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まさおレポート

司馬遼太郎の宗教観は孫正義氏の志に淵源において近しい

 

 

司馬遼太郎は「竜馬がゆく」の竜馬に自己のあらまほしき像を投影している。そして孫正義氏は若い時に読み竜馬と一体化しようとした。つまりは飛躍を恐れずに言えば司馬遼太郎の宗教観は孫正義氏の志に淵源において近しいのではないかとひそかに思っている。それでは司馬遼太郎の宗教観はいかなるものか。

司馬遼太郎「新潮45」1992年5月号 日本仏教小論~伝来から親鸞まで

において司馬遼太郎は本音を語っている。下記の引用には孫正義氏の宗教観いや志を理解するヒントが大いに含まれているように思う。どこがどう関連するのかはおいおい考えていくことにするがともかくメモしておくことにする。

日本仏教を語るについての私の資格はむろん僧侶でなく、信者であるということだけです。不熱心な信者で、死に臨んでは、伝統的な仏教儀式を拒否しようとも思っている信者です。プロテスタンティズムにおける無教会派の信徒と思って頂いていいと思っています。

大乗仏教は釈迦の仏教とは断絶したものです。ひょっとすると全く違ったものかも知れません。 

紀元前数百年のむかしに死んだとされる釈迦は、その偉大さが語り継がれただけで彼の思想の内容はよくわかっていないのです。ただ現世は一切空であるとし、その苦しみから抜け出す方法を説いた人であることは、たしかです。

釈迦にとっての最高の観念は、神ではなく空でした。その修行法は自ら空になることによって解脱しようとしました。

仏教という文明がさまよっているうちに変質したのです。その変質はインドの外域でおこりました。大乗仏教が誕生してしまったのです。 

大乗仏教の出発点でした。すぐれた人になるよりもいっそすぐれた人を拝もうというもので、釈迦の思想とは違った新思想が誕生したというべきでしょう。

大乗仏教におけるすぐれた人というのは、なまみの人間ではなく、真理そのものでした。真理、つまり空に一種の人格を与え、菩薩とか如来とかという名をつけ、それを讃え、人々はひれ伏したのです。

ひたすら鑽仰するという姿勢をとったのが十三世紀の日本の親鸞だと思います。 

この日本古代の形容詞は、単に金鍍金に驚いたということだけでなく、それ以上の内容を持っていました。

欽明天皇は宗教的感動を持ったというよりも、もっと初歩的な感動を持ったはずです。それまでの日本の人物彫刻というと゛埴輪゛のような素朴なものだけでした。

親鸞は二十年叡山で修業しました。ところが、少しも ゛善人゛になることなく ゛悪人゛のままでいるという自分を発見したのです。この発見が、日本文化の一部を変えたといえます。 解脱できる人などこの世にいるでしょうか。いるとすれば千万人に一人ぐらいではないでしょうか。仏教は天才のみにゆるされた法なのかもしれません。

当時の仏教は、凡庸な人間は地獄に堕ちるとされていました。親鸞の用語では、解脱が可能ではない生まれつきの人を、自分も含めて「悪人」と呼んだのです。仏教の基準からみての「出来そこないの人」という意味です。しかし人間が生物である限り、ほとんどの人間が悪人ではないでしょうか。

少なくとも親鸞は、自分にはできそうに無いと思いました。それほどに自分は ゛悪人゛だと思ったのです。 

そういう彼が数ある大乗教典の中で阿彌陀如来に関する三種類の教典(大無量寿経、観無量寿経、阿彌陀経)を読んだ時、「ただの人間」でも救われることを知ったのです。 

親鸞自身、そうは言ってませんが、彼の思想は「要するに人間は死ぬものだ。死ねば肉体から解放される。となるとそれが解脱ではないか」というものでしょう。 

さらには「人は死に対して感謝せよ」ということを別な表現で言ったような気がします。私の勝手な解釈でいえば、親鸞のいうことは、大きな空(くう)からみれば「生も死も無い」ということでしょう。 

 ゛生とは単にそのことに囚われているいるだけだ゛

と親鸞は見たのでしょう。 

親鸞は空を大いなる光明と見たのです。それに包まれていることにひたすら感謝し歓喜したいと親鸞は願いました。

あるいはそうあるべく彼は努力しました。親鸞は、あらゆる迷信や礼拝形式~カルト~を排しました。このあたり、親鸞は十三世紀の人でなく、近代の人のようにも見えます。

さらに、自分の教義についても秘儀を排し゛自分が文字で表現したこと以外に、隠されたことはいっさい無い゛としました。

阿彌陀如来は空の別名であって、つまりは数学上のゼロの別名です。阿彌陀如来は空というものの表札にすぎないのです。 

紀元一世紀から二、三世紀にかけてインドの方で発生した大乗仏教は、もっとも純粋で、もっとも本質的な形で十三世紀の親鸞において最も鋭く単純化され、再生したと私は思っています。 

禅もまた釈迦の原始仏教以来、プラチナのように光る法統を継いでいるものですが、私に限って言えば禅の持つような、超人的な精神力の分野は、どうも苦手です。

絶対というものは、私ども相対世界に生きている者から見れば存在しないものです。もしそれが虚構であるとすれば、神(God)も虚構です。 

Godが大文字であるように、いわば大文字の虚構を中心に据えて叙述の糸を巻いてゆくという~つまりその作家の神学的世界を創る~という欧米の近代文学は日本がそれを受容しようとしても容易なことではありませんでした。

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