
「芸術は純粋だ 魔力を受け入れない」 アッシェンバッハ
「君のは理想主義だ 背徳は必要だ 背徳こそ天才の糧だよ」友人
青山一丁目のマンションから六本木ヒルズまでたびたび出かける用事がある。いつもは急いでいることもありタクシーで往復することが多い。あるとき「ちいバス」という循環バスに乗ってみた。すると今まで感じたことのない土地勘をわずかながら得た。「へえ、そうだったのか」という感慨を得たわけだ。
この「ちいバス」はハリーポッターの猫バスを連想させる。その命名の通り、バスの車体は一般のより一回り小さくドライバーは女性が多い。小柄な女性が制帽をかぶり運転座席に深く座っていると、ふと子供が運転しているようにも見えたりしてポッタリアン的空想の世界にしばし遊ぶことができる。
なかなか時間通りに来ないのが欠点と言えば欠点だが、乗ってしまうと青山一丁目から六本木は15分くらいだろうか。こちらの方向の風景は見慣れたところなのであらたな発見はない。六本木ヒルズの地下駐車場からマンションのある青山一丁目まで好奇心につられて乗ってみた。するとバスは見知らぬ方向をどんどん進む。間違えたのかなと心配になったが路線マップを確認すると正しい。
そのうち溜池からANAホテルと赤坂アークヒルズの前に来た。「ああ、こんなところまで来るのか」この赤坂アークヒルズは20年ほど前に転職して勤務した日本高速通信(現KDDI)のある場所だ。当時交通の便が余りよくなく、新橋発のバスで通った記憶が蘇る。そういえば当時お隣のANAホテルには映画評論家の淀川長治さんが高齢の一人住まいの安全確保と仕事の便利さからか、このホテルに長期滞在していたなと回顧の世界へと。
当時のある日、会社の帰りに銀座で映画をみた。ビスコンティー監督の名作「ベニスに死す」を上映していた。午後10時頃に映画が終わるとアナウンスがあり、淀川長治さんがお見えになって解説をしてくれるという。館内から歓声が上がり、数名の若者に体を支えられて彼が「よたよた」とした歩き方でゆっくりと舞台に現れた。「そうか、こんなお年だったのか」もう一人では歩けないくらい足腰が弱っている。
ゆっくりと話し始める。かつて中学生の頃テレビのララミー牧場や日曜映画劇場ローハイドでなじんだあの声としゃべりだ。話は巨匠と言われた監督が次々と亡くなって今や生存者は一人になってしまった。あの巨匠達の新作をもう見れないのなら生きている未練はないのだが、後一人だけ生存していてその監督の新作を楽しみに生きているとの話から始まった。
巨匠と言われた監督と作品を熱っぽく挙げていった。
チャップリンの黄金狂時代、巴里の女性
シュトロハイムのグリード
キング・ヴィドアのシナラ
エイゼンシュタインのストライキ
フォードの駅馬車
スタンバーグの大いなる幻影
ジョージ・シートンの喝采
マイケル・パウエルの赤い靴
デイヴィッド・リーンの旅情
ヴィスコンティのベニスに死す、家族の肖像
フェリーニの82/1、アマルコルド
をいとおしそうに。
私はこの中のチャップリンの黄金狂時代、フォードの駅馬車、デイヴィッド・リーンの旅情、ヴィスコンティのベニスに死す、家族の肖像しか見ていない。
後一人だけ生存していてその監督の新作を楽しみに生きているといったのは
フェリーニのことだと後でわかった。フェリーニもこの後まもなく亡くなる。「あの巨匠達の新作をもう見れないのなら生きている未練はないのだが」と言うほど映画を愛していたのだ、これほど惚れ込める人生をおくるというのは対象が何にせよすごいことだなと今にして思う。実生活と引き換えに映画に惚れ込むということに真似のできない凄みを感じ、感嘆を持ったが同時に淀川長治さんの底知れぬ虚無も感じた。
これからの映画も話さないと希望を与えられないと思ったのだろうか。北野武監督の作品をほめていた。お笑い芸人がどんな映画を作るのかとの興味でみたが、その出来に驚いたと。
ある日、滞在しているホテルに電話があり、さるお方の側近から「話が聞きたいのでおいで願えないか」という。赤坂の公園のような邸宅にお住まいで云々と冗談めかして赤坂東宮御所に呼ばれ、現上皇に映画のお話をしたことなどをおもしろく話す。
回想にふけっている内にバスは赤坂駅前から赤坂見附の前を通りすぎる。小料理屋が軒を連ねる懐かしい通りを左手にみながら次の通りに向かうと、そこはよく通ったシャンソン酒場ブンがある通りだ。今でもあるのかなと確認するまもなく通り過ぎる。(ブンは既に閉店している。赤坂一ツ木通りのビル2Fにある、小さなシャンソン、古賀力さんと奥様の芳賀千勢子さんの店だった。)
羊羹の「とらや」本店を通り過ぎてようやく青山一丁目までたどり着いた。優に1時間はかかった。ふと前の座席に座る三歳の孫をみると、彼女なりに外の景色を楽しんでいた。あまりに静かにしてくれていたので20年前の回想シーンを楽しめたのだった。
追記 淀川長治は神戸から東京にでてきて最初に勤めたところが溜池だった事がわかった。なるほど思い出の場所をついの住処に選んだのか。
2009-09-15 09:06:17初稿
2018/4/22 追記
2020/5/20 追記