近所を散歩していた時にふと自身の長い影を撮ってみたくなった。そしてflikrの古い写真を探してみるとウユニで撮った長い影が見つかった。2006年に撮ったもので既に15年が経つ。影は年齢を写さないようだ。そして影を無くしていないようだ(笑)
近所の小道で夕方に撮った
ウユニで撮った長い影 左がわたしで右はつれあい(多分)
影と言えば村上春樹の小説やシャミッソーの影をなくした男が頭に浮かぶ。検索で村上春樹の受賞スピーチが見つかった。既に村上春樹が書いていることだが改めてメモしておきます。
News·公開 2016年10月31日
【受賞スピーチ全文】村上春樹さん「影と生きる」アンデルセン文学賞
「影を排除してしまえば、薄っぺらな幻想しか残りません。影をつくらない光は本物の光ではありません」https://www.buzzfeed.com/jp/sakimizoroki/murakami-andersen
アンデルセンは子ども向けおとぎ話の作者として知られていて、彼がこのように暗く、希望のないファンタジーを書いていたと知って、驚きました。・・・
思ってもみないあることが起きて、彼は影をなくします。・・・なんとか新しい影を育て、故国に無事帰りました。・・・その後、彼が失った影が彼の元に帰ってきます。その間、彼の古い影は、知恵と力を得て、独立し、いまや経済的にも社会的にも元の主人よりもはるかに卓越した存在になっていました。
影はいまや主人となり、主人は影になりました。
影は生き延びて、偉大な功績を残す一方で、人間であった彼の元の主人は悲しくも消されたのです。
僕が小説を書くとき、筋を練ることはしません。いつも書くときの出発点は、思い浮かぶ、ひとつのシーンやアイデアです。そして書きながら、そのシーンやアイデアを、それ自身が持つ和音でもって展開させるのです。・・・
僕の意識にあることよりも、僕の無意識にあることを重んじます。
・・・子どもが次に何が起きるのだろうとワクワクしながら一生懸命に話を聞くように、僕は書いているときに、全く同じワクワク感を持ちます。
「影」を読んだとき、アンデルセンも何かを「発見」するために書いたのではないかという第一印象を持ちました。また、彼が最初、この話がどのように終わるかアイデアを持っていたとは思いません。・・・
もし小説家がストーリーを分析的に構築しようとすると、ストーリーに本来備わっている生命力が失われてしまうでしょう。・・・
これはアンデルセンにとってたやすい旅ではなかったはずです。彼自身の影、見るのを避けたい彼自身の隠れた一面を発見し、見つめることになったからです。・・・
影と直接に対決し、ひるむことなく少しずつ前に進みました。
僕自身は小説を書くとき、物語の暗いトンネルを通りながら、まったく思いもしない僕自身の幻と出会います。それは僕自身の影に違いない。
そこで僕に必要とされるのは、この影をできるだけ正確に、正直に描くことです。影から逃げることなく。論理的に分析することなく。そうではなくて、僕自身の一部としてそれを受け入れる。
でも、それは影の力に屈することではない。人としてのアイデンティティを失うことなく、影を受け入れ、自分の一部の何かのように、内部に取り込まなければならない。
読み手とともに、この過程を経験する。そしてこの感覚を彼らと共有する。これが小説家にとって決定的に重要な役割です。・・・
アンデルセンが生きた19世紀、そして僕たちの自身の21世紀、必要なときに、僕たちは自身の影と対峙し、対決し、ときには協力すらしなければならない。
それには正しい種類の知恵と勇気が必要です。もちろん、たやすいことではありません。ときには危険もある。しかし、避けていたのでは、人々は真に成長し、成熟することはできない。最悪の場合、小説「影」の学者のように自身の影に破壊されて終わるでしょう。
明るく輝く面があれば、例外なく、拮抗する暗い面があるでしょう。ポジティブなことがあれば、反対側にネガティブなことが必ずあるでしょう。・・・
人は自らの暗い側面、ネガティブな性質を見つめることをできるだけ避けたいからです。
影を排除してしまえば、薄っぺらな幻想しか残りません。影をつくらない光は本物の光ではありません。