如来寿量品
如来寿量品でいよいよ真の菩薩への止揚が説かれる、久遠実成の釈尊でさえ、成仏に安住せず永遠の菩薩道を行うことが示されている。
紀野一義氏の述べる肯定、肯定、絶対肯定の生き方は過去も現代においても実に難しい。成功者、勝ち組などの言葉がはびこり、グローバル社会で金銭的な成功を収めるビリオネアがもてはやされる世の中で清貧は死語になりつつある。ビジネス中心に回る世界でだれもそんなことは歯牙にもかけない。わたしが小学生の頃にはまだ清貧を目指す人も身近に存在したが今は皆無だ。
我が子にもやはり社会に出て成功してほしい、豊かな生活をしてほしい、だからみんな成功者になってほしい。しかしこの願望には根本的な矛盾があることをうすうす感じ取っていても誰も口にしない。
質直意柔軟
紀野一義は如来寿量品の「質直意柔軟」を馬鹿丸出しと訳す。まっすぐで柔軟な心、つまり馬鹿丸出しで「一心欲見仏」と渇仰しそして不惜身命の気持ちと覚悟がなけりゃ駄目だという。利口な者は割の合わぬ仕事はやらない、しかし利口な者は人を幸せにできない。願いを持った人間のほうが人を幸せにする。
他に難しいことはいらない、法華経に恋慕を抱いてまっすぐで正直で柔軟で感じやすい心を持つことだけが大事だと述べています。
氏は70代に入ったあとも毎朝5時に水かぶり、夜も就寝前に冷たい水をかぶる、冷たい水でないとかぶった気がしないという。邪気は冷たい水をかぶるか水の中に入るとなくなる、こんなことは馬鹿で単純なやつでないとできない。ひっかかりがない人、風が吹いていくように、ばかみたいなところに人の心を打つものがある。
自らの戦争体験から、陽でなければよい仕事は出来ない、戦争が始まるとインテリの部下は殆ど死んでしまう。教養が邪魔をすることがあるという。
ろくでもない生活をしている人があるとき空しさを感じて出家したりする、あさましい、あほくさいなかに如来秘密神通の力が働いているのが見て取れると氏はいう。
そのことに感動する人こそが寿量品を読むにふさわしい、こういう独特の感受性が法華経を読むときに必要だと氏はいいます。
暁烏敏は自らをさらけ出して生きた人で人によっては暁烏敏のようにさらけ出してしゃべることを暗に非難する方が時にいる、しかしその方は全身全霊で生きていないから話せない、自らをさらけださない話は絶対に人の心を打たないという。
亀井勝一郎が暁烏敏に会いに行った時のこと、暁烏がふんふんと聞いているが何も言わないのであきらめて帰ろうとしたときに背中越しに「あんたの師匠はだれかね。師匠のいない仏法は仏法ではありませんぞ」と言われた。亀井勝一郎はその場で決めればよかったんですが。亀井勝一郎は教養が邪魔をしたのだろうか。
紀野一義に会いたかった人のエピソードを紹介する。「ほんとうに会いたい人にあうときはこういうものなんでしょうね。まるで壁にもたれるようにして喜んでいただいた」壁にもたれるようにして喜んでいただいたとは眼に見えるようだ。
ヤスパースは人は仮面をかぶり役割を生きていくと言った。ペルソナ、役割、面が人格そのものになるということなんですかね、最後までそれでいければ大したもんでしょうが中途半端では生きていくことは出来ない、氏は役割の仮面で生きていくのは御免だといい、
凡夫もぴんからきりまである、自分が凡夫であるとよくわかっていない凡夫は本当の凡夫ではない、馬鹿まるだしでないと本当の凡夫ではないと氏はいいます。
正法眼蔵・法華転法華
氏は道元の正法眼蔵 法華転法華を述べて、悟っている時は法華を転じていく。転法華、迷っている時法華に転じられていく。どちらにしても法華の中という意味で、悟っても迷ってもほとけのなかというのがそれにあたりますと言います。
生死の若しは退、若しは出あることなく、亦在世及び滅度の者なし。実に非ず、虚に非ず、如に非ず、異に非ず、でこの世界はうたかたのようなものだが(馬鹿みたいに)この世界に明るく生きていくしか無い。それがなかなかできないんですと言います。
氏は宮沢賢治の雲の信号を引いてぼんやりとせいせいすることを述べる。
雲の信号 宮沢賢治
あゝいゝな せいせいするな
風が吹くし
農具はぴかぴか光つてゐるし
山はぼんやり
岩頸(がんけい)だつて岩鐘(がんしよう)だつて
みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ
そのとき雲の信号は
もう青白い春の
禁慾のそら高く掲(かか)げられてゐた
山はぼんやり
きつと四本杉には
今夜は雁もおりてくる
馬鹿まる出し
法華経の絶対肯定讃歌は馬鹿まる出しを讃歌することから生まれる。
若し我成仏して滅度の後、十方の国土に於て法華経を説きます処あらば、我が塔廟是の経を聴かんが為の故に、其の前に涌現して、為に証明と作って、讃めて善哉といわん。
善哉善哉 氏はこれを「ええなあ」と訳す。法華経の絶対肯定讃歌だ。「法華経」
氏は法華経をイメージで理解することの重要さを繰り返し説きます。
寺の息子として小学校1年から経を唱えさせられた。「小学1年生で意味なんかわかりっこありませんよね」親父に怒られるから唱えただけだが、意味も分からないままに唱えることで、あるときその意味がパッとわかる時が来るという。
法華経は字句解釈から入って理解してやろうと思ってもそれは不可能だと言います。朝夕唱えていてあるときパッとわかるとはいかにも現代的な教育法に反しているように聞こえるが体験的にそうつかまえたのだろう。インド哲学や仏教学の理論では決してすんなり入ってこないという。イメージによる領解は右脳によるので日本人には理解できるのではないかとも。
法華経は人々が最高の教えというが、すごいぞ凄いぞというだけで何がどう凄いのかさっぱり書かれていないという批判が根強くあり、これをどう整理したらよいのかわたしの心の中の疑問として残っていた。それに氏は答えてくれる。
法華経には不思議なイメージがある。そのイメージに触発されると、読む者のイメージ脳のなかに顕著な変化が起きる。思いもかけないようなイメージが次々に脳裏に現われたり、自然が素晴らしく美しくなったり、人間がみんなすばらしく見えたりするのだ。法華経
白隠
日本画家の上村松篁も祈りによって美に開眼し芋の葉に向かって合掌していたという。アーティストも祈りによってなにものかに到達する。
昭和二十八年の夏、私は不思議な体験をした。満五十一歳を目前にして、初めて「自然の本体」に触れ、「自然の声」を聞くことができたのである。
奈良・平城の画室から四、五百メートル下におりた村道のわきに里芋の畑があった。私は一ヶ月ほど前から毎日、その畑へ通って朝から晩まで大きな芋の葉を写生していた。
里芋の葉は形が単純なのに描くのは意外に難しいが、同じ所で一ヶ月も写生し続けていると目が洗練されてくる。夾雑物が取り払われて、エキスだけが見えてくるようになる。
邪魔なものは何も見えず、芋の葉の「美の構成」だけがピチッと見え始めた七月のある日のことだ。カンカン照りだったその日も朝から芋畑の中に三脚をすえ、腰かけながら芋の葉をあかず写生した。「もうこれで十分写生できたなあ」と思って腕時計を見ると午後四時である。日没までにはたっぷり時間もあるし、まだ帰るには早すぎる。芋の葉のどこを見ても美しく感じられ、楽しいものだから再び写生を続けた。
そうしているうちに、かなり離れた所からサラサラ流れる水の音が聞こえてきた。日照り続きだったので農家の人が水路の堰から畑に水を入れているのかと思った。ところが、その水音はだんだん大きくなり、こちらに近づいてくるように聞こえるのに、実際に里芋の畑にまで水が流れてくる様子は全く見えない。
やがて、海の風のように量感のある風が吹いてきた。分厚い感じの風である。汗のにじんだシャツのボタンをはずし、その風を胸に受けながら写生しているうちに、気が遠くなっていった。その時、夢うつつのうちに聞こえてきた水の音は、ザーッという風と波の音がまじったような大きな音になり、私の体を包み込んだ。
その忘我の状態が二十分ぐらい続いていただろうか。ふと気がつくと私は芋の葉に向かって腰かけたまま合掌していた。心から「ありがたいなあ」という気持ちが湧いてきて、涙が流れた。今の今まで四十年近く絵の勉強にはげみ続けてきたのは、この境地にめぐりあうためだったのか-そんな満足感もあった。
ありがたくて、うれしくて、わくわくしながら私は三脚をたたんで脇にはさみ、村道を上がって家に帰った。まるで恋人に出会ったような喜びに心を躍らせて、その道を歩いたのだ。
なぜ、あんなにうれしかったのだろう、と考えてみた。自然の生命がわかった喜び、自然の本体に触れた感動ではないかと思った。「実在を知った喜び」とも「霊気に触れた感動」とも言えるだろう。体を包み込んだあの海鳴りのような音は、私を忘我の恍惚境に導く「自然の声」だったに違いない、と自分では考えている。
奈良の丘陵のふもとにある芋畑での体験である。本当の海鳴りが聞こえたり、海の風が届いたりするわけがない。とにかく不思議な現象で、言葉ではうまく表現できないが、私はあの時、確かに自然の本体、実在に触れたのだ。
氏は法華経を真に理解できたのは世界で日蓮、道元、宮沢賢治の三人のみだという。道元が正法眼蔵で法華経は凡夫には理解できない世界で唯仏与仏と記しているとも教えられた。白隠でさえ法華経を42歳になるまでわからなかったという。
「大乗非仏説論」を唱えた富永仲基は法華経は、最初から最後まで仏をほめてばかりで、経典と呼べるものが何もないといった。平田篤胤も法華経みな能書ばかりでかんじんの丸薬がありやせんもの、もし腹の立つ人があらば、其丸薬を出して見せろと云つもりでござると嘲った。白隠も42歳になるまではこんな考えだったのでしょう。
しかし白隠は次のように四十二歳で「経王の王たる所以、目前に璨乎たり。覚えず声を放って号泣す」と豁然として法華の深理に契当したことを記しています。
師、四十二歳。秋七月……徳源の東芳、差して法華経を読ましむ。一夜読んで譬喩品に到り、乍ち蛬の古砌に鳴いて声声相い連なるを聞き、豁然として法華の深理に契当す。初心に起す所の疑惑釈然として消融し、従前多少の悟解了知の大いに錯って会することを覚得す。経王の王たる所以、目前に璨乎たり。覚えず声を放って号泣す。初めて正受老人平生の受用を徹見し、及び大覚世尊の舌根両茎の筋を欠くことを了知す。此れより大自在を得たり
「蛬の古砌に鳴いて声声相い連なるを聞き」だから論理で理解したのではない。虫の声で理解した、つまりイメージで理解したのです。氏は繰り返し繰り返しイメージでの理解、右脳での理解を説きます。
法華経という古い経典を現代に話してどうなるのという人の疑問に対して「2000年くらいはへのかっぱです」と氏は返す。
「自己が自己を自己する」が仏教のもっとも大事な考えであり、「法華経が法華経を法華経する」、。の気持ちで話したいと述べています。氏はみるものきくものすべて法華経とならねばという。
井上靖「本覚坊遺文」を読むと中世のひとは一本の道をあるくことがよくわかると言います。氏は法華経を中心に据えた一本の道をあるく。そして人生を仏に歩かされていると自覚していた。氏も又法華経という一本の道をあるいてきた。
良医病子の讐え
あらゆる病を治すことに巧みな医者がいてその医者には多くの息子たちがいた。父親が他国に行っている間に誤って毒物を飲んで苦しんでいた。そこへ父であるその医者が帰ってきた。息子たちは「父よ、私たちを毒物の苦しみから解放してください」と悶乱しながら云った。父は薬物を息子たちに与えた。正常な意識を保持していた息子たちは、その薬を直ちに服用して癒えた。顛倒した息子たちは薬を飲もうともしなかった。
父親は毒物によって意識が顛倒してしまっているので方便によって薬を飲ませる為「息子たちよ、私は死の時が迫っている。私は薬を与えた。もしも望むならその薬を飲むがよい」と言い再び他国へと旅立った。
旅先から息子たちのもとへ「父が亡くなった」と告げさせた。息子たちは悲しみ嘆いた後に顛倒していた意識が正常になり、父の残していった薬を飲んだ。息子たちが苦悩から解放され再び息子たちの前に元気な姿を現わした。これは、仏がいつまでも姿を見せていると、仏の教えを求めようとしないので、仏は近くにいても、敢えて衆生に見えないようにする雖近而不見を譬えたものだと述べる。
本行菩薩道
海の底で8歳の女の子がたちまちさとった龍女成仏の話は伝説ですが本行菩薩道に収まる、願を立てて南無阿弥陀仏も本行菩薩道に収まり人生の中で波乱があっても海の上に波が立つようなものでそれを肯定すれば本行菩薩道だ。
氏と同じように戦争にとられたものが「俺は情けない、毎日土方みたいなことをする」と否定するよりも、「体を鍛えればよいじゃないか」と肯定する。戦場に送られて戦死するものは圧倒的に否定派が多い。
氏は戦争中のことを語るが過去の今を語っている、思い出しているそれぞれが今だといいます。
今生で菩薩になるのは前生で立派な修行をしていたからだ、これを本行菩薩道と道元禅師は言う。論文「法華経と道元 紀野一義」では以下のように詳説しています。
正法眼蔵の文章の中に出て來る「本行菩薩道奉勤於諸仏」ということばは、法華経寿量品からの引用で、単に「菩薩道を行じて」とある箇所を引かず、「我、本、菩薩道を行じて成ぜし所の壽命、今猫未だ書きず」という箇所を特に引用したのには理由がある。道元禅師が狙ったのは本行菩薩道で、今日の果報は昔菩薩道を行じた結果である、心迷、心悟いずれであれそれは本行菩薩道の結果である、それ故「心迷をうらむることなかれ」と氏は説いています。
この本行菩薩道の考え方は法華経思想のひとつの柱だが、道元禅師はさらにこれに「奉勤於諸仏」という考え方を加えた。たとえば「正法眼藏無情説法」にこのゆゑに諸仏諸租、おなじく威音王以前より説法に奉勤しきたり、諸仏以前より読法に本行しきたれるなり。と言う。
本行菩薩道は「奉勤於諸仏」であり「奉勤於諸仏説法」で、道元禅師は威音王以前よりある説法というものを考え、諸仏はこの説法に理せられきたり、またこの説法を理しきたつていると考えている。この見地から、「法華転法華巻」の「釈尊の法華にあらず、諸仏の法華にあらず、法華の法華なり」という一句を書かれたと氏は説きます。
道元禅師のこの立揚は、全く相対立する二つのものが、それぞれに相手とは異なったものでありつつ、同時に相手とひとつである、あるいは、相手の立場に入れ替り得るものであることを示している。しかもそれは、「法華のとき」にそれが可能という。
同じ「法華転法華巻」に「子は子でありつつ老であり、父は父でありつつ少である」という、この全く相反する二つの立場が重なつたところに実相を見ようとする考え方は法華経に初まるのではなく仏教思想の基本的な形であつたと氏は考える。
原始仏教の「無我説」は通俗的無我読と第一義的無我説があり、通俗的には五蘊のひとつひとつについて我(自在者)として立てるものがないという考え方で、無我とは自在性のないもののことだ。
ところが第一義的な無我説では我は固定普遍のものであり、無我とは固定性のない可変のものと考えられている、同じ「無我」でありながら、一方ではそれを「かくあるべしということができないもの」と考え、一方ではまた「かくならしめようとすればそれは可能であるようなもの」と考えるという風に、全く相反する立場が共在していた。そしてこういう意味の無我は、「無常」や「縁起」などにつながりを持つと氏は説きます。
「一切法空」も、世俗的な解釈では「一切法に封する執着をひとつひとつ空じで行くこと」であるにもかかわらず、第一義的な解釈では、「一切法そのものがもともと空なのである」という立場に立ち、相反する立場が共在している。
二つの相反する世界の重なつたところに実相を見る立場が古くから存在し、法華経がそれを象徴的に表現し、六祖がそれを法華経の基本構造であると観破し、道元禅師がそれを自己の思想の基本構造のひとつとして探用したと氏は述べる。
常不軽菩薩品
武人の魂と常不軽菩薩
紀野一義は偏狭な人たちを憎むことを自らの体験で語っている。氏が戦争中に一度だけ人を斬りにいった体験を何回か語っている。中国で終戦処理にあたっていた22歳の時に司令部参謀が勝手に司令部の命令を変えてしまい、それがもとで将兵達が危機に陥った。それを知った氏は日本刀をかんぬきざしにして血相変えて中国の通りを走っていく。在留日本人のおばあさんがなにか氏にささやいた。氏はその言葉で我に返ってすごすごと引き下がった。
結果的には司令部の命令は正されことなきを得たという。そしてそういうぎりぎり、相手を殺したいほど人を憎む体験をしたあとでしか常不軽菩薩(誰に対しても仏心をもつものとして敬い、その敬った人たちから狂った坊主とさげすまされ石を投げられた。)の行動は腑に落ちるものではないと述懐している。常不軽菩薩は単なる好人物だけの人ではないのだ。
最初の威音王如来既已に滅度したまいて、正法滅して後像法の中に於て、増上慢の比丘大勢力あり。爾の時に一りの菩薩比丘あり、常不軽と名く。
石を投げられたら届かないところまで逃げてまた礼拝する。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出すよりも合理的ですね」と氏はいう。
戦争に行く前に中島敦の李陵を読みました。大変な弓の名人で5000人を率いて蒙古を攻める。匈奴といわれました。7万5千の騎兵が襲い掛かる。打撃を与えてはしりぞく与えては退き戦ったが、捕虜になる。そして最後は死んでしまう。中島敦は驚くべきことに生きて虜囚の辱めを受けずの日本でこんな小説を書いた。そして敵でも尊敬するという精神を書いている。
こんな日本の武士道的伝統を台なしにしたのは信長以来であり、幕末、第二次大戦とこういうのが増えてきた。こういったなかで常不軽菩薩をかんがえてみたい。日本は敵を持たないという生き方に問題があると思う。こんな生き方をして金ばかり儲けている、どこまで続きますかね。
大乗仏教という「釈尊の原点に還る」運動は、増上慢の比丘たちから批判されながらの運動であったことをこの品が示していると植木氏は述べている。
釈尊の前世、むかし威音王如来という同じ名前をもつ2万億の仏が次々と出世され、その最初の威音王仏が入滅した後の像法の世で、増上慢の比丘など四衆(僧俗男女)が多い中にこの常不軽菩薩が出現する。
鳩摩羅什訳では「我、敢えて汝等を軽しめず。汝等は、皆当に作仏すべし」菩薩からこのように声をかけられ、出家在家の男女は罵り、非難し危害を加える。
それでも菩薩は決して怒ったり、憎悪の心を生ずることはなかった。菩薩は何をされても、危害の及ばないところへ走り去り、そこから大きな声で訴え続けた。
「我、敢えて汝等を軽しめず。汝等は皆、当に作仏すべし」
菩薩は命の終る間際になって、虚空から聞こえてきた法華経で六根清浄を得て寿命を延ばす。そして菩薩が法華経を説き始めると、四衆に変化が起こる。こうなると常不軽菩薩は詩人の心をもつことも分かってくる。
紀一族は代々、将軍と詩人を輩出している。東京大学に入って白山上の寮に下宿した私が、白山上の角にあった小さな、詩書のみを扱う古書店に入り浸って、三度の食を節してまで詩書を購入し沈溺したのは一族の持つ詩人的性格によるものであり、軍隊に入って剽悍な戦士に変身していったのは、一族の持つもう一つの面、いくさ人(にん)の血に目覚めたからに他ならない。人生は捨てたもんじゃない 紀野一義
法華経は武人と詩人の心がないと読めない。
ドストエフスキーと常不軽菩薩
常不軽菩薩は詩人の心をもつ、それは「原訳カラマーゾフの兄弟」を読めば分かってくるといえば飛躍が過ぎるだろうか。
松岡正剛は「千夜千冊」の中で
「もしもドストエフスキーやトーマス・マンが常不軽菩薩のことを知っていれば、すぐに大作の中核として書きこんだはずである。そのくらい、断然に光る(なぜ日本文学はこの問題をかかえないのだろうか)」と述べている。
アリョーシャは、いったいどこが優れているのかは「たぶん、小説を読めばおのずとわかるはずです」(原訳)と述べ、また、
「奇人とは必ずしも個々の特殊な現象とは限らぬばかりか、むしろ反対に、奇人が時として全体の核心を内にいだいており」(原訳)
と書き、アリョーシャを誰からも愛される、人をさげすんだことのない青年として描き出す。
子供に石を投げられるがかえって子供たちをかわいがり、子供たちと未来を誓い合う場面やアリョーシャのイリューシャ追悼の言葉は法華経の常不軽菩薩を彷彿とさせる。
常不軽菩薩は、僧も世俗の人もみんなことごとく礼拝して「私は深くあなた達を敬い、あえて軽んじるようなことはしません。なぜかというと、あなた達はみんな菩薩の道を行って、まさにみ仏になることができるからです。」と言った。
すると人々はその言葉に怒り出して、「この無智の坊主め、どこから来たって私はあなた達を軽んじません。われらがためにまさにみ仏になるでしょうと嘘そらごとを言うのだ。
お前みたいな坊主がそんなに言ったからといってどうしてありがたがるだろう」と罵られ、杖で追い払い、瓦や石をもって殴りかかってきた。菩薩はその場をにげては、遠くから大声で「私は深くあなた達を敬い、あえて軽んじません。あなた達はみんな仏になるでしょう」と叫んだというのである。
「原訳カラマーゾフの兄弟」を読めば常不軽菩薩とアレクセイ・カラマーゾフの奇人ぶりが重なる。
「奇人とは必ずしも個々の特殊な現象とは限らぬばかりか、むしろ反対に、奇人が時として全体の核心を内にいだいており」原訳 カラマゾフの兄弟
アレクセイ・カラマーゾフは常不軽菩薩と異なり、誰からも愛され人をさげすんだことのない青年、珍しい変人として描かれている。さらに「小説を読めばおのずとわかるはずです」と人をさげすんだことのない青年であるゆえに彼が優れていることを書き込もうとしていることがわかってくる。この小説は作者自らアレクセイ・カラマーゾフの伝記小説だと宣言しているが常不軽菩薩にインスパイアされた小説といっても違和感は全くない。
法華経も常不軽菩薩品において常不軽菩薩という奇人を描くことで法華経の菩薩行とは何かという核心を描き出す。「奇人とは必ずしも個々の特殊な現象とは限らぬばかりか、むしろ反対に、奇人が時として全体の核心を内にいだいており」原訳
アリョーシャの回心の瞬間は次のように美しい言葉で記されるがこれも常不軽菩薩と重なる。
微動だにしない、すがすがしい、静かな夜が大地を覆っていた。寺院の白い塔や、金色の円屋根が、サファイア色の空に輝いていた。建物のまわりの花壇では、豪奢な秋の花々が、朝まで眠りについていた。地上の静けさが、天上の静けさとひとつに溶けあおうとし、地上の神秘が、星たちの神秘と触れあっていた。…彼は、地面に倒れたときはひよわな青年だったが、立ち上がったときには、もう生涯かわらない、確固とした戦士に生まれ変わっていた。…あのとき、だれかがぼくの魂を訪ねてきたのです」と、彼はのちに、自分の言葉へのしっかりした信念をこめて、話したものだった
常不軽菩薩的な人は聖痴愚の系譜から生まれる。人はどんなに立派な行いを心がけていても、人をそねむ、恨む、ねたむ、憎む、侮蔑するという感情は律しがたく、人の原罪に深く結びついていると思われる。常不軽は通常人の行い難い行為であり修行であるからこそ光る。
譬喩品・三車火宅の譬喩
もっとわかりやすい説明を舎利弗に請われて釈尊は三車火宅の譬喩を述べる。
この世において、随一の学識のある人たちは、語られたことの意味を譬喩によって領解するからである。
子供が惹かれる三つのおもちゃの車(鹿、羊、牛のおもちゃ)は大乗の三乗であり家から飛び出た後に与えられるほんものの牛車は仏乗だ。
子供が惹かれる三つのおもちゃの車という点が手が込んでいる。二乗と仏乗の対立を実に優雅に大人と子どもの違いに変えての説明です。
方便品で説かれた二乗作仏の宣言だが、これをたとえ話にしたものが「譬喩品」の位置づけだ。あの手この手の譬喩(法華七喩)で説得を試みるという方便のひとつであり、例えばこんなことだよとイメージを喚起して教えてくれる、実に構成が文学的だといってよい。
他にも多くの譬喩のための品がある。
どうしてここまであの手この手の譬喩を試みるのか、法華経は武人と詩人の魂を持った結集菩薩団がつくったことが深く感じ取れる。
譬喩でしか表現できない世界があることは次の村上春樹の早大入学式スピーチでも見ることができる。
物語は僕らが、僕らの意識がうまく読み取れない心の領域に光を当ててくれます。言葉にならない僕らの心をフィクションという形に変えて、比喩的に浮かび上がらせていく。それが小説家のやろうとしていることです。簡単に言ってしまえば、それが小説家の基本的な語り口です。それはひとつ、一段階、置き換えられた形でしか表現できないことです。https://news.yahoo.co.jp/articles/5051bcabee6b6787cf583575348830848a580dca
「カラマーゾフの兄弟」では大審問官に代表される挿話がさかんに挟み込まれる。置き換えられた形でしか表現できないことを表現するためだろう、あの長大な物語で挿話を重ねてひたすらゾシマ長老のロシア的アニミズムを描いているともいえる。
三車火宅
そして三車火宅の譬喩が展開される。
ある時、長者の邸宅が火事になった。中にいた子供たちは遊びに夢中で火事に気づかず、長者が言っても外に出ようとしなかった。長者は子供たちがかねてから欲しがっていた「羊の車と鹿の車と牛車が門の外にあるよ」といって子供たちを導き出した。火事を逃れた後に究極の乗り物である大白牛車を与えた。
長者は仏で、火宅の子供たちは煩悩の多い三界つまり声聞・縁覚・菩薩に住む人々だ。たとえ話つまり物語の力で仏の教えを理解する素養や能力に応じて目を開かせる。
檀一雄の「火宅の人」では小説家はさしずめ声聞であり、中にいた檀一雄は遊びに夢中で家庭崩壊に気づかず、奥方が説得するも外に出ようとしなかったという物語になる。「火宅の人」は身勝手な男のなかなか自己弁護の聞いた題名ではある。法華七喩の作者は苦笑いをしているのではないか。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」で描くフョードルとは違い、どこか愛すべき人物で救いがある、同じような人物をみても彼我の作者によって描き方が随分異なることの見本かと興味深く観た。
この譬喩はインド仏教史を要約したものだ。声聞・独覚からなる小乗仏教と、菩薩からなる大乗仏教の矛盾・対立を乗り越えるために法華経が登場した意義を「三車」と「火宅」の譬えで説いた。
資産家が如来を表わし、子どもたちが六道輪廻する衆生を表わしている。邸宅は迷いの現実世界のことであり、火事はその迷いの世界で衆生たちが生・老・病・死・憂・悲・苦・悩・哀によって焼かれ、煮られ、熱せられ、苦痛を与えられていることを意味している。
邸宅には数多くの毒蛇や夜叉、餓鬼たちが住んでいる。狼や犬とジャッカルの群れ、ハゲワシたちが食べ物を捜し求めている。家は、火がなくても極めて恐ろしいところであり艱難に満ちている
邸宅が火事になっていることは衆生たちが、生・老・病・死・憂・悲・苦・悩・哀煩悩の炎で身を焼かれ煩悩に苦しめられていることを意味している。苦しみから衆生を解放し、阿羅漢、独覚、菩薩を超えて成仏という位に到らせることを説いた。
この譬喩品で白隠は号泣したことを氏は紹介している。白隠は長い間法華経がいまひとつぴんと来なかったが42歳ではじめて「法華の深理に契当す」と「覚えず声を放って号泣す」
師、四十二歳。秋七月……徳源の東芳、差して法華経を読ましむ。一夜読んで譬喩品に到り、乍ち蛬(こおろぎ)の古砌に鳴いて声声相い連なるを聞き、豁然として法華の深理に契当す。初心に起す所の疑惑釈然として消融し、従前多少の悟解了知の大いに錯って会することを覚得す。経王の王たる所以、目前に璨乎たり。覚えず声を放って号泣す。初めて正受老人平生の受用を徹見し、及び大覚世尊の舌根両茎の筋を欠くことを了知す。此れより大自在を得たり 紀野一義「法華経」を読む
信解品・長者窮子の譬喩
自己肯定できない人間
信解とはなにかに向かって解き放つという意味です。長者窮子の譬えは50年前に行方不明になった資産家の息子の物語で、息子つまり窮子は声聞で自己肯定できない人間を代表する。徐々に重大な仕事をまかせ、最後に息子だと明かして一切をこの男に託すことで窮子は自己を肯定できるようになる。
成仏は特別なことではない、窮子のように真の自己に目覚めることであり、長者窮子の譬えは法華七喩中の最高傑作だと植木雅俊はいう。長者窮子の譬えは釈尊が語るのではなく、弟子の大迦葉が理解した内容を釈尊仏に伝える形をとっている。
信解品は三車火宅の喩が説かれた譬喩品に並び、ロゴスでは理解不可能な一仏乗を長者窮子の喩えで説く。譬喩品がエリート層に対しての譬喩ならば信解品の窮子は六道を彷徨う一般大衆に対しての慈悲を表す譬喩だと氏はいいます。
無量の財宝を持つ長者がいた。この長者には長い間父を捨てて行方不明の息子、つまり放浪している窮子がいた。いつかはその息子に会いたいということから、大きな屋敷を持ち捜していたところ、ある日のこと、その門前に窮子がやってきた。
父は息子だとすぐにわかったが、息子はその長者が父であることがわからない。身なりは貧しく放浪の息子は長者の威厳に恐れをなしそこから走り去り、ふたたび住みなれた町へ行こうとした時、父なる長者は使いの者を走らせ、息子を止めようとした。
しかし息子は捕えられ殺されるのでないかと思い、恐怖のあまり気絶してしまった。息子がそこまで身をくずしていることを知った長者は、今度は同じような貧しい身なりの使者をつかわし、この屋敷で仕事をすることをすすめ、便所掃除の仕事からさせた。父は、窓から息子の働きぶりを見守り時々、汚れた服に着替え、息子に近づいて励ます。
真面目に働くので、次第に身の回りの世話、財宝管理を任せられる。「息子」というニックネームをつけられ、「息子よ」と声をかけられても、「自分は本当の息子ではない」と卑下したままだった。
息子は努力し二十年程たった時、長者の財産の管理までできるようになった。ある日、父が余命いくばくもないと知った時、国王や大臣、親戚の人たちを呼び、その目の前でこれが我が息子なることを告げそこにある財宝はすべて息子のものだと宣言した。
息子は驚きと歓喜で「無上宝聚不求自得」(無上の宝聚を求めずして自ずから得たり)と感慨をもらした。
この息子とは我ら六道を彷徨う一般大衆で長者は久遠仏であると。つまりエリートの声聞、縁覚、菩薩のみならず地獄や餓鬼界をさまよう大衆も一仏乗へと救済することを説いている。
スメルジャコフ
「信解品」の「窮子譬子」が感銘を与える理由は貧しい若者が富者を恐れ、父の派遣した使者に捕らえられて、恐怖のあまり気絶してしまうような窮子の貧しさ故のみじめさ、つらさにある。
この物語はどこかレミゼラブルを想起させ、誰よりもレミゼラブルを高く評価していたドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」のスメルジャコフを想起せずにはおれない。
もちろん筋は正反対といってもよい。窮子は父を継ぐがスメルジャコフはろくでもない父(はっきりとは書いていないが隠し子を暗示する箇所がある)殺しをする。長者窮子の影バージョンではないかと思ってしまう。
スメルジャコフによる勘違いの殺人、神の不在とイワンによる洗脳、他に疑われる人がいて読者にもどんでん返しを用意する。アレクセイ以外の兄弟の父に対する復讐やスメルジャコフ自殺、ゾシマによる自殺者に対する救いも用意されている。
ルカによる福音書との類似
三浦光世氏によるとルカによる福音書15章11節の放蕩息子の話がこの長者窮子の話によく似ているという。
ある人に息子が二人いた。弟はお父さん、私に財産の分け前を下さいといった。父は、身代を二人に分けてやった。それから、幾日もたたないうちに、弟は遠い国に旅立った。
そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たした後で、大飢饉がきた。彼は食べる物に困り果て、飢え死にしそうになった。父のところには、パンがあり余っている。こうして父のもとに行った。家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前で罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。
ところが父親はしもべたちに言った。急いで一番良い着物を持ってきて、この子に着せなさい。手に指輪もはめさせ、足に靴をはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来て料理して食べようではないか。そして彼らは祝宴を始めた。 「和尚とよばれた牧師」三浦光世
「法華経信解品第四」の「長者窮子」放蕩息子と、ルカ伝の譬え話はそっくりで古来からどちらが先にできた話なのかという論争がある。
中村元は
「慈悲が東と西とで、ほとんど同時に特に強調されるようになったのは興味深い符号である」と述べている。「比較宗教から見た仏教」中村元
さらに次の例もルカ伝とスッタニパータに類似があるという。
予言者アシタ仙人は、須弥山に住んでいる神々が大喜びしながら歌い踊る幻を見た。その理由を聞くと、無比のみごとな宝であるボディーサットバ(菩薩)がもろびとの利益安楽のために人間世界に生まれた。シャカ族の村に。ルンビニーの聚落に。だから我らは嬉しくなって非常に喜んでいるのです」と答えた。
それからアシタはカピラ城に尋ねて行き、「王子はどこにいますか。わたしもまた会いたい」と頼んだ。アシタは喜び、嬉しくなって、その児を抱きかかえた。これは無上の方です。人間の中で最上の人です」と声を挙げた。しかし、自分の行く末を思って涙を流した。シャカ族の人は心配してアシタに聞いた。われらの王子に障りがあるのでしょうか」
アシタは答えた。わたしは王子に不吉の相があるとは思っていない。彼に何の障りもないでしょう。この方は凡庸ではありません。よく注意してあげて下さい。この王子は最高のさとりに達するでしょう。この人は最上の清浄を見、多くの人々のためをはかり、あわれむが故に、法輪をまわすでしょう。この方の清らかな行いは、広く弘まるでしょう。
ところが、この世におけるわたしの余命はいくばくもありません。(この方がさとりを開かれる前に)わたしは死んでしまうでしょう。だから、わたしは悩み、悲嘆し、苦しんでいるのです。「スッタニパータ」中村元訳
おそらくルカは「法華経の長者窮子」の話を知っていたのではないかとの説もあるらしい。大いにあり得る話だが、こうした譬喩物語はなんらかの伝承を用いて組み込むことがごく自然なことであり、どちらがどうだということにはわたしは興味はあまりありません。
続