まさおレポート

当ブログへようこそ。広範囲を記事にしていますので右欄のカテゴリー分類から入ると関連記事へのアクセスに便利です。 

ADSLまでの道 8005

2021-10-12 | 通信事業 孫正義

孫さんはどうしてADSL事業を始めたのだろうか。本人は

「通信事業者になりたいと思ったことは一度もない。情報革命の一環として成功させたかった」

と後年に述べているが、一方では

「ADSL事業は人生で最も苦労した仕事」とも述べている。

軍資金をためる時代から通信事業者へ向かう道筋を記してみた。


20代後半の孫さんは江副氏の勉強会に参加している。

1985年4月1日にNTTが民営化された後、第二電電、ニッポンテレコム、日本高速通信が相次いで設立され稲盛氏などの日本財界の巨人が進出した。

江副氏は稲盛氏に相手にされなかったが第二種通信事業者の第一号事業者となってチャンスを狙っていた。

20代後半の孫さんは経営学者の野田一夫が主宰する勉強会に参加している。ここで孫さんは江副氏と知り合っている。

経営学者野田一夫氏は孫さんを次のように語っている。

「孫君が、赤坂の僕のオフィスを突然訪ねてきたのは、孫君が九州で創業して間もなく、東京に出てきた1981年、つまり、孫君がいまだ20歳そこそこの頃だった。小柄で、今も変わらぬ「じつに人懐こい」笑顔を見せる好青年だったから、僕は今も鮮明に覚えている」

そして志を孫さんに説いたと語る。孫さんが「事をなす」ことを一言で表した志を座右の銘とするのは実は野田一夫氏に依っていたのだ。

野田一夫氏は「僕は彼らに、君たちは志と夢の違いが分かるかと問いかけ、そしてさらに、夢は、クルマを買いたい、家を持ちたいといった快い願望だが、志は未来への真剣な挑戦だ。志と夢では次元が違う。夢を追うような男にはなるな!高い志を追いつづける人間になれ」と言ったと語る。

野田一夫氏は続ける。

「たとえば孫君は、よく知られるように在日韓国人として、若い頃はたいへんな苦労をしたという。その彼がアメリカの大学を卒業してから、わざわざ日本へ戻り、日本で起業した。なぜシリコンバレーではなく日本なのかと問うと、彼は目をキラキラさせて、僕は日本が好きですから、と言うのである」

野田氏が「在日韓国人として、若い頃はたいへんな苦労をした」と述べるようにそのことが彼のキャラクターを形成したのだろうか。

西和彦氏は孫さんのキャラは半島由来ではなく九州の土地柄の反映だと述べていた。わたしも中学時代の九州からの転校生や社会人になった後での九州出身者とのつきあいからそれを実感している。


その後肝炎で病気入院している間に雑誌出版、データベースシステム事業で個人で10億円の借金を抱えることになる。

「創業して1年半、僕が会社の健康診断を受けたら、重症だと。肝臓が悪かった。即刻入院。そこから3年半。入院出たり入ったりを繰り返した。でもなんとかそれを乗り越えた」孫正義2011LIVE

父の勧めるステロイドを使った特殊療法で奇跡的に一命と健康体を得ることに成功する。そして「竜馬がゆく」を読み返してある種の開眼をする。


孫さんはブロードバンド事業参入の気持ちを竜馬の土佐弁を真似て次のように語る。

「なぜならそのとき、日本のインターネットは、先進国で世界一遅い。高い。これじゃあ恥ずかしい。

だから日本のインターネットユーザー全部のために、ワシの人生よりそのことのほうが大切じゃ!

ソフトバンクの経営者としての責務はある。つぶすわけにはいかんぜよと。

あわせてワシは何のために生まれてきたのか。そりゃデジタル情報革命だろう。ここで怯むわけにはいかん。

この高い高い、世界一遅い、ってヤツを、世界一安くしてやろう、世界一高速にしてやろう。
ヤフージャパンが喜ぶ。それはいいじゃないか。でもついでに楽天も喜ぶぞ。ついでにニフティとかなんとかいろんな会社もインターネットやってるあの人たちもみんな喜ぶけど、社長いいんですか?

うちの役員に聞かれました。みんな喜ぶでええじゃないか。日本国民が、いつか、いつか、喜んでくれりゃあそれでええじゃないか。

ええじゃないか。名もいらん。金もいらん。地位も名誉もいらない。そんな男が一番厄介だ。そんな厄介な男でないと、大事は成せない。大きな事はなせない。こう言ったのは、あの幕末の西郷隆盛であります。


1994年ソフトバンクを店頭公開した頃で1996年ヤフージャパンを設立する2年前に孫さんは米国ワシントンDC郊外のベル・アトランティックの電話局でDSLによるVODを見学している。

そして半導体の写真を見たときと同様に激しく感銘を受けている。後のADSLに始まる通信事業へのトリガーになった出来事だ。

「1994 年に技術調査部の飯塚久夫君とともに、ワシントンDC郊外のベルアトランティックの電話局にDSLによるVOD の見学に行ったことがあります。その際、孫正義氏(ソフトバンク社長)を御案内しました。

私も感動しましたが、そのときの孫さんの興奮の様子が忘れられません。

ソフトバンク社のADSL 事業による大発展の原点はここにあると思います」

「当初 NTT では「オープン化は敵に塩を送るもの」として,社内に強い抵抗がありました.

しかし,私はネットワークのオープン化は通信市場の活性化をもたらし,情報通信産業全体を発展させるとともに,NTT 自身の体質も改善され発展できると信じておりました.

結果として,NTT のネットワークは世界で最も開かれたネットワークとなり,競争の進展で急速な料金の低下をもたらし,その後の携帯通信・インターネットを含む情報通信の大発展に寄与することとなったと確信しています」

と元NTT石川宏氏は述懐する。

(引用は通信ソサイエティマガジン No.16[春号]2011)


1994 年のある日 孫さんとNTT児島社長はNTT本社で会談する。

「この会社が独占的にネットワークの、インターネットの、独占的な市場支配を持っている。当時は99.9%、NTTのメタル回線を使わないと、インターネットのサービスができない、ということだったんですね。私はNTTの社長に何度か会いに、直接会いに行ったんですよ。ブロードバンドを始めてください。ADSLを始めてください。NTTとしてやってください。そうしないと日本が困るんです」

「NTTとしてはISDNでブロードバンドをやると決めています」と児島社長はあっさりはねつけた。

「ISDN。もうとんでもない話です。日本だけなんです、世界でそんなことをやってるのは。これが原因で料金が高い。またこれが原因で遅いんです。そういう状況で聞いてくれない。


孫さんは高速で廉価なインタネットの手がかりを求めて1999年9月10日にソフトバンク、東京電力、マイクロソフト社がスピ-ドネットを設立する。東京電力の光ファイバを利用して基地局に接続する。基地局から2.4GhzのFWA方式で顧客の設置したアンテナと結ぶ。

ブロ-バンドの切り札として期待され2000年夏の開業予定であったが電波の干渉問題でサービス開始が遅れ2001年5月のさいたま市でのサービス開始までずれ込む。

2000年の夏のスピ-ドネットのもたつきと前後してADSL事業への参入を説かれて孫さんは一気にスピ-ドネットからADSL事業へと方向転換する。

その後、孫さんは東京電力の電柱賃貸の手続きの遅さを強く批判するようになる。

「東京電力の電柱を賃貸するために月まで届く申請書類が必要なんです」

と批判をするようになるのはこの当時の体験がベースになっている。スピ-ドネットは2006年5月にサービスを終了する。


ISDNだけでは時流に乗り遅れると危機感を抱いたNTTは1995年12月9日にADSLサービスの試験提供を発表する。NTT社内でもADSL推進派がいたことを示すものだが郵政省からのプッシュも強く「一応需要がありそうだから念のためにやっておく」感が強かった。


孫さんがADSLに至るまでの道のりを振り返ってみよう。

東京メタリックの社長を務めた小林博昭氏は会報で次のように述べている。

1995年、都内のホテルでADSL実験による映画を送信する公開実験を行い、その年の暮ADSL一式を買ってくれたのは孫さんで、(実験は)NTT大岡さんと神戸大学平野先生と三人で行った。調査の結果最初は800円の回線利用料が160円になって(現実味を帯びてきた)(小林博昭 淡交会報74号2015 カッコ内は筆者が補足)


1997年に当時はまだ郵政省と呼ばれていた総務省で「21世紀に向けて推進すべき情報通信政策と実現可能な未来像」研究会が開かれ孫さんが委員として参加していてわたしも別の会社から参加していた。

研究会で孫さんがプレゼンをした。いつものように農業革命、産業革命、情報革命の三段階革命の持論をパソコンとプロジェクタを使って展開した。

そのあとに、日本国の通信業界はラムネであるとの話をした。曰く日本の情報通信政策推進上、ボトルネックが2つある。ひとつは郵政省で、ひとつはNTTだと。なるほどラムネ瓶にはボトルネックが2つある。うまいことをいうものだと感心して聞いた。

自分で思いついた例えだろうがビジュアルに一瞬にして訴えて実に上手い。農業革命、産業革命、情報革命の持論は後に国会でも同じ趣旨の意見を述べている。

こうした研究会に参加するということは情報通信に乗り出す気持ちを固めていたのだろう。


2000年から2001年にかけて総務省はADSL事業を推進するためにさまざまなル-ル改正や作成を精力的に行った。回線利用料を800円から140円に値下げなどはADSLサービス市場の開拓に非常に強力な推進力となった。

1.総務省のリードでNTT局舎内の主要設備である配線盤が開放されたことでNTT局舎の共用(コロケ-ションと呼ぶ)に必要な諸条件が整った。

2.イ-・アクセスの訴えにより2000年2月21日に公取がNTTの建設工事の遅延に対して指導したことで政府の後押しが実感されたことで各社が参画しやすい空気が醸成された。

ADSLをサービス提供するにはそのエリアの電話回線を収容するNTT局舎の中に各種工事が必要だがその最初の工程である局舎の調査依頼の進展がはかばかしくなかった。業を煮やしたイ-・アクセスが独占禁止法違反で訴えたのだ。

公正取引委員会はNTTが意図的なサボタ-ジュを行っていないかを調査するためにNTT東の本社に朝出勤時間帯に乗り込んだ。

NTT相互接続推進部の幹部以下スタッフ全員を一室に集めて一種の軟禁状態にし、パソコンや書類から幹部の手帳までを証拠物件として押収した。ドラマをみるような展開の中で公正取引委員会から改善命令がなされた。

改善命令を出して一見落着と言う簡単な問題ではない。NTT相互接続問題はつきつめると心理的サボタ-ジュにどのように対応していくのかという問題になると各社に認識された。心理的サボタ-ジュ追及の矛先は常に証拠不十分で生ぬるいものに終始した。

3.NTTダ-クファイバ(光ファイバを素で貸すサービス)が開放された。NTT各局まで集めたADSL回線をサービス各社のインタ-ネット基幹ネットワ-クに接続するためにはNTTのダ-クファイバ-を借り受けることが必須になる。

ダ-クファイバ回線に空きがない時はKDDや電力系子会社のファイバを借りてでもリングを形成しなければならない。

上記の開始条件が次々と整ってきた。後はサービス開始をするばかりになっていた。


2001年に孫さんは国会第三回憲法調査会で参考人として意見を述べている。現在まで続く一貫した考えが見て取れる。国会での参考人のネット・アクセス権表明ではあるが、通信事業に乗り出す理念を宣言したと受け止めてよい。

直接的に事業開始を述べてはいないが理念を述べるなかに事業進出の覚悟を読み取ることができる。

人類は、「農業革命」、「産業革命」を経て、現在「情報革命」の時代にある。
「情報革命」の時代において、プロセッサー(中央処理装置)の素子数の増加、脳型コンピューターの開発等によりコンピューターの能力が人間を超える可能性がある。

機械に使われるのではなく、人間が機械を使いこなすことが大切である。

アジアにおいて、高速インターネット網の整備が進んでいるが、この点において、日本は決定的に遅れており、規制緩和、競争の促進により、高速インターネット網を早急に整備すべきである。

21世紀の憲法は、IT革命やグローバル化を前提として制定されるべきであり、その際には、以下の点が重要である。

インターネットの普及に対応し、憲法に、情報に自由・平等にアクセスできるネット・アクセス権を規定するとともに、プライバシー保護の権利を保障すべきである。

また、コンピューター・ウィルスやハッカーによるインターネットへの攻撃の危険が現実的なものとなっており、ネット・セキュリティの確立を図る必要がある。

インターネットを活用した電子投票制度を導入し、大統領制のような国民が直接リーダーを選出する制度を実現すべきである。

また、投票を事実上義務化し、18歳以上の国民に投票権を付与すべきである。

中略

ベンチャー企業にも平等な機会を与えるため、いかなる独占企業も認めないことを憲法に明記すべきであり、独占禁止法の運用の徹底を図るべきである。

上述の参考人表明は以降の通信事業に乗り出したあとの基本理念を述べていると読める。

「大統領制のような国民が直接リーダーを選出する制度を実現」は実現には至っていない。また「ネット・セキュリティの確立を図る必要がある」も道半ばだ。

ネット・アクセス権を規定することは国連でテーマに上がってきた。「高速インターネット網を早急に整備すべき」は達成した。「機械に使われるのではなく、人間が機械を使いこなすことが大切である」はスマボの展開へと言葉は変わってきているが本質は同じだ。


1999年9月1日にJANISネット(株式会社長野県協同電算)が長野市の川中島町有線放送農業協同組合の有線放送電話網を使って下り最高1.5Mbps・上り最高272kbpsのサービスを始めた。

このJANISネットに参加していたTさんが2001年にソフトバンクを訪れADSL事業の提案を行った。

もとよりADSL参入の機会をうかがっていた孫さんはこの依頼を断る理由はない。

「H お前Tの話を聞いてやってくれ。日本のADSLを一気に加速するかもしれん男や」と孫さんは当時ソフトバンク傘下のブロードメディア社長のHさんに依頼する。

かくして事業開始の歯車は回り始めた。


後年孫さんは講演で当時のADSL参入時の気持ちを次のように述べている。

(NTTが)聞いてくれないならしゃあない。ワシがやるしかない!決意してやったのがヤフーBBです。

ゼニ儲けだとか、名誉欲とかで始まったんじゃないんです。命を賭けて、命の叫びとしてです。
まさに我々にとっては桶狭間の戦いだった。
小さな我々の会社が、日本一大きな会社に、しかもバブルがはじけたあとに。

最悪我が社が押しつぶされたとしても、その結果、日本のブロードバンドの夜明けが来れば、それはそれで目的は達成です。

結果捨石になったとしても、幕末の尊皇攘夷の革命の志士のように、途中で殺されても維新が起きれば、それはそれで立派に事は成せりなんです。

結果、日本は世界一安くなった。世界一の速度が出たんです。
自分ひとりの命でもいいから、世のため人のために命を投げ捨てる覚悟があれば、波紋は起きはじめるということです。

未知の分野に新規投資する場合、小さく始めるのか、それとも大胆にいくのか。 10人に9 人は「小さく始める」と答えると思う。 しかし 日本最大のIT企業、NTTの圧力を乗り越えるためには、大きな勝負に出なければならない。

孫正義でなければできないことをやろうと。このために米ヤフー本社の株も売却し、戦略事業と考えてきたものまでも手放した。

ここでも「竜馬がゆく」の深い影響を見る思いがする。


2001年はNTT東西、イ-・アクセス、東京めたりっくに続きACCAがADSL事業を開始していた。いよいよ孫さんも満を持しても9月にサービス開始すると宣言する。

 

 


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。