まさおレポート

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源氏物語がつまらないと評する鈴木大拙と梅原猛は共に仏教は外来の宗教ではないと述べている

2018-09-24 | 源氏物語

Daisetsu Teitarō Suzuki photographed by Shigeru Tamura.jpg

鈴木大拙は「日本的霊性」の中で日本の宗教について切れ味のするどい断定をする。「霊性を宗教意識と云つてよい」(p22)とした上で万葉集や源氏物語にみられる宗教性を子供の宗教とずいぶん思い切った断定をする。万葉集や源氏物語の面白さに惹かれているが、一方ではこういう断定の仕方も好きだ。宗教性の観点からみるとみるべきものがないということだろうか。

「霊性の日本的なるものは何か。自分の考では、浄土系思想と禅とが、最も純粋な姿で、それであると云ひたいのである」(p25)

確かにそんな気もする。人の心の襞にまで入り込むような浄土系思想は法華経思想とはかなり肌合いが異なるとの感触を持つ。法華経思想が抽象的で表舞台で演説するような風合いをもち、浄土系思想は寝床のなかにまで入り込むような生暖かさと人には欠かせないぬめりのような粘液性を感じてしまう。浄土真宗は、僧侶に肉食妻帯が許される、戒律がない、明治まで表立って妻帯が許されたのは真宗のみであったことは傍証になりえようか。

禅も公案で人の心の奥底を覗き込むような修行をするが、確かに日本的であると思う。(日本人はセロトニン分泌の遺伝的特質からこうした特質をもつのであるいはないかと思うが、又別のところで)

まず、仏教は外来の宗教ではないこと。浄土系も禅も仏教の一角を占めて居て、仏教は外来の宗教だから、純粋に日本的な霊性の覚醒とその表現ではないと思はれるかも知れない。が、自分は第一、仏教を以て外来の宗教だとは考へない、随つて禅も浄土系も外来性をもつて居ない。(p25)

「それ故、日本仏教は日本化した仏教だとは云はずに、日本的霊性の表現そのものだと云つておいてよいのである」(p100)

漢字が外来であるから日本語も外来であるとは言えないように、仏教が外来であるから日本仏教も外来とは言えない。やまとことばが漢字という表現手段を得て日本語が出来上がったように日本的霊性が外来仏教の枠を借りて日本仏教が出来上がったと言いたいのだと理解しておこう。

「この本は・・・生まれながらの人間の情緒そのままで、まだこれがひとたびも試練を経過していない。全く嬰孩性を脱却せぬと言ってよい。・・・恋愛そのものからくる悲苦につきての反省・思索などいうものは、集中どの作にも見えない。子供らしい自然愛の境地を出ていない。」

生まれながらの人間の情緒そのままでも価値があるではないかと思うのだが、鈴木大拙に言わせるとわざわざ書くべきものではないということだろうか。やや反感を覚える箇所だが。

・・・これには成熟した頭脳がなくてはならぬ。人間は何かに不平・失望・苦悶などいうことに際会すると、宗教にまで進み得ない場合には、酒にひたるものである。・・・或る意味で酒に宗教味がある。ところが古代人の日本人には、こんな意味の酒飲みはいなかったようである。・・・「万葉」の歌人は宗教的な深さを示さぬ。・・・万葉歌人には、人間の心の深き動きにふれているものがないと言ってよい。」

梅原猛も「日本人のあの世観」で源氏物語は上流貴族の生活を描いており、源氏はモテ男で好きではないと書いている。それに比べて能を称揚している。又、浄土系思想を日本仏教の大事と考え、日本のあの世観をベースに日本化した仏教はもはや外来の宗教ではないと記している。梅原猛は鈴木大拙のことは書いていないが、知ってか知らずか、なんとよく似たことを記していることか。

しかし、法華教を好み、万葉集や源氏物語を好む人達も大勢おり、こうした人からの反論が一層法華教や、万葉集や源氏物語についての理解を深めると思うので梅原猛は鈴木大拙のこうした否定はそういう意味で意味深いものだと思う。

2018-02-13 初稿

2018/9/24 加筆

 


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