まさおレポート

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ベトナム紀行 4 メコンデルタ

2024-09-30 | 紀行 シンガポール・マレーシア・カンボジア・タイ・ベトナム・中国・韓国

ダナン周辺には、かつてのフランス植民地時代やベトナム戦争の名残である要塞や砲台跡が点在して残っている。

ハイヴァン峠(Hai Van Pass)にある砲台跡。ハイヴァン峠は、ベトナム中部にあるダナンとフエを結ぶ山岳地帯の峠で、標高500メートル以上の高さに位置している。

ベトナムは19世紀末から20世紀半ばまでフランスの植民地であり、フランス軍はこの地域の防衛を強化するために砲台や要塞を建設した。ハイヴァン峠は、北ベトナムと南ベトナムをつなぐ重要な交通路であり、戦略的な防衛地点として利用された。

1960年代から70年代にかけてのベトナム戦争でも、ハイヴァン峠は重要な軍事拠点となり、南ベトナム軍とアメリカ軍によって利用された。峠の砲台やトーチカは、敵の動きを監視し、ダナンの港を防衛するために使用された。

写真に見られる砲台跡は、コンクリート製の堅牢な構造物であり、狭い窓や射撃用の隙間からは、周囲の山岳地帯や海を監視し、敵の進行を防ぐための砲撃が行われていた。

ハイヴァン峠は非常に視界が広がる地点であり、ダナン湾や南シナ海を一望できる。峠に設置された砲台からは、海上や陸上の動きを遠くまで見渡すことができ、戦略的に重要だった。ハイヴァン峠は標高が高く、天候が変わりやすいため、霧が発生しやすい。

ベトナム戦争の激戦地ダナンの丘にあった見張り台。かつて毎日のように新聞報道でダナンの名前を聞いた。ぺんぺん草が現在の平和を象徴する。この砲台跡でガイド君の父は元北ベトナム軍の軍人だったと話してくれた。

ベトナムのダナンはベトナム戦争当時の激戦地で、峠を越えるところに壕が残っていた。古い銃台はフランスとの戦いに使用されたもの、比較的新しい方はベトナム戦争当時のものだ。いずれも過去の遺跡と化している。

ベトナム戦争は18歳の時にはじまり、28歳の時に終わった。毎日の新聞にはサイゴンやダナンなどの地名と戦闘状況が大きく伝えられていた。それらの地名は頭のなかに焼き付いて残っていた。

10年以上前にバリに行った折に小さな宿に泊まり、いくつか離れた部屋の米国人の男と親しくなった。テラスでリンゴを食べていたら目が合って何気ない話をした。その後、一人旅同志のこともあり、毎晩のように宿のレストランの同じテーブルで飯を食った。

その宿は一風変わった白人のたまり場で、夜な夜な泥酔してはテーブルに飛び乗り踊り狂う男がいたり、突然深夜に猛烈な痴話喧嘩を始めるカップルなどがいた。その宿でタイソンが相手の耳を噛みちぎったシーンのTV中継にに出くわしたが全員興奮していた。そのなかで別世界にいるように静かな彼のたたずまいは印象的であった。
彼は私と同じ年で、ベトナム戦争に従軍していた。その後奨学金で大学を出て東部海岸の街でエンジニアとして働いてきたが、間もなく年金がでるので引退すると言っていた。元従軍兵士には40代後半にも年金がでるらしい。物静かな男で、従軍の影響だろうかややペシミスティックな雰囲気を漂わせていた。よく引き締まった体をしていたが、食事は極めて小食で白米とスープ程度で毎晩済ませていた。


彼がある日旅支度をしているのでどこに行くのかと尋ねると、この宿を基点にベトナムに行くという。ベトナムは大層美しい国で自転車で回るとのことであった。言葉に出さなかったが激戦の跡の平和な状況を見たいのだなと納得した。地獄を見たに違いないこの男はどのような感慨をもってベトナムを回るのだろうと興味深かった。しかし気軽に聞くには重すぎて気がひけた。

その時からいつかベトナムに行ってみたいと考えていたが、2006年の3月にようやく実現した。ハロン湾やメコン川の自然も楽しんだがベトナムと言えばベトナム戦争の記憶は強烈で、サイゴン市改めホーチミン市の戦争博物館は当時の有様を彷彿とさせる写真やホルマリン漬けのシャム双生児なども見た。
だがこのダナンの壕跡はさりげなく残っているだけに一層戦争をリアルに感じた。ベトナム人のガイド氏は敬虔な仏教徒だが、その壕跡で、「私の父は南の兵士だった」と小さい声で言った。今は静かに暮らしているとのことであった。この小さな峠に溢れるほどの歴史が詰まっていた。

グエン朝の陵墓は、風水の原則に基づいて設計されており、自然との調和が非常に重要視された。庭園は風水的に「良い気」が流れる場所として設計されている。

庭園内の橋は、物理的な水の上を渡るだけでなく、現世と来世を結ぶ橋とも解釈される。ベトナムの霊的な信仰や伝統に根ざしたもの。

この写真には、庭園と小さな橋が映っており、樹木や竹が豊かに茂り、皇帝たちが享受した自然の美しさを反映している。

ベトナムのフエ(Huế)にあるグエン王朝の皇帝廟(陵墓)。写真に写っている建物は、ベトナムの伝統的な屋根の形状を持ち、木材とレンガを用いた建築。池の上に建てられているこのような建物は、しばしば休憩所や瞑想の場として使用される。

ベトナムのフエにある明命帝廟(Lăng Minh Mạng)入口となる門。明命帝(在位:1820年-1841年)は、グエン朝の第2代皇帝であり、その統治時代は中央集権的な統治体制を強化し、儒教を国の基本的な思想とした。

明命帝廟は、フエ市から約12キロ離れた場所に位置しており、香水川(Sông Hương)の西岸に広がっている。

この廟は、1839年から1841年にかけて建設されベトナム建築の最高峰とされる霊廟の一つで、儒教、道教、仏教の要素が融合されている。

この門は明命帝廟の大廟門(Đại Thánh Môn)

明命帝廟全体は、ベトナムの儒教的価値観を象徴している。皇帝は国家の中心であり、彼の死後もその権威は霊廟を通して示されるべきと考えられていた。霊廟は、皇帝の功績を称え、彼が安らかに眠るための場として建設されたものであり、特に彼が重んじた儒教の家族崇拝や祖先崇拝の精神が反映されているとか。

明命帝廟の建築には、風水の要素が大きく反映されている。香水川は霊廟の東側を流れており、山々が背後に控えているため、風水的に理想的な場所に建てられている。こうした配置により、皇帝が死後も天命を受け、永遠に平和な世界に安住できるとされている。

ベトナムの明命帝廟(ミンマン帝廟)の五重塔は、明命帝の霊を慰めるための宗教的な建造物で、儒教や仏教の影響を受けた伝統的な建築様式。

多層構造で各層は、八角形であり屋根の四隅には伝統的な装飾瓦が。

五重構造は上へ行くほど小さくなるピラミッド型のスタイルで築かれ天へと魂が昇ることを表しているとか。

屋根は曲線を描き、端に向かって反り上がっている。屋根の端には龍などの彫刻が施されている。

東アジア文化において龍は皇帝の象徴で、塔の屋根の端にある龍の装飾は、皇帝の力と威厳を表現している。

鳳凰は美しさと平和を象徴し、皇后や女性的な力の象徴でもある。龍と鳳凰の組み合わせは、天と地、男性と女性、陰と陽の調和を意味し建築物全体のバランスを表現している。

明命帝廟やその中の建物は、ユネスコの世界遺産としても登録されており、ベトナムの文化的、歴史的遺産として重要な役割を果たしている。

ベトナムのフエ市にあるフエ川(別名:香江、Perfume River)沿いの景色。

フエ市を流れるフエ川は、地元では「香江(こうこう、Perfume River)」としても知られ水に漂う花の香りに由来している。川の両岸には多くの観光スポットが広がり、遊覧船に乗って歴史的な遺産を巡る。

龍の頭がついた観光船はドラゴンボートと呼ばれ、香江を巡るクルーズに使われている。観光客はこれらの船で、グエン朝の皇帝廟や天姥寺を訪れる。

写真の奥には、川を横断するトゥーンティエン橋が。1899年にフランスの建築家ギュスターヴ・エッフェルの設計で建てられた。

この写真の男性は籾殻(もみがら)を船から運び出している。籾殻は、稲作が盛んな地域で大量に発生する副産物でメコン川デルタの地域では籾殻が燃料や肥料、時には建材としても幅広く再利用されている。

ここでは籾殻は、乾燥させると燃えやすく、安価な燃料として利用でき地域の小規模なレンガ窯で頻繁に使用され、燃焼後に残る灰は、土壌改良材として利用できるため、環境にも優しい循環型の資源利用が可能。

  メコン川デルタのような地域では、川沿いの粘土が使われることが多い。 成形されたレンガは太陽光で自然乾燥させる。

乾燥したレンガを窯に積み上げ、その下部に燃料として籾殻を敷き詰め、レンガを数日間かけて焼き上げる。

籾殻。

写真は、メコン川デルタ地域にある小規模な工場。この工場では、木材の加工が行われている。

トタン屋根と開放型の作業スペースは、暑く湿度の高いメコンデルタの気候に合っている。メコン川デルタ地域では、農業と並んで木材加工や家具製造も盛んな産業の一つ。  

メコン川は、物資の輸送に重要な役割を果たしており、大きな木材や加工された製品が船で運ばれることが多い。

写真に写っている船は、貨物船として使用され木材や農産物、製品などを積んで他の場所へ運ぶために使用されている。

メコンデルタは、豊かな自然環境に恵まれているが、近年では工場の増加に伴い、環境への影響が懸念されている。特に、工場排水や廃棄物の処理が問題となることがある。

環境保護の観点から、持続可能な生産方法や廃棄物の適切な処理が求められている。メコンデルタ地域では、環境に配慮した生産活動を進める取り組みも行われており、この工場でもそのような取り組みが進められているかもしれない。

ベトナムのメコンデルタ地域で行われているライスペーパー(bánh tráng、バイン・トラン)の製造過程を捉えたもの。ライスペーパーは、ベトナム料理に欠かせない食品で、生春巻きや揚げ春巻きに使われる他、他の料理にも幅広く使用される。

最初に、米を水に浸し、細かく砕いて米粉を作り水を加えて液状の生地を作る。

写真の女性が行っている作業は、ライスペーパーを蒸し器で薄く伸ばしながら蒸しているところ。円形の布の上に薄く広げた米粉の生地を蒸すことで、ライスペーパーが。蒸し上がった後は、写真のように竹製の網の上に広げて自然乾燥させる。メコンデルタの温暖で湿度が高い気候を利用して、風通しの良い場所で乾燥させることで、ライスペーパーが固まる。

ライスペーパーの製造には、多くの工程が手作業で行われており、特に蒸す作業や乾燥工程には高度な技術が必要だ。

ハロン湾(Ha Long Bay)の景観。ハロン湾は、ベトナム北部のトンキン湾に広がる観光地で、石灰岩の奇岩や小島が点在する。

ハロン湾はユネスコ世界遺産に登録され湾内には、約1,600もの小さな島々と石灰岩の奇岩が立ち並ぶ。「ハロン(Ha Long)」は「降竜」を意味し、龍が海に降り立ち、その尾で海をかき混ぜたことで、無数の島や岩ができたという伝説がある。ハロン湾の石灰岩は、古代の海底から隆起したもので、数千年の間に風や波によって削られてできたもの。そのため、島々や奇岩には洞窟や崖、入り江などの多様な地形が見られる。

ハロン湾はベトナム北部のトンキン湾に位置し、面積は約1,500平方キロメートルにも及ぶ。

写真に見られる伝統的な帆を持つ船は、ベトナムの伝統的なジャンク船。ジャンク船は木製で作られておりハロン湾内を巡るクルーズツアーで使用されている。

ハロン湾内を巡るクルーズツアーで食べた見事な蟹。

これが船室で狭い部屋に狭いベッドが二つ並ぶ。ここで一泊して早朝の風景を楽しむ。

ハロン湾に面したローカル料理のレストランで。小さなレストランだが人気店で来客で賑わっていた。窓などフランス風に洗練されたベトナムのインテリアが楽しい。

 

ベトナムの南部に位置するホーチミン市(旧称:サイゴン)。ホーチミン市は、メコン川デルタ地域の主要都市であり、ベトナム最大の都市でメコン川流域の都市として、ホーチミン市はベトナムの経済、商業、文化の中心地となっている。

人口は約900万人を超え、国内外のビジネスや観光の拠点として繁栄している。ホーチミン市は、19世紀のフランス植民地時代から発展し、現在もフランスの影響を受けた建築物が多く残っている。

ホーチミン市は、かつて「サイゴン」として知られており、ベトナム戦争中には南ベトナムの首都。1975年のサイゴン陥落後、都市の名前は北ベトナムの指導者であるホー・チ・ミンにちなんで「ホーチミン市」と改称されたが、現在も多くの人々が旧称「サイゴン」を日常的に使っている。

写真は、ベトナムの都市部で、自転車に乗っているアオザイ(Áo dài)を着た女性たちを捉えたもの。アオザイは、ベトナムの伝統的な民族衣装であり、現代においても女性のフォーマルな服装として広く着用されている。白いアオザイは、学生の制服として使用されている。

アオザイは長い丈のチュニックとパンツの組み合わせで柔らかいシルクやコットンなどの素材で作られ、体にフィットするデザインが特徴。上品で優雅なスタイルを持ち、女性らしさを引き立てる服装として知られている。

アオザイは腰から下にかけてはスリットが入っているため、動きやすく、日常やフォーマルの両方で使用される。学校の制服として白いアオザイを着用することは、ベトナムの伝統であり、現在でも多くの女子学生が着用している。

女性がボートに乗って商品を運んでいる。かごに入った果物や直に置かれたマンゴーが市場で売買される。女性がかぶっているのはノンラー(ベトナムの円錐形の帽子)。

写真には、果物を吊るしている棒が写っている。これはカイサンバオと呼ばれ、市場で自分が何を販売しているかを示している。ボートでの移動が基本となる水上市場では、このように棒の先に商品を吊るすことで、遠くからでも何が売られているかが一目でわかるようになっている。

写真にはレビン市場(Chợ Lê Bình)が。水上市場は、川沿いにある陸上の市場と連携して運営されており、ボートで運ばれた商品が陸上市場でも取引される。

 

 

 

ホーチミン市の統一会堂。かつてベトナム戦争の際には南ベトナム軍の司令塔であり、その後米軍撤退の後北ベトナムに占拠された歴史を持つ。1976年に、共産主義の統一国家であるベトナム社会主義共和国が成立した後に「統一会堂」と改名された。現在は南ベトナム大統領府当時のままで保存され、事実上の博物館として一般公開されている。

統一会堂の地下にある当時の無線装置が記念品として保存されている。無線機は立派な兵器だと再認識を。

ホーチミン市で立派な石造建築を発見。サイゴン大聖堂でフランス領時代に1863年から1880年かけて建設された。ネオゴチック様式とされている。意図しないフランスの文化戦略が無言であるが強く語り掛けてくる。サイゴン中央郵便局の隣にある。

これはサイゴン中央郵便局でやはりフランス植民地時代のもの。こうして立派な建築をみると郵便局と言うのは当時の植民地行政の中心であることがわかる。日本の電話局や郵便局がここまで立派であったことはない。

郵便局の中の公衆電話ボックスだが、これまた美術品のような石で出来ている。恐らく世界で最もゴージャスな公衆電話ボックスではないかと思う。

サイゴン中央郵便局内部はこのまま美術館になってもおかしくないほど見事なもの。郵便業務のほかに金融機関も入っている。

フランスのオルセー美術館はかつて駅舎でありそれをモデルに1891年に作られたとある。仏領インドシナの郵政、通信の中心地であったという。この建物の鉄骨部分はエッフェル氏が設計したとある。すべてのインテリアが年代物でしかもクオリティーが高いので数世紀経ってもびくともしていない。

戦争博物館でみた沢田 教一氏のピュリッツア受賞作品。この館ではトラの檻と呼ばれる獄をみる。敵の捕虜は腰までしかない高さの折に閉じ込められ、暗闇のなかでほとんどが亡くなったという。

「ライカでグッドバイ」青木冨貴子 には沢田の戦場カメラマンぶりが描かれている。無名のカメラマンが一躍世界的カメラマンになるには戦場以外にない。そして戦場へと向かわせる中毒性が描かれている。沢田は後藤健二氏とかぶさってくる。

沢田 教一(さわだ きょういち、1936年2月22日 - 1970年10月28日)は、青森県出身のフォトジャーナリスト。ベトナム戦争を撮影した『安全への逃避』(FREE TO SAFETY)でハーグ第9回世界報道写真コンテスト大賞、アメリカ海外記者クラブ賞、ピューリッツァー賞受賞。日本人としては2人目。5年後、カンボジア戦線を取材中に狙撃され、34歳で亡くなる。ロバート・キャパを尊敬していた。死後、ロバート・キャパ賞受賞。(wikiより引用) 

 


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