ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

朝日新聞における文章修行

2012年09月27日 | 教育・文化

 

朝日新聞における文章修行

脳科学者の茂木健一郎氏が朝日新聞の文章批判をおこなっていることを、池田信夫氏のブログで 知りました。文章を書くうえで、「他山の石」とすべきかとも思い、記録しておきます。果たして朝日新聞の論考が本当に受験小論文の練習に参考になるので しょうか。論理的な文章、科学的な文章はどうあるべきかについて、さらに、考えてゆきたいと思います。こうした記事が多くの人に読まれて、日本国民の国語 能力がより高まってゆくことを期待したいものです。

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2012年9月27日(木)付  朝日新聞

http://www.asahi.com/paper/column.html

天声人語

  3年前の秋、自民党は落ち武者集団を見るようだった。政権を明け渡し、「自民党という名が国民に嫌われている」と党名を変える動きもあった。「和魂党」や ら「自由新党」やら、まじめに考えていたらしい▼支援団体は離れ、陳情は減り、食い慣れぬ冷や飯のせいか無気力と自嘲さえ漂った。その斜陽から、新総裁が 次期首相と目される党勢の復活である。「ある者の愚行は、他の者の財産である」と古人は言ったが、民主党の重ねる愚行(拙政)で、自民は財産(支持)を積 み直した▼とはいえ総裁に安倍晋三元首相が返り咲いたのは、どこか「なつメロ」を聴く思いがする。セピアがかった旋律だ。当初は劣勢と見られたが、尖閣諸 島や竹島から吹くナショナリズムの風に、うまく乗ったようである▼1回目の投票で2位だった候補が決選投票で逆転したのは、1956年の石橋湛山以来にな る。その決選で敗れたのが安倍氏の祖父の岸信介だったのは因縁めく。「もはや戦後ではない」と経済白書がうたった年のことだ▼以降の自民党は、国民に潜在 する現状維持意識に根を張って長期政権を保ってきた。人心を逸(そ)らさぬ程度に首相交代を繰り返してきたが、3年前に賞味期限が切れた▼思えば自民は、 原発を推し進め、安全神話を作り上げ、尖閣や竹島では無為を続け、国の借金を膨らませてきた。景気よく民主党を罵倒するだけで済まないのは、よくお分かり だと思う。たまさかの上げ潮に浮かれず、責任を省みてほしい。

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茂木健一郎(@kenichiromogi)さんの連続ツイート

第728回「天声人語の文体で、政治を論じるのはやめてほしい」

http://togetter.com/li/380308


連続ツイート第728回をお届けします。文章は、その場で即興で書いています。本日は、今朝読んだある文章について。
kenichiromogi 2012/09/27 09:12:17

kenichiromogi
てせ(1)英語のessayは、日本語の「随筆」とは似て非なるものである。前者は、例えばEconomist の文章に見られるように、evidenceに基づくcritical thinkingの結晶であり、科学論文にもつながる。後者は感性に基づく主観の文章であって、曖昧さの本質がある。
kenichiromogi 2012/09/27 09:14:31

kenichiromogi
てせ(2)もちろん、日本語の「随筆」にも美質がないわけではない。枕草子や、徒然草、漱石の「思い出す事など」は「随筆」の傑作であって、生きることの中で私たちが感じる心の揺れ、動きをとらえる。私自身も、「生きて死ぬ私」や「脳と仮想」などの随筆を書いてきた。
kenichiromogi 2012/09/27 09:16:03

kenichiromogi
てせ(3)「随筆」の文体は、日本の一つの財産であるが、すべてのテーマを論じるのに適切ではない。例えば、政 治的課題については、evidenceとcritical thinkingに基づく英語のessayの文体で論じるのがふさわしい。ところが、日本では「随筆」で政治を論じてきた。
kenichiromogi 2012/09/27 09:17:41

kenichiromogi
てせ(4)「随筆」の文体で政治を論じることの愚、悪影響、不幸を、今朝の天声人語(http://t.co /unbYa9Ox)を読んで改めて思う。安倍晋三さんが自民党総裁になられたことを論じているが、全体として意味不明。主観や曖昧さの羅列で、何を主張 しているのか一向に伝わってこない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:19:18

kenichiromogi
てせ(5)思いついて朝刊紙面で添削してたら、紙面が真っ赤になった。まず、「党名を変える動き」から論じるこ とが適切だとは思わぬ。「和魂党」や「自由新党」が検討されたというが、どれくらいsignificantな動きだったのか。ニュースバリューを検討する バランス感覚がない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:20:40

kenichiromogi
てせ(6)「斜陽」という言葉で下野を論じているが、ナンセンス。そもそも、健全な議会制民主主義の下では野党 になるのは当たり前。必ずと言っていいほど、数年後には政権に返り咲く。実際、今の流れはそうなっている。「斜陽」という感性的、主観的表現は、政治プロ セスの本質にかすってもいない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:22:17

kenichiromogi
てせ(7)さらに、天声人語は、安倍氏の再登場を「なつメロ」と表現する。小学生でも考えつくような、陳腐な表 現だ。読者に提供されるべきは、再登場の背景分析だろう。さらに、「ナショナリズムの風に、うまく乗った」という表現は失礼だ。「うまく」という言葉に、 筆者の対象蔑視と低俗さが表れる。
kenichiromogi 2012/09/27 09:24:16

kenichiromogi
てせ(8)その後の文章も、感性に流され支離滅裂。「人心を逸らさぬ程度に」は、政治的プロセスを論じる表現と しては不適切である。あげくの果てが、結語の「たまさかの上げ潮に浮かれず、責任を省みてほしい」。自分を何様だと思っているのか。何を安倍氏に期待して いるのか、全く伝わってこない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:26:06

kenichiromogi
てせ(9)今朝の天声人語の筆者には、以上の失礼をお詫びするが、考えてみていただきたいのは、朝日新聞の一面 に載っている以上、天声人語には、公共性があるということである。この文体とスタンスが、日本の政治を語る時の精神風土を作る。その事の罪を、よくよく考 えていただきたい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:27:25

kenichiromogi
てせ(10)テレビの政治討論番組でも、使われる言語が(特に政治評論家と呼ばれる方々において)感性的、情緒 的であることの責任の一端は、天声人語にあるのではないか。このようなスタイルで政治を論ずることの愚に、もうそろそろ朝日新聞、および天声人語の筆者は 気づいてほしい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:28:37

kenichiromogi
てせ(11)もちろん、天声人語にも、良い回はある。「花鳥風月」や「社会事象」を論じた回である。そのような 時には、文体と対象がはまる。天声人語は、もし今のまま継続するならば、政治を論じることをやめるか、あるいは政治を論じる時には硬質な文体で議論する、 第二の創業を目指してはどうか。
kenichiromogi 2012/09/27 09:30:18

kenichiromogi
てせ(12)「脳トレ」で天声人語を書き写すという動きがあるようだが、特に政治を論じた回については、今のま まではますます日本人の思考が情緒的かつ非論理的になるので、私は絶対反対である。再読、未読に耐えるような文章に、特に政治について書かれた天声人語は なっていない。
kenichiromogi 2012/09/27 09:31:56

kenichiromogi
てせ(13)吉田兼好流の「随筆」ではなく、論理と証拠に基づく「essay」の伝統を、日本でも根付かせるし かない。新聞は、多くの読者が触れる公器として、日本の言論空間を前に進める社会的責務がある。新聞の顔である一面に、情緒的政治論を載せるのは、いい加 減やめて欲しい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:33:47

kenichiromogi
てせ(14)最後に。橋下徹氏のツイッターでの文章は、時に論敵への烈しい言葉などがあり十分に伝わっていない かもしれぬが、日本語で政治的事象を論ずるスタイルの一つのイノベーション。冷静に読めば、論理的に緻密な構成になっていることがわかる。政治の季節は、 ふさわしい言葉で語りたい。
kenichiromogi 2012/09/27 09:35:34

kenichiromogi
以上、連続ツイート第728回「天声人語の文体で、政治を論じるのはやめてほしい」でした。

>><<終わり



茂木氏は12回目で「味読」(精読?)とすべきところを「未読」と変換ミスしているようなので、老婆心までに。

 

 

 

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国家再建のためのメモ

2008年11月24日 | 教育・文化

 

これまでこのブログでも何度か書いた記事で、国家の再建に関わる事柄について、備忘録をかねてメモ書きしておこうと思う。後ほど、さらに論点を深めることができればいい。

一、腐敗し堕落した政党政治の再構築。選挙談合型利権屋政治から、政界を再編して理念追求型の自由党と民主党の政治へ。自由主義者は自由党へ民主主義者は民主党へ。自由主義は資本主義の立場に近く、民主主義は社会主義の立場に近い。二者相互の緊張関係と切磋琢磨でいずれも国民ために尽くす国民政党であること。国会議員の定数削減をはかり、政治家をモラルと見識における真の選良に限る。日本の政治をまともな「政党政治」に値するものにして行くこと。

一、立憲君主国家体制の追求。自衛隊と防衛省をそれぞれ国防軍と国防省に発展改組すること。同時に国民皆兵制度を確立する。封建時代は武士階級だけだったが、民主国家においては全国民すべてが国防の権利と義務と責任とを担う。

一、大学、大学院の改革。―― 官僚、政治家の資質低下、マスコミや教育の退廃と堕落、今日の国民におけるカルト、新興宗教の蔓延の傾向は、いずれも小中高教育の根幹をなす大学および大学院の教育能力の劣化、退廃によるところが大きい。公教育がその防波堤になりえていないためである。大学・大学院におけるヘーゲル、カント哲学の再興による弁証法教育、哲学科学教育を確立すること。教育立国を実現する。文部科学省、教育委員会、日教組を解体し、教育革命によって、根本から国民教育を再建してゆく。

一、国家体制、憲法の研究。とくにイギリスの立憲君主制国家、スイス、デンマーク、フィンランド、スウェーデン、ノールウェイなどの欧州、北欧諸国の政治経済制度、国家行政機構、憲法、学校教育、宗教などの研究。国会内に専門的な研究チームを立ち上げて本格的な研究に取りくませ、日本の道州制の実現に向けた指針を与える。明治維新以来の日本の国家体制の再構築のために都道府県制から道州制へと転換する。その際に、道や州は経済実力的には北欧諸国の一国に相当するものとして市民社会を構成する。

一、政治風土、政治文化の改革。とくに自民党政治家に見られるような、飲み食い、飲酒のなれ合いもたれ合いの湿った政治家の世界に、合理と能率の乾いた風を通すこと。二世三世議員の輩出も同じ文化的な土壌が゛背景にある。政治家の会合での飲み食いは原則廃止(せいぜいお茶・コーヒー程度)し、政治家・官僚の記者会見も、演説テーブルを使って原則立ったままで行う。座ったままでの記者会見は行わない。

一、社会資本の整備と充実を図る。道路やダム、その他の「箱もの」建設業やその他すでに衰退産業となった地方のローテク産業などスクラップアンドビルドの転換を図り、新規産業分野の開発と、産業構造の根本的な改革をはかる。雇用対策、不景気対策として取り組むべきは、ハイテク、バイオ、自然エネルギーなどの新事業の発掘、電気ガス水道などのライフラインの地中一括埋め込みなどの社会資本充実事業、都市農村の景観改善事業、ビオトープなどによる河岸美化と管理など。アメリカニューディール政策並に、不況対策の国家的プロジェクトとして実行する。

一、二兆円にものぼる定額給付金などの無効無策の経済対策ではなく、雇用機会と税収増加の見込める新規産業、夢ある未来産業の研究開発に取り組む。給付金は国民から自立心を失わせ、依頼心を増長させるだけ。政治家と官僚は夢と実ある政策研究にそのない頭を絞れ。

 

 

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日本の裁判の悲喜劇

2008年06月16日 | 教育・文化
最近の「せいろん談話室」で「この判決おかしい!」がテーマになっていた。以前に私も裁判官の判決のいくつかに疑問を感じて、それを文章にしていたことがある。その時の感想が今も有効であると思い、「せいろん談話室」にあらためて投稿して、その是非を問うてみた。(ハンドル名トンボ)
 
 
 

せいろん談話室に今回のようなテーマが取りあげられるのは、裁判における今日一般の判決内容や裁判制度、さらには裁判官そのものに国民が不信感を持っているからだろう。先にも裁判官によるストーカー行為がニュースになっていた。もちろん、裁判官も神ならぬ人間だから、そうした過失や悪行があったとしても論理的にはまったくおかしくはないのだけれども。
 

それよりも何よりも、最高裁で展開される判決にも奇妙な判決が認められる。とくに靖国神社裁判で「政教分離」をめぐる判決について問題を感じる。宗教や自由の問題について、判決の中に示されている歴史的な思想的な本質理解に欠陥を感じるときがある。とくに国家機関による宗教的行為かどうかについての判断で「目的効果基準」などという欠陥ある法律理論を、最高裁の裁判官がそのまま無批判に踏襲するような認識不足がある。そこには法律以前の裁判官の教養の水準に、哲学的な理解能力に問題があるように思える。
 

浅薄で哀れな哲学しか持ち得ない裁判官によって裁かれる日本国民は何より不幸である。残念ながら今日最新の流行の法学理論や刑罰理論は法律家ならぬ私には皆目わからない。しかし、古い苔むしたヘーゲルの法理論なら多少は聞きかじっている。問題は、現代法学が、ほんとうにヘーゲルの『法の哲学』における「フォイエルバッハの刑罰論」批判や「ベッカリアの死刑廃止論」批判を克服し得たのかどうかである。私はこのヘーゲルの批判は今日なお有効であると思う。(ヘーゲル『法の哲学』第99節、第100節など参考のこと)
 

日本の今日の法曹界の問題も小さくない。とくに弁護士の『利権団体化』や独占的ギルド化によって、彼らは法律の大衆化の方向に反対し、正確なわかりやすさに背を向けている。また、裁判官の専門集団化と純血化による意識の奇形化も心配である。ただ、検察だけは少しはまっとうな仕事をしているのかもしれない。
 

いずれにしても、裁判官の判決や弁護士などの問題の根源は、今日の大学、大学院における法学教育そのものの欠陥にある。すべては彼ら法律家の「法の哲学」の貧困に、さらには、法律家の『哲学』そのものの能力水準の低下による。国家と国民の哲学的教養の劣化こそが問題である。哲学的教養の水源であるべき大学、大学院が枯渇し始めているのである。

「国家指導者論」 http://anowl.exblog.jp/7671044/

国民の宗教的意識の改革や日本の大学、大学院における『哲学教育』の充実と深化に期待するしかないが、これは奇跡を願うようなものかもしれない。

 

 

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景観条例

2008年05月26日 | 教育・文化
日本の都市や農村の景観の醜さについては、これまでに私も何度か論及したことがある。また海外旅行者が旅行先で撮ってきた写真やテレビ番組などで放映される西欧や北欧における都市や農村の景観の美しさと見比べて、わが国の都市や農村における景観の醜さについては体験的にも語ってきた。

国民住宅(フォルクスハウス)――日本の科学と公共の意思(2007年07月19日)
 
春の歌(2008年04月01日)

竹を切る(2008年01月20日)

toxandoriaさんとの議論(2007年05月15日)

冬枯れの大原野(2007年01月20日)

二本の苗木(2006年01月06日)

個人的にはこの狭い日本国から外には出たことはないものの、欧米の、とくに西欧や北欧における都市および農村の景観美に、なぜ日本の景観は及びもつかないのか、とくに都市景観についてははるか足下にも及ばないのはなぜか、という昔から抱いてきた問題意識もある。それがたとい観念的なものではあるとしても。

居住空間の一つとしての景観の差異が、いったい民族や人種の資質による先天的な差異によるものなのか、宗教や文化的な質のちがいに起因するのか、あるいは、政治や経済上の原因によるのか、現在のところ、その根本的で決定的な理由を見いだし得ていない。

おそらくそれは、それらすべての複合する要因によるのだろうと推測はしているが、その中でも民族の資質と宗教文化の質的相違によるところが大きいのだろうと考えている。

というのも、とくに日本の都市空間などは、「アジア的都市景観」とでもいいうるほどに、特殊な傾向を帯びているからである。日本の都市空間は、韓国や香港などの都市空間とも共通していて、その雑然とした混沌の特質はアジア的とでもいいうる特殊性をもっているからである。

しかし、わが国においてもさすがに最近になってこの特殊な傾向は反省されて、西洋や都市政策との比較対照の観点からも、景観問題として自覚されるようになってきた。国家の政策の問題として、景観問題の改善に意識的に取り組まれるようになってきた。

とくに歴史的に画期的になったのは2003年7月に国土交通省によって「美しい国づくり政策大綱」が提示され、それに基づいて、景観法が2004年6月に公布されたことである。これによってようやく日本における景観問題の取り組みが始まったといえる。また、最近では全国に先駆けて、今年の二月に京都で景観条例が可決され、歴史的な都市の景観保護にさらに強力な取り組みが行われることになった。それは同時に看板などの商業施設やマンションの立地条件、建て替えの際の高さ規制など、多くの利害関係者の関心と議論を引き起こすこととなった。

近所の大原野あたりについても、もっと美しくあってしかるべきこの景観が、かならずしも十分に守られてはいないなどという現実がある。それはただに政治や行政の拙劣さに起因する問題ではなく、国民の意識や、教育、芸術文化の資質の問題、さらには民族性の問題として自覚し改善されてゆくべきものでもあると思う。景観問題は民族の精神状況が外化したものに他ならない。

取り分けて深刻なわが国のこの景観問題を国家の問題の一つとして考え、わが国の都市及び農村の抱える景観問題を改善してゆくことを、たといライフワークそのものではないとしても、せめてサブライフワークとしてぐらいに、問題の所在の研究とその改善にいささかでも取り組み貢献してゆくべきかとも思っている。
 
 
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12歳ボウイの民主主義

2008年05月01日 | 教育・文化

12歳ボウイの民主主義

先の衆議院山口第二区補欠選挙で民主党推薦の候補が二万票の大差で勝利を収めた。この勝利は日本政治の改革の端緒となりうるものとして評価し得るものであることは先に述べた。それを実行できるかどうかは国民の力量次第である。この選挙の勝利の要因は、一つはガソリン税の暫定税率の問題と一つは選挙の直近でにわかに焦点として浮上した後期高齢者医療制度の問題が民主党候補に有利に働いたからである。とくに、後者の問題で、ほんらいは保守党の支持基盤である老年者が民主党支持に回ったことが大きいと思われる。

予想された通り4月末のガソリン税の暫定税率復活を含む改正租税特別措置法は衆議院で自民・公明の多数によって再可決されたけれども、それにしても、その際に民主党は本会議に欠席し、そればかりか、衆議院河野議長を議長応接室に閉じこめようとした。いかにも大人げないことをやる。なぜ小沢民主党は出席して反対の意思表明を議場で行わないのか。

いくら自分たちの意見に反するから反対だといって、それを議長の入場阻止という実力行使で阻もうというのは、いくら何でも子供っぽい。国会議員という「選良」ですらそんなことだから、子供から右翼左翼の暴力集団に至る大人まで、自分たちの異なる意見を暴力で阻止しようという傾向が日本国民からなくならないのだ。

これでは占領後の日本で、「日本の民主主義は12歳の少年のそれだ」とマッカーサーに言われた時代から、ほとんど進歩がみられないのである。こんなことをやっている政治家は国民に民主主義を指導し教育する資格もない。いくら科学や経済で一流と言われようが、政治文化や精神文化がこんなに三流四流の子供の文化では、前者の没落も眼に見えている。

道路特定財源の問題にしても後期高齢者医療保険の問題にせよいずれも、それらはかっての高度経済成長期においてはまだ潜在的であった矛盾が、経済の成熟化、日本の政治経済制度の老朽化によって矛盾が顕在化し深刻化してきたものである。国民の階級各階層間での矛盾が深刻化しているためである。

この矛盾を正しく解決しうることは、そうした国内矛盾を弁証法的に解決できる能力をもった政治家にしかできない。小手先で解決できる段階ではないのである。明治維新に匹敵する国家の改造が行われなければ解決しない。そのためには、現在の官僚政治を根本から改造し、地方の人材育成を図って地方行政の質を高め、道州制を制定して税金の合理的な配分のシステムを構築してゆかなければならない。

それによって、これまで長年の間地方でガソリン税を飯の種にして道路を造ってきた土木建築業者たちに時代の変化を理解させ、それの代わる産業として、とくに海外との競争に応じられる新規農業やバイオ関連産業などを開発し、また半導体・環境その他の最先端技術工場を地方に導入して行くことなどによって産業と雇用の機会をつくって、それらの業者たちを新しい産業分野に移行させてゆく措置を政治家は執らなければならないのである。いつまで愚行を繰り返すつもりか。そのうちに小松左京ではないけれども、日本は沈没することになるだろう。

 

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『法の哲学』ノート§2

2008年04月26日 | 教育・文化
『法の哲学』ノート§2

§1で哲学的法学の対象が、法の概念、すなわち自由とその実現過程にあることを述べた後、法学の端初について説明する。哲学的な法律学は、法の概念とその進展を問題にし対象にするから、この法律学においては当然にその始元が問題になる。

こうした問題意識を持つのは、ヘーゲルの哲学が何よりも科学を必然性の追求として捉えたからで、そして哲学の端初は、無前提にして絶対的な端初でなけれな必然的とはいえない。

ここで述べられているように、ヘーゲルにおいては法学は、精神哲学の中の客観的精神に位置づけられ、この客観的精神自体もそれに先行する段階の概念から演繹され必然的な成果として現れたものである。それゆえ法学も理念としてはそれに先行する前提を持つものである。だからヘーゲルの哲学的法律学は、自己の出生の由来も知らずにひたすら狭い井戸の中で自己満足している実証的法律家や数学者とはちがうのである。

事柄の概念的な把握を科学と考えるヘーゲルは、法律学の端初について考えるのにちなんで、この§2の補注においても哲学の端初を問題にして触れている。法律学や物理学などの他の諸科学と異なって、哲学は絶対的に必然的な、しかも無条件、無前提であるがゆえに相対的な始元を持たなければならない。この科学的哲学における始元の問題については、すでにこの「法の哲学」に先行する「大論理学」の緒論でヘーゲルは詳説していたが、それをヘーゲルはここでも繰りかえす。

しかし、実際に世界のあらゆる存在はすべて媒介されたものであって、絶対的に無条件に直接的な端初はありえない。とはいえ始元がなくして世界はどうして存在するのだろうか。この問題はほんらい、世界の二律背反の問題と同じであって、この矛盾をヘーゲルの哲学は円環の中の一点に端初を見いだすことによって解決する。

こうして絶対的な哲学の方法と、それとは異なる他の悟性的科学や実証法法学と、科学としての方法のちがいを補注の中でさらに注釈して行く。なぜなら、この科学の方法論こそがヘーゲルの独自とするものであって、彼の自負するところのものでもあったからだ。

ふつうの科学では、たとえそれが感覚や表象にもとづいたものであるとしても、その対象についての定義が要求されるのに、実証法的法学はその定義すら重要視されないと言っている。なぜなら、実証法的法学においては、事柄が合法か非合法か、犯罪か無罪かさえ明らかになればよいからである。ちょうど日本国憲法で自衛隊は軍隊か否かその定義について、八百代言のような政治家の言い分がまかり通るのと同じである。この同じ注釈のなかで、ヘーゲルが古代ローマ社会においてはなぜ人間の定義が不可能であったのかを、その社会の抱えていた矛盾によって説明してるのは卓見で、今日の日本政府にはなぜ自衛隊の定義が不可能であるのか考えあわせると興味深い。

ここでヘーゲルが、他の普通の悟性科学がその科学の方法として行う概念の定義と、概念を必然的に進展するものとして捉える哲学の方法における概念の定義と、その区別について述べているところは、ヘーゲル哲学の本領を示すものとしてきわめて重要である。

この哲学的な認識においては、「概念の必然的な進展」が主要な問題であり、その成果の生成過程の説明が概念の証明として演繹されることになる。これこそがヘーゲルの功績としたところであり、それによって、哲学的認識が、単なる臆見や主観的な内心の確信や俗見の思いこみなどではなくて、「理性」や「理念一般」を対象とする科学となったのである。

ヘーゲルが哲学において何よりも「概念の形式」を要求し、証明という「認識の必然性」を求めたことには、当時の一般の風潮から、単なる主観的な「感情」や「信仰」といった「恣意や偶然性の原理」から哲学の品位を守ろうとしたためである。それはまた、プラトン、アリストテレスに由来する古代ギリシャ哲学の伝統の復興でもあった。
 
 
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ピタゴラス派の教育論

2008年02月21日 | 教育・文化

ピタゴラス派の教育論

古代ギリシャの昔も極東の現代日本も、親が子供の教育のことで、頭を悩ますのは同じなのかもしれない。昔のギリシャで、かってある父親がピタゴラス派の一人の学徒に、どうすれば自分の息子にもっともよい教育を授けることが出来るかと訊ねたそうである。その問いに対して、彼は「良く統治された国家の市民にすることだ」と答えたそうだ。

今の日本が良く統治された国家であるかどうかは今は問わない。ただとにかく、現代の教育においては、個人は家族の中で育てられないのみならず、また、地域社会の中で育てられるということが忘れられているだけでなく、さらに祖国の中とか、国家の中で育てられるという意識もまったく失われてしまっている。戦前の日本国民は、たとえそれが建前であったとしても、天皇陛下のため、お国のために生きていた。しかし今、「グローバリゼーション」の嵐の吹き荒れる中で、かっての時代の寵児ホリエモンさんのように、祖国とか国家という言葉が死語になった人たちであふれている。

あの太平洋戦争の敗北が日本国民の国家意識に深いトラウマとなって残っている。国家というものは悪なるもの、国民を抑圧するもの、国民を引っ立てて死に追いやるものとしてとらえられている。だから、国家が正義の執行機関であり、神の意志の代理機関であるという意識など国民には毛頭ない。

そこには国家観の根本的な倒錯があると思う。たしかに、その倒錯には根拠がないわけではない。しかし、日本国民の精神の奥深くに刻み込まれているこの国家に対するトラウマは癒される必要がある。このことは、いまだ真実に自由で民主的な「自分たちの」政府や国家を、日本国民が自力で形成できていないという事実と無関係ではない。それが市民革命と呼ばれるものであるのだろうけれど。

はたして、どちらの国家観が国民を幸福にするか。少なくとも「民主主義国」を自称するのであれば、国民は、自らの意志と行動で、国家を正義の執行代理人として自覚できるまで、みずから努力して形成してゆく必要がある。

そのためには、まず国民が自分たちの倫理意識を高めて、悪しき政治家、利己的で無能力な政治家、公務員たちを国家と政府の舞台から追放してゆくことだ。そして、日本国が、たとえ極東の小国であるとしても、真実に「自由」で「民主的」な祖国となって「良く統治された国家」となるとき、はじめて国民は正義の国家の中に生きているという実感を自らのものにできる。そこで初めて個人は家族の中で育てられ、そして、市民社会の中で、次いで祖国という国家の中で育てられて、真実に自由な国民の規律の許に置かれることになる。そのときにこそ古代ギリシャのピタゴラス派の無名の一学徒の教育論も真実になるのだろう。

 

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西澤潤一氏の教育論(3)

2008年02月09日 | 教育・文化

たしかに、西澤氏が論じられているように、南原繁氏や彼を継承した矢内原忠雄氏を総長に戴いたこの東大法学部は、その後丸山眞男氏やその後の奥平康弘氏や樋口陽一氏らに代表される「進歩的文化人」民主主義者たちの「神なき民主主義」と「国家論なき民主主義」の本拠地となった。しかしその民主主義論の主張は、国民の野放図な欲望の解放とともに、国家意識なき国民の「ユダヤ化」の一つの原因ともなった。(東大法学部出身の「官僚」たちの国家意識を見よ。)

これらの問題は奥平康弘氏らの現行「日本国憲法」擁護論とも関係するが、今はここでは論じることはできない。もちろん、半導体の理学者である西澤潤一氏にはこれ以上の論考を期待できないのだろうけれども、東大法学部の民主主義論者に対して直感的に氏自身なりの見識を示されているのだと思う。

西澤氏が指摘するように、このような「進歩的文化人」たちは理想主義者であり人類愛論者であるかもしれない。ただそこに問題があるとすれば、その理想に対する夢想のゆえに、冷厳な国際政治の現実や人間の本性が見えなくなっていることである。その結果として、国際政治の中で日本国のとるべき進路を冷厳に判断できない。理想と現実を峻別できないでいる。この点でより現実的な判断をもっているのは、むしろ、西尾幹二氏や櫻井よしこ氏らのいわゆる「保守派」の人たちではないだろうか。最近になってかっての「進歩的文化人」たちの言論の世論における後退と衰微はやむを得ないのではないだろうか。もちろん、それをもって日本国の「右傾化」を危惧する人々には今も事欠かない。

しかし、いずれにせよ、この産経新聞の「正論」の論客の中で、教育改革の問題を論じた識者の中に、国家意識の回復と倫理道徳の根幹としての「民主主義教育」を取り上げたものは誰もいない。それほどに多くの日本国民にとって、戦前の日本の「国家主義」のその帰結と「戦後民主主義」の醜悪な現実とその実態にこりごりと言うことなのかもしれない。

しかし、事実として日本社会の「正常化」を――それは、西澤氏があげられているように、国家の防衛を他国任せにするとか、拉致問題を解決する意志も能力もない主権国家としてのゆがみであるが、――実現するためには、真実の民主主義を、いわば、イギリス・プロテスタンティズムに起源をもつ「古い民主主義」に国家の倫理道徳の教育的根拠を求める以外にないと思う。

それにもかかわらず、今日の教育改革の論議で、識者と呼ばれる人たちがそのことに誰も触れることがないのは、それだけ日本国民の民主主義に対する問題意識のなさやその自覚の水準を示すことになっているのではないだろうか。

この「正論」の識者たちが主張する徳育教育や道徳の教科化と、私の主張する道徳の時間における「民主主義教育の徹底」と異なる大きな点は、民主主義教育では、国民各個人の内心の価値観にはまず足を踏み入れないことである。それらは各個人の良心の自由に任せる。民主主義教育ではそういった内容の問題には立ち入らない。しかし、家庭や学校や企業やさらには国家などに規定されるルールについては徹底的に厳守させる。民主主義教育とは、いわばそうした社会的なルールを厳格に守らせるための形式を充実させることである。そしてさらに今に必要なことは、国民の自由の権利を保障し、その実現のために必要不可欠な国家についての自覚を、兵役の義務に代表されるような普遍的な義務意識を民主主義教育を介して回復してゆくことである。こうした根本の問題の解決なくして、教育問題や年金問題といった特殊な問題についても解決の糸口を見出すのはなかなか困難なのではなかろうか。

 

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西澤潤一氏の教育論(2)

2008年02月08日 | 教育・文化

すべての社会改革について言えることは、「破壊はたやすく創造は難しい」ということである。アナーキストやフェミニストたちは、家制度の破壊には成功したかもしれないが、それに代わる、より高い国民倫理の形成には失敗したと言える。そもそも、彼らにはそうした新しい創造への意欲はなく、破壊のみを欲したと言えなくもない。そうした破壊的改革論者の多くはその「改革」の結果に責任を感じない。

この論考で西澤氏が主張されるように、戦後から今日にいたる日本社会の混迷と分裂のその多くは、先の第二次世界大戦の日本の敗北に起因している。それほど先の戦争の敗北は、民族にとって大きな痛手となったということである。

歴史にイフは不可能であるとしても、もしあの戦争がなかったらと考えればどうか。それなりに落ち着いた「品位ある社会」であり続けたのではないだろうか。たしかに、もしあの戦争がなければ、果たしてこれだけ大きな国家的な変革は実現していただろうか。その意味でも、戦後の民主化は、日本国民の主体的な変革ではなく、「外圧」として上からの与えられた民主化だった。

その第一にして最大の問題は、その結果として国民から国家意識が失われるか、あるいは、それにゆがみをもたらしたということことだろう。それが戦前の反動であるかどうか否かその理由を問わないとしても、事実として国民の間から国家意識は失われてしまっている。

もちろんそれが戦後の日本において正しい国家意識の定着を避けることのいいわけにはならない。というのも国家とは何よりもそこにおいてはじめて国民の意志の概念が実現される場であるからである。国家は国民の特殊的な個人の権利などが普遍的な福祉によって調和させられる唯一の条件であるからである。

この要件を十分に充足しない現在の日本の現状が不完全なものであることはいうまでもなく、その結果としてさまざまな問題が生じているのである。この根本を是正することなくして、さまざまの改革は枝葉末節のそれにとどまるし、実現することはないだろう。

戦前の日本の国家形態が戦後のそれよりもすべて優越していたなどというつもりはない。たしかに、戦前には小作制度に起因する農村の貧困問題も存在したし、女性に参政権もなかった。実際戦争の敗北をきっかけとするのでなければ、それらの問題を日本国民が自力で解決できていたかどうかもわからない。

問題は西澤氏が述べられているように、その戦後の日本社会の改革が、太平洋戦争の敗北を契機としていたように、社会の内在的な発展の結果として行われるのではなく、性急でしかも主体的に行われなかったことである。

たしかに一部の官僚たちの間には、「進歩的な」労働法が準備されていたり―――先の南原繁氏などは内務官僚としてそれに少なからず関与していたのであろうが、また農地改革法の試案が作られたりしていたかもしれない。たとえそうであるとしても、戦後の改革が典型的な「外圧」によって行われたのも事実である。日本社会は外圧によらなければ何事も変わらないのである。明治維新も黒船の来航がきっかけだった。

たしかに明治時代にも自由民権運動はあったし、大正時代にも「大正デモクラシー」と呼ばれるような社会的な運動はあった。だから、戦前の日本社会にも、また伊藤博文たちが起草した戦前の大日本国帝国憲法にもそれなりに民主的な要素は含まれてはいたが、いずれにせよ、こうして戦後行われた戦後の「民主的改革」は日本国民によって自力で主体的に実現されたものではなかった。

戦後のGHQの改革の尻馬に乗ってというか、その機会に乗じてというか、戦後の「民主的」な改革に参画した一人に、西澤潤一氏が指摘されたように南原繁氏らがいた。南原氏が戦後の日本の教育改革にどのように寄与されたのかは、無知不明の私にはよくわからないが、南原繁氏らとともに並んで戦後60年の教育行政の基本となった「教育基本法」を中心になって制定したのは、田中耕太郎氏らであった。

この「教育基本法」は日本の教育問題の元凶のように一部の論者から憎まれたが、戦後60余年にわたって持続したのには、田中耕太郎らがこの教育基本法の制定をはじめとする戦後日本の教育の改革にかけた並々ならぬ執念の賜だった。主観的には彼らは、この教育基本法によって、戦前の日本の国家体制を精算しその弊害を是正しようと試みたのである。たしかにそれは一部実現されたと言える。その結果一部の復古主義者たちから批判を受けることとなった。しかし、たとえ戦後の日本の教育が荒廃しているとしても、それは、決してこの「教育基本法」が根本的な要因ではなかった。

南原繁も田中耕太郎もいずれもキリスト教徒であり、彼ら自身はしっかりとした倫理道徳の精神的な基盤をもっていたと言える。しかし、日本国民全体の観点から言えば、民主化とともに共産主義や社会主義思想が流行するとともに、従来の天皇制の権威は失墜し、学校教育の中からも教育勅語などが失われることになった。

とくに共産主義や社会主義の根底にある全人類的な抽象的な平和主義とマルクス主義の階級国家観の影響もあって、ブルジョア国家性悪説とともに日本国民から急速に国家意識が失われていった。その結果として、日本社会にとって従来の伝統的な倫理道徳教育の基盤がなくなっていったのである。そして、今日に至るまでそれに代わる全国民的な倫理道徳規準としての国家意識が形成されるにいたっていない。国家意識の形成なくしてまた倫理道徳の規準も確立されることはない。その意味では現在の日本社会の混乱と紛糾は理の必然として生じているといえる。

 

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西澤潤一氏の教育論(1)

2008年02月07日 | 教育・文化

先日の産経新聞のコラム欄「正論」に教育問題が取り上げられていた。半導体学者として有名な西澤潤一氏もそこで発言されている。日本では今、OECDの学力調査の結果をきっかけに、学生の学力低下問題などが大きな社会問題になっていることがその背景にある。資源小国の日本では、国民の資質のみが唯一の資源であるから、当然といえるかもしれない。人的資源の枯渇はそのまま国力の衰退に直結するからである。

西沢氏をはじめ多くの論者は徳育の教科への導入や道徳の教科書の採用をそこでも主張しておられるけれども、いずれも問題の根本的な核心をつく解決につながるような提案はなかったように思われる。

まず何よりも、「民主主義」教育を倫理道徳の根幹としてとらえる観点を示されておられる方が誰一人もいなかった。それほど、「戦後民主主義」に対する嫌悪感が強いということかもしれないし、あるいは、日本人における民主主義の水準を証明していることになっているのかもしれない。

もちろん、「民主主義」の確立のみが国民の文化的な問題の解決に役立つのではない。それだけでより完全な国家が形成されるわけではむろんない。西沢氏が述べられているように、ただ倫理道徳のみならず、歴史や芸術に対する素養などが国民の間に深く養われているのでない限り、とうてい「品格ある国民」として有機的な民主国家の完成は期待できない。

また、現在の学校教育上の問題が、その背景にある「資本主義社会」の弊害が学校社会にも降りてきているためであることも自明の事実である。だから、そうした背景にある社会問題の解決なくして学校教育の問題も解決することは難しいといえる。こうした観点からの本質的な問題点の指摘も、西沢氏の論考をはじめ、「正論」上の識者たちの論考中にも見られなかった。これは新聞のコラム欄という制約もあるからやむをえない面もある。

またしばしば教育の大きな問題として現在の受験競争が取りざたされるけれども、もちろん、「受験戦争」そのものが悪いとはもちろん言えない。人間社会に競争はなくならないし、「競争」にも意義があるからである。問題にすべきは「競争」の内容であり、無駄な「競争」を生んでいる公的教育の退廃と劣化である。それこそが教育改革の核心ではないだろうか。その一方で、いまだに残る国民の過度の学歴指向とともに、学校教育に多くの弊害を生む原因となっていることも事実だろう。

そこには国民全体の教育観そのものが問われているといえる。いったん受験に直接に不必要とされるにいたった場合、一人の国民として不可欠な歴史教育や道徳教育も二の次三の次にされてしまうのである。

それはさらには国民性の問題でもある。そこにはモンゴル人種特有の実利主義がさらに奥深い根底に存在しているといえるかもしれない。目先の利害を超越して真理そのものを指向するといった、たとえばインド人に見られるような、実利を度外視した強烈な形而上学への衝動は国民にはみられないのも確かだ。

そうしたさまざまな背景があるとしても、現在の日本がかかえる教育をはじめとする文化的な混乱のもっとも根本的な要因は、どこにあるとみるべきだろうか。

それは現在の日本国民全体に見られる「国家意識の欠落」の傾向とそれと関連する「民主主義教育の不全」に求められると考えている。これが現在の日本の教育問題の核心的な要因であると思われる。したがって、問題解決の方向としては、憲法改正を契機とする日本国民の国家意識の回復と、真実の民主主義の学校教育における徹底である。それによってしか、現在の日本社会が抱える諸問題のより根本的な解決は期待できないのではあるまいか。

「教育基本法」はすでに改正はされたが、単に「教育基本法」をいじくったからといって、現在の学校教育の諸問題の解決にはつながらない。因果関係の認識が間違っているからである。

もちろん現在の教育問題の現状をどのように見るかは、その評価の尺度をどこにおくかで結論も異なるだろうが、はたして現状をどこまで深刻に見るべきか。同じ産経新聞の「正論」でも、先に曾野綾子氏が日本の豊かさに対して皮肉を言われておられる。(【正論】新しい年へ どこまで恵まれれば気が済む 作家・曽野綾子

現実の問題としては、そもそも完璧な教育制度を期待する方が無理であり、六割方の成果を上げていればよしとすべきといえる(それすら過大な要求といえるかもしれない)。だから問題は、相対的にもっとも真理に近い教育制度とは何かであるだろう。

現状を全否定することも間違っていると思う。戦後教育や戦後の民主的改革についても評価すべきは正しく評価すべきである。戦前の教育を全否定して、より劣悪な教育制度を導入することになった戦後の教育改革と同じ間違いを繰り返してはならないだろう。戦後六十余年持続した南原繁氏や田中耕太郎氏らの労作である旧「教育基本法」の意義もきちんと評価すべきだ。持続するにはそれなりの意義があったからである。それを全否定するのも間違いである。

前置きはこれくらいにして、とにかく西澤潤一氏の論考を参考に、教育や文化の問題をもう少し検討してみたい。それによって現在の日本の教育問題を考える材料と見る観点が少しでもひろがれば幸いである。

西澤潤一氏の論考は次のようなものである。

引用

【正論】「教育改革」はどこへ 首都大学東京学長・西澤潤一2008.2.4

□硬直化した哲学は通用せず

 ■南原・丸山流の「理想論」を脱せよ

 ≪責任者の驚きの発言≫

 伊吹文明前文部科学大臣や山崎正和・中教審会長が昨年、相次いで「歴史教育は学校では要らない」とか「道徳教育は教科にはしない」といった発言をし、現在の狂った社会や家庭を生じた戦後教育を改めるために努力を続けてきた人たちを仰天させたことは記憶に新しい。

 その直後本欄にも市村真一先生(京都大学名誉教授)の反論が出て少々安堵(あんど)したものの、今時になっても、このような基本的な、しかも教育の最高責任者ともいうべき方々から対照的意見が出されたことに一驚した。

戦後の教育改革はあまりに急激であったこともあり、難点が出てきた。何よりも大きかったのは国家家族主義から家族主義、さらには利個主義にわたる、「全」から「個」への移動が急激に行われたことである。
 

 戦前の徴兵制はほかの国々でもみられ、特に日本だけということはなかったが、軍国主義が強烈だった。しかしそれが廃止されると一気に、自国の防衛すら米国任せ、ついには隣国から夜間上陸したやからに国民が拉致されるに至っても、国は何もしようとしない。

 国民の大多数はわが身が可愛(かわい)くて危険を冒さず、被害者の家族が立ち上がるまで何もしないという、世界で最も公的な束縛が弱く、それでいて個の主張の強い国になっていた。

 戦後の日本人は低賃金にもかかわらずよく働いた。その結果、高い経済水準が生み出されたが、かつて働くことが好きといわれた国民は、すっかり遊び好きになってしまった。当時は考えられなかった栄養過剰による健康障害者が続出しているというから、驚きである。

 ≪過去を反省し暴走を防ぐ≫

 社会の進歩を拒否することは許されない。しかし、周到な配慮を欠いた「進歩」は進歩を拒否するよりも恐ろしい被害をもたらすことがある。「昔」をよく反省、検討して暴走を予防しなければならない。

 戦後の教育改革のリーダー役をつとめたのは南原繁先生といってよかろうが、曲学阿世と批判されたことでも知られているように、日本の教育は大幅に米国型教育に移行した。天野貞祐先生らの日本文化を残そうという努力もむなしかった。

 最も激しいのは教科科目であった。当時、東大総長の南原先生はキリスト教徒だったこともあって、美濃部亮吉先生や丸山真男先生らと共に人格者としても知られ、率先して改革を実行した。家庭でキリスト教徳育がほどこされた先生方の家庭では改めて学校での日本式徳育の必要もなかったのであろう。

 しかし、それのない一般家庭では信念を失って、徳育はもっぱら学校に任すと考えることになった。さらにこうした教育で社会人になった父兄母姉が教育者側に立つようになるや、学力低下、犯罪が急速に社会に広がり、ひいては国力の低下まで心配される事態となった。

 このまま推移すれば、この傾向はいっそう強まり、拡散して社会崩壊をもたらす懸念すら生まれている。

 ≪「自分のもの」なくては…≫

 このような事態を招来したのが人格者である南原先生の教育改革である。かつて東大・安田講堂で警官隊に火炎瓶を投げていた学生らが籠城(ろうじょう)しながら、南原先生の後継者と目された丸山氏の哲学を読んでいたという記事が新聞に掲載されていたのを、いまさらながら思いだす。

 両哲学とも、人類愛にあふれ、それが若者の心を打ったのだと考えたが、年老いてなお、熱い情熱と共にロマンとして胸に抱きつづけている人も少なくないだろう。しかし、今日でも闘争回避の思想が、現実面で領土問題の解決を妨げたり、拉致問題の解決に打つ手なしといった事態を招いている要因となっていることが少なくない。

 ロシアのイワンの馬鹿は美談であるが現実ではない。他人事に理想論を振り回し、自己の問題になるまで考えを変えないということこそ、人類愛に悖(もと)ることを忘れてはならない。広げれば、理想論を守りつづければ自分自身の生命と生活の保障すら放擲(ほうてき)しなければならないことを覚悟すべきである。

 野中広務先生(元衆院議員)は「今の日本人には自分のものがない」といっておられた。自分の信念や考え方だろうが、どんな状況になっても、自分の信念を曲げない強さと共に、自分の考えを通し得るだけの対応の広さがなければならない。

 このためには、きれいごとだけをつないで、自分の哲学としているだけでは足りない。より練り上げて適用を練習しておく必要がある。日本人が、ものをうのみにして、考えない教育を実施してきた弊害がいま現れている。
(にしざわ じゅんいち)

引用終わり・・・・・・・・・・

まず氏の問題認識でのなかで共感できるとも思われる点を上げておこう。西澤氏は言われる。

まず、第一点は「戦後の教育改革はあまりに急激であったこともあり、難点が出てきた。何よりも大きかったのは国家家族主義から家族主義、さらには利個主義にわたる、「全」から「個」への移動が急激に行われたことである。」

たしかに、西澤氏が主張されるように、かっての日本の教育改革があまりにも性急で大胆であったために、たらいの水と一緒に赤子をも流してしまうように、戦争以前の教育制度がもっていた長所をも捨て去ることになってしまったのではないだろうか。

GHQは占領統治の目的の一つとして「日本国の民主化」をあげていた。その一環として、民法の改正が取り上げられた。そのことはあまり今日では反省や議論の対象にはなっていないが、そこで日本社会の国民生活の根本的な変革につながる改革が行われたのである。とくに家制度の消滅が日本人の倫理道徳意識に大きな影響を与えたことは疑えない。現在の日本人の倫理意識や学校や家庭の教育問題を論じるときに、こうした歴史的な背景を考慮に入れない論議は問題の分析を的確に行っているとはいえない。

日本国憲法の制定とともに、戸主権が廃止され、それに伴なって家制度がなくなった。しかし当時もこの問題をめぐって賛否両論が戦わされていた。法学者の間でも大きく議論が展開された。とくに、我妻栄氏や宮沢俊義氏ら、いわゆる進歩派の学者らは日本の家制度の廃止に積極的ではあったけれど、刑法学者の牧野英一氏らは日本社会の美風を損なうものとして猛烈に反対した。もちろんそれらの改正によって得たものもあれば失ったものもある。そうして、今日私たちが自明のものとしている完全な普通選挙権も、戸主権の消滅と同じように戦後の「民主化」とともに実現したものである。

今日では現行の民法の元での婚姻制度などの事実は歴史的にも自明のものとなっているし、過去の家制度がどういうものであったかも忘れられている。けれども、戦前にブラジルなどに移住した日本人などの間にまだ家制度の気風の余韻が残っているようである。いうまでもなく、この家制度は明治時代の自然主義文学者たちが深刻な問題意識をもって批判的に描いたもので、当時の「進歩派」にとっては、また、女性解放運動家たちにとって、克服すべき改革の対象となっていたものである。

戦後GHQのもとで行われた社会改革の結果、家制度がもっていた日本の伝統的な倫理道徳的な秩序意識もおなじように崩壊してゆくことになった。

従来の日本の家制度は欧米の価値観や倫理観とは明らかに矛盾するものである。――とくに欧米ではキリスト教の倫理道徳が根底にあり、そこでは夫婦単位の家庭観が確立されていたが、そうした背景のない日本においては、戦後の民法改正の結果、教育勅語に代表される倫理道徳の価値観を実質的に担ってきた家制度の解消によって、国民的な倫理基準を日本国民は失うことになった。

 

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