まさおレポート

源氏物語 嫉妬は人の最大のあはれの一つ

瀬戸内寂聴だったか、皇室ゴシップを流行作家がかいたものだと思って読むといいと書いていたが、そう思う部分も確かに多かった。島田雅彦はエロ本でもあるとBS歴史で語っていた。現代から見てほとんど興味の持てない話題が延々と続き、やれやれ又女との話かとなかばうんざりしながら読み進めると、はっとする表現に出会う。俗の極みにある光源氏の所業の中にところどころはっとする聖なる表現があり、その煩悩即菩提の物語が過去千年の読み手を魅了してきたのだろう。

源氏物語は光源氏が主人公ではない。色男に翻弄された女の嫉妬の物語なのだと気が付いた。色男は絶世の美男で、音楽、絵画、舞踏どれをとっても女を引き付ける。だからこそいろいろな女が登場し、それぞれの嫉妬と救済を描けるのだ。光源氏は女を描く触媒なのである。嫉妬こそ自らではどうしようもない無明の根源であり、煩悩の源であることを描きつくした物語と言える。嫉妬のさまざまな本質が明らかになる。

そして女は源氏の愛人に嫉妬する。嫉妬は人間の煩悩のなかでももっとも厄介なもので、無明にもっとも近いところにある。源氏物語は煩悩の最も深いところにある嫉妬とその浄化を仏教に求める物語だ。嫉妬は人の最大のあはれの一つでありこれを筆にとどめたいという切なる気持ちが源氏を書かせた。

神は嫉妬しない

舞い手が歌うところなどは、極楽の迦陵頻伽の声と聞かれた。「神様があの美貌に見入ってどうかなさらないかと思われるね、気味の悪い」紅葉賀                          

神様があの美貌に見入ってどうかなさらないかとの表現は神は嫉妬しないことが前提になっている。嫉妬は自らと同等と考える相手にのみ働く。神が光源氏に嫉妬するのではないかとふと疑念を思わせるほど光源氏が神に近いことを示すが、しかし物語を読み進めても光源氏が神から嫉妬による災いを受けた形跡はない。光源氏は嫉妬を引き起こす触媒であり原因者だが光源氏は嫉妬しないし、また彼が嫉妬の対象にもならない。

桐壷帝も藤壺を光源氏に奪われて子まで作られても光源氏に嫉妬しない。桐壷帝も人の世では並び無きものであり嫉妬は同等のものに働くので光源氏が嫉妬の対象にはならないのだ。

光源氏も嫉妬しない。女三宮を奪った男、柏木を衰弱死させるが、これは嫉妬と呼べるかどうか。もともと女三宮と光源氏はお互いに恋心はなく、気持ちの通わない間柄である。そこに嫉妬は生まれない。柏木には嫉妬の感情よりも自らに対する侮蔑に対する懲罰の心が働いた。

光源氏は嫉妬されない

「どうしたのだ。気違いじみたこわがりようだ。こんな荒れた家などというものは、狐などが人をおどしてこわがらせるのだよ。私がおればそんなものにおどかされはしないよ」 と言って、源氏は右近を引き起こした。

「気味悪い家になっている。でも鬼なんかだって私だけはどうともしなかろう」と源氏は言った。

光源氏はなぜか自身には霊の災いが及ばないと自信を持っている。嫉妬は同等のものを襲う。光源氏は帝以外は上位のものはいず、同等のものはいない。帝は神であり嫉妬しない。従って自身には霊の災いが及ばないと思っていたのだろう。

源氏を形どった物を作って、瘧病(わらわやみ)をそれに移す祈祷をした。

ところが光源氏への呪詛はそんなに激しくない。瘧病をそれに移す祈祷をする程度で回復する。

奪われる嫉妬がすごい

桐壺の更衣へ休息室としてお与えになった。移された人の恨みはどの後宮よりもまた深くなった。桐壺 

欲しいものが手に入らないよりも持っているもの(休息室)が奪われる嫉妬がすごい。

どんな呪詛がおこなわれるかもしれない・・・右大臣の娘の弘徽殿の女御などは今さえも嫉妬を捨てなかった。 桐壺                                       

桐壺帝の右大臣の娘(恐らく長女)で、桐壺帝がまだ東宮であった頃入内した最初の妃。第一皇子(東宮、後の朱雀帝)と皇女二人(一品宮と斎院)をもうける。後宮で最も格の高い弘徽殿に住まい権勢を誇ったが、桐壺帝の寵愛を桐壺更衣に奪われたことで、更衣の死後も忘れ形見である光源氏を激しく憎んだ。とりわけ、東宮の妃にと希望していた葵の上と妹朧月夜の二人を源氏に奪われたことに憤り、葵の上の死後に右大臣が朧月夜と源氏を結婚させようとした時も、猛反対して許さなかった。
桐壺更衣に生き写しの藤壺に対しても、源氏が藤壺に懐いたこともあって強い敵愾心を抱く。後に藤壺が皇子(後の冷泉帝、実は源氏の子)を産んで中宮に立った時、次期帝の生母である自分を差し置いての立后にひどく憤慨した(「紅葉賀」)。by wiki

知らぬ間に生き霊に
葵夫人は物怪がついたふうの容体で非常に悩んでいた。修法や祈祷も大臣家でする以外にいろいろとさせていた。物怪、生霊というようなものがたくさん出て来て、いろいろな名乗りをする 

10年後(源氏22歳)にようやく懐妊、周囲は喜びに沸き、源氏も悪阻の苦しさに心細そうな葵の上の様子に珍しく愛しさを感じた。折りしも時は賀茂祭(葵祭、4月 (旧暦))、周囲に勧められるままに賀茂斎院の御禊の見物に行ったところ、図らずも家来が源氏の愛人の六条御息所の家来と車争いし、御息所の牛車を壊し恥をかかせてしまう。この頃から葵の上は物の怪に悩まされて臥せるようになり、床を見舞った源氏の前で彼女に取りついた御息所の生霊が姿を見せるという事件が起きた。8月の中ごろに難産の末夕霧を産み、ようやく源氏とも夫婦の情愛が通い合ったと思うもつかの間、秋の司召の夜に急に苦しんで呆気なく他界。by wiki

そうじゃありません。私は苦しくてなりませんからしばらく法力をゆるめていただきたい 

私はこんなふうにしてこちらへ出て来ようなどとは思わないのですが、物思いをする人の魂というものはほんとうに自分から離れて行くものなのです

自身が失神したようにしていた幾日かのことを、静かに考えてみると、着た衣服などにも祈りの僧が焚く護摩の香が沁んでいた。
不思議に思って、髪を洗ったり、着物を変えたりしても、やはり改まらない。

苦しいのであれば生霊になって出ていかなければよいと思うのだが、上述の引用はいずれも六条の御息所自身の意志では嫉妬つまり無明はどうにもコントロールできないことを語っている。

嫉妬は自覚不能、制御不能

嫉妬は意識せずに起こる場合もある。そしてその場合のほうが強烈であるらしい。次の引用にあるほとんど自覚不能、制御不能の根本的生存欲そのものではないか。

ここでゴータマ・ブッダは大きな発見をした。すなわち、輪廻のメカニズムの起点は欲望ではなく、さらにそれをもたらす、ほとんど自覚不能、制御不能の根本的生存欲が奥底に控えていることを発見したのである。インド哲学七つの疑問」 宮元啓一 p114

嫉妬は同等のものへ

バリ島でもブラックマジックは多くの場合、嫉妬が原因でかけられる。男女関係の嫉妬の話は聞かなかったが、隣が家を新築したとかでブラックマジックをかけられた話は2度ほど聞いた。外国人にはかからないとも言われた。同等とみなされていないからだろう。ただしコリンウィルソンの著作の中で白人がお手伝いの女にマジックをかけられる話がでてくる。この外国人は土着化したためだろうか。

小説に見る嫉妬

スコット・フィッツジェラルド「グレートギャツビー」でもトムの愛人がトムの夫人にはねられて死ぬ。これも生霊ではないがトムの夫人の無意識が事故を引き起こすとも読めるが、レイモンチャンドラーはそんな自覚的な意識もなく書いているのだろう。

村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」でも主人公がクミコの兄ノボルを撲殺する。これもユミ子におぞましい仕打ちをするがノボルにこだわるクミコを挟んでのノボルへの嫉妬による。

レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」でもアイリーン・ウェイド - 小説家ロジャー・ウェイドの妻がシルヴィア・レノックス - テリー・レノックスの妻を惨殺することが物語の中心になる。

カラマーゾフの兄弟ではグリーシェンカとカテリーナ相互の嫉妬が物語を進める。

カテリーナがミーチャを罪に陥れる決定的な嘘の証言はミーチャがグリーシェンカへ父の借金依頼の場面をしゃべったことへの嫉妬の現れであり、カテリーナが逮捕されたミーチャを守るのも嫉妬の現れ。このように女の嫉妬は女に向くがミーチャの母親を挟んでのミーチャの父への嫉妬も男の嫉妬が常に男に向くことを表現している。

嫉妬はあさましい

夫人はすっかり六条の御息所になっていた。源氏の否定してきたことが眼前に事実となって現われているのであった。その人はますます御息所そっくりに見えた。あさましいなどという言葉では言い足りない悪感を源氏は覚えた。

生霊が葵夫人に乗り移る描写だが、あさましいなどという言葉では言い足りない悪感つまり嫉妬をこの世でもっとも醜いものと感じている。

ところにすむ霊も嫉妬

灯を近くへ取って見ると、この閨の枕の近くに源氏が夢で見たとおりの容貌をした女が見えて、そしてすっと消えてしまった。昔の小説などにはこんなことも書いてあるが、実際にあるとはと思うと源氏は恐ろしくてならないが夕顔のからだは冷えはてていて、息はまったく絶えているのである。

源氏が夢で見たとおりの容貌をした女が見えてとあり、六条の御息所とは書いていない。

不気味(ぶきみ)な眠りから覚まさせようとするが、夕顔のからだは冷えはてていて、息はまったく絶えているのである。 夕顔  

葵、夕顔と愛する女が次々に六条の御息所の生霊の犠牲になる。もっとも、池田弥三郎氏はこの霊を六条の御息所の生霊とは考えなかった。

源氏が六条に恋人を持っていたころ、御所からそこへ通う途中で、だいぶ重い病気をし尼になった大弐の乳母を訪たずねようとして、五条辺のその家へ来た。

八月の十五夜であった。明るい月光が板屋根の隙間すきまだらけの家の中へさし込んで、狭い家の中の物が源氏の目に珍しく見えた。(源氏物語 与謝野訳より)

こう書いておけば、当然、六条河原の院を思い浮かべたであろう。「今昔」その他に伝えられた川原院の怪異は・・・世間にその怪異が取りざたされていたのは、『源氏」が書かれていたときであったとみていい。 池田弥三郎著「日本の幽霊」p105

わざわざ平生の源氏に用のない狩衣かりぎぬなどを着て変装した源氏は顔なども全然見せない。(源氏物語 与謝野訳より)

夜半に顔を隠すことは神になることで、その効果は一番どりの鳴く時刻まで続き、その当時の盆踊りなどにその習慣をみることができると池田氏は書いている。

十時過ぎに少し寝入った源氏は枕まくらの所に美しい女がすわっているのを見た。「私がどんなにあなたを愛しているかしれないのに、私を愛さないで、こんな平凡な人をつれていらっしって愛撫なさるのはあまりにひどい。恨めしい方」 と言って横にいる女に手をかけて起こそうとする。こんな光景を見た。苦しい襲われた気持ちになって、すぐ起きると、その時に灯が消えた。不気味なので、太刀を引き抜いて枕もとに置いて、それから右近を起こした。右近も恐ろしくてならぬというふうで近くへ出て来た。(源氏物語 与謝野訳より)

源氏はせめて夢にでも夕顔を見たいと、長く願っていたが比叡ひえいで法事をした次の晩、ほのかではあったが、やはりその人のいた場所は某院で、源氏が枕もとにすわった姿を見た女もそこに添った夢を見た。このことで、荒廃した家などに住む妖怪が、美しい源氏に恋をしたがために、愛人を取り殺したのであると不思議が解決されたのである。源氏は自身もずいぶん危険だったことを知って恐ろしかった。(源氏物語 与謝野訳より)

これが光源氏の解釈である。・・・頭のいい光源氏が、六条の御息所の生霊だろうかということなど、全然思い及んでいないのである。・・・これは六条の御息所とは見ずに、場所にでる妖怪と見た方が合理的である。 池田弥三郎著「日本の幽霊」p109

このように六条の御息所の生霊ではないとしている。しかしところにすむ霊もやはり嫉妬するものであることは同じである。

 

 

 

 

 



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