まさおレポート

新電電メモランダム16(リライト) 1991年

この年、1989年末に38,915円を記録してピークを示した株価は1991年8月10日に日経平均株価で1万5千円割れした。地価はこの年にピークを打ちその後反転する。渦中にいる人々には半信半疑で、しかし振り返ってみると確実にバブル崩壊の始まりを告げていた。
 
政権は海部俊樹氏(第14代:1989年 - 1991年)から宮沢喜一内閣へと交代した。雲仙普賢岳で土石流が発生し、一躍「ドシャクリュウ」が流行語になった。イラクでは1月17日に湾岸戦争が起こり、ひと月後の2月27日にブッシュ大統領が勝利宣言した。そして12月21日にソビエト連邦が崩壊し、ゴルバチョフ大統領が辞職してエリツィンがロシア連邦大統領になる。激動する世界情勢のなかで電気通信事業の世界は下記の事柄が進行していた。

 <東京の電話市外局番4桁化>

 1月1日 東京の電話市外局番が3桁から4桁化した。これには新電電各社もNTTとの間に綿密な打ち合わせと多少の交換機工事を必要としたが、前年のうちに準備を整え、あらかじめ設定した新データベースを時刻とともに新旧入れ替える機能により無事対応を終えた。コンピュータ屋から転職した私には、交換機のこのような時刻起動のA面、B面入れ替え機能は新鮮に感じた。

 <LCRアダプタの取り付け競争自粛>

 2月1日 新電電三社はLCR(最も安い会社を選ぶ機能の略称だが、実際は契約した新電電各社のIDコード たとえば0077、0088、0070などをダイヤルの先頭に付与する機能と考えてよい。)の取り付けに関する過当競争自粛を約束した。新電電各社はLCRの取り付けが即、顧客の獲得であるため、販売代理店を使って激しい取り付け合戦を繰り広げていた。一時の新聞販売拡張団のような激しさを想像してもらうとわかりやすい。この時代に光通信(当時重田社長)(*1)は第二電電の専属代理店として急速に会社業績を伸ばした。日本テレコム株式会社は直系子会社旭テレコムを主な代理店とし、日本高速通信株式会社はトヨタ販売店や商社ルート、比較的小振りな代理店や個人代理店多数を使い、各社は最前線での取り付け競争を展開していた。

 (*1)電話加入権を販売する企業を経て、1988年2月、株式会社光通信を創業した。当初は第二電電(現KDDI)の契約取次ぎの代理店として事業をスタートするが、事業の中心を携帯販売事業へ変更させ、急激に企業を成長させた。(by wiki)

光通信はその販売アタックの迅速さで記憶に残っている。都内に会社を持つ友人が驚いて電話を掛けてきた。彼が会社のオフィスをオープンして数日後には光通信のセールスマンがやってきたという。「君の会社もそのくらいでないとダメだよ」と忠告を頂いたことを思い出す。ある会社あるいはチームは新聞拡張団のように何人かがチームを組んで、北は北海道から南は沖縄までセールス行脚するという事も聞いた。当時は顧客を獲得すると獲得時の一時払いコミッションとは別に電話使用料の4%が継続インセンティブとして毎月入ってくる。これは代理店には大変うま味があり、勢い、代理店同士の顧客の激しい奪い合いも各所でみられ、ときにはまれに現場で殴り合いにまでいたったというケースも報告されていた。本来は新電電間でLCRを切り替える場合は、一旦解約手続きをした後に、新たな会社のLCRを取り付けるのがルールだが、その手順を踏まずに現場で勝手にLCRを取り替えてしまう仁義なき戦いとでも言うべき事件も多発し、毎日のようにその報告が会社にも入ってきていた。それらのトラブルは監督官庁の郵政省にも報告されており、郵政省も強引な獲得競争には注視を始めていた。

 <公正競争に関するNTTの基本的考え方および公正競争に関する行動指針>

 2月25日にNTTから「公正競争に関するNTTの基本的考え方および公正競争に関する行動指針」が発表された。NTT社員の公正市場形成に向けた意志統一と行動基準の明確化を目的としている。しかし、NTT社員がこれをどの程度重く受け止めたか、はなはだ疑問でありいくつかの経験に照らしても「無いよりはまし」程度であまり効果はなかったと思う。

<クレジットカードの使える公衆電話機>

 3月1日に日本テレコム株式会社がクレジットカードの使える公衆電話機を設置した。東京駅構内10台設置から始めて順次拡大の予定だと発表されていた。確かに東京駅など主要な駅では人通りも多く、公衆電話機も採算に乗るかもしれないと思った。当時日本ではクレジットカードが使用できる公衆電話機は存在しなかった(現在ではNTTドコモの一部がクレジットカード利用可能)が米国では既にクレジットカードの公衆電話機も出回っていて、おそらく公衆電話機そのものも米国メーカから調達したのだろう。

JR構内に設置するため、日本テレコムのネットワークに直結できるという利点があり、当時のぶつ切り料金制(発着のNTT足回り料金と新電電各社の中継部分の足し算で料金を計算する)の元では対NTT公衆電話で有利な料金設定が可能であった。(市内電話は逆に料金がNTTに比べて高くなる)10台から出発してその後は1200台程度まで伸ばしたが採算が合わないとみて1999年には廃止された。

日本高速通信株式会社も高速道路SA,PAに46台設置していた。日本テレコムのJR構内公衆電話と同じくNTT足回り料金の点で有利であったが利用頻度が少ないため、日本テレコムの公衆電話と同様に採算にあわずKDDIに統合後の1999年には自社公衆電話サービスを廃止している。この公衆電話機46台は10円と100円硬貨を投入するもので、NTTの外販許可を取った上でかつてNTTファミリーと呼ばれた国産メーカー(高千穂電機、高見沢電機など)に同じ型を発注していた。

当時、日本高速通信の自社専用テレホンカードを自社の公衆電話機で使えるように検討したことがあったがNTTが保有する公衆電話機のカード認識機能部分の特許を利用せざるを得ず、そうするとNTTから公衆電話機の当該パテントを購入して外販許可を取得後に公衆電話機メーカー(たとえば高千穂電機等)に発注するという面倒なことになり、ますます採算は合いそうになく、あきらめた経緯がある。ちなみに高速道路上に設置した公衆電話機の料金回収は建設省傘下の財団法人道路施設協会に委託していたが、設置コストや公衆電話料金回収(10円や100円硬貨を集めて回る)に比べて委託費の方がはるかに高くつき、全くの不採算部門であった。

<深夜電報を廃止>

3月31日 NTTは深夜電報を廃止した。深夜つまり夜の10時以降の電報配達はそれまでも一部の大局を除いてはNTT社員が配達していたのではなく、通称「夜請け」(やうけ)と呼ばれる委託業者に依頼していた。大抵はその電話局の近くに住む個人のアルバイト的請負事業で夕方電話局にやってきて電報の到来を待機して、電報があればバイクで配達する、あるいは自宅待機していて出動するといった委託形態をとっていた。電報の縮小撤退は世界的な動向で、米国でもこの1991年年12月にはAT&Tが1887年以来の電信サービスから撤退した。AT&Tはアメリカ電話電信会社の略だったのが電信部門がなくなるが社名はそのままAT&Tとして残っていた。(ちょっと妙な感じだが) 現在もNTTとKDDIのみが慶弔電報を電報事業を主としてサービスを継続している。

<一県一POIの制度化>

8月7日 郵政省から公正有効競争促進のための施策が発表された。一言でいえばシンプルな料金制度の導入ということになる。副次的に新電電各社の無用のPOI投資を抑える効果を持ったことになる。ネットワーク上に有用なPOI投資とはトラフィック伝送上の効率化がなされることであるが、当時の新電電各社は同一県にできるだけ多くのPOI(接続点)を置くほど利用者料金が安くなるために、競って多くのPOIを設ける競争を繰り広げていた。しかしこれは足し算方式の料金制度に由来するものでありネットワークコストを忠実に反映したものではない。この料金制度の不合理をエンドエンド料金制度の導入と併せて解決しようとする意図で導入された。

エンドエンド料金制の導入は利用者から見て、同一距離区分への通話は同一料金にするというごく当たり前の考え方が導入されることになった。この導入以前は料金はPOIがどれだけ身近にあるかどうかで決まっていたが一般の利用者から見ればそんな会社事情などしるよしもない。極めてわかりにくい料金制度であったことになる。

同時に事業者間接続料金制度(いわゆるアクセスチャージ)の導入がなされた。これまでは各新電電はNTT地域網の使用料を一般のNTT顧客が支払う加入者料金で支払っていた。同一MA(料金区域 全国で567あった)内とか隣接区域とか15キロ以内とかの煩瑣な料金区分に従っていたのだが、そうなると必然的に新電電各社は足し算料金を顧客に請求するということで分かりにくい料金となっていた。(足し算料金はJRや私鉄の料金を思い浮かべればイメージしやすい。鉄道料金は乗車駅と降車駅で決まるのではなく、その行き方でさまざまな料金になる) しかも隣接区域料金や離島特別料金などが計算に入り込むためにコストに忠実でないことになる。これを発信地と着信地間の距離だけで決まるすっきりとした料金体系に改めるには加入者が支払う料金制度とは別にコストに忠実な料金を設定して事業者間接続料金として制度化する必要があった。

<不可分債権と貸し倒れ補填>

足し算料金制度のもとでは顧客の未払いによる損失はお互いに負担するという考え方であり、NTTと新電電各社は顧客に対して「不可分債権」を持つという風に整理されてきた。あまり耳慣れない不可分債権という法律用語をはじめて耳にしたのは郵政省の若い担当官からだった。新電電は顧客から県間呼の料金を回収する権利つまり債権を持つが、同時にNTTもこのうちに含まれる足回り部分の債権を不可分的に持つという意味で理解した。この為、新電電各社が顧客から料金回収出来ない場合、不可分であるのでNTTも料金回収ができないことになる。

NTTから新電電各社への足回り料金の請求はNTTのPOIに接続する関門交換機のデータを元に算出しており、料金回収が不能でも新電電に請求されることになり、回収不能を一方的に新電電がかぶるという不具合が生じる。この不具合を解消するために貸し倒れ補填金として請求金額から4%が控除されていた。しかしエンドエンド料金導入後はNTTから新電電各社に支払われていた貸し倒れ損失(未回収リスク分)相当の4%補填もなくなることになった。

ちなみにこの大きな制度変更を受けて新電電三社は当時、情報通信研究所にいた直江氏に案内役をお願いしアクセスチャージの調査を目的として米国調査団を派遣することになった。

<米国 高度サービスの分離子会社要件廃止>

米国FCCでは11月21日には10月30日の最高裁判決を受けてRBOCSの高度サービスの分離子会社要件(構造的分離と呼ばれる)を全面的な廃止を裁定した。すでに1986年に第三次コンピュータ裁定を受けてONAの実施及び会計分離を前提(非構造的分離と呼ばれる)として分離子会社要件は廃止されていたが、それでもRBOCSの高度サービスは伝送サービスに限られていた。数々の訴訟の後の最高裁判決でRBOCSはONAの実施及び会計分離という非構造的分離を残しながらもアクセスに特化した高度サービスのみならず全面的に高度サービスに進出が可能になった。

RBOCSに対してONAの実施及び会計分離という非構造的分離を残すことで1956年同意審決とその後に続く1982年修正同意審決の効力をかろうじて残したことになるが、当初の厳しい構造分離要件はこの最高裁判決で容易に実行可能な条件(ONA と会計分離)付きで実質的に外されたとみるべきだろう。この時から米国は市場支配力よりも国際競争力の方に目が向き始めていると考えるのだが、わが国ではまだ第一種と第二種つまり設備を持つか持たないかで電気通信事業を分類して規制していた。

米国は基本的電気通信サービスと高度サービスに分類して規制していたがそれさえ実質的に意味を持たない改革がなされている。日本とは関係のない米国の最高裁判決ではあるが、この根っこにある考え方の変化に注目していた。米国の産業が国際競争力に衰えを感じてすぐさまに制度が反応する。対する日本は2004年に一種二種の制度が廃止されるまで実に13年後である。日米の電気通信規制の違いを示すエポックメイキングな出来事であると思う。

<高速コンピューティング法>

12月9日 米国で上院議員であったゴア(その後副大統領)が提案した「1991年高性能コンピューティング法(High Performance Computing Act of 1991 )」が成立した。その中に定められている「米国研究・教育ネットワーク(National Research and Education Network : 略称NREN)」でB-ISDNより高速のギガ・ビットクラスの伝送網により,米国の研究教育機関を相互に結ぶ「情報スーパーハイウェイ」を構築することによって,科学技術面での米国の競争力を高めることを意図している。

この高速コンピューティング法は当時NTTによって喧伝された日本のVI&P構想が1990年、上院議員時代に来日したゴア氏を刺激して、米国はこのままでは自動車、鉄鋼業等で後塵を拝している日本にさらに差をつけられると説いて回り実現させたとの説を当時やや得意げな話として聞いた記憶がある。その後の米国の日本に対する貿易摩擦解消の交渉圧力から見て米国は相当に日本の通信動向に神経をとがらせていたことは体験的にも事実であり、本当の話のように思われるが、しかしもしそうであるとするとゴア氏はNTTのVI&P構想を過大評価していたかもしれない。NTTのVI&P構想は時期尚早で花開かずその一つであるISDNもNTTの独りよがりの技術で失速した。

<第2種電気通信事業者>

12月31日 第2種電気通信事業者が1000社を超える。当時郵政省の電気通信事業部のフロアを仕事で訪れると第一種電気通信事業者の社数と第2種電気通信事業者の社数が紙に大書して壁に貼ってあった。第2種電気通信事業者数が1000社を超えたが、冷静に考えると1000社もの会社が通信事業で食っていけるとも思えず、自社のネットワーク(VAN9を持つ大企業が第2種電気通信事業者を兼営として取得することが一種の流行のような時代であったということだろう。

<余話1>

NTTの料金算定の元になるMA間距離はMA内に定められた局間の距離によって定まる。このために全国のMAの局をマッピングしたA1大の地図が新電電各社の設備部門のファイルケースに備えられていた。三角形の斜めの長さを求めるピタゴラスの方法で計算していた。

<余話2> 

米国では 1994 年に VOD(video on demand)構想がありオーランドでケーブルテレビの実験が行われた。 TCI 社(Tele-Communications Inc.)が中心的役割を果たしたが後に AT&T に買収される。ケーブルテレビによる通信事業への進出はこの時を萌芽とする。TCI社は英国や日本でMSOを立ち上げ、日本では住商と組んでジュピターテレコムを立ち上げた。その後はジェイコムとなる。

<余話3>

下記の講演はゴア構想への影響を示唆している点や、INSは基本料が2重にもらえて利があるとの話は興味深い。「昔、北原さんがニューメディアということでINSということをおっしゃられて、まさにちょっとコストと需要の関係で早過ぎたというきらいがあるんですけれども、物の考え方は今まさにそのようになっているわけでして、決して間違っていたわけじゃないんですが、そういうINSあるいはニューメディアと言っていた時代、 それから、VIP、ビジュアル、インテリジェンス、パーソナルと言っていましたね。これがアメリカの ゴアのハイウエー構想を喚起したんだという説もあります」

「ISDNを売りまくってきまして、あれはあれでかなり利のある商売でして、基本料が二重にもらえるということがありましてよかったんですけれども」

(2002年 平成14年7月5日 当時のNTT社長和田氏の電友会講演より)

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