佐々木閑はYoutubeで誠実に、実に誠実に仏教に対する世間の錯覚を述べる。仏教は生きるのが辛い、どうしようもない人に対する病院だと。希望を持つこと、この人生で幸せを求めることを助けてくれる宗教ではないのでそんな期待は捨てろ。諦観し、次に輪廻しないことが最上であり、それが仏教の本質なんだと繰り返し繰り返し説く。この世を生きることが楽しくて、来世もまた生まれ変わってきたいと思う人には仏教は必要ないと。
バリでスペイン人リカルドからプールサイド談義で問われた「仏教ってペシミズムじゃない?」という一生物の問いかけに対して適格な回答を探し続けているのだが、この佐々木閑氏の話はすごく適格でお人柄にも惹かれる。しかし紀野一義氏と比較していささか救いがないとも。
理において説得性があり好感を持つが情において紀野一義氏が好きだ。
この佐々木閑氏の長大な話を聞いているとわたしの心情が巨大なパラダイムシフトに直面している感がある。
以下の村上春樹からの世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドからの引用文は大いなる気づきを与えてくれるメタファであり応援団のような気がしてくる。しかしまだ表現する段階にまで至っていない。引用をあげるだけにとどめる。
「意識の底の方には本人に感知できない核のようなものがある。僕の場合のそれはひとつの街なんだ。街には川が一本流れていて、まわりは高い煉瓦の壁に囲まれている。街の住人はその外に出ることはできない。出ることができるのは一角獣だけなんだ。一角獣は住人たちの自我やエゴを吸いとり紙みたいに吸いとって街の外にはこびだしちゃうんだ。だから街には自我もなくエゴもない。僕はそんな街に住んでいる——ということさ。僕は実際に自分の目で見たわけじゃないからそれ以上のことはわからないけどね」
エントロピーは常に増大する。この街はそれをいったいどこに排出しているんだろう?
「今朝老人たちが僕の部屋の前で穴を掘っていた。何を埋めるための穴かはわからないけれど、とても大きな穴だった。僕は彼らのシャベルの音で目が覚めたんだ。それはまるで、僕の頭の中に穴を掘っているようだった。雪が降ってその穴を埋めた」
太陽がフロント・グラスから射しこんで、私を光の中に包んでいた。目を閉じるとその光が私の瞼をあたためているのが感じられた。太陽の光が長い道のりを辿ってこのささやかな惑星に到着し、その力の一端を使って私の瞼をあたためてくれていることを思うと、私は不思議な感動に打たれた。宇宙の摂理は私の瞼ひとつないがしろにしてはいないのだ。私はアリョーシャ・カラマーゾフの気持がほんの少しだけわかるような気がした。おそらく限定された人生には限定された祝福が与えられるのだ。
「僕は自分の勝手に作りだした人々や世界をあとに放りだして行ってしまうわけにはいかないんだ。君には悪いと思うよ。本当に悪いと思うし、君と別れるのはつらい。でも僕は自分がやったことの責任を果さなくちゃならないんだ。ここは僕自身の世界なんだ。壁は僕自身を囲む壁で、川は僕自身の中を流れる川で、煙は僕自身を焼く煙なんだ」