ロドス島の薔薇

Hic Rhodus, hic saltus.

Hier ist die Rose, hier tanze. 

環境テロリスト

2008年01月25日 | ニュース・現実評論

日本の調査捕鯨船に対して、アメリカの環境保護団体の活動家たちが妨害行動に出た。何度も繰り返される事件ではあるけれども、グリーンピースなどに所属する暴漢たちの引き起こすこのような事件は不愉快である。そこに感じられるのは、欧米人の「傲慢さ」だろうか。もちろん、一部の環境テロリストのこうした愚行を一般の欧米人にまで一般化するのは適切ではないだろうが、HUMBLEな欧米人の存在の一方で、このような狂信的な「動物愛護主義者」を生むのもまた、ニーチェの思想などと同じく「キリスト教」文化の反面なのだろうかと思ったりもする。とくにプロテスタント国にその傾向は強いのかも知れない

自己の信条のみを絶対視して、自分と異なった考えや価値観を持つ人たちを、無反省に排斥する人たちの多くが、特定の何らかの宗教や信仰や「主義」を持つ人たちなどに多く見られるように思われるのも、人間の悪しき性の一面なのだろうか。

牛や豚や鶏を食べるのはまったく問題がなくて、鯨を食べるのは悪いという根拠を合理的に説明してもらいたいものだ。もちろん、種の絶滅に向かうような乱獲は認められるはずもないが、十分に生態系の維持に問題ないかぎり、鯨を食料とすることに何ら問題はないはずである。それは、私たちの国の伝統的な食文化でもある。

私たちにとって固有の価値ある文化は守らなければならない。そのためには言論によって合理的に反論しなければならないが、ただ、単純にオーストラリア人や欧米人の人種的な偏見などといたずらに関連づける人もいるようだが、それも短絡にすぎるし必ずしも正しくないと思う。感情的になって話を飛躍させることなく、ねばり強く言論と論理の正しさのみで反捕鯨国の世論を克服してゆくしかないと思う。

 

外交:調査捕鯨、妨害防止を申し入れ

 外務省は23日、日本の調査捕鯨船が環境保護団体「グリーンピース」から燃料補給の際妨害を受けたことについて、同団体が乗り組んだ船の旗国オランダに、再発防止の措置を講じるよう申し入れた。児玉和夫外務報道官が会見で明らかにした。妨害行為は、反捕鯨団体「シー・シェパード」に次ぐもの。「シー・シェパード」の件では、拘束されたメンバー2人のうち1人がオーストラリア人のため、高村正彦外相は22日、オーストラリアのクリーン貿易相との会談で「国内法に基づく適切な対応」を要請した。

毎日新聞 2008年1月24日 東京朝刊

日新丸への妨害 

反捕鯨で儲ける

 

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日本国の衰退と復活

2008年01月22日 | ニュース・現実評論

世界市場「独歩安」日本 政治・行政不況追い打ち(産経新聞) - goo ニュース

日本国の衰退と復活

どんな歴史の本を読んでも、そこには多くの国家や民族の栄枯盛衰が語られている。個人や企業におけると同様に、国家や民族においても、その隆盛と衰退は避けられない。ただ哲学的な歴史家はそこに何らかの法則性を探ろうとする。個人にせよ企業にせよ、民族にせよ、国家にせよその栄華と没落は何に起因するのか。

短期的な視点から見ても、経済や景気の循環や一国の株価の動向と同じように山もあれば谷もある。最近のニュースを見ていると、最近の日本は長期的な停滞傾向に入っているようである。

小泉元首相が「改革なくして成長なし」 とか「官から民へ」という派手なキャッチフレーズを掲げて登場したとき、国民は圧倒的な支持を与えた。経済改革は竹中平蔵氏に丸投げすることで、郵政民営化や道路改革を実行しようとした。そして、それらの改革の試みが少なくとも国民や海外の投資家に夢を与えていた間は、日本の株価も復活し、失業率や倒産件数も改善された。雑誌「エコノミスト」ではビル・エモット氏らによって「日はまた昇る」として日本経済の力強い復活を語られもした。

しかし、小泉改革も「官僚」や「族議員」らの抵抗にあって、中途半端に終わるか挫折におわり、その傾向が、小泉内閣の後を引き継いだ安倍晋三前内閣の政治姿勢によってさらに決定的になったとき、安倍前内閣は国民の支持を失い、安倍晋三氏は政権を投げ出すしかなかった。安倍前内閣の崩壊の理由は、安倍晋三氏の個人的な病状によるものではなく、根本的には、郵政造反議員の復活や農水大臣の松岡利勝氏や赤城徳彦氏らの族議員、二世議員たちのカネをめぐる政治倫理の問題や国家公務員制度や経済に対する改革姿勢の後退が国民に見抜かれ見放されたことによるものである。

そして、安倍内閣の後を引き継いだ福田康夫氏とそれを選出した自由民主党の党略によって、内閣と与党の改革姿勢の頓挫と小泉政権時代のいわゆる「守旧派」の復活が決定的になった。

道路族の古賀誠氏が自民党の選対委員長に就任し、岐阜一区においては「小泉改革」の女刺客とまで揶揄された佐藤ゆかり氏が「国換え」となり、郵政改革で守旧派とされた野田聖子氏が公認候補として復活するなどして、一時は少なくとも表面的には「自民党をぶっ壊す」という改革姿勢を明確にして登場した「小泉改革」の流れは、ほぼ完全に息の根を止められたことが明らかになった。

小泉内閣が登場するまで「失われた十年」として、日本社会をおおっていた閉塞感が再び芽を伸ばしはじめたようである。それは現在の自民党と公明党による福田政権与党の政治姿勢と決して無関係ではない。日本の政治の、談合型利益誘導政治は完全に温存されたままであるし、公務員制度やマスコミ業界の改革もほとんど手着かずのままである。

改革の方向としては決して難しい問題ではない。政党再編によって、政治をまず利益誘導型政治から理念追求型政治へと根本的に変換することである。そして、新しい日本国のビジョンを明確にすることである。日本国の追求すべき理念とは何か。それは「自由」と「民主主義」である。この一見古くさい理念を新しく復活させることである。それは政治家の仕事でもある。これらの理念は、それだけの永久的な価値をもっている。

日本国の閉塞状況は、何よりも戦後民主主義の硬直した政治体制によって、国民の間に、経済の領域のみならず、政治、教育、文化芸術などあらゆる分野で、「自由」な創意工夫の気風が失われているからである。また似非「改革」が、国民の階層・階級の間の流動化を促すことにならずに、むしろ格差の拡大と固定化につながることになっているからである。

そして、真実の「民主主義」が政治においても教育においても、経済においても実行されていないがゆえに、国民の間には正義の倫理感は失われ、犯罪も増加し、国民生活のあらゆる側面においてセーフティ・ネットワークも確立されずに、国民は生活の不安におびえることになっている。

今さらに、国家の目的理念を「自由」と「民主主義」に確定して、それを全国民で追求するべきである。それが挫折した安倍晋三氏の「美しい国」の復活にもつながる。「自由」の拡大をめざして政治と経済を改革し、正義の実現をめざして、戦後日本の似非民主主義から転換して、真の「民主主義」を追求することだ。それによって、国民の不安と退廃の解消をめざすべきである。

具体的にいえば、「自由」と「民主主義」のそれぞれの理念の追求は、現在の利益談合政界を一度ご破算にして「自由党」と「民主党」に再編することによって実現される。そして、各議員の哲学に応じてそれぞれの政党に所属し、そこで真実の「自由」と「民主主義」を国民のために研鑽し追求してゆくことである。原理は単純で難しい話ではない。国民と政治家の自覚と実行力のやる気の問題である。そうして、「自由」と真の「民主主義」を求めることである。

まず「神の国」と「神の義」を求めよ。そうすれば、国民に必要なものはみな加えて与えられるだろう。

 

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東国原英夫知事の謝罪

2007年12月13日 | ニュース・現実評論

東国原英夫知事の謝罪

何かと話題の多い宮崎県知事の東国原英夫(そのまんま東)氏が下記の記事に示されたような発言を行い、朝日新聞社などの報道機関に取り上げられ、その結果、「東知事の徴兵制発言に抗議殺到 」して、 「宮崎県の秘書広報課にはこの日、100件(同日午後3時まで。電話54件、メール43件、ファクス3件)の問い合わせがあった。「徴兵制という言葉を使ったことに問題がある」などの批判が約7割、残りは賛成が2割、その他が1割あった。メールは住所、氏名がないものがほとんどで、県外からの問い合わせが多かった」 という。

そして、その後、東国原知事は「徴兵制」を容認するものでないと釈明し、さらにそれに代えて「徴農制」という言葉を遣って、社民党の関係者から抗議を受けて陳謝したそうだ。

まるで、お笑いタレントの仕事を政治の現場に持ちこんだような、ドタバタ喜劇だけれど、詳細につての論考の展開はとにかく、この一連の顛末にいくつかの問題を感じたので、それをとりあえず記録だけしておきたい。

一つは、言論の自由の問題である。要するに、東国原知事の問題意識は、「社会のモラルハザード、規範意識の欠落、希薄化はどういうところで補うのか。学校教育が補えない中で、心身を鍛錬する場が必要ではないか」ということにあったようで、それを矯正する手段として、軍隊の組織の教育的意義の発想から「徴兵制」などを思いついて発言することになったのだと思う。

だが、東国原知事の発言の何が問題なのだろう。たとえ知事が「徴兵制」ということばを遣ったにしても、それは言論の自由の範囲内の問題ではないだろうか。人格の尊厳を損なうような発言でないかぎり、言論の自由を認めるのが日本国憲法の趣旨ではなかったか。

一部の人にとっては「自衛隊」や「徴兵制」という用語が、抵抗を感じさせるものであったり、アレルギー反応をおこさせるようなものであったとしても、それは他者の言論の自由を封じる理由にはならない。

狂信的な「平和主義者」たちは、こうして自由な言論による民主主義的な討論の雰囲気をそこない、社会に言論の「タブー」を作ってゆく。それはちょうど、かっての共産党が、党内の異なる意見を「査問」という強制によって、自由な思考を失わせていったのと同じである。

二つ目は、東国原知事が「社会のモラルハザード、規範意識の欠落、希薄化」を感じて、それを矯正する手段として、軍隊組織のもつ教育的意義について発言し論及することに何の問題があるのだろうか。軍隊アレルギーもここまで来ると病的である。自らの「平和主義」を絶対化し、信仰して、自己相対化ができなくなっているのである。もちろん、「徴兵制」を云々するまえに、家庭や学校や地域の教育の現状を反省するのが、論理の筋道だろうけれども。

三つめの問題としては、本来、民主主義には「徴兵制」という概念はなじまないし矛盾するものである。概念としては、民主主義には、「徴兵」ではなく国民の「兵役の義務」が含まれるが、今回の件は、現在の日本国民の多数には、その国民としての自覚が欠けていることを示しているにすぎない。「兵役の義務」は「兵役の権利」でさえあり、この現状は「民主主義国家」日本の国民としての意識の低さとゆがみを証明しているにすぎない。

自国の独立の保証を自国の軍備にではなく、他国に依存するような国家と国民には、本当の自由と独立はなく、そうした国家と国民とそのマスコミ、ジャーナリズムには、従属国であり半植民地に等しいことについての自覚もなく、恥の意識に目覚めることもないのである。

東国原知事が謝罪したのは、この知事が自らの思想信条についての何らの信念もなく、また言論の自由の価値についての確信もないからである。

 ――――引用記事

「徴兵制あってしかるべき」 東国原知事が持論展開
2007年11月28日20時53分

http://www.asahi.com/politics/update/1128/SEB200711280014.html

 宮崎県の東国原英夫知事は28日、宮崎市の知事公舎であった若手建設業者らとの懇談会で「徴兵制があってしかるべきだ。若者は1年か2年くらい自衛隊などに入らなくてはいけないと思っている」と述べた。記者団に真意を問われた知事は発言を撤回せず、「若者が訓練や規則正しいルールにのっとった生活を送る時期があった方がいい」と持論を展開した。

 懇談会には県建設業協会青年部の地域代表ら12人が参加。若手の育成方法などが議論になり、知事が個人的意見として語ったという。

 懇談会の終了後、知事は「道徳や倫理観などの欠損が生じ、社会のモラルハザードなどにつながっている気がする」と言及。「軍隊とは言わないが、ある時期、規律を重んじる機関で教育することは重要だと思っている」と語った。

――――――

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せいろん談話室への投稿②――安保さんの反民主主義論に

2007年12月01日 | ニュース・現実評論

せいろん談話室への投稿②

「せいろん談話室」に、安保さんという方が、『00097. 日本に民主主義など相応しくない 』という記事を投稿されていました。私はこの安保氏の民主主義観にいくつかの疑問を感じたので、反論の記事を投稿したものです。以下に安保氏の論考とそれに対する私の投稿を引用します。民主主義について、皆さんはどのような考えをもっておられるでしょうか。

00097. 日本に民主主義など相応しくない
http://ez.st37.arena.ne.jp/cgi-bin/danwa/kiji_display.cgi?thread_id=200711-001&kiji_id=00098
 投稿者:安保(57歳男性)  投稿日:2007年11月29日(木)
 
私は最近、民主主義の愚かさを思うようになった。

それは、最近教えてもらって私自身もハタと気がつき今は確信になってきた。
会社でも家族という単位でもそうだが、
一部の選ばれし者が会社を導き、そして家族であれば賢い父親が家族をまとめ守り良き家庭を築く。

会社経営は社員全部の合議制などではなく、民主主義でもないはずだ。
会社ならトップダウンが常であり、他に勝るより良きリーダーが居れば会社は繁栄する。

そう考えるようになって以来私は極端かも知れないが、今ではすっかり民主主義こそ、
日本に適さない主義であり体制なのではないのか?と、思うようになった。

この民主主義というのは日本のような天皇陛下を戴き、国家として元々自然に近く一枚岩になっている国には不向きな体制だと思う。
欧米のような歴史の中で今の国家を構成する国は、どうしても必要な制度でありベターなのかも知れないが。

日本には民主主義など相応しくない。

ウィンストン・チャーチルの言葉に↓
『民主主義は最悪の政治ではあるが、今までに存在したいかなる政治制度よりもましである』
いみじくも、このような言葉が有るそうだが

彼らにとってのましな制度であって日本には、日本に向いたより良い制度があるはずだと思う。
国の形も成り立ちも、世界の200余りの国は皆違うからだ。
個々人がそれぞれの生き方をするように・・・。

その日本に適した制度が、何時の時代の「どれ」とは、今の私にはまだ良く分からないが
まあ、どの時代の制度も一長一短あるだろうし、それはじっくり考える必要があると思うが
民主主義を信奉するのはまったくもって馬鹿げており駄目だと思う。

一口で言えば日本のような国は

一部のエリートが日本の政治をリードすることこそ、日本と言う国に適した体制だと思う。
皇室伝統:天皇陛下の存在がある限り

何故なら・・・。
一部の者が国を率いても、権力者が独裁者になったり、奴隷が生まれたりはしない国が日本であり。
世界200余ヶ国の内の日本だけが有する特異さかもしれない。
それこそが皇室伝統を持つ故であり、世界に類まれない日本の誇るべきものです。

私の知る日本の歴史で、日本の庶民に属するものは大らかで、政治に関心もなく、お上に任せる
そんな民が多くの庶民層ではないのか・・・と

なぜなら、お上は(何時の時代の権力者も)世界の歴史に見られるような庶民に対しての非道悲惨なことは歴史上もしなかった

そういった日本に相応しい国の形をもう一度真剣に考えることこそ今こそ必要なのではと思う

江戸時代など身分制度がありながら
権力者側のほうが大商人より貧乏だった

こんな国に欧米の猿真似で民主主義など取り入れても、それこそ国益を損うだけだ。
潜在的に素晴らしい力を封印してしまい、世界の中で日本が日本の良さを発揮できない要因だと思う。

具体的にはどうすれば良いのか

20歳以上の男女、日本国籍があれば参政権を与えるのではなく
そのハードルを徐々に上げて行くことだと思っている。
例えば、最初は①納税者であること、②犯罪歴が無いこと、③徴兵の義務を果たした者
等など

ハードルについては、侃々諤々議論するも由だと思う。

今の、福田・小沢が党首であり、片や首相であることなど、
日本の不幸であり、すなわちこれが日本人大多数の政治に関してのレベルであり
日本が如何に民主主義など相応しくないかの象徴である
 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上、引用終わり


安保さんの反民主主義論に

安保さんの論考は、ファシズムの温床や形成の典型的な思考事例として興味深く読ませていただきました。たしかに、あなたのおっしゃるように、日本国民には民主主義はふさわしいとはいえないかも知れませんね。

欧米とは歴史も文化も宗教的な背景もまったく異なった日本のような伝統のなかで、そして欧米のようなキリスト的な精神的な風土を持たない国民や民族が、欧米を発祥の地とする民主主義を国家生活の原理としていることが、今日においても、多くの悲喜劇の原因となっているのだと思います。このことは鴎外や漱石の生きた明治からも大きな変化はないようです。

ちょうど明治の文明開化の時期に、ちょんまげ姿で背広を着たり、洋靴を履いて羽織袴を着て歩くように、平成の御世の今日もなおどこか不似合いで不調和な印象がぬぐえないのかも知れません。それと同じことが、政治や社会生活の原理である民主主義についてもいえるのかもしれません。私も以前に、日本のみならずアジア諸国での民主主義の受容と定着の困難さについて論じたことがあります。

日本の内なる北朝鮮
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20070112
タイ国のクーデタ事件に思う
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20060921
公明党の民主主義
http://blog.goo.ne.jp/maryrose3/d/20061017

私も別段に民主主義を「信仰」している訳でもありませんし、民主主義がはたして全体主義にどれだけ優越しているのか懐疑的でありますが、特に欧米のようにキリスト教のような宗教的な文化的な背景を欠く場合には、日本のように民主主義はいつでも衆愚政治や「愚者の楽園」に化してしまうのではないでしょうか。

そして、もう一つ安保さんの論考を読んで痛切に感じるのは、「自由」の観点が根本的に欠けているように思われることです。

安保さんは「江戸時代など身分制度がありながら、権力者側のほうが大商人より貧乏だった」と述べられて、封建時代に郷愁すら覚えておられるようですが、江戸時代の封建的な身分制度の不自由さについては、福沢諭吉の「福翁自伝」などでも確認されればよいと思いす。

今日の自由な社会に身を置き、十分にその恩恵に浴して生きていながら、そしてこの自由が多くの人々の血と汗の犠牲を払って獲得された民主主義によってもたらされたものでありながら、この民主主義を否定しようとされていることです。

現代の日本の文化や政治や経済の現状に対する不満を、民主主義に原因を求められているようですが、はたして日本社会の政治や文化の退廃や堕落の原因は、民主主義そのものの欠陥にあるのでしょうか。それをきちんと論証することなくして、「民主主義」を批判しても、あまり説得力はないように思います。

ご参考までに

ヘーゲルのプラトン批判
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20061204
ドイツ文化と日本文化
http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20070425

 

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「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)

2007年11月20日 | ニュース・現実評論

月の地平に沈む地球…「かぐや」がハイビジョン撮影(読売新聞) - goo ニュース

「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)

年齢をとればとるほど、多くの事柄に慣れきってしまったり、細々した日常生活の必要に追われたりして、やがて新鮮な感動などほとんど覚えなくなる。その上に、温暖化だの高齢化だの対テロ特措法など、人間を悩ませる種につきることはないから、ますます子供のような新鮮な感覚は失われてゆく。そんな最近の気ぜわしい生活のなかで、久しぶりにというか、小さな感慨に浸らせてくれたニュースがあった。

JAXA(宇宙航空研究開発機構)が打上げた月周回衛星「かぐや(SELENE)」と日本放送協会(NHK)が、2007年11月7日に、月面のハイビジョン撮影に成功したそうである。37万キロの宇宙の彼方から、暗黒のなかにくっきりと浮かび上がる地球の美しい姿が、ネット上にも公開されている。
地球の出
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie01_j.html
地球の入り
http://space.jaxa.jp/movie/20071113_kaguya_movie02_j.html

映像で見れば実に小さな青い球体の上に、人類はその歴史を刻んできた。現在の科学の知見によれば、この青い球体は46億年前に太陽系の惑星として形成されたという。そして、一億年くらい前に原始的な猿が誕生し、そこから現在の人類が進化してきたという。そして、21世紀である現在は、キリスト生誕からもまだわずかに2000年ほどにしかならない。

この小さな青い球体の上に、人類はさまざまに歴史と文化文明を刻んできた。ピラミッドを造り、アレキサンダー大王は世界征服に乗り出し、ギリシャ文明は花開き、シーザーは暗殺される。近代に至ってはフランス革命やアメリカの独立があり、この百年の間に二度にわたって世界大戦もあり、多くの兵士たちがボロ屑のように死んでいった。私たちの父や母もこの惑星の上でわずか百年足らずの生涯を終え、やがてまもなく、私たちも彼らの跡を追ってゆく。個としての人間はまことにはかないものである。

それにしても、なぜ人間は、これほどにまで労力を払って、月探査機を作り、それにハイビジョンカメラまで積み込んで、宇宙から地球の姿を捉えようとするのだろうか。それは決して単なる経済的な動機にのみよるのではない。

古代ギリシャのデルフォイの神殿には「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)というアポロ神より下された神託が刻まれていたという。それが人類の宿命にもなっているからである。

ふつうには「汝自身を知れ」というと、「自分の姿をよく知って、身の程を弁えよ」とか「自分の分を弁えよ」といったことわざの意味に使われることが多い。「わがままはいけない。」「身の程知らずの目的を追求して身を滅ぼしてはならない」といった人間についてのいわゆる世知を示すものとして受け取られていた。

それを歴史的にさらに深い意味に発展させたのは、哲学史上ではソクラテスであるとされている。ソクラテスは、「汝自身を知れ」という神託によって、多くの若者や哲学者との対話のなかで、自身の無知を自覚することによって、もっとも優れた知者であるとされた。

ソクラテスの弟子には出藍の誉れ高い哲学の父プラトンがいる。さらにアリストテレスなどの先覚者たちの跡を受けて、哲学や宗教史上の多くの英才たちが、「汝自身を知れ」というデルフォイの神託の意味を営々として限りなく深めてきた。


近現代において、「汝」を「自我」と捉え、それをさらに個人の「主観的な精神」「有限な精神」として捉え直し、さらに、家族や市民社会や国家における法や道徳や人倫を「客観的精神」として、精神の必然的な発展として考察し、「汝自身を知れ」というアポロ神の神託にもっとも深く徹底的に応えたのはヘーゲルである。彼は言う。「自己を認識するように駆り立てる神とは、むしろ、精神自身の絶対的な掟そのものである。そのために精神のあらゆる働きはもっぱらに自己自身を認識することである」と。いかにも彼らしい人間観である。

地球から生命が、人間が生まれたように、自然から精神が生まれる。人間の肉体は物質であり自然に属するが、人間の自我、意識、精神は観念的な存在である。そして、この精神は、さらに芸術や宗教やさらに哲学そのものにおいて絶対的な精神として捉えられる。

人類は宇宙の創造の神秘と自分の姿を知るために、月や火星に向けて、宇宙に向けてこれからも、探査機は打上げられるだろう。しかし、また、宇宙の創造者である神に似せて造られたといわれる人間の精神を探求することによっても、絶対者、すなわち神の認識へと至ることができるのではないだろうか。それが「汝自身を知ること」「人間の真実の姿」を知ることにもつながるはずである。それらはヘーゲルの師カントを驚嘆させた二つのもの、天体に輝く星辰と、我が内なる道徳律でもある。

 

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旧日本国軍の総括

2007年10月09日 | ニュース・現実評論

旧日本国軍の総括

去る九月二十九日に沖縄で十万人の県民が集まって、旧日本軍の強制による集団自決についての教科書の記述変更に反対する集会があったそうである。

当時の戦争に巻き込まれた沖縄の人々が、教科書においては「日本軍の命令によって強制的に集団自決させられた」とか「沖縄県民の集団自決に日本軍が関与した」とか「日本軍に集団自決を強いられた」とか記述されていたのに、「軍による強制」ではなく「集団自決に追い込まれた」というように変更されることになったことが問題の発端らしい。

そのことについて沖縄県民の中に反対している人が少なくないらしいけれども、正確にどれだけの数の沖縄県民が反対しているのかわからない。しかしこれは多数決の問題ではない。

今なおこうしたことが問題になるのは、この沖縄県民の「集団自決」の問題のみならず、かっての太平洋戦争そのものがいまだ国家的なレベルでもきちんと総括できていないからだと思う。相変わらずの国民性でないだろうか。いつまでも、旧日本国軍の悪弊を感情的に批判していても、あまり生産的ではないように思う。

総力戦が戦われていた当時の沖縄で、その過酷な軍事情勢の下において、非戦闘員である県民がアメリカと旧日本軍の戦闘行為に不本意ながらも巻き込まれ、そのために多くの人々が命を失うことになった。命を失うのだから不本意でないはずはないが、しかし、当時の沖縄県民も敵国アメリカに対する愛国心に燃え、旧日本軍隊と県民一心同体となって敵国アメリカと戦っていたことが想像されるのである。もちろん、戦争という過酷な状況だから決してきれい事だけには終わらなかっただろう。

それを戦後六十年たって、当時を知らない若者たちが、「軍隊が県民を強制して自殺に追いやった」とか言う。しかし、そのような観点で見るならば、それは単に沖縄県民のみならず、赤紙一つで徴兵され、過酷なジャングルでの戦場で命を失った多くの兵士たちばかりでなく、また、勤労動員で働いていたときに原爆を投下されて死に至った中学生たちも、要するに兵隊に駆り出された日本国の青年のほとんどが強制的に国家と軍隊によって「死に追いやられた」ということになる。

しかし、共産主義者などの一部を除く当時のほとんどの日本国民は、愛国心に燃えて「自発的に」敵国アメリカとの戦闘に参加したのだと思う。そして、たとえ国家による「命令」としても、多くの国民は国家のために従順に、むしろ多くの青年たちは誇りをもって敵との戦いに従ったのだ。むしろそれが真相ではないだろうか。それを自らの国家に対する誇りすら失ってしまった現代の人間が、自分たちの価値観を彼らに押しつけて、自決を強制されたなどといって「名誉の死」に殉じた人たちをおとしめているのではないのか。


そこには当時の日本人が一般にもっていた「生きて虜囚の辱めを受けず」といった死生観が死を軽いものとしたこともあると思う。近代の戦争についての無知や旧日本軍の教育の欠陥もあったと思う。ただ、そこに軍人による直接の命令があったのかどうかといっても、現代の戦争が根本的には国家間の総力戦である以上、国家による何らかの「強制」が働かないということはあり得ない。その状況は日本であれ、アメリカであれどのような国家も同じである。

そうした過去の厳粛な歴史を、後世の人間が「後知恵」で批判しても、正しく歴史を考察することにはならないと思う。また「集団自決の強制」が真実であるかどうかは当時の軍人や旧日本軍の名誉に関わる問題ともなる。

そのような歴史的な事実について、最近の沖縄集団自決冤罪訴訟による影響もあったのか、真実が明らかにされるなかで、高校教科書の記述の変更に影響をおよぼしたらしい。

「日本軍による集団自決の強制」の記述の変更についても、犠牲になった沖縄県民が軍隊命令によって強制的に集団自殺したことにすれば、軍属の死として戦後の遺族補償も得られやすくなるために、当時の守備隊長がそれに同意したということもあったらしい。


沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会
http://www.kawachi.zaq.ne.jp/minaki/page018.html


しかしいずれにせよ、二十一世紀の現代においても、世界には多くの国家がそれぞれ独立して存在し、互いの国益を主張しあうような今日の人類の進化の状況にあっては、軍隊を完全に撤廃することはできないし、現実的ではない。

このことは、わずか六十年前の太平洋戦争の開戦時も、二十一世紀に入ったばかりの今日においても、その「厳粛な」歴史的事実には変わりがない。ただ狂信的な「平和主義者」だけが、不可能であるその現実を直視することができず、いつまでも盲信から自分を解放することができないでいるだけである。


現在のような人類の段階で、世界の諸国家がそれぞれ独立して排他的な対外主権を互いに主張しあうような世界史の段階において、国家が軍隊を否定したり放棄するということは現実的ではない。そうした選択をするとすれば、それはその国民が愚かで成熟した判断をもてないでいるからであると思う。


国家がその軍事的な実力を保持して、国家主権を完全に確立していない場合には、自国民が他国家によって拉致されるといったことが起きる。北朝鮮による日本国民拉致事件がそれを端的に証明している。旧社会党の非武装中立論者たちこそ「日本人拉致被害」の責任の一端の担うべきではないか。自衛の軍事行動すら否定する教条的な日本国憲法擁護論者や非武装中立論者たちは横田めぐみさんたちの涙の責任をとれるのか。

戦後の日本国民が、国家や軍隊に対して少なからずアレルギー症状を示すことにも無理からぬ面はもちろんある。日本は第二次世界大戦で、連合国軍に完膚無きまでに敗北し、しかも、その日本帝国軍隊が必ずしも民主的ではなく専制的で、封建的な階級意識をきわめて色濃く残した陰湿な面をとどめていたこと、また、軍隊組織が抑圧的で事大的で非人間的な軍人も多かったのも事実だろう。そのために一般国民が少なからず軍隊や軍人に反感的な感情を持つことになったとしてもやむを得ない。しかし、それもまた日本人自身の国民性の反映でもあったのだ。

しかし、あの戦争からすでに半世紀以上も経過しているのに、今日もなお、いつまでも国民が自らの国家と軍隊に対して不信と拒絶の感情をすら克服し得ていないとするならば、それは健全なことではない。それは指導的政治家たちの怠慢のせいでもあると思う。国家と国民の安全と幸福ために、一身を犠牲にして働く軍隊と軍人を尊敬できない国民は不幸である。

そのためにも過去の旧日本国軍の否定的な側面を全面的に客観的に批判的に総括するとともに、その一方で、たとえば、かっての神風特別攻撃隊に志願した青年たちの高貴な犠牲的愛国心は、今日においても限りなく貴重な価値あるものとして、その意義は正しく評価するべきだと思う。かっての旧日本国軍のもっていた崇高な精神的な遺産を、戦後の民主主義的な愛国心と結合することによって復活させてゆかなければならない。

国民が子供じみた軍隊アレルギーにいつまでもとらわれていれば成熟した完成した国家を形成することはできない。そうしたアレルギーから正しく治癒され解放されてゆく必要がある。

完全に民主化された新日本国軍が、専守防衛に徹することは、日本国民が完全な民主主義的な自覚をもった国民である限り、それは自明の前提なのである。

いつまでも、沖縄での旧日本国軍の「悪弊」を中途半端に批判にさらしておくのは生産的ではない。かっての旧日本国軍の参謀本部の作戦指導上の過ちや、陸軍と海軍の縦割りによる縄張り意識による作戦指揮系統の不統一による軍事戦略上の失敗や、また、それとも関係するけれども、満州国の関東軍における一部軍人の「暴走」などになぜ首相の指揮権が発揮できなかったか、(これは統帥権が天皇直属で、首相にはなかったことなどがある)などといった、かっての旧日本軍の犯した多くの失敗や否定的な側面があるはずである。

それを、戦争原因や戦争回避などもふくめて、国会は全国民的なレベルできちんと歴史的に総括し、その報告書を全国民に提示すべきだろう。旧日本国軍をただ全面的に否定しさることなく、たらいの水と一緒に貴重な赤子を流してしまうことなく、民主主義の観点から、その意義と限界をきっちりと総括して、それを民主主義国家の新日本国軍において再生してゆかなければならないのである。

 

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NHKの報道姿勢

2007年10月08日 | ニュース・現実評論

昨夜、NHKの番組で、激流中国「チベット 聖地に富を求めて」という番組を見ました。

昨年にチベットの首都ラサに「青海チベット鉄道」が開設されてからほぼ一年が経過しています。それを記念するかのような企画番組でした。

青海チベット鉄道は、中国共産党の指導で240億元の巨費を投じて建設されたものです。この鉄道の開設にともなって多くの観光客が訪れるようになっています。また、それに応じて商業資本も大量に流入し、その結果地元のチベットの民衆の生活が貨幣経済の性格をさらに強めてゆく様子も放映されていました。

NHKは「中国鉄道大紀行」という最近の番組でも俳優の関口知宏さんが中国の鉄道を乗り継いで、鉄道の沿線を紹介しながら現代中国の変化してゆく様子を伝えています。関口さんと番組のスタッフたち一行も、青海チベット鉄道のラサ駅を出発点としていました。しかし、この番組でも、「青海チベット鉄道」のチベット民族にとっての政治的な意味はいっさい報じられることはありませんでした。


チベットの首都ラサにあるチベット仏教の本山ポタラ宮の法王ダライ・ラマが現在亡命中であることもいっさい報道されることはなかったし、漢民族によるチベット民族同化政策が進んでいることについても、そして、チベットの鉱山資源の開発がこの鉄道の開設の最大の目的であることについても、チベット民族の視点に立った報道はいっさいありませんでした。


こうした内容の番組によっても確かに、現代中国の姿の一面を知ることはできますが、ただそれが必ずしも全面的で客観的ではないことが問題だと思います。現在のような報道姿勢では、日本の公共放送であるNHKが、事実上、そのまま現在の中国共産党の民族統治を是認して無批判に報道するという宣伝媒体になってしまっているということです。

もし、中国共産党当局のチベット統治に批判的であろうとすれば、NHKはたちどころにその中国支局を追放されてしまいかねないことになるからです。しかし、それではチベットの真実の姿は日本国民にはいっさい伝えられません。果たして、こんな番組ばかりを報道していて、チベットや中国の真実の姿を日本国民に伝えることができるのでしょうか。現在のチベット民族の運命が百年後の日本の運命にもなりかねないのにです。

日本国民はいつまでこんなNHKを日本の公共放送機関として認めるべきなのでしょうか、テレビを見ていても、そんな疑問がわいてきます。特権化した今のテレビ放送局に競争原理を働かせるとともに、いっそ公共放送機関をなくして、いっさいを民営化してゆく方向が検討されてもよいのではないかと思います。とはいえ、民営化といっても現在の不自由なジャーナリズム一般の精神を思うとそれにもたいした希望も持てませんが。

青海チベット鉄道が全線完成 ラサで祝賀大会

NHKにもの申す

 

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悲しき教育現場

2007年09月25日 | ニュース・現実評論

教師がいじめ認識? 生徒ら漏らす 神戸・高3自殺(神戸新聞) - goo ニュース

「下半身写真ネットに」神戸自殺生徒、遺書に記す(産経新聞) - goo ニュース

相変わらず、教育現場で「いじめ」はなくならないようだ。「石川や浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ。」で人間から悪の種は尽きることはない。それにしても、こうした事件は、防ぐことはできるし、自殺に至るまでに何とか手を打つ手立てはあったはずであると思う。とくに生徒の教育管理に直接当たる学校関係者の責任は重大である。

以前にもこうした問題についていくつか論じたが、その原因の大きな根本は、国家がその共同体としての性格を敗戦をきっかけに失ってしまったこと、それ以来、国家として、国民に対する倫理教育ついての配慮をほとんど行ってこなかったことにある。いまだ国家としての倫理の基準を確立できないでいるためである。

こうした問題について、いまさら「教育勅語」を復活させることができない以上、「民主主義」を倫理として確立する以外にないことは、これまでにも繰り返し語ってきた。しかし、いまなお、今日の教育関係者のほとんどにはそれを切実な問題意識としてもつ者はいない。これでは、いつまでたっても教育現場にその根本的な治療改善は望むべくもない。しかし、長期的な取り組みとしてはそれ以外に改善方法はないのである。それを放置して、いつまでも問題の解決を遅らせ、多くの児童、生徒を悩ませ続けるか。

ただ、短期的な対策としては、不幸にもこうした事件が生じた時には、今回の生徒の遺族は、加害生徒、保護者、学校関係者に対して、法的な責任を民事的にも刑事的にも追求しうる限り、徹底的に追及してほしいと思う。

それは、今日の学校教育関係者の――校長や教頭などの現場教員のみならず、文部科学大臣、教育委員会などの教育公務員の無責任、無能力を改善してゆくためにも、必要な措置であると思う。ご遺族の方々は、悲しみを乗り越えてそうしてほしいと思う。

民主主義を倫理教育としての観点から教育するという問題意識を今日の教育者はほとんどももっていない。その研究も行われていない。今一度正しい民主主義教育を、その精神と方法の両面にわたって充実させていってほしい。そして、いじめの問題などは、クラス全体の問題として、民主主義の精神と方法によって解決してゆく能力を教師、生徒ともども向上させてゆくべきなのである。

クラス全体にそうした問題解決能力のないこと、失われていることを、今回の事件も証明している。しかし、教師、児童、生徒たちの倫理意識の低さは、やがて結局は、自分たち自身がその責めを負うことになる。

         「いじめ」の文化から「民主主義」の文化へ

                 民主主義の人間観と倫理観

          学校教育に民主主義を

 

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「韓流ブーム」

2007年09月07日 | ニュース・現実評論

先の記事「瀬島龍三氏の死、古い人、新しい人」を投稿しましたところ、ある方から(女性だと思います)次のようなコメントをいただきました。

引用


はじめまして
記事を読ませていただきました。
なるほど、戦前の日本だからこその人間形成があるんですね。

昭和50年ごろだったと思います
映画監督たちの対談で戦争映画の俳優選びで悩んでいました。
「日本は豊かになり俳優たちは、きらきらと明るく満ちたりと瞳の者ばかりだ、食いつようなハングリーな顔つきの俳優がいなくなって、兵士役がいなくなった。」

そうですよねえ~~
昔の戦争映画、兵士が女性の順番をずら~~~っと
並んで、はやく!といいながら並んでいる映画。
あの頃の戦争映画はみんな痩せて飢えた俳優さんがいました

・・・・・・ YM
 >

このコメントを読んだとき、すぐに、少し昔に『冬のソナタ』などのテレビドラマでブレイクした「韓流ブーム」の社会的な背景について少し思い当たる点のあることを連想しました。

それは、現代の日本女性の多くが潜在的に不満不信の感情をもっているらしいことです。これだけ社会は豊かになっても必ずしも多くの女性は幸福感を持って生きているようでもないらしいことです。そして、その背景に彼女たちの父や兄などの日本の男性観に対する潜在的で根源的な不信感があるようにも思いました。それで、私は彼女に次のようなコメントを返すとともに、「韓流ブーム」にある日本の社会的な背景の問題をさらに考えてみたものです。

引用

YMさん、はじめまして
コメントありがとうございました。

そうですね。そうして、戦後の日本人は、私たちの父であり兄であり弟でもあった戦前の日本人の醜い面ばかり教えられて育ってきたのですね。彼らにそうした面がなかったとは言いません。

それは日本人だけではなく、満州で私たちの母や姉が体験したように、ロシア兵も中国兵も極限状態におかれた弱い男の多くが同じように犯す過ちです。

気の毒な日本人兵士の「汚点」ばかりをあげつらうのは、きっと戦後の日本人女性の思いやりの深さなのでしょうね。
 
・・・・・・ SR

「韓流ブーム」が示すもの

まだこの流行がどれほどのものかよくわかりません。一時期ほどの勢いはなくなったかも知れませんが、それでも今も、GOOブログなどでは韓流スターという項目があるし、そうしたサイトなどへのアクセス数などから言っても、このブームの根はまだなくなってはいないのではないでしょうか。

ブームというのは熱病のようなものです。もともと何かを信じることなくしては人間は生きることのできない動物ですが、とくに女性についてそれが言えると思います。時には熱病のように信じるものを求めます。しかし、海外のイスラム教国やキリスト教国のように、これといった特別の社会的な伝統的な信仰文化というものを持たない現代日本の多くの女性たちは、そうした信仰の代用として、ブランド品やアイドルや「韓流スター」を追い回すか、あるいは、怪しげな新興宗教に夢中になるか、セックスの一時の快楽におぼれるなどして、その満たされない渇きを癒そうとするのかもしれません。

こうした現象にも、現代の日本社会のさまざまな問題点が浮き彫りにされているように思います。そこにはやはり事実として、その背景に現代の日本の男性の多くに魅力がなく、そのために日本女性の多くを満足させることができないでいるという現実があるのでしょう。

とすれば、それではなぜ日本の男たちは女性たちに魅力がないのでしょうか。先の記事で由美さんという方からコメントをいただいたとき、この問題についてふと思い当たるところのあるような気がしました。それは、先の太平洋戦争で日本が未曾有の敗北を喫して以来、その戦後にかっての日本の軍隊、軍人が徹底的に貶められたということがあったということです。もちろん、あれほど尊大で傲慢になって肩で風を切って歩いて偉ぶっていた者も多かったかっての日本軍人が、敗戦をきっかけに国民からすっかり信用を失ったのにも実際に無理もない一面もあると思います。

それに、とくに敗戦後は、社会主義や共産主義が大きく勢力を伸ばした時代であったし、そうした立場に立つ人々は、かっての日本軍や日本軍人を、そして、靖国神社などを「軍国主義」の象徴として、眼の敵にしてきたともいえます。そして、一方で日本の軍人たちは日本の男たちの象徴でもあったから、軍人と日本の男がさげすみの対象として二重に映ったとしても仕方がなかったともいえます。

それは、日本をアメリカにとって二度と敵対できない国家にするというマッカーサーの占領政策とも一致しましたから、あらゆる手段、あらゆる機会を利用して、戦前の日本軍と日本軍人に対して、その信用を失墜し、軽蔑の対象とするような政策がとられました。それにまた、旧日本軍のなかに実際ににそのように扱われてもしかたのない一面もありましたから、そうして、日本においては完全に軍人や軍隊は信用を失墜させられていったのだと思います。それに応じて日本の男もその価値と魅力を失っていったといえます。

先にコメントを寄せてくださった由美さんなども、そうした教育を受けた戦後世代の典型の女性のように思います。軍人といえば「売春宿」の前で眼の色変えて列をなす男たちというイメージです。そうして、そんな我が夫の、また父であり兄であり弟の姿を、潜在意識の中に育てていった多くの日本の女性にとって、日本人男性は不信と軽蔑の対象になっていったのだと思います。

しかしそれは、何も現代の太平洋戦争だけではないと思います。戦国時代の武士たちにしても、フビライハンに征服された十二世紀のロシアの男たちにしても、すべて戦争に敗れた男たちは妻子をまともに守ることができませんでした。だから、敗残兵の男たちには妻や娘たちから見離されてもやむを得ない面があります。戦後しばらくの間は、生活のためもあって、多くの日本人女性たちが国際結婚によって海外に渡っていったこともあります。もちろん、大和撫子としての矜持を守った日本女性も多くいたことは言うまでもありません。

そしてまた、戦後の日本は「平和憲法」を後生大事に戴くことによって、戦争のできない国になりました。戦争に懲りた多くの国民がそれを歓迎したことも事実です。その結果、一方では、たとえば北朝鮮に同胞が拉致されても、日本の男たちは、政治家たち、軍人たちも、長い間、見て見ぬふりをし傍観を決め込むしかなかった。それに気づいていた日本の女性は、口に出して言うかどうかはとにかく、そんな男たちの姿にも愛想も尽かしたでしょう。日本の男たちは、自国の防備でさえアメリカの青年たちに任せっぱなしで、それで自分たちは何をしているのかというと、ただひたすら商売に眼の色変えて忙しく、あるいは怪しげな海外ツアー、エロ、グルメなどの生活で娯楽と享楽三昧です。

そんな日本の男たちと比べて、韓国の俳優たちは、みんな兵役の義務を果たして、そこで国家の中に生きるということに気づかされ、そして凛とした一人前の男として鍛えられて帰ってくるのですから、日本の女性たちが、韓国人スターに血道をあげるようになるのも無理はないでしょう。

実際こうした問題も深刻だと思いますが、さらに「韓流ブーム」にはもう一つの問題も、示されていると思います。それは、テレビや新聞などの日本のマスメディア文化の問題です。

それは、はっきりいって、NHKをも含む日本のテレビ局、プロデューサーが、まともなドラマ制作能力をまったく失って、視聴者の要求にこたえられなくなっているという事実です。どうしてそうなったのか、その理由はいろいろあると思いますが、もっとも大きな理由は、NHKと民放各局とともに、現行の電波法の上にあぐらかいて独占的で無競争の刺激のないインセンシティブな体質になってしまったためだろうと思います。かっての国鉄も、郵便局も、電電公社もすべて、ある業界を既成の企業・利益団体だけが独占して、そこに競争の原理が働かなくなると、その業界は腐敗し堕落し、顧客に対するサービスなど、どこ吹く風というようになります。かっての社会主義国のように、まともな仕事をしなくなります。


今、NHK、民放ともどもテレビ局は、仕事を下請けに丸投げして利ざやを搾取して生きています。彼らには、力のある脚本家を育てて、面白いドラマつくりに取り組もうという意欲もなければ、優れた面白い娯楽と芸術が両立するような質の高いテレビ・ドラマの製作に励もうという意欲も能力も、つめの先ほどもありません。

それが気の毒な日本女性をして、韓国製のテレビドラマに向かわしめていることになっています。彼女たちには、日本のテレビ局に、面白く楽しいドラマを見せるように要求することもできないのです。ですから、最近の「韓流ブーム」は、テレビ局と日本の男たちとに対する事実上の批判でもあります。女性たちにはそうした形でしか、自分たちの批判を表すことができないからです。

今日のようなテレビ文化の社会では、テレビ局の公共的な使命はとても重要です。ひところベストセラーになった、藤原正彦氏の『国家の品格』なども、テレビ・マスコミの「下品格」の反動として出てきたと考えてもよいものです。そして、残念ながら今なお、このテレビ局の改革はまったく手付かずのままで、そのために、女性のみならず男性も、ほんとうに面白い「日流ドラマ」を見ることもできません。

戦後六十余年たった最近になってようやく、「男たちの大和」や「硫黄島からの手紙」や「出口のない海」などのいくつかの映画で、かっての日本軍人たちのよい面、男らしい一面も少しずつ描かれ始めてはきていますが、それでもなお、兵役の義務も果たさず、実際に、自分の国も女性も子供たちも守ることのできない、お金とエロだけが生きがいのような多くの日本の男たちに、女性たちは何の魅力も見出せないようです。そして、やはり男らしい「韓流」になびいて行くのだろうと思います。

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瀬島龍三氏の死、古い人、新しい人

2007年09月05日 | ニュース・現実評論

「訴訟国家なら破滅」 鳩山法相 弁護士急増を懸念(産経新聞) - goo ニュース

瀬島龍三氏の死、古い人、新しい人

今日、昨日のニュースで、やはり感慨深かったのは、瀬島龍三氏の逝去のニュースです。瀬島龍三氏といっても今の若い世代には、いや団塊の世代にすら、ほとんどよく知られてはいないでしょう。

瀬島氏の死によって、戦前の日本がさらに遠くなってゆくことが実感されます。私のように戦後の日本については、アメリカ植民地文化の浸透した時代として、軽蔑するような価値観をもっている場合はなおさらです。瀬島氏のような、よくも悪くも戦前の日本人を代表するような人物が失なわれてゆくのは、時間は誰にも押しとどめることができないから仕方がありません。

それにしても、少なくとも、戦前の日本社会は、その中から瀬島龍三氏のような人物を作り出していたということです。そして、アメリカと戦争を始めて敗北はしたけれども、その敗北から戦後の日本を復興させたのも、実質的には戦前の日本で教育を受けそこで生育した瀬島氏のような世代でした。

戦後の教育でこのような人物は作れるでしょうか。また、実際に、それができないような方向で、アメリカは戦後の占領政策で敗戦後の日本を改造したのです。そして、戦後に作り出された人物といえば誰がいるでしょうか。同じく今日のニュースにたまたま出ていた人物を手近な一つの例として、たとえば今度の安倍改造内閣で新しく法務大臣に就任した、鳩山邦夫氏でも取り上げてみましょうか。

もちろん、人間にはそれぞれ資質なり個性というものがあるから、一律に外形的には比較はできないのですけれども、この鳩山邦夫氏などと、亡くなられた瀬島龍三氏の人間とその「品格」を比べるならば、世代や時代における人間類型の差というもののいくらかでも実感できるでしょう。戦後の教育では、せいぜい、鳩山邦夫氏程度の人物しか作り出せていないことがよく分かるのではないでしょうか。イチジクの木の良し悪しは、その実を食べてみればわかるとも言います。

教育もそうです。戦前の大日本帝国憲法下の教育と文化で育った人間と、戦後の日本国憲法下の教育と文化の下に育った人間を実際に比較すれば、だいたい、その「品格」の差は明らかになります。もちろん、戦後世代の大半の人間には、彼ら自身が受けて育った教育と文化の環境を、当事者として相対化して自己を反省する能力はありません。そうした彼らが21世紀の日本をになってゆくのです。日本の危機が深刻化するとすればそれは、彼らの手によって育てられた新しい世代が多数を占めるこれからでしょう。

鳩山邦夫氏に関連する記事を引用します。


「訴訟国家なら破滅」 鳩山法相 弁護士急増を懸念
2007年9月5日(水)04:14

 新司法試験の導入などで今後増え続けると予測される弁護士人口について、鳩山邦夫法相は4日の閣議後会見で「将来、国民700人に弁護士が1人いることになるが、それだけ弁護士が必要な訴訟国家になったら日本の文明は破滅する」と述べ、弁護士の急激な増加は望ましくないとの見解を示した。

 日本弁護士連合会が行った弁護士人口の将来予測によると、平成19年の弁護士人口は2万4840人で弁護士1人当たりの国民数は5142人だが、49年後の68年には弁護士人口は12万3484人となり、弁護士1人当たりの国民数は772人になるとしている。


 鳩山法相は「わが国の文明は世界に誇る和を成す文明で、何でも訴訟でやればいいというのは敵を作る文明だ」と述べた。さらに「そんな文明のまねをすれば、弁護士は多ければ多いほどいいという議論になるが、私はそれにくみさない」と明言した。


 鳩山法相は8月31日の記者会見でも、司法試験の合格者を年間3000人程度とする政府目標について「多すぎる。質的低下を招く恐れがある」との持論を述べており、一連の発言は今後論議を呼びそうだ。


引用終わり。

鳩山氏によれば、
「将来、国民700人に弁護士が1人いることになるが、それだけ弁護士が必要な訴訟国家になったら日本の文明は破滅する」そうです。鳩山氏は中西輝政氏の本でも読んでいたのかも知れませんが、こうした鳩山氏の認識に対する私の答えは、

「この程度で破滅するような日本文明は存在する価値がないから、一刻も早く破滅した方いい」ぐらいでしょうか。

この程度の人が法務大臣の職に就いているのですから、日本国民への法的意識のさらなる普及と充実は望むべくもないことがわかります。法律を一部の弁護士や裁判官、検事たちに階層的な独占を維持してゆくのではなく、法律をふつうの市民の生きる知恵や武器として、さらなる大衆化こそをはかるべきであると思います。「難関」の司法試験を突破してきたとされる、現在の裁判官や弁護士の多くが、どれほど市民的な常識から外れた見解を示しているかを知るなら、「専門化」がかならずしも、質の発展につながらないことがわかります。むしろ、奇形化し退化してゆくのではないでしょうか。

法律の門戸をさらに開放して、市民、国民がもっと手軽に使える法律にしてゆく必要があります。難解な専門的な用語もできる限りやさしくしてゆくべきです。

鳩山氏が心配するほど、国民はバカではありません。法律がより身近に民衆のものになったとしても、「何でも訴訟でやればいいという敵を作る文明」になったりはしません。法律が国民や市民にやさしくわかりやすくなって実現するのは、明るく公正な社会です。法律を一部の特権者の手にとどめておこうとするのは、あいまいで不正を見逃す暗黒の社会のままに日本をとどめておこうとすることです。

 

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