滞在したスミニャックのオーナー夫妻に自宅に昼食に招かれて積もる話をした。eとpは夫妻でmはわたし。
顔のガンでシンガポールで手術をした。転移が疑われて腹も切ったがそちらはどうもなかった。コロナの頃でホテルの収入がとだえてさらに手術が高いので大変な時期を過ごした。
顔の左半分は麻痺しているので発音がしにくいから聞き取りにくいだろうけどごめんね。e
シンガポールで手術となるとお金の心配があり、又悪い事は重なるものでわたしの妹とバンドンで歩道を歩いている時にバイクに突っ込まれて妹が死んだ。10センチずれていたら私が死んでいた。p
大きな苦難だったね。乗り越えられて本当によかった。m
ここでeはバリに40年前にやって来て以来の来歴を語りだす。
29才でバリで音楽カセットテープを売り出して儲けたよ。ソニーのWalkman全盛期の頃だった。16才で初めてジャカルタからバリに来てバリが気に入っていた。
カセットの売り上げに翳りが見え出してカセットで儲けた金でビラを建てた。その頃は周りが椰子の木しか無かった。e
ビジネスの先見性があるんだね。サラリーマンで過ごして来たわたしには真似ができないね。
ジャカルタに留まった方が良かったと考えたことはある?m
それは一回も無いね。ジャカルタには父母の墓参りや妻の母の顔を見るために時々帰るがいつも頭が痛くなる。うるさいし交通渋滞だし忙し過ぎる。e
彼の妻であるpにも同じ質問を投げかけて見た。
p バリにはともだちもゼロで家族とも離れてしかもクリスチャンであるあなたはバリで暮らすことに賛成だったの? m
仕事の日々で寂しさを感じる暇も無かった。バリにも教会はあるしね。p
実はeとp夫妻があえて言及しなかった歴史上の事件が彼らがバリに定住しようとしたきっかけになっている。この事実は以前にpの口から恐怖の実態を聞いて知っていた。
事件の概要は以下の様だったらしい。
ジャカルタ中心部の独立記念塔広場や大統領宮殿の北側から港湾部にかけて広がるコタと呼ばれる華人街で最も栄えているグロドック地区は1998年5月の大暴動の際、最も被害が激しかった地域でもある。賑わいを見せていた電気機器店街は暴徒により略奪、放火され、大通りを跨ぐ連絡通路の火災だけで約百人の命が奪われたともいわれている。
この時にはカセットをバリで売っていたが本拠地はあくまでジャカルタだったことになる。つまり10年程は出稼ぎの意識だったのだがこの暴動をきっかけに夫妻はバリ定住を決めることになる。
人に歴史あり。