まさおレポート

新電電メモランダム(リライト)17 シーボニアを舞台に

 

日々谷の中日ビルの一階にシーボニアという会員クラブがある。1973年創業とあり、もともとは湘南のヨットオーナーの会員制クラブだったものだとウェブサイトの沿革に記されている。そのうちに都心のエクゼクティブ達が集うラウンジになったのだそうだ。(この沿革からしてちょっとスノブな匂いもしないでもない)

1990年の冬だったと思うが日本高速通信株式会社に転職早々に、上司になった常務の伍堂さんがお祝いを兼ねて、私の転職の仲介をしてくれた友人と一緒に連れて行ってくれた。(この友人は三菱商事社員で日本高速通信に出向していたということで伍堂さんとつながりがある。)

実はこのシーボニアのある中日ビルは1985年頃、NTTデータ通信株式会社に在職時に一度訪れたことのあるビルだ。当時米国DEC社(*1)のVAXシリーズがミニコンピュータとして非常に評判が高く、ある企業の顧客システムへこのVAXマシンの導入を検討したことがあった。大阪のNTT堂島電電ビルに出入りしていた営業マン館(やかた)氏に連れられて大阪・中之島にあるDEC営業所のVAXマシンを見学したがこの当時から既にコンピュータ間ネットワーク接続を得意としており、たちどころに米国本社に接続してDEC社のニューヨーク市場の株価グラフや情報などを見せられた。社内の情報共有も現在ではどの企業でも当たり前になったがその当時は新鮮で先進性を感じた。

ディスク装置やメモリーその他の周辺機器の新たな接続もなんら事前登録を必要とせず接続するだけでドライバーが検知して動作すると言う、今風のPCのOS風仕掛けになっていたので驚いたことがあった。もちろんどんな周辺装置でも自動的に検知するという事ではなく、DEC社の純正品あるいはコネクション仕様が同じものに限っていたと思うが。このVAXマシンを購入するためにDEC社の日本拠点(日本支社の本社かもしれない)やショールームがある東京日比谷の中日ビルに出向いて見シリーズのリサーチや商談を行った。

日本高速通信に入社後に知ったことだが、当時日本テレコム株式会社はこのDEC社のVAXマシンを導入して電話料金申請用の総括原価計算やその後に導入される選択料金サービスの高度な料金計算を行っていた。日本高速通信株式会社では当時のパソコンでは膨大な表計算には能力の限界を感じていてNEC社製のオフィスコンピュータを導入しようかどうかと検討している段階でもあり、日本テレコムの潤沢な装備との差を感じた。

(*1)PDPシリーズとVAXシリーズは1970年代と1980年代の科学技術分野において、最も一般的なミニコンピュータだった。1980年代終盤のピーク時、DECは世界第二位の規模のコンピュータ企業となり、従業員は10万人を超えていた。1998年にコンパックに買収され、コンパックが2001年にヒューレット・パッカード (HP) に買収されている事から、現在、その製品群はHPの名前で販売され続けている。(by wiki)

中日ビルの石の階段を地下に降りていくと重厚なマホガニー材のどっしりとしたドアがあり、そのドアを開けると照明を抑えたレセプション空間があり、シーボニアのスタッフが顔なじみの伍堂さんの顔をみるとコートを預かり、一言二言挨拶を交わした後、奥のフロアの円卓の席に案内する。レセプションの壁にはシーボニア会員のネームカードが柔道場の指名札のようにずらりとぶら下がっていた。来店者はそれを裏返すことによって誰が来ているかが他の来店者にもわかるようになっている。

スタッフは伍堂さんと顔なじみで万事心得ているといった態度で、明かりを抑えた照明の広大なスペースに点在する円卓のひとつに案内された。午後7時前にもかかわらず既にそこここのテーブルには客が座り、ウィスキーの水割りやワイングラスなどを傾けて談笑していた。欧米の料理を中心に様々な国籍の料理が用意されており、周りには鮨の屋台風のコーナーや日本そば、焼き鳥、ラーメンコーナーなどもあった。さらに10人程度が収容できる個室もいくつか備えていた。一流ホテルのメインバーに屋台が演出されさらに個室がついた装いである。

このシーボニアは伍堂さんが三菱商事時代から会員の店で、彼の父君が利用している縁で使いだしたと聞いた。三菱商事の石油部門で活躍されていた頃は、このシーボニアのなかにサウナスパまで備えてあり、アラブの石油商達とサウナで文字通り裸のつきあいをしてから食事をして酒をのみながら商談をまとめたという昔話をしてくれた。ここで一風呂浴びて食事をして、それから銀座のクラブに繰り出して徹底的な接待をしたと、既に過去のものとなったバブリーな高度成長時代の接待のなかでも恐らくとびぬけての散財であったでだろう、そうした石油バイヤー時代の思い出を懐かしそうに語っていた。

石油採掘事業はまさに男冥利につきる仕事だそうで、「油田を探り当てて最初に石油が噴出するときの瞬間の興奮はものすごいものでねえ、喜びのあまり本当にいっちゃう人もいるんだよ」と嬉しそうに語っていた。

NTTデータ通信株式会社時代の接待といえばゴルフに料亭など、のちに本社の高層階に専属のレストランを利用することが一般的であったが、大手商社や都市銀行などは自前の豪華な社交場を持っていることが多い。三菱商事では大阪にも北の新地に社員専用クラブがあり、住友商事も東京のビルのトップラウンジに同じようなクラブを持っていた。三和銀行(当時)などは虎ノ門駅の近くの地下に料亭風の社交場を持っていて、商社系の社員クラブとは趣が一際異なって豪華だった。誰でも社員の紹介があれば入ることができる商社の専属クラブなどは会社の交際費節減などの目的もどこかにあったのだろうが、三和銀行の例などは政治家の料亭利用などよりも一層究極の秘密が保たれる点にポイントがあったのだろう。

さらに会社経営の社交場から一歩進んでシーボニアのような会員制が存在した。高額な会員券を購入している会員の紹介がないと中に入れないので記者やカメラマンの追跡を逃れたい人たちには格好の社交場となっていた。

シーボニアでは入社の歓迎ディナー以降、何回となく新電電三社幹部の当面の重要課題の打ち合わせや電気通信政策、NTTとの接続問題やNTTの経営形態・再編成問題に関して関係方面の様々な方々と会合を持った。10人程度は収容できる個室はしっかりとした遮音が施されており、こちらからスタッフを呼ばない限りは部外者は誰も入ってこない。各社の役員クラスやトップ同士が忌憚のない意見を交わしあう場所として、あるいは顔の知られた外部の方をお呼びして気の利いた料理と酒が提供され、意見を聞く場にはうってつけの便利な場所であった。

このシーボニアであるときNTT再編成問題に関して、特にNTTが再編成反対の根拠として主張する電気通信分野の研究開発の国家的重要性に対してどのような意見を述べるべきか、評論家・屋山太郎氏の意見を聞く機会があった。2時間ほどさまざまな意見交換をして、この会合の世話役が屋山太郎氏に謝礼を渡そうとしたが、「今日はご意見を聞かせてもらっただけですので謝礼は結構です」とあっさりした態度で固辞された。なかなか見事な紳士の振る舞いで感心したことを記憶している。評論家はこうした金銭に身ぎれいでなくては信用できない。以後、この方の発言にはことさら注目するようになった。

この評論家・屋山太郎氏との意見交換の中心はNTTの研究開発能力は再編成によってどうなるのかが主題であり、NTTの通信研究所がお手本とした米国のベル研との比較が話題に上がった。このベル研究所は通信機器の実用化の研究はもとより学術的な研究が著名であり、直接的に商業的な利益を追う研究も行うが営利に直接関係しない基礎的な研究で特に評価されていた。

その歴史には6個のノーベル賞と11人の受賞者を出している。それに対して日本のNTT通研は比較に耐える成果を出しているのか極めて疑問だとの話も話題に上がった。さらには博識の参加者からは、天文学は物理学と考えられていなかったのでノーベル賞こそ受賞していないが、1930年にベル研のカール・ジャンスキーが最先端の宇宙論「ビッグバン」説の発展にも極めて重要な貢献をした電波天文学を創設したという興味深い話も出た。彼は宇宙のかなたから飛び込む均等な電波雑音(ヒス音)を発見したという。このようなレベルの高い、いわば人類に貢献するような研究開発を行っているのなら確かに研究開発部門の分割を伴う再編成は立派な分割反対理由になるが、果たしてNTT通研の実力はどうなのかとの疑問の声も上がった。

NTT通研も当時メディアで報道されたように常温核融合の研究など、実用化とは程遠い研究も行っているのは事実だとの発言もあったが、この常温核融合の話に触発されて話は市内の相互接続費用に向かっていった。(NTTの研究開発費用はそのまま費用配賦されて市内の相互接続費用に乗せられているがこれは不適切だとの指摘で、その後、市内網に関係のない費用は控除されるようになる)

その他、シーボニアでは様々な人と会合を持った。「新電電物語」が小説か映画になると仮定したら、きっと物語を推し進める重要な場となることだろうと想像するのも楽しい。

伍堂さんは、ここシーボニアでもよほどの場合を除くと在席はせいぜい2時間が限度で、9時頃には早々と「じゃあ、次があるので」と手を振りながら銀座のネオンの中へと消えて行くのが常であった。

<余話1>

郵政省事務次官から第二電電社長に就任した奥山氏がシーボニアの懇談に参加したことがある。仕事以外の話にも実に博識なことに感心した事が印象に残っている。

慶応大学の村井助教授(当時)は藤沢キャンパスで教えていたが、当時日本高速通信でサービスを始める50メガビットATMサービスのWIDEへの採用についての相談があり、訪問したことがある。その縁でこのシーボニアでの懇談となった。当時50メガビット超高速ATM回線に対する期待が大学や企業の研究開発部門で非常に大きかった。ATM利用という事で価格に大きな期待がかかったものと思われるが採用は価格面では期待を裏切ったようで折り合いがつかなかった。(ワインがお好きで、盛んに杯を空けていた)

インタネットイニシアティブの鈴木社長(当時)もやはり東京・大阪間の超高速ATM回線に興味を示し、このシーボニアで懇談したことがある。(非常に声が小さいので席が離れていたために話の内容は聞き取りにくく、記憶にない)その後この超高速回線は価格交渉の後特別価格で採用されることになる。インタネットイニシアティブの子会社への資本参加に始まり、その後のトヨタの資本参加で超高速インタネット回線専門会社クロスウェーブコミュニケーションズ設立が設立されるが、その嚆矢はこの時に始まる。

<余話2>

50メガビット超高速ATM回線の関連で既に20年も過去になった思い出がある。一太郎で知られたジャストシステムの当時専務であった浮川初子氏がこの超高速回線に興味を示され、営業支援で徳島県の本社を訪問した。徳島のジャストシステム本社と東京にある研究開発部門をこの回線で接続する可能性についての打診で、結果的には実現しなかったがその可能性を探る話には大変興味を持った。

従来の遠隔テレビ会議から大きく進んだシステムのアイデアを披露してくれた。会議出席者の目の上に装着されたセンサーで目の動き、厳密には瞳孔の方向と焦点を探り、会議を映し出すビデオカメラの焦点も移動するので臨場感が増す。あるいは会議に出席する服装もアバタの服装のように変えることができるなど大層楽しい話をしてくれた。

<余話3>

NTTの研究開発能力は相当に高い。NTTの研究陣にはベル研出身者で「音声圧縮技術」が知られる守谷健弘氏と「暗号理論」の岡本龍明氏がいる。2人の研究は、「ノーベル賞に最も近い」といわれている。既に一人か二人のノーベル賞受賞者でもでていればNTTの研究開発は日本の研究開発力の要という説得力が増すのだが。

その後のNTT会社形態見直しでは予想通りNTTの研究開発力は分割反対の大きな切り札となり、持ち株会社に所属することで決着を見たが、米国でも1949年当時、ベル研の分離分割議論があった。1940年代、 AT&T による独占的市場支配力が強まっていたため1949 年に 司法省はAT&T に対して、通信機器製造子会社である WE(Western Electronic)及びその研究機関、ベル研の分離を求めた。しかし1956 年の同意審決ではAT&T は公衆通信以外の事業は行わず、WE はその製品を AT&T 外部には販売しないことを条件として、WE 及びベル研の分離は行われないこととなった。研究開発力に配意したためと思われる。

その後、1984年には修正同意審決によりAT&TとRBOCSおよびWEそしてベル研は完全に分離されることになるのだが、その分離劇の以前にベル研をめぐるこうしたドラマが米国にあったことは興味深い。米国の通信制度の歴史を踏襲するとするといずれNTT持ち株会社方式はなくなる運命だが、しかし諸般の事情も異なって来ている。国内競争からグローバルな競争力と錦の御旗が変わってきている。こうした流れの変化は今後のNTT見直し形態にどう反映するか。

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