「薔薇の名前」ウンベルト・エーコ 例によって気になる箇所の抜書きを作成する。エックハルト、ショーペンハウエル、ウンベルト・エーコは書物の世界で語り合っている。<過ぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり> p383 そして「薔薇の名前」の意味がわかった気がする。龍樹の空観とも響き合っている。2019/06/17
①肉体的疲労と精神的緊張が極限に達すると、旧知の人間が幻想のうちに蘇ってきたりする不思議な瞬間がある。 P15
②自分が見たまま聞いたままを、言葉によって 繰り返し、そこから敢えて一つの意図だけを汲み上げようとはせずに、いわばやがて来る世の人々のために徴の徴として、いつの日か読み解かれんことを願いつつ、ここに書き残しておこう。 P23
③こうして1314年にフランクフルトで帝国最高の統治者にバイエルンのルートビッヒを選出した。・・・同じ玉座にオーストリアのフリードリッヒを選び出した。 P24
④その名はほかでもない。ヨハネス22世。天は2度と決して、善良な者たちにはかくも忌み嫌われた名前をいかなる教皇にも被せることのないように。 p24
⑤すると師は、宇宙のすばらしさは多様性のうちの統一性にあるばかりではなく、統一性のうちの多様性にもあるのだ、と答えた。 p31
⑥ロジャー・ベーコン、この方を師とも仰いでいるのだが、この巨匠の言葉によれば、神の意図はやがて聖なる自然の魔術すなわち機械の科学となって実現されてゆくであろうという。 P32
ロジャー・ベーコン 1214-1294 アリストテレスやアラブ圏の学問を研究、飛行機、蒸気汽船、光のスペクトラムなどを予想した。
⑦「偉大な一巻の書物にも似て、この世界が私たちに語りかけてくる痕跡を読み抜くこと P40
⑧以前にも何度か私は師が普遍概念に対して非常に懐疑的な話し方を、そして個々の事物に対しては非常な尊敬をもってかたるのを、耳にしたことがあった。 P48
⑨「犯罪行為については口にされながら、その原因である悪魔については、触れようとなさいませんね」
「・・・長い因果の鎖を遡るのは、天にも届く塔を建てようとするのにも似て、愚かな業だと思えてなりません」「神は・・・ 私たちの魂の内部から語りかけてきます」
縁と因果について述べている気がする。無限の縁から構成される因果は辿れない。
⑩こうしてわが師は明らかに彼の好みでない抽象的な議論をいとも鮮やかに打ち切ったのである」 P52
⑪よろしいですか、悪魔の存在を証明する唯一のもの、それはおそらく、そのような瞬間にあって、すべての人々が悪魔の仕業を知りたいと願っている熱烈さにこそあるのです P53
これは悪魔を神と言い換えても通用する。「カラマゾフの兄弟」のゾシマ長老の遺体が腐敗するシーンを思い出した。
⑫平和、愛、美徳、体制、権威、秩序、起源、生活、光、輝き、穀種、形象、等々をつなぎ合わせた強固な統合体として・・・地上と天上の花園を彩るすべての草木の散房花序が、菫、金雀児、麝香草、百合、水蝋草イボタノキ、水仙、未草、アカンサス、銭葵、没薬草、薄荷などが飾りつけられたのだった。 P72
散房(さんぼう)花序 (英語: cluster, corymb)主軸が短く、それより長い柄をもった花が間を詰めて生じるもの。サクラなど。 by wiki
麝香草 タイムの事
イボタノキ 樹皮上に寄生するイボタロウムシの分泌する「いぼた蝋」は蝋燭の原料や日本刀の手入れに用いる。材はきめが細かく楊枝などを作る。器具の柄などに用いる。薪炭材 by wiki
⑭それに精神の忘我の幻影と肉欲の罪の熱狂とは紙一重の差だから p96 フランチェスコ会の多くの者たちがふたたび往時の清貧へ修道会を立ちかえらせたいと思うようになった。 P83
⑮いや、むしろ目の中で。太陽の光線のなかで、鏡の映像のなかで、何ごともない事象のあちこちに拡散した色彩のなかで、濡れた葉に照り返す陽射しのなかで、光として感じとられる神・・・・・・そのようにして捉えた愛のほうが、被造物のうちに、花や草や水や風のうちに神を讃えた、フランチェスカに近いのではないか?この類の愛にはいかなる裏切りも潜んでいない。それに引き換え、肉体の触れあいのうちに感じた戦慄を、至高者との対話にすり変えてしまう愛は、わたしには好きになれない・・・・・・ p98
賛同できるか、できる気がする。神は細部に宿るの一つの見事な解釈ではないか。
⑯快楽以上に人間を興奮させるものが一つだけある。それは苦悶だ。 真っ赤に灼いた鉄を押し付ければ真実がつくり出せると思い込んでいる者たちの群れのなかに、わたしも入っていたときがあるから。・・・そうだ苦悶の欲望というのがあるのだ。・・・彼ら(悪人たち)の弱さが聖者たちの弱さと同じだと知ってしまったからには p100
⑰反キリストを打ち負かすためには、薬草の効能を調べたり、岩石の成り立ちを究めることが必要だ、と。それどころか、きみが嘲笑う空飛ぶ機械を考案したとき初めて、それに備えられるのだ、と。 p107
⑱人間が考えなければいけないことは、唯一つだけだ。この年になってやっとわかった、それは死だ。 p109
生と死だ。そう言い換えてもいいだろう。
⑲ウベルティーノと話していると、地獄というものは裏側から見た天国に過ぎないような気がしてくる p110
⑳姫酸葉の根は炎症に、立葵の根は皮膚病の湿布薬に、牛蒡は湿疹の治療に、伊吹虎尾は根や茎をすりつぶしてその粉を下痢や婦人病の治療に用います。
胡椒はすぐれた消化剤に、蕗蒲公英は咳に、竜胆は消化を、甘草や杜松、樹皮から肝臓の機能を助ける庭常、根が炎症に効く石鹸草、それに鹿の子草などが植えてあります。 p112
滴り落ちてくる光の粒があたりに散乱するさまは、まさに光に象どられた精神の原理<輝き クラリタース>を思わせ、・・・ p120
新しい時代の学者たちはしばしば、小人の肩に乗った小人にすぎないのだから。 p147
よいかアドソ、どうしても必要なとき以外には、説明の数や原因の数を殖やしてはならない。 p151
アリストテレースが「詩学」の第二部をとくに笑いのために充てた p178
たくさんの聖者たちが説いてきた事柄を、身をもって実践したばかりに、正気の沙汰でないことをしてしまった人間たちの物語だ。ある時点まで追い詰めていくと、どちらに非があるのか、わたしにはわからなくなってしまった。 p190
ところが笑いは、身体を揺らして、顔の形を歪め、人間を猿のごときものに変えてしまう。 p209
おわかりのように、パタリーニ派、カタリ派、ヨアキム主義者、厳格主義者、その他どのような類であれ、異端の掟と生活とは、大なり小なりこのようなものだったのです。驚くには当たりませんよ。最後の審判における死者の蘇りを信じないし、悪人を罰する地獄も信じませんでした。かれらはなにをしても罰せられないと考えていたのですから。 p240
聖戦もまた一つの聖戦です。それゆえ、聖戦などというものは、おそらく存在するはずがないでしょう。 p244
現代のアメリカ イラン問題を想起する。
「いったいなぜ、キリストは笑ったと、福音書は決していわないのですか?」・・・「キリストが笑ったかどうか、という疑問は、無数の人間たちが抱いてきた。そういう、問題に私はあまり興味を覚えない。きっと笑わなかっただろう p257
優れた審問官が最初になすべきは、最も誠実そうに見える者を疑うことなのだ p268
スパイ映画の定石。
彼の渇望した別種の世界とは、木々が密を滴らせ、チーズや香ばしい腸詰を実らせたりする、お伽の国のようなものであったという。 p299
真の敵があまりに強大なときには、それよりも手強くない敵を選ばなくてはならない、と私に答えた。 p305
現実には平信徒がいて、あとから異端がくるのだ。 p319
ある宗教団体を想起。
なぜかわからぬが、哲学者たちの記述は完璧であっても、実際にそのとおりに作動した試はない。それに引き換え、農夫の鎌は、いかなる哲学者にも記述された例はないが、つねに過ちなく切れるものだ p344
哲学よりも小説が「つねに過ちなく切れる」のかもしれない。
清貧を実践する修道士と言うのは、民衆に対して悪い見本になりやすいのだ。 p382
妻帯する僧侶のほうが自然体。
この世には不思議な知恵があって、本来はかけ離れた現象であるのに、同じ言葉を用いて命名することがある。 p399
そんな言葉があった気がするが思い出せない。
あの至福のなかで、私の全精神を忘却へと誘ったものは、たしかに永遠の太陽の発する輝きであった。p402
おまえの置かれた状況は荒野の師父さえも魂を失いかねないものであった。 p406
以下のページナンバーは下巻のものです。
朝鮮朝顔、ベッラドンナ、毒人参、 白色ヘレボルクス、ハクセン、黒色ヘレボルクス・・・P14
まえにも言ったように、あれは大掛かりな謝肉祭だった。そして謝肉祭にはすべてが逆さまになる。終わってみればわが身は老いていて、少しも賢くなっておらずに、意地だけが汚くなっていた。 P31
私は知性では彼女を罪業の火種であると心得ていたのに、感性ではあらゆる恩寵の隠れ家であるかの如くに捉えていた。 P39
まさに森羅万象が彼女のことを語りかけてくるみたいであり、そのなかにあって、私は願っていた。そう、今一度だけ、彼女に会いたい。 P40
すなわち全宇宙とは、ほとんど明確に、神の指で書かれた一巻の書物であり、・・・そのなかでは一切の被造物がほとんど文字であり、生と死を映す鏡であり、そのなかではまた一輪の薔薇でさえ私たちの地上の足取りに付された注解となるのだが、 P40
愛ハ、認識ソノモノヨリモ遥カニ強イ認識力トナル P42
そのときまで書物はみな、人間のことであれ神のことであれ、書物の外にある事柄について語るものとばかり思っていた。それがいまや、書物は書物について語る場合の珍しくないことが、それどころか書物同士で語りあっているみたいなことが、私にもわかった。 P52
ヨハネスの考えでは、どうやら、正義の人であっても最後の審判が下るまでは至福のお姿を享受できない、と主張するらしい。 P69
聖木曜日の夜のユダよりもさらに乱れた心で、ウィリアムに従って、晩餐のための大食堂に入っていった。 P84
キリスト教徒たちが学ぶべき科学の著作まで、怪物や虚偽の書物の間においてしまっている。 p99
非常に巧みに造り上げられた多数の蝋人形の中に、ほかならぬ教皇さまを象ったものがみつかり、その身体の急所のいくつかに赤い丸印がつけられていた。だれもがしるように、そういう蝋人形を糸で吊るして、鏡の前に置き、目印の急所を針でつくのだ・・・p122
キリストと使徒たちは所有したのではなく、使用したのであり、彼らの清貧は損なわれずに保たれた。 p138
清貧とは宮殿を所有するか所有しないかではなく、俗世の事物に法を定める権利を保持するか放棄するかを意味しているのだ p144
もしもキリストが聖職者たちに強制的な権力をもたせたいと願ったならば、モーセが古代の戒律をもってしたのと同様に、細かい規則を作ったであろうに。しかしそうはされなかった。 p160
わたしたちが焼き討ちをし、強奪をしたのは、普遍的な掟として清貧を掲げたからだ。わたしたちは他人が不当に蓄えた富を自分たちのものにする権利を持っていた。p207
「だが、何であれ、純粋というものはいつでもわたしに恐怖を覚えさせる」
「純粋さのなかでも何が、とりわけあなたに恐怖を抱かせるのですか?」
「性急な点だ」 p208
いったい私たちの誰に、断言できようか、正しかったのがヘクトールかそれともアキレウスか、アガメムノンかプリアモスか、いまでは灰の灰にすぎないひとりの女の美しさを求めて、彼らが争ったというのに? p219
気違いと子供は正しいことばかり言うものだ、アドソよ。p222
これも強烈だな。
この事件の流れのうちには、教皇ヨハネスと皇帝ルートビッヒの争いよりも、もっと重大な事件が潜んでいるのではないか、とかんがえているのだからだ・・・・・・禁じられた一巻の書物をめぐる事件、アドソよ、禁じられた一巻の書物をめぐる事件なのだ p222
ロジャー・ベーコンの知識への渇きは、欲望ではなかった。彼はあくまでも神の民を幸せにするために学問を利用したいと願ったから。それゆえ知のための知は追及しなかった。ベンチョのそれは、単に飽くことのない好奇心であり、知性の驕りであり、ひとりの修道僧が自分の肉体の欲望を宥めたり、その捌け口にするための手段の一つと、なんら変わるところがなかった。この世にあるのは肉体の欲望だけではない。ベルナール・ギーのそれも、やはり欲望だ。正義への歪んだ欲望であって、それは権力への欲望に同化される。 ・・・それは不毛な欲望であり、愛とは何の関係もないばかりか、肉欲の愛とさえもそれは関係のないものだ・・・ 真の愛とは愛される者の喜びを願うものだ p225
私が見た幻は、すべての幻が瞬時のものである如くに、わずかな祈りの言葉にも等しく、長続きするはずはなく、「怒りの日」の歌の長さほども続かなかったのだ。 p284
おまえは、以前から承知していた物語の枠組みのなかに、この数日間の出来事や人物たちを挿入したのだ。夢の大筋は、以前にどこかで読んだり、あるいはおさないころに学校や修道院で人から聞いたりした出来事なのだ。 p286
思うに、おまえの魂は、まどろんでいる間に、わたしがこの6日間に、しかも目覚めているあいだに、理解したのよりもはるかに多くの事柄を、理解したのだ p289
一場の夢は一巻の書物なのだ、そして書物の多くは夢にほかならない p289
これは「以前から承知していた物語の枠組みのなかに、この数日間の出来事や人物たちを挿入したのだ。夢の大筋は、以前にどこかで読んだり、あるいはおさないころに学校や修道院で人から聞いたりした出来事なのだ。 p286」と同じことを言っている。
アリストテレスは笑いを誘う傾向を、認識の価値さえ高める一つの善良な力と見なそうとしているのだ。なぜなら、辛辣な謎や、予期せぬ隠喩を介して、あたかも嘘をつくかのように、現実にあるものとは異なった事象を物語ることによって、実際には、それらの事象を正確に私たちに見つめさせ、そうか、本当はそうだったのか、それは知らなかった、と私たちに言わしめるからだ。この世界や人間たちを、現実の姿や、わたしたちがそうだと思い込んでいる姿よりも、悪しざまに描き出すことによって、明るみに出された真実。 p341
なぜ、数多ある書物のなかから、この一巻をあなたは守ろうとしたのか? なぜなら、あの哲学者が書いたものだからだ。あの人物の著した書物は、キリスト教が何世紀にもわたって蓄積した知恵の一部を破壊してきた。 p343
以前には空を見上げて泥にまみれた物質に眉をしかめたというのに、いまでは地上を見つめては地上の証明にもとづいて天上を信じるようになった。 p344
笑いは、束の間、農民に恐怖を忘れさせる。けれども掟は恐怖を介して律するのであり、その真の名前は神への畏怖だ。 p345
悪魔は物質界に君臨する者ではない。悪魔は精神の倨傲だ。微笑みのない信仰、決して疑惑に取りつかれることのない真実だ。 p350
微笑みのない信仰 うん確かにそうだ。
反キリストは、ほかならぬ敬虔の念から、神もしくは真実への過多な愛からやってくるのだ。あたかも、聖者から異端者が出たり、見者から魔性の人がでるように。 p370
邪悪な知能に長けたものの企みを追って、私はホルヘに辿りついたが、そこには何の企みもなかった。・・・・・・見せかけの秩序を追いながら、本来ならばこの宇宙に秩序など存在しないと思い知るべきであったのに p372
わたしたちの精神が想像する秩序とは、網のようなもの、あるいは梯子のようなもので、それを使ってなにものかを手に入れようとするのだ。しかし手に入れたあとでは、梯子は投げ捨てなければいけない。なぜなら役にはたったものの、それが無意味であったことを発見するからだ。 p372
ほどなくして、わが始まりの時と私は混ざり合うであろう。そしていまではもう信じていない、それがわが修道会の歴代の僧院長がといてきた栄光の神であるとも、あるいはあのころ小さき兄弟会士たちが信じていたような栄光の神であるとも、いや、おそらくはそれが慈愛の神であるとさえも。<神とはただの無なのだ。今も、この場所も、それを動かさないのだから・・・・・・> p383
さあ、この最後に近い文章でのアドソの独白 <神とはただの無なのだ>をどう読むのだろう。神は存在しないとの意だろうか。ローマ教会風の神は存在しないといっているのだろうか。あるいは龍樹の空観思想と同じ境地に達しているのか。
<過ぎにし薔薇はただ名前のみ、虚しきその名が今に残れり> p383
このフレーズはエックハルトと響き合う。
汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう エックハルト
エックハルト、ショーペンハウエル、ウンベルト・エーコは書物の世界で語り合っている。ショーペンハウエルは「仏陀、エックハルト、そしてこの私は、本質的には同じことを教えている」と述べている。
歴史は、ローマ教皇の名の下に、1808年までの300年間に、スペインで火炙りの刑に処せられた人の数が合計32,000人であったと報告する。(ハイム・バイナルト『裁かれるコンベルソ』エルサレム、1981)
「薔薇の名前」から麻生副総理の発言を
「薔薇の名前」 読書メモ
「薔薇の名前」下巻 読書メモ
「薔薇の名前」 <神はただの無なのだ> の意味は