まさおレポート

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「正体」 司法の限界と松本清張のアリバイのないこと

2024-12-14 | 映画 絵画・写真作品含む

Netflixで「正体」を観た。殺人犯で勾留中に逃亡する主人公の運命が、司法と社会の無慈悲な網に絡め取られながらも助ける人の手で無罪を勝ち取る物語だった。

何が真実なのか、誰が信じられるのか。観終わった後、頭に浮かんだのは松本清張の作品で記憶に残っていた内容だった。街角で遭遇するかもしれない殺人現場に居合わせ、アリバイが誰も証明できない恐ろしさをエッセイ風に書いていた。

彼の描く世界もまた、疑いが絡み合い、人間の弱さと社会の冷酷さが錯綜する。「正体」は、かつての清張の小説が現代に蘇ったかのようだった。

「正体」の主人公は、無実を証明するために逃げる。現代では自ら無実を証明できなければ誰も助けてくれず冤罪のまま埋もれていく。その恐怖は計り知れず大方は諦めの心境になる。

彼は逃げることで証明を試みる。状況証拠だけでも裁判は進み、彼の場合は認知症の目撃証言が決定的な証拠となる。

「正体」もまた疑われることの怖さを強く訴える物語だった。

「正体」を観ながら感じたのは、人が人を裁くことの不確かさだ。司法制度は、冷静で公正な判断を理想とするが、実際の裁判では感情的な判断や状況証拠の解釈が大きな影響を与える。疑わしいから罰する、という姿勢は、松本清張の物語に限らず袴田事件で悲劇を生んできた。

「正体」では司法という巨大な機構に対する無力感を象徴している。疑われたら最後という現実は、清張が何度も描いたテーマだ。「疑い」は人間の持つ本能的な感情であり、それが社会の目を通じて増幅される様子は、清張の世界とダブる。

「正体」を観ながら考えたのは、日本の裁判員制度だ。市民が裁判に参加するこの制度は、理想的には公平な判断を導く仕組みだが、人の持つ偏見や不安定な感情を排除することはできない。

裁判員は法の専門家ではないため、証拠の評価や証言の真偽を見極めるのは難しい。加えて、日本では検察側の証拠開示が義務化されていないため、偏った情報の中で判断しなければならない危険がある。「正体」を観ていて、裁判員が直面する不安とプレッシャーが頭をよぎった。

松本清張の物語では、誤った判断が悲劇を生むことがよく描かれる。疑いが疑いを呼び、真実が見えなくなる展開は、裁判員制度が抱える潜在的な不安と通じる部分がある。

「正体」を観ることで、司法制度の持つ構造的な問題が明確に浮かび上がった。人間の不確かさ、疑いの増幅、社会の偏見。これらはすべて、物語を観た後に心に残る重いテーマだ。

松本清張が小説で描いた疑いの連鎖と、「正体」が映し出した逃れられない社会の落とし穴。そして認知症の家族の証言を疑いもなく採用して有罪に持っていくその重なりが深く胸に響いた。

映画やドラマが持つ力は、エンターテインメントとして楽しむだけではなく、社会の問題を鋭く照らし出しときに巨大な司法制度に反省を生む力となる。現代では唯一最大の力ではないか。どうも最近同じような冤罪を扱った映画を見る機会が多い。

昨日は紀州のドンファン事件で被告に無罪判決が出ていた。覚醒剤殺人容疑が証拠不十分で無罪となった。どこかで最近の日本人の思潮が潜在的に影響したのかなとふと思ったが。

「正体」を観て考えたのは、司法の問題は他人事ではないという切実さだ。

少しでも改善策はあるのだろうか。これもやはり映画からの知識だが米国では囚人が頻繁に刑務所内の公衆電話で外部と連絡をとっている。大抵は順番待ちで、しかも多くはマフィアの連絡手段であるが、それでも憲法で保障された発言権がしっかり確保されている。どんな凶悪犯罪者にも人権が確保されている気がする。日本はこの点は一罰百戒の伝統で改善の余地がある。この公衆電話設置から始めてみてはどうだろう。


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