために奉仕すべきものである。そうして、国家の主権を担う困難と責任は、すべての国民が平等に分かちあい責任を果たすべきものである。


国家に対する義務と責任においては、「勝ち組み」も「負け組み」もなく、金持ちも貧乏人もなく、すべての国民が国家に対して平等に奉仕することが義務づけられる。この点で中川氏の核武装論は日本国民の倫理的意識の覚醒にとって何らかの意義をもつかもしれない。ただ、現状においては、国民投票に付したとしても、日本の核武装は現段階においては過半数の賛意を獲得することは難しいと思われる。しかし、そうした大衆の意識とは別に、常に緊急の特殊な事態の発生に備えて、中川氏のような専門的な観点からの多数の識者による、自由な日本の安全保障論議は重要である。


緊急の特殊な事態として、さし当たって外国からの核攻撃からの危険にさらされる可能性としては、やはり対北朝鮮との関係だろう。特に北朝鮮は、昨年の十一月以降六者協議に復帰することを拒否している。最近になってアメリカは北朝鮮に対して、タバコやドル札、麻薬の偽造や輸出に厳しい態度をとっている。また。マネーロンダリングでアメリカが北朝鮮に対して金融制裁などで示している厳しい態度は、北朝鮮の感情的な暴発を招く可能性はある。


また、大量破壊兵器の武器輸出で、北朝鮮船籍の船がアメリカ軍の臨検を受けたりした場合に、突発的に北朝鮮が在韓米軍や在日米軍に対して、さらにはソウルや東京を攻撃してくる可能性がある。

その他に緊急性のあるのは、台湾の独立問題に絡んで、中国が独立阻止のために台湾に武力攻撃を加える可能性である。そして、日本との間には東シナ海で領土問題や天然資源問題で武力抗争の発生する可能性がある。その際に、外交交渉上戦略的に必要な有力な背景として、実際に核兵器を使用するかはとにかく、核武装の意義を研究する価値はある。その際に、この中川氏の核武装論も一つの参考意見にはなる。

しかし、日本にとって根本的に要請されることは、今の段階においては、中川氏の主張するような核武装にあるのではなく、まともな民主国家としての日本の再建である。そのためには、政府の質と国民の意識の根本的な変革が必要とされる。現在のような安全保障や外交交渉で示されているような主権意識のぼやけた政府と国民とでは話にもならない。日本国内に、ホリエモン氏のような国家意識の希薄な人間を生むようでは話にもならないのである。


その改造には日本を国家として倫理的に再建することが急務である。そのために、中川氏のように核武装についての論議の喚起も一つの手段としては可能性としてはありうるが、しかし、現在の国際情勢から考えて、その選択は、さしあたって現実的ではないと思われる。周辺諸国に不必要な警戒感を生むだろう。

それよりも、効果的で現実的な方策は、国民の間に兵役の義務を復活させることである。その対費用効果において核武装よりもはるかに優れている。また、市民が避難し数ヶ月待機できる、巨大な地下避難基地の建設なども当面の緊急の課題とすべきかもしれない。都市景観の整備や、公共的な事業として経済政策としても意義をもつのではないだろうか。

万が一日本に核武装の必要があるとすれば、核兵器の保有については、イスラエル方式を採用する。イスラエル方式とは、北朝鮮のように自国の核保有を諸外国に宣言をすることはしないが、その保有の実力は諸外国には「公然の秘密」にしておくことである。少なくとも、緊急時には一ヶ月以内に核配備を実現させうる態勢を確立しておくことである。

いずれにせよ、その前提は何よりも、日本国民一人一人がより成熟した民主国家の成員になることである。民主主義の精神と制度について高度な自覚を日本国民一人一人が体得しないまま――先の大阪市長選の投票率を見よ――現状で、核武装をすることは、危険な玩具を子供に与えるようなものかもしれない。日本の民主主義はまだ、その程度に疑念を残している。中川氏の核武装論に危惧を覚えるとすれば、この点である。杞憂であれば幸いである。

(ロシアや中国などの東アジア諸国とアメリカの戦力の具体的な数値にもとづく批評は、私自身の現在の情報の不足、知見の不足によって行えなかった。引き続き検討課題としておきたいと思う。)

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自由と民主政治の概念

2006年01月30日 | ニュース・現実評論

自由にして民主的な国家の形成は、現代国家国民の課題である。しかし、わが日本において、この理念が明確に自覚され追求されいるかどうかは疑わしい。
小泉首相や竹中総務相らによって遂行されつつある、いわゆる小泉改革は、日本の自由と民主主義に発展にとっていささか貢献しつつあるが、それでも、その政治がまだ理念と哲学に十分な裏付けを持っているとは思えない。

特に緊急の課題を要するのは、民主党の改革である。自民党の改革は小泉首相の手によってかなり実行された。それに対して、指導者の力量の不足もあって、いまだ民主党が政党として成熟せず、十分な使命を果たしえていないことが、小泉改革による日本政治の跛行状態をいっそう大きいものにしている。
将来の日本の政党政治において重要な働きを果たすべき民主党の混迷振りは目に余る。
前原誠司党首は、この際、民主党の内部での亀裂を恐れず、政策論争をし、特に、横路氏等の社会民主主義者たちを民主党の内部から理論的に清算する必要がある。そうして、民主党を真の民主主義政党として再建する必要がある。横路氏らは理念的により近い社民党や共産党と共闘すればいいのである。彼らは中国や北朝鮮の独裁国家に道を開く。特に民主党に隠れている、旧社会党出身者らの社会主義の残滓を清算する必要がある。
以前、小泉郵政総選挙での民主党の敗北を契機に、日本の政治の概念と民主党の再建について、考察した。今もなお有効であるので再録したい。

民主党四考

民主党の再建と政界の再編について

(一)

今回の総選挙では民主党は大敗した。小選挙区制では、得票率以上に獲得議席数に差が出る。自民党に敗北を喫したとはいえ、自民党と民主党との間に得票数でそれほど悲観するほど差があったわけではない。


再建のために、民主党のこれからはどのようにあるべきなのか。先に敗因の分析で明かにしたように、方向性としては民主党が根本的に国民政党へと脱皮することである。


国民政党に脱皮するとはどういうことか。少なくとも自民党は今回の総選挙で、小泉首相の意思によって従来の支持基盤であった特殊利益団体の関係を切り捨てて、国民全体の利益本位の立場に立つ政党になろうとした。自民党は特定郵便局という従来の支持母体の利益に反しても、郵政民営化という国民全体の利益の方向へと軸足を移したのである。


このように特殊利益団体の関係を切り捨ててでも、自民党は国民全体の利益本位の立場に立つ政党になろうとし、また国民もそれを認めて、自民党に勝利を得させた。


もちろん、いまだ自民党には農協や一部の大企業や銀行、金融会社という多くの特殊利益団体の支持を得ているが、少なくとも、今回の総選挙を見ても分かるように、これらの特殊利益団体と国民全体の利益が矛盾し、反する場合には、自民党は特定の利益団体の既得権益よりも、国民全体の利益を優先する国民政党の性格を明確にしはじめた。


これに対し、民主党はどうか。旧社会党勢力の生き残りを党内に色濃く残しており、その支持基盤である官公庁や大企業の労働組合などの特殊利益団体の意向を無視し得ないでいる。民主党はまず国民全体の普遍的な利益を、国益を最優先する政党に生まれ変わり、自民党と同じように、もし国民全体の利益と労働組合などの一部の特殊利益団体の利害が矛盾する場合は、躊躇なく国民全体の利益を優先する政党にならなければならないのである。民主主義に立脚する国民政党とはそのようなものである。


今日労働組合の組織率が低下し、引き続き都市化が進み、無党派層が有権者のなかで比重を増しているとき、このような民主主義の国民政党に変化しなければ、政権を担うことは難しい。そのためには何よりも民主党の指導者は、旧社会党の勢力を統制し、彼らの社会民主主義を排除する意思と実力を持たなければならない。


それは、外交・教育・軍事などの国家の根本政策においては現在の自民党とほぼ同じ政策を選択することになる。


これはなにも政権を獲得するために政略的にそうした政策、思想を採用するのではない。現在の菅直人氏や岡田克也氏は左よりの思想に過ぎると思う。これでは国民は絶対に民主党に政権を託すことはできない。前原誠司氏などの、より右よりの(岡田氏らと比較してである)政治家が民主党を指導できるようにしなければならない。現在の自民党とほぼ同じような政策、思想を主体的に確立するのでなければ、国民政党になれず、したがって政権党にもなれないということである。もし、それができないのであれば、政権を担うという大それたことは考えない方がよい。

(二)

岡田民主党では国民政党に成りきれないのは、まず党内の支持基盤である労働組合に対して、小泉首相が特定郵便局という支持基盤を蛮勇をもって切り捨てたようには切り捨てられなかったことである。もう一つは、外交政策において、とくに岡田克也氏はアメリカとの関係について、60年、70年の安保闘争世代の影響を受けてか、意識的無意識的に反米的色彩が見え隠れする。まあ、それは言い過ぎであるとしても、国民政党の指導者は民主主義者であると同時に正真正銘の自由主義者でなければならない。


岡田克也氏は民主主義者であることは認めるるとしても、自由主義についての理解が不足している。そのためにアメリカという国の本質を捉えきれないのである。イラクの撤退を口にするなどというのは、自由主義者のする思考ではない。


世界に自由を拡大しようというアメリカの歴史的使命をもっとよく理解し、さらには、「自由」の人間にとっての哲学的な意義を理解しなければならない。さもなければ、アメリカ人がなぜ基本的にブッシュ政権のイラク侵攻を支持し、北朝鮮への人権法案を制定したか理解できないだろう。日本の民主党の指導者たちは、特にアメリカの建国の精神である「自由の理念」をよく理解しなければならない。自由主義国家であるイギリスと、アメリカの民主党が共和党の対イラク政策にほぼ同調している意味をよく考えるべきである。にもかかわらず、愚かにも岡田民主党は、12月の自衛隊のイラク撤退を口にしている。


対イラク問題や対米政策については小泉首相の選択は基本的に正しいのである。民主党は自民党と対イラク政策で基本的に同調することに躊躇する必要はない。たとい政策を同じくしたとしても、それが民主党の主体的な思想の選択であれば、全然問題はない。むしろ、民主党は、アメリカでは民主党も共和党も国家の外交や教育など国家の基本政策にほとんど差がないことを知るべきである。イギリスの二大政党の場合も同じである。民主党は自民党と国家の基本政策で一致することをためらう必要はない。


それにしても、日本の政治がもっと合理的に効率的に運営されるためには、どうしても、政党を再編成する必要がある。どう考えても、西村慎吾氏と横路孝弘氏が同じ政党に所属することなど本来ありえないのである。少なくとも政党が理念や哲学に従って党員を結集している限り。


日本の政党は理念や哲学に基づいたものにはなっておらず、民主党も自民党も一種の選挙対策談合集団になっていることである。これは日本の政党政治の最大の欠陥である。早く政界は改革されなければならない。


具体的には、自民党と民主党はそれぞれ再度分裂して、自由主義に主眼を置く政治家と民主主義に主眼を置く政治家が、それぞれの理念に従って自由党と民主党の二つの政党で再結集し、二十一世紀の日本の政治を担って行くべきだ。もちろん自由党は経営者・資本家の立場を代弁し、民主党は勤労者・消費者の利益と立場を代弁することになる。そして、自由主義と民主主義のバランス、両者の交替と切磋琢磨によって日本の政治を運営して行くのが理想である。もちろん、自由党も民主党も、両者とも、まず国家全体の利益を、国益を優先する国民政党であることが前提である。

(三)

教育、外交、軍事、社会保障などの国家の根本的な政策では、自由党も民主党も八割がた一致していてよいのである。また、そうでなければ、国民は安心して民主党に政権をゆだねることができない。民主党の新しい指導者たちは、これらの点をよくよく考えるべきだと思う。


岡田克也代表の辞任を受けて、後継者選びが民主党で本格化している。しかし、その経緯を見ても、民主党が、その党名にもかかわらず、日本国民を「民主主義」をもって指導し、教育できる政党ではないことを示している。


党代表の選出にあたって、選挙ではなく、どこかの料亭で、「有力者」(鳩山由紀夫、小沢一郎氏など)が話し合い(談合)によって、決定しようというのだから。

この一件をもって見ても、鳩山氏らの民主主義の理解の浅薄さが分かる。
民主党の幹部の体質の古さは、昔の自民党以上である。


民主主義とは、言うまでもなく、決して党内の個人の意見を画一化することではない。党の構成員の意見が異なるのは当たり前で自明のことである。むしろ、指導者は党員の意見が互いに相違して、議論百出することを喜ぶぐらいでなければならないのに、鳩山氏は、「選挙になると必ずしこりが残るから」という。


党内での多数決意見が組織の統一見解として採用されたからといって、個人は自己の意見を変える必要はない。少数意見の尊重という民主主義の根本が、分かっていないのではないか。


会議のなかの議論を通じて少数意見者に認識に変化があり、自らの意見を多数意見に変更するかどうかは全く次元が異なるのである。納得が行かなければ、多数意見に変更する必要はない。


またそれと同時に、少数意見の持ち主は党内で議決された多数意見には規律として従うという民主主義の最小限のマナーも弁えない者が、民主主義を標榜する民主党の中にいる。


組織としての党の決定に、規律に従うことと、個人の信条として多数意見に反対であることが両立するのでなければ民主主義政党であるとは言えない。この民主主義の基本さえ十分に理解されていないように思われる。だから、鳩山氏や小沢氏は党代表選挙を避けようとするのである。
これでは、民主党は国民に対する民主主義教育という重大な職責さえ果たせないだろう。


民主党は何よりも、識見、モラルともに卓越した真の民主主義者の集団であるべきであるのに、未だそうなってはいない。民主党員が、とくに、その指導者たちが民主主義の思想と哲学をさらに研鑚され、民主党を真の民主主義者の集団として自己教育を実現することによって、国民にとって民主主義者の模範となり、尊敬を勝ち取れるように努めてほしい。そうなれば国民も安心して民主党に政権を託すようになるだろう。


また、自由党の党員もまた、自由主義者として自由の哲学をしっかりと身につけ、国民の幸福にとって不可欠な自由の護民官として活躍することである。日本の政治は一刻も早く、自由党と民主党の二つの政党で交互に担われるようになることを願うものである。国民もこの「政治の概念」をしっかりと理解し、それが実現するように行動すべきだと思う。

05/09/13

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ホリエモン氏の栄光

2006年01月25日 | ニュース・現実評論

ネットでニュースを見ていると、次のような見出しが目に入った。
ホリエモン逮捕、ヒルズから拘置所へ [24日09:29]
http://www.nikkansports.com/ns/general/p-so-tp0-060124-0003.html
ホリエモン、金で買えないものがあった [24日09:30]http://www.nikkansports.com/ns/general/p-so-tp0-060124-0007.html
ライブドア社内動揺…泣き出す女性社員も[24日08:05
http://www.nikkansports.com/ns/general/p-so-tp0-060124-0009.html


これらの見出しを読んで、三度笑ってしまった。ホリエモン氏は、どこまでも面白い人だ。しかし、幸福な人でもある。なぜなら、彼はヒルズの高級マンションから、小菅の東京拘置所へと普通の凡人では到底体験できないような得がたい経験をしているから。ある意味ではうらやましくもある。

冗談はさておき、ここで私が論じ試みようとしているのは、堀江貴文氏(以下ホリエモン氏と呼ばせてもらいたい。)の人物論であり、この人物を取り巻く社会評論である。


この事件が明らかにしたのは、いうまでもなく小泉改革の一つの否定的な側面である。その事実は否めない。小泉改革はいうまでもなく日本社会で郵便貯金を株式市場へ誘導することによって、グローバリズムに対応した社会形成を行おうとしたものである。そうした時代的な背景で、ホリエモン氏は時代の寵児になった。
かって一度ホリエモン氏が世上に話題になったとき、私も論じたことがある。http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20050403

そこでは、ホリエモン氏の意義と限界について考察したつもりである。そして、その社会的な背景として、「グローバリズム」があった。金融自由化によって、日本も直接に外国資本の攻勢にさらされることになった。そうした政策のもとでは下流社会という言葉の流行に見られるような階層の固定化、格差の拡大などが必ず起こる。

ホリエモン氏はただ正直にその波に乗っただけである。彼の著書「稼ぐが勝ち」の金銭哲学によると「誤解を恐れずに言えば、人の心はお金で買えるのです。女はお金についてきます」ということである。一定の真実は衝いていると思う。また、実際に金で買えないものがあるかどうか。ホリエモン氏は拘置所からお金を払って出してもらい、裁判所にお金を払って減刑してもらえば良いと思う。宗教を持たない現代日本人はこうした拝金主義に対する抵抗力は弱い。

そして、彼はその限界を超えてしまった。意義と限界のすれすれで存在を許されていたのに、その資本の論理を優先して限界を超えてしまった。つまり、国家の定めた法律違反を犯してしまった。


この「社会現象」から、何を読み取るべきなのか。ホリエモン氏は新しいタイプの日本人である。竹中氏や小泉首相は、小さな政府を目指すと言っている。実際現在の日本の財政状況では、小さな政府を目指さざるを得ないだろう。それはまた、否応なく日本もグローバル化にさらされるということである。グローバル社会の本質は何か。それは市民社会の生活であり、利己主義の社会であり、金銭が神の社会である。つまり、グローバリズムの完成とは、世界のユダヤ化の完成であり、現代のユダヤ人であるアメリカによる世界支配の完成でもある。ホリエモン氏はこうした時代を背景に生まれてきた「日系ユダヤ人」である。しかし、この現状はいつまでも放置されていてよいものではない


今回のホリエモン氏の逮捕は、国家の逆襲とも言える。市民社会も国家の法律の統制を受けると言うことである。ホリエモン氏の思い上がり、町人の思い上がりが、武士(国家)によって切り捨てられたということである。

市民が国家を意識しなくなるとき、そこでは市民社会の剥き出しの利己的欲望が顔を出すのであって、そこからは国家や民族の品位や高貴な香りは消える。ホリエモン氏にそうしたものはない。だから限度を超えたのである。ホリエモン氏は国家の力を過小評価してきたのである。ホリエモン氏ばかりではなくて、戦後の六十年、戦前戦中の過剰な国家介入に嫌気をさして、その反動に戦後の民主主義を市民社会利己主義と誤解してそれを謳歌してきた現代の日系ユダヤ人たちは、あらためて、国家の復権の前に、自分の無力さを思い知らされたことだろう。ホリエモン氏も国家(法律)の威力の前に、お金や地位や名誉のはかなさを少しは思い知らされたかも知れない。

ホリエモン氏も国家のために身命を犠牲にした日本軍兵士のことを思い出して、もう少し謙虚になるべきだった。市民社会人ホリエモン氏も、今回の事件で、特殊は普遍に従属させられるものであるということを、少しは身体で学んだことと思う。


そして、これはまた世代論でもあり、教育論でもある。今日の二十代、三十代の青少年は、というよりも、団塊の世代も含めて、すべて、戦後世代の日本人の意識の中に国家という存在はない。教育もされていない。民主主義が、国家とは無縁の市民社会利己主義に誤解され教育されてきた。この教育の欠陥は無数の小ホリエモン氏を生んでいる。戦後の国家と民族が品位を取り戻すためには、国家と真の民主主義が回復されなければならないのである。

そうした彼らに、これからも国家によって市民社会の限界を自覚させられるときが再三訪れるだろう。中国やアメリカへの進出で、この世の春を謳歌しているトヨタ自動車などの国際的企業もいずれグローバリズムに対する国家の反逆に直面するときが来るかも知れない。近未来に起こること、それは中国の民族主義の猛威である。

改革にも必ず、光と影がある。だから、絶え間ない改革によって光をあくまで追求するとともに、その光によって生まれる影についても、常に手当てや配慮を怠ってはならないという教訓を、今回のホリエモン氏の事件から学びうると思う。

 

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書評  中川八洋『日本核武装の選択』(1)

2006年01月11日 | ニュース・現実評論

先の九日に駐日ロシア大使ロシュコフは、北方領土問題の問題解決の基盤はむしろ小さくなっていると言ったそうである。


これまでの日本の拙劣な外交の結果として、北方領土の回復はさらにいっそう遠のいたことになる。鈴木宗男の利権がらみの外務省介入の結果である。拙劣な一貫性のない政府と外務省の対ロシア外交はいっそう北方領土の回復を遠ざける。田中真知子の騒動以来、せっかく俎上に乗り始めた、外務省改革も頓挫したままである。

また、小泉首相の靖国神社参拝問題をめぐって、中国や韓国との首脳外交も停滞したままである。北朝鮮とは、日本人拉致問題をめぐって北朝鮮が誠意のある態度を──拉致被害者全員の無事原状回復──を見せない限り、国交回復などありえないことは言うまでもない。


また、最近になって、アメリカが北朝鮮によるマネーロンダリング・資金洗浄にかかわったとしてマカオの銀行に発動した金融制裁について、北朝鮮は、九日に「われわれを窒息させようとねらったものだ」と非難し、解除しなければ核開発問題をめぐる六か国協議の再開に応じられないとしている。


北朝鮮は、この六ヶ国協議を、自国の核開発のための時間稼ぎとして利用していることは言うまでもない。そもそもこの六カ国協議は、北朝鮮問題を東アジアの当事者である、ロシア、中国、北朝鮮、韓国、日本の五カ国に任せて、アメリカは出来るだけ手を引こうとして、アメリカがはじめた試みであるが、この六カ国協議は、今では北朝鮮をだしにする、ロシアと中国による対日米攻略の場としても利用されている。


この六カ国協議は、ロシアと中国にとっては、その主たる戦略の対象が北朝鮮にではなく、日本にあることはいうまでもない。したがって、日本はこの会議の隠れた交渉相手は、ロシアと中国であることを国民としても再確認しておく必要がある。北朝鮮の核兵器保有は直ちに日本の核武装の問題に関わるし、日本の核兵器保有こそロシア、中国両国にとっても最大の懸案だからである。

このような最近の東アジアの状況が背景にあって、日本の核武装についての議論の現状を知るために、さしあたって中川氏の『日本核武装の選択』を手にした。一応の感想を記録しておくことにする。日本の核武装の問題についての議論は主に保守派と称される人々によって行われて来たのであって、共産党をはじめとする、いわゆる「進歩派」のグループでは、まともに取り上げられることはなかった。この派には狂信的な「平和主義者」が多いからである。中国とロシアの巨大な核武装には反対せず、ただ、日米の核武装にのみ反対する彼らの偽善的な「平和主義」は、ただ中国とロシアを利するだけである。

本書は直接的には、中川氏の北朝鮮の核武装による日本の安全保障上の危機意識を背景に書かれた。もちろん、北朝鮮と日本との関係においては、核の問題のほかに言うまでもなく拉致問題があるが、この両者はもちろん無関係ではない。


中川氏の結論ないし主張は、日本の核武装による北朝鮮の核軍事基地への攻撃を契機とする金正日体制の崩壊によって、北朝鮮人民を独裁と飢餓から解放すると同時に日本人拉致被害者を解放しようというのである。

日本は、世界初の原爆被害国になったこと、そして、その被害のあまりに悲惨であったために、国民の間に核武装については、きわめてアレルギー反応的な拒絶反応を示してきた。そのために戦後六十年間、核武装の問題についてほとんど国民の間にまともに──科学的に──議論されてこなかったといえる。

中川氏は直接的には北朝鮮の核武装を契機に論じているが、むしろ、実際の日本への核攻撃の脅威の程度からすれば、その対日核ミサイルの保有数からいって、対日核脅威の水準は、ロシア:中国:北朝鮮はそれぞれ、100:10:1になるという。中川氏は、むしろロシア主敵論の立場に立っている。

残念ながら今のところ私は、ロシアや中国や北朝鮮の核爆弾、およびその運搬手段であるミサイルの保有状況や、その規模についての専門的な技術的な知識を、持ち合わせていない。だから、それらの是非については、ここで具体的に検討することは出来ない。

したがって、ここではただ、核武装の思想的な前提と、核兵器を中核とする東アジアの軍事情勢の論理構造について検討することしか出来ない。そして、何よりも緊急に検討を要するのは、核武装の問題をめぐる日本国内の政治的経済的な、あるいは、思想的な状況についての論理的な解明である。中川氏の『日本核武装の選択』の内容を検討しながら、この問題について解明してゆきたいと思う。

 

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西行の正月

2006年01月04日 | 日記・紀行

年齢を重ねれば重ねるほど、幼かったころに正月を迎えた時のような高揚した純粋な喜びを失ってゆくのはやむをえないのかも知れない。お年玉をもらう喜びは子供の特権だった。童謡に歌われたような「もういくつ寝るとお正月、お正月には凧揚げて、独楽を回して」という世界は、すでに遠くさらに幻想的になってゆく。

最近は正月になっても独楽を回して楽しむこともなく、また、子供が凧揚げや羽子板で羽根突きをして遊んでいる光景も目にすることもない。家々の門に門松が飾られることもほとんどなくなってしまった。

木村建設や姉歯秀次建築士などが建てたマンションやアパートなどの、無風流で機能一点張りの建築がこれだけ増えれば、生活から宗教や芸術の香気が蒸発してしまうのも仕方がない。しかし、人類の数万年の歴史からすれば、現代人の生活様式が、人類にとって普遍的であることを証明するものは何もない。

幸いにも、人間は言葉を残し、それによって歴史の中により正月らしい正月を懐かしむことが出来る。
折りに触れて読む西行の『山家集』などは、表紙を開けた瞬間に芸術の香気が漂ってくる。そこにも懐かしい正月が記録されている。

その懐かしい正月を思い出すために、久しぶりに『山家集』を開いた。当時はもちろん陰暦だったから、暦が代わるとともに文字通り春が待ち受けていた。『山家集』は春の歌から始まる。当時の人の季節感、時間の意識を知ることができる。しかし、太陽暦の正月は、まだ、寒さの最中で、正月の中に春の歓びを感じることは出来ない。

雪分けて  深き山路に  籠りなば  年かへりてや
君に逢ふべき

私(西行)は雪深い高野山に寺ごもりしてしまったのであなたにお会いできません。年が明けてから、あなたにお逢いできるでしょう。

西行は何か思うところがあってか、年の暮れに空海のいる高野山に籠ってしまった。そのために友に逢えるのは、年が明けてからだ。

年の内に春立ちて、雨の降りければ

春としも  なほ思はれぬ  心かな  雨ふる年の
 ここちのみして  

京都の年末正月も少し時雨れた。当時の正月は、初春と呼ばれたように、正月には春の長雨がふさわしく、雪は旧る雪で、旧年中の冬のことだった。この年、西行は雨が降っても、まだ正月が来たという実感が湧かないでいる。

正月元日に雨降りけるに
いつしかも 初春雨ぞ  降りにける  野辺の若菜も
 生ひやしぬらん

なんとも早く、もう初春雨が降ったよ。子の日に摘む若菜もきっと芽を出したことでしょうね。

もっとも正月らしい歌は次の歌。元旦を迎えるたびに、
この一首を思い出す。

家々に春を翫ぶということ
門ごとに  立つる小松に  飾られて  宿てふ宿に  春は来にけり

あけましておめでとうございます。本年も良い年でありますよう。

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