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まさおレポート

大川隆法の逝去で思うこと 清貧であること、性急さを求めないこと、そして偏狭にならないことがカルト化防止3原則

幸福の科学の創始者大川隆法氏が亡くなり、統一教会の余波もあり息子大川宏洋氏の言動がYoutubeで注目を集めている。イタコ芸と称する大川隆法が降り立っての霊言はまさに大川隆法氏を冒涜する感があるが息子大川宏洋氏はそんなことは織り込み済みで父親の負ったものを返そうとしているのかもしれない。

昨年の安倍さんの暗殺事件以来統一教会、創価学会についで幸福の科学と新興宗教が相次いでカルト批判を浴び、戦後に発生した新興宗教に一つの大波がきている感がする。

幸福の科学との個人的な関係はないがかつての職場の先輩が電電公社を辞めて幸福の科学の幹部職員になり、2010年ごろに比較的く(65歳くらいか)してお亡くなりになった。幸福の科学の出版物が送られてきて、わたしは関心が全くなかったので送り返したこともあった。そんなこともあり幸福の科学が記憶にとどまっていた。

Youtubeで大川隆法が田原総一朗とテレビ討論しているのを見た。1990年ごろの録画で幸福の科学立ち上げが1986年であり設立数年後の対談で二人とも若い。

その中で大川隆法は既成の仏教・キリスト教などが寺や教会で悩める人々を具体的に救済できなくなっている末法の世なので幸福の科学を立ち上げたと述べている。そして2037年、隆法氏が84歳になる時までに流布を成し遂げ、それから寿命を迎えると自信満々に答えている。

これを聞いてああそうか、統一教会はよく知らないが創価学会と幸福の科学は設立者の当初の動機が同じだなと思った。(紀野一義氏も戦後の仏教復興に尽力されたがその動機に既成の仏教・キリスト教などが寺や教会で悩める人々を具体的に救済できなくなっていることを嘆いていた)

いつの世にも一定数の救済を真剣に求める人々がいてそれに応える生身の人間が登場する。歴史上の教祖だけでは物足りないのだ。目の前にいて肉声で励まして導いてくれる人を求める。需要と供給と言ってしまえば俗すぎる、もっと深い人間性に根ざしたものがあるのだろう。

いつの世にも宗教を必要とする人々は必ず一定数いて人間にとって必要なのだと思う。

が当初の動機は純でも宗教団体として成功し絶対者として君臨する間にいつの間にか腐敗してカルト化するということが極めて陥りやすい罠として逃れられないことを示しているようだ。これは何も新興宗教に限らない。

伝統仏教も例えば比叡山の僧兵を要したように十分権力と癒着した腐敗の歴史を持つ。キリスト教も中世の免罪符販売の事例だけでも十分腐敗を証明できるだろう。「薔薇の名前」にも多くの腐敗が描かれている。


紀野一義氏は90歳で亡くなられるまで小さな団体は作ったが収入があれば一定の施しをひっそりと行うなど清貧といっても良い生活を静かに貫かれた。

「薔薇の名前」でも清貧が中心テーマになっている。良寛が今でも人気があり続けるのはやはり清貧だからだろう。ここに宗教団体がカルト化しない一つのキーがありそうだ。

もう一つは性急な到来を求めないということではないかと思う。「薔薇の名前」でも弟子のアドソに性急さを諌める言葉をパスカビルのウィリアムは述べている。


創価学会の財務活動による蓄財や選挙活動と宗教活動を同一視した行動が元創価学会員に批判されている。(宗門からの離脱も布教の性急さから来るものではないかと思う)

幸福の科学の大川隆法が2037年までに布教を完成させると田原総一郎との対談で述べているのもやはり布教の性急さを求めるものであり「薔薇の名前」のウィリアムの言葉は実にカルト化への要因の深いところを突いている。

幸福の科学も長男大川宏洋氏の証言によると港区の広大な邸宅でテニスコートがあるとかの贅沢な生活ぶりが明らかになっている。創価学会の池田大作氏も今は療養中らしいが活動期には生ハムメロンで喧伝されたような生活ぶりは当たらずとも遠うからずだったのではないか。

でも生ハムメロンを食後に丸ごと平らげようがテニスコート付きの邸宅に住もうがそれがカルトの本質ではないと思う。(それは嫉妬からくる批判だろう)


当初の純粋な動機が布教の手段としての合理化で金にいつの間にか取り込まれるという恐ろしさを示しているように思えてならない。

全てのことが布教の性急さゆえに合理化されるのではないか。性急さは他宗を攻撃する偏狭さにも通じる。


俺は元気で布教の達成まで長生きしなければならない、だから最高にうまいもの、良いものを食べて快適な生活をする。弟子たちももっと太りなさい、うんと美味いものを食べなさい。全て布教の達成につながる。 

そんな自分中心の合理化が頭の中に占めるのではないか。(これは宗教家だけではない、政治家も実業家も同じく陥る穴だろう)

俺の布教を邪魔する輩は全て敵だ。徹底的に攻撃しろ。こうした偏狭さも性急さに根を持つ。(仏陀は提婆達多の偏狭さを認めなかった)


わたしは既成の仏教・キリスト教および新興宗教が深い反省を通じて再び大きな波として悩める人の救済に尽力する、そんな波が来て欲しい気がする。人類は(全てとは言わないが一定数の人類は)宗教の救いを必要とするのではないかと思うから。


釈迦はなぜ腐敗しなかったのか、キリストはなぜ腐敗しなかったのか。その答えは真の仏であり神だからということになるのだが、それで終わってはいけない。

問題は清貧であること、性急さを求めないこと、そして教祖が絶対者にならないこと(つまり偏狭にならないこと)だろう。

偏狭を廃するということは釈迦が提婆達多を追放したことが参考になる。提婆達多は偏狭な原理主義的戒律論者でその厳守を主張した。しかし釈迦に反対され分派して滅びた。

清貧であること、性急さを求めないこと、そして偏狭にならないことがカルト化防止3原則ではないかと思います。

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