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まさおレポート

イタリアのボローニャで惻隠の情を語る 武士道と日本道それに火事場泥棒

11年前になる。イタリアのボローニャからローマに向かう途中、コンパートメントの向かいに座った三十代と見える眼科医と到着するまでよもやま話をした。イタリアは他の国よりも話好きのお国柄であるらしい。

眼科医は医者の初任給の日伊の違いについて熱心に質問してきた。武士道についても質問を受けた。たまたま藤原 正彦の本を読んでいて記憶に残っていた惻隠の情が武士道の本質だと説明したかったがうまく伝わった自信はない。武士道の本質は敵を思いやる心だといったらキョトンとしていた。騎士道精神のような回答を期待したのだろうか、なんでそれが武士道と関係があるのかとの疑問が顔に浮かんでいる。

武士にも小汚い奴もいたのだろうが概ね意識の核にこのような美徳を植え込まれていたのだろうと思う。

震災の際の日本人の振る舞いに火事場泥棒的な振る舞いが無かったことでも惻隠の情の美徳が残っていることがわかる。すると武士道の本質はなにも武士の美徳ではない、日本人一般の美徳ではないかとも思えてくる。武士道と言うからなにやら権威主義的なニオイが立ち込めてくるが本当は日本道とでもいうべきだろう。

ただ泥棒するだけなら仏教の五戒のうちのひとつ偸盗の罪だが、日本では火事場泥棒は偸盗よりも憎むべき罪になる。子供や弱者など抵抗力のない人の弱みに付け込む盗みはただ泥棒することよりも卑怯な行為であり、それを偸盗よりも嫌悪するものとしたことは実に日本的な価値観の特徴であり、仏教の五戒のひとつ偸盗の罪にさらに重い罪を独自に加えたことになる。

新渡戸稲造は武士道の美徳を敗者への共感、劣者への同情、弱者への愛情、と書いているが実は武士だけの特質ではない、日本人庶民の特質だったのだ。

惻隠の情はロッキード事件でも猛威を発揮した。

椎名悦三郎副総裁が「三木には惻隠の情がない」として三木退陣工作をはじめた。「力づくの退陣には絶対に応じない。臨時国会前の退陣は承伏できない」とし世論は三木に味方してロッキード疑惑につらなる九月解散はなかった。

三木は、十二月の任期満了にともなう選挙を選択したが、衆院の議員定数が491から511に増加したにもかかわらず自民党は前回議席を22下回る249議席しか確保できず惨敗した。 十二月二十二日に三木内閣は総辞職したが「三木には惻隠の情がない」が大きな効果を収めたのだろう。

映画にも惻隠の情で記憶にのこる作品がある。松本清張の推理小説の犯人は屈折した性格をもつが、「砂の器」のピアニストの屈折はまた他の屈折者たちと一線を画する。ハンセン病の親子が乞食の旅を続ける。この息子が自らの出自を隠すために人間の美徳の仁を形にしたような元巡査を殺す。人間の美徳の仁とは惻隠の情でありその設定が説得力を持つ。

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