まさおレポート

味覚の記憶は育つ 「志な乃」「瓢亭」の蕎麦

20代の頃、虎ノ門の第17森ビルのオフィスに勤務していた。昼飯は大方の日は社内食堂を利用していた。プラスチック製の赤や緑の丸い食券を持って列に並び、焼き魚定食などをいつも食べていた。A定食B定食などがあり、300円前後であった。栄養的にはそれなりにバランスがとれており、味も悪くなかった。会社が場所を提供していたのでこの価格で提供できたのだ。給料が10万なかった時代でこの社内食堂は有難い存在であった。

しかし、給料日などはなにか旨いものを求めて近くの店にいった。その中に蕎麦屋「志な乃」がある。オフィスのほとんど真向かいにある蕎麦屋だが何かの折に昼飯時に通りかかると、必ず5、6名程度の行列ができており気になっていた。何かの折にその話を会社ですると上司が解説してくれた。

志な乃の蕎麦は玄くて太い、しかも量があるので決して大盛りなどを頼んではいけない。食べきれないほどの量だ。旨いが値段も高いので当時勤めていたNTTデータ通信本部の幹部連中や周りの会社の役員に常連が多いなどの知識をあらかじめ得ていた。

ある日同僚とその店に12時15分前に行ってみた。さすがに15分前だと座れたが瞬く間に30人くらいの席は埋まってしまった。周りを見ると当時の我々みたいな若造はいない。確かに年配のえらそうな連中ばかりだ。

最初はもりとけんちん汁を注文したような記憶がある。注文するとお茶が出てくるが若造にも質の高いとわかるお茶が出てくる。どこでも出てくるような単なるお茶ではない。香りの高いしっかりと旨みのでたお茶であった。それから蕎麦がざるにのって出てきたが、確かに太くて蕎麦の色が濃い。

当時の若造は蕎麦とはこんなにうまいものかと感激した。それまでは関西生まれのためかうどんが好みであったがこのとき蕎麦に目覚めた。それにしても相当な量で食べざかりの身でも十分に腹がいっぱいになった。食べ終わるとそば湯と、ふたたびお茶がでる。このお茶は先ほどと違って濃い目の抹茶が入ったものだ。食前食後にぴったりのお茶を使い分ける心憎い配慮だと感心した。

これに味をしめて、懐具合が良くなるとこの店で合い盛り・けんちんそば・そばとけんちん汁などを楽しんだ。名前は忘れたがスペシャルな蕎麦も試みた。やはりいつも食べるそばがうまかった。合い盛りで出るうどんも質が高かった。何かの折に家族を連れて行って食べたこともある。

その後大阪に転勤になった。同僚に蕎麦のうまいところへ連れて行けと頼むとお初天神のなかにある「瓢亭」に案内された。ここの「夕霧そば」が旨いという。「志な乃」とはうって変わって色の白い蕎麦でつゆに生卵を溶いていれる。それなりに旨く、酒を飲んだ帰りには必ず寄って仕上げにこの夕霧そばを食べて帰るというパタンが続いた。その蕎麦を食べながらも同行の者には志な乃の蕎麦の自慢をしていた。

その後、東京の会社に転職したが訪れることはなかった。わざわざタクシーで行くというのも気がひけた。昼飯はどうしても近所で済ましてしまう。夜は蕎麦屋で一杯という相手もなかなかいない。これまた近所の焼き鳥屋などへ足が向いてしまう。腹も減り疲れてもいるので手短なところを選ぶのもやむを得ない。

数年前、会社を退職する直前になってどうしても志な乃の蕎麦を食べたくなった。サラリーマン生活の終止符に若造が感激した記念すべき蕎麦を食べておこうと考えたのだ。職場の二人を誘ってタクシーで向かった。蕎麦屋にタクシーで行くなどとは生まれて初めての経験だ。30数年ぶりに店に入ったが、たたずまいは昔のままであった。

注文を取りにきた女性の顔をみて驚いた。当時もいた女性だ。ここのおかみさんかもしれない。持ってきたお茶も同じ味だが心なしか気合いが抜けている。合い盛とけんちん汁を頼んだ。水準は高いのだが、残念ながら昔の感激は戻ってこなかった。

昔の女に年月を経て再開してはみたが「なにかが違う」と心の中でつぶやくような、そんな感じを味わった。こちらの味覚が鈍ったのか、旨い蕎麦をそれなりに食べ慣れたのか、はたまた、この店の水準が落ちたのか。おそらく全て当たっているのだろう。

この店の当時の主人は毎年蕎麦の収穫の時期に日本中に出来の良い蕎麦を求めて旅をすると記していた。国産の良いものを使い、それで当時のそばとしては破格の1000円近い値段であったと思う。値段は30数年後も変わっていなかった。とすれば国産の質の高いしかもたっぷりの蕎麦を出せという方が無理なのかもしれない。

同じ店でも質の高い品を維持するのは難しい。食材が高騰し、代価はそれほど帰るわけにはいかないとなれば質の維持は難しい。代が変われば特に至難の業だ。さらに味覚の記憶は年月を降るなかで現実よりも育っている。こいつが最大の理由だ。久しぶりに訪れる店に落胆しがちなのは深い理由がある。

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