「大審問官」はイワンがアリョーシャに語って聞かせる彼の創作になる物語だ。舞台は15世紀、スペインに降臨したキリストに対して大審問官は捕えて火あぶりの刑を宣告する。地下牢に一人で現れた大審問官はキリストに向かって、いまだ自由を扱いきれない人間に対し自由を与えることでパンを奪い合い、返って人類を不幸にしたと批判する。
無言で聞いていたキリストは最後に否定も肯定もせずに大審問官にキスをする。自由にすると互いにパンを奪い合って結局は破滅する人間は、奇跡と権威と神秘つまり悪魔の力を借りてコントロールしないと破滅するとキリストにいいつのる大審問官の心のなかに深い苦悩を感じ取り、憐みと共感のキスをする。彼の思想と行為はキリストの思いを否定したものであり、許すことはできないはずであるが、今そこにある大審問官の苦悩を感じ取ることで憐みと癒しのキスと与えると解釈したい。この話が無神論者でこそないが神の作った世界を認められないイワンの口から語られることで深い説得性をもつ。
大審問官を聞き終えたアリョーシャもイワンにキスを与える。イワンは大審問官の苦悩と、さらに神と大審問官との間を揺れ動くという2重の苦しみをもつ。イワンはキリスト教が科学に対して無力となりつつある時代にヨーロッパの人々が持つ神への不信を代表する。それを感じ取ったアリョーシャの憐みと共感のキスである。この作品のテーマの一つは「神は存在するか」ではなくて、「神の創った世界は認められるか」である。
後にイワンが自らを心のなかでは父殺しだと苦しんでいるのに対してアリョーシャが「あなたではない」と宣言するのはこの延長線上にある。あなたは神の作った世界を認めないというが、物語の中でこの矛盾にみちた世界を超えてなお、神も認めているではないか。だからキリストをして大審問官にキスをさせたのだ。そんなあなたには父を殺せるはずがないといいたかったのだ。
作者は神は社会的効用に対して無力である。ただ純粋な憐みのみがある。社会的な矛盾の解決には社会主義が有力であるとでも言いたげだ。「教会が国家になるのではなく、国家が教会になる」との会話がどこかにあった。教会が国家になっても社会的には無力だが、国家つまり社会制度をうまく考えだす信仰をもった人々が国家を運営することが理想につながるのではないかと控えめに述べている。
人間世界の仕組みの矛盾を解決できないキリストをイワンは物語を借りて批判しているのだが、その創作物語のなかで無意識のうちにキリストの憐みのキスのシーンを挿入する。これを聞いたアリョーシャは、イワンが神を信じていることと、大審問官とキリストの間を揺れ動く深い苦悩をしり、共感する。現実的な効果を信仰に求めても無駄で、ただ他者に対する憐れみと愛があるのみだとする。シンプルな原点に対する回帰である。アリョーシャが満点の星と大地に感動する素朴なアニミズム的信仰とも共振する。
クリスチャンではない私にも、ただ憐みが存在すると言うだけで救われるというのは深く理解できる。仏教の慈悲やヒンドゥー、イスラムと置き換えても同じ普遍的感動が得られるに違いない。現世利益には直接結びつかないが、慈悲が遍満していると確信するだけでどれだけの救いがあるか。勿論、小説は自由を扱いきれない人間社会をどうすればよいかに答えを用意しない。「場違いな会合」で神を信ずる社会主義者がその答えであるかのようなつぎの描写もある。
教会が国家になるのか、国家が教会になるのか。ミーソフがかつて聞いたロシア警察幹部からの伝聞として「もっとも恐れなければならないのはキリスト教を信ずる社会主義者」と言わせている。ロシアの民衆とキリスト信仰に根差さない社会主義は科学で肉が造られ、人々が飢えなくなってもどこか満足が得られないもので、一方、信仰を土台にした社会主義は民衆の支持を得るゆえに恐れなければならないとの考え方が示される。これを社会主義の崩壊した現代では普遍的と考えることは誰も考えることはできない。あるいは当時の社会情勢から作者が辿りついた考え方なのだろうか。
人々に自由を与えると天に通じるバベルの塔は立たないとは核や原発の脅威にさらされる現代でもその通りではないかとも思えてくるほどだ。