「きのうのばらはただその名のみ、むなしきその名をわれらは手にする」なるほどウンベルト エーコはホイジンガー「中世の秋」から引用していたのか。いくつかのブログで教えていただきました。私なりの新発見です。
バビロンの栄華は、いまいずこに、いずこにありや、かの恐るべき
ネブカドネザル、力みてるダリウス、また、かのキルスは。
力もて押されてまわる車輪のごと、かれらは過ぎゆきぬ、
名は残り、たしかに知られるも、かれらは腐りはてぬ。
今は昔ぞ、カエサルの議場、また凱旋。カエサル、汝(なれ)も失(う)せにき。
あらあらしくも世界に力ふるいたる御身なりしが。
いまはいずこ、マリウス、また廉直の士ファブリキウスは。
パウルスのけだかき死、その称(たと)うべき軍功(いさお)は。
デモステネスの神の声、またキケロの天よりの声は。
市民へのカトーの祝福、また、逆徒への怒りは。
レグルス、いまいずこに、また、ロムルスは、レムスは。
きのうのばらはただその名のみ、むなしきその名をわれらは手にする
ホイジンガ 中世の秋Ⅰ 堀越孝一訳
ウンベルトエーコの「薔薇の名前」で過去に一度だけ愛した女に例えられた薔薇とその名前、愛したその一瞬にすべての意味があり、「思い出」の過去は単に名前(記号)でしかないと「思い出」を否定的にとらえたくなる。しかしどっこいそう単純ではない。
すなわち全宇宙とは、ほとんど明確に、神の指で書かれた一巻の書物であり、・・・そのなかでは一切の被造物がほとんど文字であり、生と死を映す鏡であり、そのなかではまた一輪の薔薇でさえ私たちの地上の足取りに付された注解となるのだが、 下P40
「すなわち全宇宙とは、ほとんど明確に、神の指で書かれた一巻の書物であり」これは「虚しきその名」こそ真実、つまり空観の空であると述べているのではないか。
薔薇の名前とその美しさを画像つまり記号で見直すとき、その奥深い意味の一端に触れた気がする。