まさおレポート

新電電メモランダム(リライト)15 NTTからの傭兵

 

<特異な人材援助の構図>
新電電各社は1985年の事業許可申請(1985年4月8日申請 同年6月21日許可)以来、NTTからの人材派遣を要請し、専務からスタッフにいたるまでかなりの人数が各社に出向してそれぞれの社内で経営の中枢と言ってもよい重要な役目を果たすことになった。2012年12月現在のKDDIやソフトバンクの成長とその間の競争状態からみるとかなり奇異な感じを受けるに違いない。
 
人材援助の中心となったのはNTTのある小さな人材派遣子会社である。この会社はNTTxxxのようにNTTブランドが前面に出ていないので知らない人にはNTTと全く関係がない会社に見える。NTT社員は新電電各社に派遣される場合、一旦この小さな会社に出向して、この会社から新電電各社に人材派遣するという方法をとっていた。何故そのような手の込んだ形で人材を派遣したのか。直接的な派遣関係が外部から見えることを嫌ったことが第一の理由だと推測できるが、当時のNTTの新規子会社設立ブームも多少影響しているだろう。NTTの本業とは関係ないスポーツジムなどを経営する子会社もあった。
 
この通信事業競合会社間での人材派遣というのは海外では皆無で、例えば米国の通信業界特にAT&TとMCIなどの間では到底考えられない不思議な関係であった。又国内でも例えば自動車産業でトヨタがホンダやスズキに経営中枢の人材を派遣するなどとは企業提携でもしない限り、絶対に考えられない。(引き抜きなどの転職なら当然ありうる話だが) この不思議な人材派遣が堂々と行われていたというあまり知られていない事実は、当時のNTTと新電電各社の互いに相手をどのように見ていたかの本音がかいま見える格好のテーマだと思う。いずれにしても新電電各社とNTTはこの頃、通信業界のライバルと言うにはあまりに規模が違いすぎた。そのことがこうした日本特有の特異な人材援助を成り立たせたのだろう。

<派遣された社員の業務>

私が転職した1989年の暮れ、日本高速通信株式会社には当のNTT子会社である人材派遣会社から企画部へ一名、他に設備部門で2名の合計3名が既に在席していた。その中の設備関係にいた一人は私が20年も以前のNTT時代に同じNTT中央電気通信学園大学部の同窓だったこともあり、20年ぶりの再会に実に驚いたものだ。さらに後年、NTTデータ時代の先輩上司も早期退職とセットでの再就職あっせんで再び出会うと言う奇縁も経験した。このような退職後の再就職組を除くと彼らは2,3年の派遣の任期を終えると再びNTTの人事ローテーションに従い再びNTTの職場に復帰していった。

企画部に派遣された社員は契約約款の作成を担当していた。顧客との契約事項を特有の言葉で書き表していくには通信業務全般の知識と経験が必要でありスペシャリストとして業務をこなしていた。設備部門に派遣された社員はNTTとのPOI設計や相互接続設備の設計と設営に従事していた。又、設備部門のマネジメントは同じくNTTの大規模電話局長経験者が同様の会社から派遣されていた。大規模電話局の局長経験者といえばNTTの最高幹部候補であり、何故派遣されてくるのかと不思議な気がしたものだが、一層不思議なことに三代続くことになるその三人が揃って同じ電報電話局長経験者であった。NTT理事出身の専務の配下に現役のNTT中堅幹部と現役のスタッフが新電電の一社で技術系の中枢として存在したという不思議な人材ネットワークはメディアには決して取り上げられない新電電各社草創期の話ではなかろうか。

他の新電電2社(DDIと日本テレコム)にも同様にNTT派遣社員やNTT早期退職の新電電再就職組がいた。新電電各社からみて早期退職再就職組は社員としての平均的で妥当な給料水準を支払っていたが派遣社員に対してはNTT子会社の派遣会社に給与水準で2倍以上高額の派遣費用を払っていた。これらの派遣費用は勿論彼らに直接そのままの額が支払われるのではなく、元の職場と同額レベルが彼らには保障されていて、それに多少の出向手当的なものが付加され、残りはNTT子会社である当の派遣会社の取り分となっていたから新電電各社からみれば早急に自前の社員を育成する方が賃金費用から見ても有利であり、各社の派遣社員数は徐々に減っていったが、特に日本高速通信株式会社は派遣人数も在任期間も他社に比較して長かった。社員として採用するなり人材を育てればよいのだが、このあたり事業に対する人事政策上のポリシーがはっきりしなかったようだ。

<派遣社員の働きぶり>

彼ら派遣社員は各社で貴重な即戦力として誠実に働いていたし、競争相手のNTTとは相互接続交渉の諸局面で厳しい対立関係が続いていたにも関わらず社内で疎外感ももたず(そうみえただけかもしれないが)、どちらかと言えば社員からも大事にされていた。このあたり極めて日本的な現象と言える。米国のエコノミストたちが聞いたら腰を抜かすかもしれない。「一体会社の機密はどうやって守るのだ」という非難と当惑の声が聞こえてきそうだ。当初は新電電各社が独り立ちできるまでのニーズかと思ったが、随分長いあいだ、おそらく10年ほどにわたって、(派遣要員は交代したが)このNTTからの派遣システムは続いていた。

<新電電各社の人材政策>

第二電電はNTTの30代後半から40代前半の中堅幹部社員を一本釣りで副社長や技術系の幹部に採用していた。日本高速通信の専務がNTT出身者ではあるが既に退職年齢に達していた人材を迎えるのと比べると、働き盛りの年代を自社に将来を支える幹部として登用していた点が大きく異なる。千本氏や小野寺氏がこの草創期に引き抜かれた人材である。千本氏は副社長を退任し慶応大学院の教授を経てイー・アクセスを創業した。小野寺氏はKDDIの社長を長く務めた。不足した要員は積極的に中途社員を採用して幹部に登用していた。斜陽化していた船会社の通信士から転職してネットワークセンター長に登用されていた旧知もいた。

日本テレコムは人材をJRと子会社の鉄道通信の技術者に求めた。この子会社は国鉄時代からの長い歴史を持つ通信会社で電話や無線の技術者を豊富に抱えていた。

日本高速通信は専務とNTT子会社派遣要員に日本道路公団の通信技術者を核に据えた。やはり通信技術者の層が薄くスキルレベルが低い。そのためNTTからの派遣に頼らざるを得なかったという事情があった。その後の各社の盛衰はこの人材政策と無関係ではないかもしれない。

<何故NTTは社員を派遣したのか>

彼らは全般に優秀で誠実に業務をこなしていたが、いかんせん企業に必要な愛社精神を期待する方が無理な話で、やはりどこか冷めていた面も否定できないだろう。日本高速通信株式会社に対する人材派遣、第二電電株式会社に対する引き抜きの許容、新電電三社に共通する退職者の斡旋と色々な形でNTTは新電電に人材提供をしてきたことになる。競争相手に人材派遣するという他の業界や他の国では見られない一見奇異な協力は何故生まれ、継続してきたのだろうか。幾つかの可能な理由を考えてみたい。

①真藤総裁時代の新電電に対する鷹揚な育成マインド説。通信事業者としての規模と格の違いからNTTは横綱相撲をとってしかるべきであり、巨人と蟻に例えられていた時代の、まだまだ蟻の存在である競争相手(といっても横綱と幕内ほどの差があるが)新電電を人材面でも育成してあげようとの寛大な配慮から出たもので、人材派遣により不足する人材を援助してあげようとの説である。

真藤総裁時代にはこのほかにも他の二社に比べてネットワークの建設に困っていた第二電電株式会社に対して、NTTでは既に光ファイバーの縦断幹線が完成していたために不要になった日本縦断マイクロウェーブの一部を協力的に売却したという伝説に近い逸話が残っている。この売却はNTTにとって不要資産の整理という側面もあるが、他の新電電に比べて唯一自前ネットワークを持たず、当初最も弱い新電電とみられていた第二電電株式会社にとって、まさに起死回生の画期的な援助ではなかったか。おそらくこのマイクロウェーブネットワーク網の取得がなければ、今日のKDDIの隆盛は無かったのではないかと思われる。

草創期の新電電各社に対するNTT接続の費用の設定にあたって、現在の長期増分費用方式に見られる接続料金の複雑・煩瑣な議論をあえて避け、NTTの地域電話料金と同じくMA内三分10円に設定することに決めたのも真藤氏の主張だと聞いたことがある。

(実は地域電話料金相当とされた当初は、NTT側の計算と交渉が面倒なのでお安くしておきますよと設定されたものと当時の新電電各社は信じていたのだが、後年の接続料金=アクセスチャージが算出されてみると接続料金の方が数円安いと言う事実も判明した。発表された接続料金(接続時点で2.81円が課金されその後秒ごとに0.0753円従量課金されていく)はそれまでの加入者市内料金よりも3分料金換算で数円下がっていたこれなどは後から振り返るとやや滑稽な双方の誤解の産物というべきかもしれない)

②NTTが当時進めていた新規事業展開の一つという説。 「電話線にぶら下がって飯を喰うな」…たしか真藤氏が当時のNTT社員に対して発奮させるために言った挑発的揶揄だったと記憶しているのだが。…からディジタル化、ネット、データ通信、今の言葉でいえばIP事業等を中核とした他の「新規事業で飯を喰え」との檄が飛ばされていたころなので、この人材派遣事業も格好の新規事業となった。しかしこれはせいぜい100人にも満たないと思うので、新規事業の規模としてはかなり小さく、この説は説得力を欠く。

③NTT社員の訓練・勉強説 入社以来、独占に守られて、他の世界をしらない多くの世間知らずの社員に外部の風にあたらせることでもう一枚皮が剥けて成長してほしいとの期待から派遣社員として送り出すとの説。特定の中規模都市の局長経験者が常に次のポストとして派遣されてくる事から、NTT人事システムの一環としか思えない事象も見られた。NTTからするとポスト処遇に困った時のテンポラリーポストの感もあったと思う。

④NTTの新電電ワッチ説 当時のNTTは相互接続時にNTT自社網に影響を受けることをかなり心配していた。しばしばNTTからネットワークに「擾乱」(じょうらん)を与える危惧があるという大時代的な言葉も聞かれた。それだけ、新電電の技術力やマインドに不信感があったということなのだろう。こうした何をするかわからない新規参入者をワッチしておく必要性を感じていたのではないか。一定のレベルにある通信事業の常識をわきまえたNTT社員を新電電側に派遣しておけばそうした擾乱を与えかねない危険な接続行為に歯止めがかかると期待したのではないか。それに加えて新電電の内部情報とまではいかなくても、経営の感触も得たいとの気持ちもあったかも知れない。

上記の①から④までさまざまな思惑が推測されるし、又それぞれの要因が互いに絡み合っての派遣政策であったかもしれない。この4つの説の中でも真藤社長時代の鷹揚な育成マインド説とNTTの新電電ワッチ説がどうもプライオリティーが高そうに思う。育つかどうかわからない新規事業を見守るといった風情と、何をするかわからない新参者ワッチの双方がいずれも当たっている気がする。

<児島社長と横綱相撲の終焉>

後年、児島社長時代になり、1993年10月には市外電話料金引き下げを行い、これまでほぼ毎年40円の値下げを20円にした。その後1996年3月には再び40円の値下げを断行するのでこの年は値下げの踊り場を形成する。1993年は、新電電の長距離電話シェアは54.5%とNTTを上回り、NTTの経営状況は税引き後利益410億円と資本金7800億円の10%配当つまり、710億円を下回る事態になり、繰り越し利益でまかなうような事態に陥った。又、人員削減策を次々と発表して1993年はいわば臨戦態勢に入った年だという事ができる。1994年2月には基本料金と番号案内の値上げをおこない、もはや横綱相撲をとっていられなくなる時代がやってくる。

新弟子が数年で大関クラスまで成長してきた。NTTもなりふりかまっていられない時代に入り、この頃から、派遣もそろそろ引き上げるのではという憶測も流れた。しかし、噂のみが先行し少なくとも日本高速通信では現実に派遣社員が引き上げられることは無く10年程度は続くことになった。

<余話1>

労困局というNTT社内で時折聞かれるディープな用語がある。労働組合との関係がぎくしゃくしているNTTの局のことで、この労困局に赴任させられる局長はやや懲罰的な意味合いがあると聞いたことがある。特定のNTT電報電話局長から派遣社員として常に送られるという事から労困局という今では死語かもしれない言葉を思い出した。全く関係のない偶然かもしれない。どういう事情で常に特定の局から派遣されていたのか、今となっては四半世紀前の過去となり全くわからない。 

 

 

 

 

 

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