18年前のアンコールワット紀行を回想した。なお、アンコールワットとアンコールトムをひとまとめにしてアンコールワット紀行としている。アンコールワットは寺院でアンコールトムは王宮の意だ。
アンコール朝の中興の祖ジャヤーヴァルマン7世がチャンパに対する戦勝を記念して12世紀末ごろから造成に着手した。石の積み方や材質が違うことなどから、多くの王によって徐々に建設されていったものであると。建造物部分に仏像を取り除こうとした形跡や、ヒンドゥの神像があることから大乗寺院が後にヒンドゥー化したと考えられる。1933年の調査によって、中央祠堂からブッダの像が発見された。
昭和45年11月25日、この日に三島由紀夫は自衛隊にクーデターを呼びかけ、生命尊重以上の価値の所在を見せてやると切腹した。それほどたくさん読んでいたわけではないが何点か三島の著作を読んでいた私はこの日調布に有る電電公社・中央学園の寮でこのニュースを聞いてショックを受けた。夕食後のラジオで聞いた。その後の大方の評論はこの事件を茶番として片付けていた。私も一応そのように理解して片付けていたがその後いつまでも心に残る事件となった。
「核停条約は不平等条約の再現であり、自衛隊は真の自主的軍隊として、本土の防衛責任を自覚せねば、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵と化するであろう」
当時いかにも現実離れのしたこのような言葉は、人の心を読むのが生業である小説家の彼自身、ひとびとにそう受けとめられるだろうと認識していたに違いない。しかし今日は現実感を持って迫ってきている。
かつて芦屋の古書店で散歩の途中、『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』の『豊饒の海』全4巻初版本を安い給料の中から買い揃えた。こうした古書収集趣味の無い私がこうした古書をしかも初版本を購入するなど後にも先にも例がない。三島由紀夫の自死事件が影響していたのだ。
20代の後半だったか、春の雪をこの初版本で読んでみたが、不思議な感興を覚えたのみでさして深い理解は得られなかった。
さらに30年後にタイに散骨の旅に出かけたときにも読み直してみたのだが今ひとつピンと来なかった。一言で言うと面白みはわかるが現実離れしすぎて深くは入って行けずに終わった。
60代の後半に至りショーペンハウアーの「意志と表象としての世界」を読んで、彼の言うところの「意志」に出会い、その意志を巡ってさらに唯識論にまで及び、そこからの連想でこの小説4部作『豊饒の海』を思い出した。再読はしていないが以下の「思い出しメモ」は当時より多少理解が進んだことを示しているだろうか。
さてこの作品をどのように理解するのか。小説そのものからの理解が最も大事なのだろうがなかなかわかりにくい。一つのヒントは「ライ王のテラス」の舞台になったカンボジアのアンコール・トムで、ここは2006年に訪れていてその偉観に接しているのでピンとくるものが有る。この「ライ王のテラス」のテーマを軸に転生の物語を描いたのが三島の自死だと考えた。
転生は浜松中納言物語から着想を得たという。
唯識
4巻を通じての語り部である老いた本多は門跡となった聡子に逢う。八十三才の老尼は、「松江清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしやらなかつたのと違ひますか」「それなら勲もゐなかつたことになる。ジン・ジャンもゐなかつたことになる。……その上、ひよつとしたら、この私ですらも」と本多「それも心々ですさかい」。
この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる……
『豊饒の海』完 昭和四十五年十一月二十五日
アンコール・トム
『癩王のテラス』〈熱帯の日の下に黙然と坐してゐる若き癩王の美しい彫像を見たときから、私の心の中で、この戯曲の構想はたちまち成つた〉
肉体の崩壊と共に、大伽藍が完成してゆくといふ、そのおそろしい対照が、あたかも自分の全存在を芸術作品に移譲して滅びてゆく芸術家の人生の比喩のやうに思はれたのである。生がすべて滅び、バイヨンのやうな無上の奇怪な芸術作品が、圧倒的な太陽の下に、静寂をきはめて存続してゐるアンコール・トムを訪れたとき、人は芸術作品といふものの、或る超人的な永生のいやらしさを思はずにはゐられない。壮麗であり又不気味であり、きはめて崇高であるが、同時に、嘔吐を催されるやうなものがそこにあつた。
カンボジアのバイヨン寺院のことを、かつて「癩王のテラス」といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした。
三島由紀夫「清水文雄宛て書簡」(昭和45年11月17日付)
「頭上華は悉く萎み、内的な空虚が急に水位を増して……身体と精神の一番奥底で、まだたき続けてゐた火が今消えたのである。もはや腐敗がどこかではじまつてゐる気配を嗅いだ。遠い空を染める水あさぎ色の腐敗」を浄化するためだと思われる。
絶対
若きジャヤ・ヴァルマン七世王は、「絶対」にしか惹かれぬ不幸な心性を持つてゐた、といふのが、私の設定である。すなはちこの芝居は、癩病の芝居ではなくて「絶対病」の芝居なのである。
絶対の愛としての蛇神の娘、絶対の信仰としてのバイヨン、この二つのものだけが、王にとっては地上で必要だった。絶対の愛は地上の女(第一夫人)の嫉視を呼び、さらに第二夫人の貞淑によつて柔らかに模倣され、硬軟両様の方法で邪魔されるが、つひに第一夫人の死によつて、地上の愛に犯されてしまふ。一方、絶対の信仰としてのバイヨン建立は、地上の政治により経済により邪魔されるが、それがあらゆる障害を払つて完成されたとき、王はもはや自分の目でそれを見ることはできないのである。
「絶対の病気」としての癩が、「絶対病」に犯された王の精神を、完全に体現したのである。最終的に癒やすものは、永遠不朽の美としての肉体の復元のほかにありえないからである。
時間がジャンプし、個別の時間が個別の物語を形づくり、しかも全体が大きな円環をなすものがほしかつた。幸ひにして私は日本人であり、幸ひにして輪廻の思想は身近にあつた。
三島由紀夫「豊饒の海について」
醜悪
生がすべて滅び、バイヨンのやうな無上の奇怪な芸術作品が、圧倒的な太陽の下に、静寂をきはめて存続してゐるアンコール・トムを訪れたとき、人は芸術作品といふものの、或る超人的な永生のいやらしさを思はずにはゐられない。壮麗であり又不気味であり、きはめて崇高であるが、同時に、嘔吐を催されるやうなものがそこにあつた。
三島は、〈もつとも忌はしいものは時として神聖さに結びつき、もつとも悲惨なものは時として高貴と豪奢に結びつく〉〈ミクロコスモスの全体性の実験〉は『サド侯爵夫人』や『わが友ヒットラー』で試みたので、『癩王のテラス』では〈マクロコスモスの全体性〉を実験したとしている
「豊饒の月」完 昭和四十五年十一月二十五日 この日に三島は自衛隊にクーデターを呼びかけ、「生命尊重以上の価値の所在を見せてやる」と切腹した。自らの首が床に転がっているということの醜悪さは十分に理解した上での自死であった。
価値を体現しようとした試みは未だ50年に足らず、歴史の評価を受けるには短すぎるのだが。「真実のことばの力によって彼岸に渡った」これが一つの大きなヒントとなった。仏教、神道を融合した、唯識的なところに言葉の、文学の価値を見出し、命を賭けてその真実のことばの力、価値を体現しようとした作家と言えよう。
四面の顔は、それぞれ異なる方向を向いており、全世界を見守るとされ、四面は「慈」「悲」「喜」「捨」という四徳(四無量心)をあらわしているとも。
バイヨン寺院は、三層からなる構造を持ち、最上層に多くの四面仏塔が立ち並んでいます。塔の数はもともと49基だったと言われているが、現在残っているのは37基。それぞれの塔の高さは異なり、複雑で神秘的な空間を作り出している。
バイヨン寺院は元々仏教寺院として建立されたが、ヒンドゥ教の影響も強く、仏教とヒンドゥ教の要素が融合した独特の宗教空間が形成されている。
扉の両脇に彫られている像は、「アプサラ」と呼ばれる天女の像。 この写真に見られる建物の門や柱には、細かな模様が施されている。石材には気候の影響で石の表面にコケやカビが付着し長い年月を経て自然と風化した。
写真の中央に見える開口部は、寺院内部への入り口でバイヨン寺院は多層構造を持ち、内部には複数の回廊や祠堂が設けられている。内部はかつて仏像や神像が安置され、ジャヤヴァルマン7世によって仏教の信仰が強調された空間となっていた。
わたしが立っているのは比較的低い門で、かつては仏教やヒンドゥー教の信仰のための参拝者や僧侶が通過した。門自体は非常に狭い。写真の左側には、他の扉の部分が写っており、そこにも精巧な彫刻が施されている。
この写真には精巧に彫られたアプサラ(天女)像が描かれている。この彫刻はクメール美術の代表的なモチーフの一つで、クメール帝国時代の高度な彫刻技術を示す。
写っているのは、2体のアプサラ像でヒンドゥ教や仏教の神話に登場する舞踏の神女で彼女たちは天界で踊りを披露する存在として知られている。アプサラが優雅なポーズで踊り、その手の位置や身体の曲線が非常に繊細に表現されている。
アプサラは天界の存在であり、寺院を訪れる者に対する祝福や保護を象徴している。
この写真は、バイヨン寺院の内部の通路や回廊を捉え、石造りの門が連続して並んでいる。門の向こうにはいくつもの層や階段が見え、寺院内部の複雑な構造を示している。クメール建築では、こうした多層構造がよく見られ、複雑な空間を形成し門の先に向かって進むごとに神聖な領域に近づく。
左右の柱には、アプサラ(天女)の優雅な姿が。
この写真の中央に見えるアーチ部分は、バイヨン寺院の入口で、寺院内部の部屋や回廊への通路として機能していますが、その構造には独特のクメール建築の技術と宗教的な意味が込められている。
クメール様式のアーチは、石を水平に積み上げ、重力によって自然にアーチの形を成すコーベルアーチ(持ち送りアーチ)と呼ばれるものが一般的でこのアーチもコーベルアーチの一例であり、石材を丁寧に積み上げた結果としてアーチが形成されている。
アーチの上部や周囲には風化が進んでいるものの、細かな彫刻が施されています。アンコール遺跡群全体に共通するように、この彫刻はヒンドゥー教と仏教のモチーフが混在している。
このアーチは、寺院の内部の神聖な空間への最初の通過点であり、精神的な浄化と覚醒への導きの門とされている。
バイヨン寺院にある浮彫の一部で、クメール王朝時代の戦闘シーンを描いている。クメール兵士たちが戦いに参加している様子が彫り込まれている。彼らは盾や槍、弓矢といった武器を手にしており、集団で一方向を向いて進んでいる。
戦士たちは、クメール王朝時代の典型的な装束、頭に冠のようなものをかぶり、武器を手にしている。彫刻は戦士たちが実際に着ていた服や防具を正確に反映していると言われている。
戦士たちは槍を突き立てる姿勢を取っており、武器が交錯し、敵と激しく戦っている様子が伝わってくる。
この場面は、クメール帝国とチャンパ王国(現在のベトナム中部にあった国家)との戦闘を描いている可能性がある。
浮彫の技術は精巧で、戦士たちの姿勢や武器の細部までが細かく描かれ顔の表情や筋肉の動きまでが彫り込まれている。
戦闘のシーンを詳細に表現している。象や馬に乗った兵士たち、歩兵、そして後方で指揮を執る将軍と思われる人物が。
彫刻の中央には、大きな象に乗った戦士が描かれている。象はクメール軍における重要な戦力であり、戦争において攻撃と防御の両面で役割を果たしていた。象に乗る戦士は、王族や高位の武将で彼らが戦場で重要な指揮を執っていたことを示している。
象の前後には歩兵隊が盾や槍、弓などを手にして行進している様子が描かれている。歩兵の隊列や戦闘態勢が整然と描かれていることから、クメール軍の組織力や戦闘技術の高さがうかがえる。
バイヨン寺院の浮彫は当時のクメール社会における政治・軍事・宗教的な背景を伝える貴重な史料となっている。
浮彫の左上部分には、木々や鳥などの自然が描かれている。鳥や樹木は豊かさや生命力の象徴。
写真中央付近の崩れた石の間からは、奥に続く通路やさらなる構造物が見られ、寺院の広大さと複雑な配置が伺える。写真の右側には、デバターの彫刻が柱に施されており、これはバイヨン寺院の装飾彫刻の特徴の一つ。
デバターは、アンコール遺跡群の寺院、特にアンコール・ワットやバイヨン寺院の壁面に多く見られる装飾的な女性像で、寺院の守護者や精霊的な存在を象徴している。ヒンドゥー教や仏教の神々そのものではなく、宮廷の舞姫や女性の理想像を表す。
アンコール・ワットでは、デバターは「アプサラ」(天女や踊り子)と一緒に描かれることが多く、これらのアプサラも天界の舞踊者として、神々に仕える役割を持っている。アプサラはヒンドゥー教や仏教における天界の踊り子を意味し、神々の娯楽のために踊る存在とされているが、デバターはその守護的側面が強調されることが多い。
写真の中心には、古代クメール建築特有の石造りの門が見える。門には彫刻が施され、高く積み上げられた石柱が支えている。
塔に刻まれた巨大な「観音菩薩」の顔が見え、それぞれが四方を向いているため、訪れる者を静かに見守る印象を与える。これらの顔は、慈悲や平和を象徴し「クメールの微笑み」として知られている。
中央の門の近く、右手には石像が確認できます。この石像は、かつて完全な姿であったが現在は首などが壊れている。
クメール帝国時代の建築は、主に砂岩で作られており、風雨や熱帯の気候の影響で、細部が損なわれているがこの風化は遺跡の歴史を感じさせる。
アンコール・ワットやタ・プロームと並んで、カンボジアの代表的な遺跡のひとつ。
写真には、バイヨン寺院の階層的な基壇と、それを支える石柱が映し出されている。これらの基壇は、寺院が持つ重厚な構造を示しており、何層にも積み重ねられた石材が寺院全体を支える役割を果たしている。
クメール建築では、石材を巧みに組み合わせて建築物を構築し、その表面に繊細な彫刻が施される。
寺院の右側には、修復作業のために設置された足場が見える。バイヨン寺院はアンコール遺跡群の中でも保存状態が悪化している部分が多く、現在も国際的な協力のもと修復作業が行われている。修復は可能な限り当時の材料や技法が再現されるよう努められている。
獅子像は、背中側からの視点で捉えられている。クメール王朝の石像は、筋肉の張りや体の曲線を強調している。獅子像の表面には長い年月を経て風化が進んでいるが、当時の細やかな彫刻技術が立髪に。
獅子像の背後には、広がる樹木と大きな根が見られ、木々の間からは日差しが差し込む。
獅子像の足元には、寺院全体に敷かれた石畳が確認でき石材の配置や保存状態から、長い年月を経て風化が進んでいる様子がわかる。
獅子像は、バイヨン寺院や他のアンコール遺跡の守護神として非常に重要な存在でクメール王朝において、獅子は王権や神聖さの象徴とされていた。バイヨン寺院の獅子像は彫刻技術の高さを示す代表的な例。
写真には、巨大な塔のアーチ状の開口部が見える。このようなアーチは、当時のクメール建築でしばしば見られる技法で、垂直に積み重ねた石材による組み合わせ構造で安定性を確保している。
アンコール・トムにある南大門(South Gate)の入口付近を写したもの。アンコール・トムはジャヤヴァルマン7世によって築かれた王都で、その門には多くの彫刻や巨大な顔が並んでいる。
写真の左側には、神々や仏像が連なる。これらの像は、アンコール・トムの南大門に向かう道沿いに配置され、通称「天界と阿修羅の綱引き」と呼ばれる。この彫刻は「乳海攪拌」の神話を象徴しており、一方には善神(天界)が、もう一方には阿修羅(悪神)が描かれている。左側の像は善神を表現しており、神々が大蛇(ナーガ)の胴体を引っ張る場面を表している。
写真の奥には南大門が見える。この門はアンコール・トムの五大門の一つで、巨大な観音菩薩の顔が門の頂上に彫られている。門の両側には神々や阿修羅の像が並んでおり、訪れる者を出迎える。
アンコール遺跡群に含まれるタ・プローム寺院の一部で、ここでは木々が遺跡を抱き込むように成長している。樹齢何百年もある巨大な木の根が石造りの壁の上にしっかりと覆いかぶさっており、木と遺跡が一体化している。
この木は、カポック(ガジュマルの一種)で木の根は太く、壁の構造に食い込むようにしがみつきながら、内部の石を持ち上げるようにして成長している。
タ・プロームは、元々仏教の修道院兼大学として機能しており、その名の意味は「ブラフマーの祖先」を意味する。この寺院は、当初は「ラージャヴィハラ(Rajavihara)」という名前で呼ばれており、「王の修道院」という意味を持つ。
タ・プロームは他のアンコール遺跡とは異なり、意図的に修復されないまま自然と共生している姿を維持している。ジャングルがそのまま遺跡を覆い尽くすように成長しており、特にガジュマル(フィクス属)やスポンジツリー(テトラナンドラ)の根が、建物に侵入し、柱や壁を抱き込むように成長している。
この木の根は遺跡の崩壊を促進する一方で、ある種の補強効果も持ち、遺跡の一部を支えているという両儀的役割も果たしている。この特異な現象は、自然の力と人類が築いた文明との複雑な関係性を示す。
背景に見える建物には、バイヨン様式が見られ、これはジャヤヴァルマン7世の統治期に最も発展した建築スタイルで入り口には四面を持つ塔が見られ、これはクメール王の神格化された姿を示す。
石材の隙間や破損箇所から侵入した植物が自然に根を張っているため、寺院と自然との相互作用が視覚的にも際立っている。
樹木が這うように遺跡を覆い尽くしている。自然の圧倒的な力だ。タ・プローム寺院は、人間が築き上げた文明の無力さを静かに示す。何百年も前に、ここには石が積み上げられ、神のために祈りを捧げた者たちがいた。その時は、木々はまだ幼く、寺院の偉容の前では無力に見えただろう。だが今、その関係は逆転している。
幹は太く、根は石をねじ曲げ、壁の隙間を埋め尽くす。苔むした石の一つひとつが、年月の積み重ねを語っている。木の根が石を抱え込む様子は、大地に根ざすものが、不死鳥のように再び姿を現したかのようだ。壁が崩れたところには、古の繁栄の記憶がほんのわずかに残るが、その大半は風化し、塵に帰りつつある。
自然に対する畏敬の念を感じざるを得ない。寺院の石と木々の根は、まるで互いに依存し合う存在のようだ。根が石を砕きながらも、崩壊の瞬間まで共に在り続ける。
寺院の壁は、かつての壮麗さを今も纏いながらも、木々の根に飲み込まれつつある。タ・プローム――そこに立つと、全ての時代が同時に存在しているような感覚に襲われる。崩れかけた石の門をくぐれば、内部はもはや人間の手の届かぬ領域。根が石を抱き、石が根に寄り添い、そしてその全てが静かに朽ちていくのを待っているようだ。
目の前に広がるのは、かつての人々が、神々のために築いた偉大な建造物。だが、今ではこの寺院もまた、巨大な木々によって押し潰されようとしている。真っ直ぐに伸びる幹、その先端はどこまでも高く、空に向かって突き抜ける。その足元に絡みつく無数の根は、遺跡をむしばむ蛇のごとく、ゆっくりとだが確実にその身を押し広げている。かつての祈りの場は、もはや自然の無言の支配下にある。
寺院の彫刻、細かく刻まれた神々の姿も、もはや時の流れに逆らえず、薄く、かすれて見える。緑青に染まった石の表面が、年月の深みを物語るように静かに光を反射している。崩れた石が積み重なり、足元に転がる破片は、この場所がすでに何世紀にもわたって静かに死にゆく存在であることを物語る。
人間の力が、自然の力に打ち勝つことなどあり得ない――そう言わんばかりに、木々は寺院を支配している。それは容赦なく、しかし美しく、まるで時の流れそのものが視覚化されたかのようだ。静かに、しかし確実に寺院は侵食されていく。そして、その過程はあまりにも静かで、あまりにも荘厳だ。
大木の根が遺跡の石壁に絡みつき、まるで自然が人の手による構築物を飲み込もうとしているかのような光景が、ここには広がっている。タ・プロームの寺院は、かつてのクメール帝国の威容を誇ったものだが、その誇り高い石造りの建造物は、今や自然の気まぐれによって支配されつつある。石の表面に張り付く苔は、生命の息吹と共に、静かにしかし確実に人間の努力を蝕んでいく。
この光景は、何かしら永遠と儚さを同時に感じさせる。根の力強い姿が圧倒的であり、その触手のような枝は、まるでこの世界そのものの支配者であるかのごとく、石を押し崩している。しかし、その一方で、崩れた石が積み重なり、無秩序に広がる様子には、かつてここに存在した秩序や調和が消え去ったことを痛感させる。
この大木は、人間がいくら精緻な計画を練り、いかに壮大な建築物を築こうとも、自然の力には抗えないという、厳然たる真理を象徴しているのだろうか。否、それはむしろ、この場所に漂う沈黙こそが、文明の終焉を静かに物語っているかのようだ。強靭な根が石を砕き、繁茂する木々が寺院を覆い隠しているその様子は、時の流れと共に、すべてのものが消えていく宿命を無言で訴えかけている。
その美が破壊され、朽ちていくことに対する抗えない宿命がある。かつての栄光が今では静かに崩れ去り、その背後には人知を超えた力が静かに微笑んでいる。
バンテアイ・スレイ寺院は精巧な彫刻と赤みがかった砂岩の美しさで知られ、「女の砦」とも称される。この寺院は、他のアンコール遺跡群とは異なり、小ぶりながらもその精緻な装飾に特徴がある。
目の前に広がるのは、赤い砂岩で構築された美しい伽藍で、細やかな彫刻が施された門や尖塔が並んでいる。風雨に晒されながらも、その彫刻は鮮明で、神々の姿や神話の情景が今もなお生き生きと浮かび上がる。
この寺院は、太陽の光を浴びるたびにその色彩が変化し、赤みを帯びた石材が黄金色に輝く瞬間が訪れる。背後に広がる密林の緑が、その赤い伽藍を引き立てている。
池のほとりに佇むバンテアイ・スレイ寺院は、自然と文明が静かに調和する。鏡のように静かな水面には、寺院の赤みがかった伽藍が淡く映り込み、古代の神聖さを今も湛えている。背後にそびえる木々の緑と、青空に浮かぶ白い雲が時の流れを忘れさせる。
寺院の周囲には、かつての水路が横たわり、長い年月の中で自然と一体化した。蓮の葉が浮かぶその水面には、遥か昔、この場所で祈りを捧げた人々の心が映し出されている。静寂の中、風が木々を揺らし、遠くからかすかな鳥のさえずりが聞こえてくる。今では廃墟となったこの場所にも、かつては賑わいがあり、命が脈打っていたことを、寺院の石は語り続けている。
バンテアイ・スレイは、10世紀にハルシャヴァルマン王に仕えた学者ヤジュニャヴァラーハによって建てられたヒンドゥ教の寺院で、「女の砦」の名の通り、他のアンコール遺跡群に比べて小規模でありながら、非常に精巧で美しい彫刻が施されている。
扉のフレームや壁面の彫刻が非常に細かく、植物の蔓や幾何学的な模様が複雑に絡み合っている。この彫刻のディテールは、クメール様式の中でも最高峰の技術を誇るものであり、赤い砂岩が使用されていることから、時間が経ってもその美しさが保たれている。砂岩は彫刻しやすいため、こうした緻密な装飾を可能にしたが、風化にも弱い。
中央に写っている猿の姿をした像はハヌマーンの像で、ヒンドゥ教の叙事詩『ラーマーヤナ』の中で、猿の王として登場する。ハヌマーンは、ラーマ王子の忠実な従者であり、超人的な力を持つ守護者として、寺院の入り口を守る。
入り口の上部に施された美しいレリーフが見え、これはヒンドゥ教の神話や神々を描いたもの。こうした彫刻の中には、アプサラ(天女)やデーヴァター(女性神像)も多く見られる。
写真に見られる首のない像は、バンテアイ・スレイ寺院内の石像の一部で、おそらくハヌマーン(ヒンドゥー教の猿神)だと思われる。このような首のない像は、アンコール遺跡群全体でよく見られるもので、時間の経過とともに、風化や略奪の影響によって損壊した。
首や手などの部分は、コレクターや盗賊の標的となりやすく、バンテアイ・スレイを含む多くの遺跡で、こうした無頭の像が多数見つかっている。
写真に見られる像の姿勢は膝を曲げて地面に座し、手を前に構えている。
首が失われているとはいえ、像の体躯や彫刻の細部には当時の職人の技術が反映されクメール美術の優れた技術力を今に伝える。