まさおレポート

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ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」ニヒリズムからの脱却 その6 完

2017-05-24 | 小説 音楽

ショーペンハウワーは共苦をキリスト教から感じ取ったが一方では仏教の涅槃にも言及している。彼の涅槃理解は厭世的世界観に通じているが共苦による救いも強く求めている。共苦は仏教の救済思想に近い。

このようなショーペンハウワーに共感を感じ取ったのではないか、あるいは同じような考え方に達したのではないかと思われる作家の文章を集めてみた。 果たしてショーペンハウワーの著作に影響を受けたのか、あるいは独自で達したのかはまったく定かではないのだが私の脳内で何らかの連想が働いたのは確かだ。

 

川端康成は「文学的自叙伝」で次のように述べる。西方の偉大なリアリスト達とはショーペンハウワーのことではないかと思ってもみる。

西方の偉大なリアリスト達のうちには、難行苦行の果て死に近づいて、やうやく遥かな東方を望み得た者もあつたが、私はをさな心の歌で、それに遊べるかもしれぬ。— 川端康成「文学的自叙伝」

カズオイシグロ「わたしたちが孤児だったころ」

「捨身飼虎」釈迦が前世に飢えた虎の親子と出会い、我が身を投げ出して食わせ、虎の母子を救う説話がある。この物語の母親は息子のために中国人麻薬王ワン・クーに身をささげる。

「どういうわけか、愛は、死を相殺できるほど強カな力になります。愛があるからと言って、永遠に生きることはできませんが、どういうわけか、愛があると、死がどうでもよくなるのです」カズオ イシグロのインタビュー記事

 

村上春樹 「スプートニクの恋人」

 すみれとミューがあっちの世界にいってしまうのだが、あっちの世界とはあの世のことではない。ミューは自らのドッペルゲンガーを見るのだが、すみれはあっちの世界にいったかどうかは明らかにされていない。ただ「僕」がそう思っているだけだ。しかしすみれはてんかんの持病があるように描写されておりそのためにドッペルゲンガーの世界に行ってしまったことが暗示される。

「僕」もロードス島でのある夜に山頂での演奏を聞いてしまい、その瞬間にあっちの世界に行ってしまったように見える。

ロードス島から帰ったミューと僕はこっちの世界つまり日本に帰り現実の生活に戻り、「僕」は喪失感にさいなまれて、ミューは抜け殻のようになって暮らすことになる。すみれは日本に帰国した「僕」に電話をかけてくるがあっちの世界にいったままのようだ。

帰国後、「僕」とガールフレンドの子供「にんじん」は万引き事件の引き取りがきっかけで心を通わすようになるが、この話は「僕」と「にんじん」の宇宙での一瞬のかいごうを描きたかっただけなのか。たぶんそうなのだろう。

 

村上春樹 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」

ストーリーは全く異なる二つの世界が交互に進展する。いったい何の関係があるのかさっぱりわからないままに、別の物語として読むしかないと観念して読み進めると、一角獣とか図書館の女の子とか共通の言葉が出てくるが同じではない。

この不思議ワールドがやっと博士の説明で分かってくるのは下巻のp104にいたってだ。手書きの電気回路みたいな脳の配線図が描かれてそれをもとに博士は説明する。男の脳は改造されており意識の核をこの男は2種類持っている。本当は3種類だが説明の便宜上2種類で十分だ。この意識の核が接点で切り替わると高い塀で囲まれた世界へ移行する。

この世界は時間がない。これは夢に時間がないというのと同じだという。なるほど一応説得性がある。従って永遠に生きることになるとのことだ。

なぜこんなことが起きるかというと意識の核が再編成されているために記憶も変化している。となると同じインプットつまり生きて認識する情報も異なった世界ととらえるということだ。SFのパラレルワールドと似たことが起きるのだという。

それで二つの世界が平行して進展していくことはわかった。同じ情報をインプットしても意識のコアがことなると全く違う世界を生きることになるというのは凄い。このあるようでない世界あってもおかしくない世界を日常のこまごました情景を村上春樹流に描きながら読ませる。リアリティーを付与するということで小説に仕立て上げる。

 

村上春樹 「1Q84」 

「彼女はその欠落の周りを囲うように、自分という人間をこしらえてこなくてはならなかった。作り上げてきた装飾的自我をひとつひとつ剥いでいけば、そのあとに残るのは無の深淵でしかない。それがもたらす激しい乾きでしかない。」

これは警視庁の警察官 中野まゆみの精神の構造を描写しているが、青豆も同じ。しかし青豆は、

「私という存在の中心にあるのは愛だ。私は変わることなく天吾という十歳の少年のことを思い続ける。・・・彼はここに存在しない。しかし存在しない肉体は滅びないし、交わされていない約束は破られることはない。」


こんなバーチャルな愛にすがって正気を保つしかない。一方、天吾も空白を抱えて生きている。

「僕は誰かを嫌ったり、憎んだり、恨んだりして生きていくことに疲れたんです。誰をも愛せないで生きていくことにも疲れました。僕には一人の友達もいない。ただの一人もです。そして何よりも、自分自身を愛することすら出来ない。なぜ自分自身を愛することができないのか? それは他者を愛することが出来ないからです。人は誰かを愛することによって、そして誰かから愛される事によって、それらの行為を通して自分自身を愛する方法をしるのです。」

 

村上春樹 「ねじまき鳥クロニクル」

輪廻転生を想起させる登場人物が多く登場する。主人公の「僕」こと岡田トオルと太平洋戦争後捕虜になり、シベリアの炭坑の出水事故で溺死する獣医は共に頬に大きなアザを持っている。そしてその痣が何かの予兆のように発光する。痣やほくろは輪廻転生のシグナルとして三島作品の「豊饒の海」にも登場する。誰でも気がつくシグナルだが、作品中でそれに言及されることは決して無い。決してふれないことによって一層その事を強調しているのだろう。

 この二人の共通体験は井戸の底に降りて陽光のありがたさを体験することだが、この井戸の底が覚醒しながら時空を超える仕掛けになっている。幽体離脱と夢と生き霊の活躍する舞台設定に井戸の底を持ってきたのだが、どうしてこんな舞台設定が必要であったのだろうとの疑問は読後も氷解しない。
 村上春樹はカミュに大層影響を受けているという。不条理な舞台設定をしなければ物語にならない事柄を描くことによって物語の不条理性を描きたかったのだろうと今は理解しておこう。

 

 三島由紀夫「豊穣の海」意思が変化すると表象も変化する。

バリに向かう機内映画で邦画「春の海」をなにげなく観た。小さな画面だし、まずまずといった感じで楽しんでいた。最後に月修院門蹟の聡子が謎の言葉をはく。彼女はかつてある皇室との婚約中に主人公清顕の子供を宿し、その為に出家した。
親友の本多が60年をけみして彼女に清顕の思い出を語ると、そんなお方の名前をしらないという。そんなお方はもともといらっしゃらなかったんと違いますか とはんなりとした京都言葉で返される。

眼・耳・鼻・舌・身・意の六識の奥に、第七識「末那識」さらに阿頼耶識があり、阿頼耶識と染汚法が現在の一刹那に同時に存在して、一刹那をすぎれば双方共に無になるが、次の刹那にはまた新たに生じ、時間が成立している。意思と表象に通じるものがある。

 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」

ドストエフスキーは最晩年にドミートリーを創出したとの評があった。ドミートリーは20年前にクルミの実を分け与えられたことを忘れずにいて、老医師ヘルツェンシュトーベを訪ねて往時のお礼を言う。餓鬼子(がきんこ)の夢をみたことで、自らの罪深い人生を顧みて人類に対する普遍的な贖罪の念を強める。冤罪にもかかわらずあえて(キリストのように)罪をかぶろうとする。そんな共苦の一面を色濃くもつドミートリーをゾシマは初対面でみぬいていたからこそ彼の足元に接吻した。

どこで読んだか忘れてしまったが ドストエフスキーが常不軽菩薩を知っていたらきっと書いていただろうと述べていた。法華経・常不軽菩薩品の菩薩で、釈尊の前世とされる。像法の世で、増上慢の僧俗男女の中にこの常不軽菩薩が出現したとされる。「我深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べしと」と礼拝したが、増上慢の僧俗男女は悪口罵詈し、杖や枝、石をもって常不軽菩薩を迫害した。ショーペンハウワーの共苦を連想する。

 

「グレート・ギャツビー」厭世的世界観のうちに救いを求める切なさが。

夜は冷ややかで、年に二度めぐってくる自然の変貌に伴う謎めいた高ぶりが、あたりに感じられた。家家々のひそやかな明かりが、かすかなうなりを立てて暗闇にこぼれ、夜空の星の間にはめまぐるしい動きが見受けられた。ギャツビーは目の端で、何ブロックもまっすぐに続く歩道が紛れもなく一本の梯子になって、樹木の頭上にある秘密の場所に届いていることをみて取った。もし一人だけそこに上がろうと思えば、上がることができる。そしていったんそこに上がってしまえば、生命の乳首に吸いつき、比類なき神秘の乳を心ゆくまで飲みくだすことができる。P203

かつての温もりを持った世界が既に失われてしまったことを、彼は悟っていたに違いない。たった一つの夢を胸に長く生きすぎたおかげで、ずいぶん高い代償を支払わなくてはならなかったと実感していたはずだ。彼は威嚇的な木の葉越しに、見慣れぬ空をみあげたことだろう。そしてバラというものがどれほどグロテスクなものであるかを知り、生えそろっていない芝生にとって太陽の光がどれほど荒々しいものであるかを知って、ひとつ身震いしたことだろう。その新しい世界にあってはすべての中身が空疎であり、哀れな亡霊たちが空気のかわりに夢を呼吸し、たまさかの身としてあたりをさすらっていた・・・P291 

その夢がもう彼の背後に、あの都市の枠外に広がる茫漠たる人知れぬ場所に・・・移ろい去ってしまったことがギャツビーにはわからなかったのだ。P325

ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく陶酔に満ちた未来を。それはあのときわれわれの手からすり抜けていった。・・・だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながら。P326

 

「ロング・グッドバイ」

友人テリーに対する共感と友情に救いつまり共苦を求めている。

なんとも思っていないと言うのは嘘ではなかった。私は星と星とのあいだの空間のように、虚ろで空っぽだった。家に戻ると強い酒を作り、居間の開いた窓のそばに行って、それをちびちび飲んだ。ローレルキャニオン大通りを行きかう車がたてる地鳴りに耳をすませ、怒れる大都市が丘の斜面に投げかけるぎらぎらとした光を眺めた。・・・犯罪に満ちた夜のなかで、人々は死んでいく。・・・都市は豊かで活気に満ち、誇りを抱いている。その一方で都市は失われ、叩きのめされ、どこまでも空っぽだ。人がそこでどのような位置を占め、どれほどの成果を手にしているかで、その相貌は一変する。私には手にするものもなく、またとくに何かを求めているのでもなかった。酒を飲んでしまうと、ベッドに入った。 p428

当時のアメリカ社会(もちろん現代にも通じるが)への批評が随所に比喩を伴って表れる。スコッチでしか癒せないようなどこか救いのない虚無と崩壊を食い止めるささやかな、しかし非常に大切な「プライド」が読後に残る。ワインは友好の酒、ウィスキーは孤独をいやす酒だと言われるがこの小説を読むとリアルに実感できる。

「あんたにはさよならを言うべき友達がいた」と彼は言った。「彼のために監獄にぶち込まれてもいいと思えるほどの友だちがね」 P111

村上春樹訳

 

ラ・ロシュフコー「箴言録」

もっともショーペンハウワーより前の世代、17世紀の人のラ・ロシュフコーは「箴言録」で

「われわれは皆、他人の不幸には十分耐えられるだけの強さを持っている」

と記して共苦に対しての諧謔のように聞こえる文章を残している。


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