まさおレポート

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ADSL開業を準備する

2021-09-10 | 通信事業 孫正義

西和彦さんは2001年開業を次のように語る。

2001年、ADSL回線サービスの「Yahoo! BB」を始めたこと。あの時に孫さんがケンカした相手は、NTTだったんです。 NTTなんて通信業界でいうと政府みたいなもので、それを相手にケンカするなんて僕の感覚ではあり得ないことでした。その手法として、モデムを街頭でタダ で配ったりするあたりもすごかった。

80年代、「天才・西。神童・孫」と言われたかつてのライバルだからこそ語れる、”孫正義”の弱点。

https://biz-journal.jp/2012/05/post_169_2.html


ソフトバンク本社があった東京日本橋・箱崎は高速道路が何重にも天を覆い、晴天の日でも空が見えない。東京のなかでも名うての殺風景な場所で、見ようによってはSF近未来の自然景観を全くなくした都市のようだ。

その高速道路の下にある本社を出て高速道路下の横断歩道を渡るとすぐに小ぶりな雑居ビルがあり、その6階に上がり、部屋のドアを開けると内装前の事務所のような殺風景な風景が目に入ってきた。

会議室用の実用本位の長テーブルやパイプ椅子がところ狭しと並び、ポロシャツやTシャツにジーンズ、スニーカーといった軽装の若い社員がパソコンに向かっての作業や打ち合わせをしている。あるコーナーには大学の実験室のような測定器がおいてあり、メーカーから派遣されたアジア系や欧米系外国人も入り乱れてモデムの性能検査作業に熱中している。
孫正義氏はその中を歩きながら誰かに大きな声と厳しい口調で指示をとばしている。彼の言葉の端々にハリウッドや映画コンテンツ、ゲームという単語が飛び交っていた。(ブロードバンド時代の到来を自ら仕掛けながら映像コンテンツの充実が念頭にあったのだろう。孫正義氏は映像コンテンツの充実を映画やゲームに期待し、後にはビデオクリップの保存やカジノ中継映像などと言ったアイデアも自ら発案した。)

徹夜作業のスタッフが飯を炊いて夜食をとる巨大な炊飯用電気釜が目につく。飲料自動販売機にはコーヒーやジュースに加えてミネラルウォータの種類も豊富だ。NTTに設置する予定の巨大整流器の品質実験のために設置されたのだろうか、壁際に林立する電気配線版、台湾から派遣された4,50名のオペレーション集団の席、日本橋本社の2階はさながら災害対策本部のような熱気と雑然さに満ちていた。NTT相互接続推進部のスタッフや外部から仮設社長室に来訪する人の目にもこの光景が目に入る。孫正義氏はこの大学研究室風の光景を外部からの訪問者に見せるのが密かな自慢であるらしかった。

ソフトバンクの本社の向かい側の仮事務所みたいなところ、そこでうちのエンジニアと、泊り込みでやってたんですけど。3時というからなんだと思ったら夜の3時。夜中の。来てくれといって、来る時間が夜中の3時。夜中の3時に行ったら、ぐしゃーっとエンジニアが汗臭い状況で、鳥かごのように、養鶏場の鶏のように、作業机に全員並んで、小さな部屋にすし詰め状態。僕は机叩きながら、叫びまくりながらやってる。

この2階にまでサービス開始の遅れを訴えに来たADSL申し込み者もいたが、あまりに雑多な人の出入りでガードマンも誰も気がつかずにいたこともあるくらいだ。その近くの大部屋にいた孫正義氏が「僕が対応します」と気軽に対応しようとして周りに止められていた。 

仮設社長室がその雑居ビルの片隅30平米程度の部屋に設けられており、長テーブルが6個とホワイトボードがあり、プロジェクタが一台とスクリーンが立てかけてあるだけの簡素な部屋だ。レジメを読んでいた孫正義氏は顔を上げ、問いかけが始まった。「どんな仕事をしてきました」「NTTの相互接続推進室の誰を知っていますか。」が最初の問いかけだったと記憶している。過去10年ほど3社でNTT接続交渉の事務責任者をしてきたと答える。NTT接続交渉の問題が山積している、早速今から仕事を始めて欲しいとのことで仕事が始まった。

ミーティングをしながら出前の夕食を取り、夜の8時に会議が始まった。この会社では多くの場合夕食時に会議が進行中である。その場合、7時になると必ず仕出し屋から届いた弁当を食べながらミーティングは進行することを初日に知った。孫正義氏自ら規則正しく食事をとるという意識が働いているので、会議参加者もそれに従う習慣になっていた。

出勤初日の夜7時から局舎建設工事の進捗会議が開かれた。ADSLサービスを提供するためにはNTT東西の局舎にソフトバンクBBの装置を置く必要があり、これを通信業界ではコロケーションと称する。設置する装置はDSLAM(ディスラム)と呼ばれる集合モデムで、各家庭に設置するモデムと対応する、同種の機能を持つ装置だ。コロケーションのためにはNTT東西の局舎にもろもろの工事が必要だ。DSLAMを設置するためには架と呼ばれる金属製のフレームを設置し、床にフリーアクセスの床工事を施し、下に電力線や通信ケーブルをひきこむ等の工事がある。その建設工事を通信建設会社に委託しているので、通信建設会社の社員も出席してその進捗をチェックすることになる。

出席した多数の通信建設会社のそれぞれの担当者が進捗と今後の予定を説明し始めたときに、資料を眺めながら聞いていた孫正義氏が激しく怒りだした。工事が想定には程遠い進捗であることと、それに対する対策が十分でなく、当然のように淡々と説明する態度に怒りだし、遂には資料を破って投げ捨てるほどに激高してしまった。それから延々と建設会社の担当者は怒りをぶつけられて、傍観しているのが少し気の毒になるほどであったが孫正義氏は会社ぐるみのサボタージュのにおいを嗅ぎ付けたのだろう。この会議が終わったのは深夜の2時で実に怒りは7時間に及んだ。会議終了後孫正義氏は「今から家族で私の誕生日パーティーだ」といって帰宅した。夜中の3時にバースデイを祝うのは聞いたことがない。かくして2001年8月11日という実に長い長い出勤初日は終わった。

2時に行ったら、3時までミーティングして。その3時にミーティング終わった時に、その時部下に言ってたのは、「じゃあこの仕事6時までに終わらせといてくれ」と。「1回俺、家に帰るから」と。6時までに終わらせといてくれ。6時ってのは、次の日の夕方の6時ではなくて、その日の朝、手前の6時。3時間の間にちょっと家行って、仮眠して戻ってくる。そうやってもう1年間、血反吐を吐くような思いでやりました。

この夜の進捗会議に参加した通信建設会社はすべて電電公社時代から長年にわたってNTT一筋に建設工事を請け負ってきた。新電電発足後に新電電各社にも営業を始め、工事受注もしているがその受注比は雲泥の差であり、NTTから経営陣を始め幹部として多数が迎えられていて、いわばNTTファミリー企業である。NTTの意向を感じ取って動かざるを得ない体質である。NTT局舎に対して工事申請をおこなって遅れが出ても強く進捗を迫ることなど期待できない。進捗の遅れる原因は山のようにある。「フリー・アクセスの穴を空ける工事が床の過重強度との関係でできない」「NTTから回答が来ない」・・・。こうした工事の現場にまで進捗モチベーション不在の空気を感じとって激怒したのだが建設会社の担当者はうなだれてやりすごすほかはない。

後日、ある関西の通信建設会社の社長が来社して孫正義氏と面談したが特段改善を約束する風もなく現状の説明をするばかりであった。「精いっぱいやっているので嫌なら切ってくれて結構」といった空気がみなぎっていた。これはこの通信建設会社だけではなく、全般的な風潮だと後に気がつくことになる。

最大手の一つにかつて在籍したNTTデータ幹部から役員として迎えられている知人に電話をしてNTT局舎建設工事への参加を打診したことがあるが、はっきり明言はしなかったがソフトバンクは鬼門だとの感触を受けた。又、開業から数年後にMDF自前工事の建設工事をNTT傘下の通信建設会社に依頼したことがあるがこれもやはり進捗で躓いた。こうした通信行政上は表面化しないしかも重大な障壁も存在することを知ることになる。 

ソフトバンクADSL事業の真の桶狭間は2001年9月開業からその年の終わり12月までの4ヶ月、50万の顧客が開通するまでだったと思う。後にも色々と大波小波を経験したがこのときに比べれば大したことはない、このときこそが真の経営危機だった。飛行機が整備不良で、なんとか飛びたったはいいが安定飛行まで上昇できないという危険な状態の4ヶ月間で、これでは事業継続や営業努力など話にもならない、しかも時間をかけで整備すればよいというものではない、すでに100万の顧客を待たせているので整備が長引けばどうなるか、顧客保護の名のもとに総務省から業務停止が申し渡されることは目に見えており、そうなればADSL事業は一巻の終わりだ。 

2001年9月開業当時の墜落の恐怖を味わったものは孫正義氏以外ではそう多くはない、ソフトバンクに残るI氏など数えるほどで、現在活躍している経営陣は安定高度に達したとは言えないまでもシートベルト着用サインが消えるころに参加してきた人達で占めている。数多く出版されているノンフィクションのインタビューに答える人々はそうした人々で、縁の下の努力をした東京めたりっくやソフトバンクテクノロジーのSEの面々の活躍などは語られることはない。さらにはサボタージュとまで間違った評価をされ、いまだにその正当な評価を受けていない気がする。これはちょっとおかしい、これは彼らの能力不足というよりも未整備のおんぼろ飛行機で飛べと言った側にも責任がある。

そこで開業当時こうした縁の下で苦労した人達、孫正義氏から直接に罵倒に近い叱責を毎日のように受けていたスタッフの働きにも着目しながら一連の回想を書き出すことにする。筆者はNTT相互接続と顧客関連オペレーション、情報システムを担当することになった。ソフトバンクBB管理本部長のMさん、他にCTO(チーフ テクニカル オフィサー)のTさんがいた。たった3名の本部長でスタートしたが、数日してもう一人Iさんがソフトバンク関連会社から出向してきて、彼がNTT工事を担当する建設本部長を任命され、やっと4人になった。さらにもう一人ソフトバンクテクノロジーからTさん、さらにコンサルタントとして日本交信網のIさんが参加して6名になった。桃太郎の鬼退治のように徐々に参加する人が集まってきた。

仮設社長室の入り口ドアのすぐそば2メートルもはなれないところに殺風景な長テーブルが置かれ、社長秘書達が3名移ってきていた。定年間際の社長車ドライバー氏やプライベートジェットの日航機長がスケジュール調整のために仮設社長室に出入りし、秘書は孫正義氏に食後のサプリメントであるハイゲンキとブラジル直輸入のロイヤルゼリーそれに抹茶入りヨーグルトをお盆に乗せて社長室に運び、ときおり孫正義氏が突然雷を落とす大きな声が聞こえてきた。

開業当時大勢の顧客の開通を遅らせており、「2ちゃんねる」サイトを始めとして、ネットの巷では放置民(ホーチミン)と揶揄されていた。NTT局舎建設工事が計画通りに進まないため開通が遅れ、それが顧客を一層不安にし、同一人物が再申し込みや解約を繰り返し、yahooやソフトバンク側のデータベースの不備も重なり、そのため二重申込みが発生したり、同一人物の解約と再申し込みの後先がわからなくなるなどの混乱対策にも追われた。 

ADSLサービスが提供されるまでの一連の作業の概略を説明してみると次のようになる。

①顧客がソフトバンクBBにサービスを申し込む。

②ソフトバンクBBでは申込書の形式チェックの後、NTT東西に局内工事の依頼を行う。これはNTTから購入する専用端末で行い、専用線でNTTと結ばれている。

③NTT東西は局内工事の前に申し込み顧客の名義のチェックや、顧客回線がISDN回線ではないかどうかのチェックを行う。

④その後、NTT東西の局内工事に入る。局内工事はMDFと呼ばれる配線盤を介して顧客のメタル回線と交換機の間にADSL集合モデムをかませる工事だ。これが無事に終了するとソフトバンクBBはNTT東西から工事完了通知を受け取る。

この一連の手続き処理をソフトバンク側で行う部門をオペレーションセンターと呼び、ソフトバンクのNTT東西へのADSL申し込みオペレーションセンターは開業当時、江東区亀戸にあり、センターではソフトバンクテクノロジーからきた情報処理担当部長と大手ソフトウェア会社CSK派遣のスタッフが数名であたっていた。いわば武器も満足にない民兵が巨大な敵と戦っている状態であり、彼らのみで100万件まで膨れ上がり、積滞しているNTT東西に対する申し込み処理をこなしている、いやなんとか押し込んでいる。つまりオペレーションセンターが無いに等しいのだ。

武器も満足にない民兵が巨大な敵と戦っている状態と記したが、民兵といえば2001年8月11日、転職初日に出社するとソフトバンク傘下の社長から、「わが社のADSLビジネスの現状は墨俣の一夜城と同じだ」といわれた。

永禄9年(1566)織田信長が美濃の斎藤氏を攻める拠点の一つとして木下籐吉郎に命じて砦を築かせた。実際には一夜ではないが驚異的な速さではあったらしい。その当時のソフトバンクの状況を端的に表していた。

1年間1000億ずつ、4年間赤字出した。ネットバブルはじけたあとで、2千数百億に時価総額落ちちゃった時に、また4000億もの赤字よう出したなあ、と。そうでしょ? なんとかなるもんです。高い志があれば。まさに我々にとっては桶狭間の戦いでありました。小さな我々の会社が、日本一大きな会社に、しかもバブルはじけたあとにやる戦い。大変なことです。

最悪、我が社が押しつぶされたとしても、その結果、日本のブロードバンドの夜明けが来れば、それはそれで目的は達成できた、と。

あまり龍馬伝の先を言うなと言われても、これは歴史の事実だから。でも仮に自分の身は朽ち果てたとしても、自分の命が朽ち果てたとしても、維新という事が成されれば、それはそれで立派に事を成せりと、僕はそう思ったんですね。

エピソード ブロードバンド事業の開業宣言

なぜならその時、日本のインターネットは、先進国で世界一遅い、世界一高い。これじゃインターネット業界に携わってる我々としては恥ずかしい。シリコンバレーの連中に対して恥ずかしい。日本は世界で2番目のGDPの国だと、色々言うとるけど、先進国の中でインターネット世界一遅いぞ、世界一高いぞ、と。先進国の中で。GDPは2番だ。なんじゃその国は、ということで、これは恥ずかしい。だから日本のインターネット業界全部のために、日本のインターネットユーザー全部のために、わしの人生よりも、そのことのほうが大切だ。

ソフトバンクも大切、ソフトバンク潰れちゃいかん。ソフトバンクの経営者としての責務はある。でもそれはそれとして、潰すわけにはいかんけど、あわせて、わしは何のために生まれてきたんだ。わしゃ何のために志立てたんだ、と。わしの志って何だったんだ。そりゃデジタル情報革命だろう、と。この革命のために、人生を捧げてるわけだから、ここでひるむわけにはいかんということで、この世界一高い、世界一遅いってヤツを、世界一安くしてやろう、世界一高速にしてやろう、と。

開業に先立つ数ヶ月前のある日、ソフトバンクグループ社員約100名が社内の一室に集められ、孫正義ソフトバンク社長がスピーチをしてブロードバンド事業の開業宣言をした。

この約100人は社内の有志あるいは不本意ながら上司から出席を命ぜられたもの等、傘下の子会社の事情によりまちまちで、この集まった100人の中から希望してあるいは上司に説得されてソフトバンクBBに出向することになった社員が開業当時の勢力だった。専門分野別を意識して集められたわけではないから、証券業務や出版などの出身者が多く、システム系のスタッフ数名を除くとほぼ全員が通信分野は始めての素人集団といってよい。

扱うオペレーションの質と量に比べて極めて不十分と言ってよく、同業他社のオペレーションセンターの人数、コンピュータシステム設備を知るだけに本当に驚いた。同業他社は本格的な業務処理システムを購入し、あるいは自ら開発したが、ソフトバンクではそうした当たり前の準備がなく、汎用データベースに100万件を越すデータを投入しているだけで、後処理はデータベース言語を入力して必要なデータを作成するバラック建築である。

ヤフーから届く申し込みデータに同一顧客の解約と再申し込みが重複して、名寄せが全くできていないデータベースで、データの洗い出しから始める必要があるが、そのような作業期間をとることは延期につながるとして孫正義が頑として許さなかった。

なぜ同一顧客の解約と再申し込みが重複したか、積滞が長引き苛立った顧客が解約と再申し込みを繰り返したためで、ヤフウから混乱したデータを受け取りNTT申し込み処理がされたので突き返される申込みも多く、遅延に拍車をかけた。2chでは放置民という言葉が踊った。

顧客管理システムが無い、コールセンターが無いという無い無いづくしのなかで当時のスタッフ達は孫正義氏の厳しい叱責を受けながら奮闘していた。

「一体なにをやってるんだ、ぼけ!なぜ一日にこんな数しか申し込めないんだ、たいがいにしろ」

亀戸ではほぼ毎日のように孫正義氏がA部長を叱責する声が響く。日本橋箱崎から亀戸のコンピュータセンターまでほぼ毎日のように社長車で同行する。筆者はNTTデータでシステム開発チームを率いた経験があるので準備もなくシステムもない状態で苦労している彼らの辛さはよく理解できた。

このシステム部門にはソフトバンクテクノロジーの執行役員や部長が責任者として参加していたが、いつも孫正義氏の厳しい叱正を受け、はた目にも気の毒であった。いわば竹槍で戦車軍団に立ち向かえと叱咤激励されているようなもので、たまったものではなかったと思う。その上顧客からの苦情メール対応や設置トラブル対応も行っておりそれでも彼らは愚痴をこぼさずに頑張っていた。今では彼らの存在と頑張りはとうに忘れられていて、手際の悪いスタッフと片付けられているだろうが、筆者は今でも彼らの縁の下の功労を思う。

この当時の孫正義氏は通信会社の組織運営やオペレーションを全く知らなかったと言ってよく、TさんやHさんの言うことを鵜呑みにしていた。のちに日本テレコムやボーダフォン、スプリント買収を進めるが、この当時のオペレーションの大変な思いの反省から来ている。買収のほうがはるかに時間の節約になり効果的だとの教訓の結果ではなかろうか。買収は顧客を一気に引き受けることと合わせてオペレーションをそのまま引き取るという点に大きな利点を見ているに違いない、もちろん巨額を投資するリスクも併せ持つが。

正規軍ではない民兵達だがそのうちに東京めたりっくや名古屋めたりっくの正規軍がオペレーションに参加してようやくオペレーションが回りだした。NTT東西に対するADSL工事申し込みやコールセンターもどきの組織が編成されよちよちと動き出した。


ソフトバンクの本社の向かい側の仮事務所みたいなところ、そこでうちのエンジニア達と、泊り込みでやってたんですよ。

ウジャーッとエンジニアが汗臭いにおいで、鳥かごのように、養鶏場の鶏のように、作業机に全員並んで、小さな部屋にすし詰め状態。

僕は手を叩いて、叫びまくりながら、やってる。

1年間、血反吐を吐くような思いで、やりました。

まさに我々にとっては桶狭間の戦いだった。


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