まさおレポート

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「さとり」あれこれ

2023-10-13 | 紀野一義 仏教研究含む

2022-05-25初稿2023-10-13追記

紀野一義はさとりを論理的に筋道を立てては語らない。一見矛盾したことも平気で言う。ここでは氏がさとりについて折に触れて書き、話したことを並べることにした。そうした形でしか述べることができないテーマだと思う。

我々は論理的にものを考えるが悟りを開くのにはいろいろ考えてもだめ
道元が悟りについて教え、紀野一義は現代の我々に噛み砕いて教えてくれる。
師がいないと仏法ではないとはこう言うことを言うのか。

道元禅師が正法眼蔵の中にですねこういう素晴らしい言葉で表現されていらっしゃる。

仏法は、人の知るべきにはあらず。このゆゑにむかしより、凡夫として仏法を悟るなし、二乗として仏法をきはむるなし。ひとり仏にさとらるるゆゑに、唯仏与仏、乃能究尽といふ。

正法眼蔵の唯仏与仏の巻を氏がわかりやすく言い換えている。


悟りより先に力とせず
はるかに越えてきたれる故に悟りとは一つに悟りの力にのみ助けられる
 
分かりやすく言うと仏法というものは人間が知るべきものでないと

解脱とは自分を縛っているものから自由になること。たばこの禁煙に例をとるとやめてもまだ吸いたいと思っているうちは解脱していない。
信心が決定した時にほぼ往生する。迷いがなくなると死ななくちゃならない、迷いをですね断ち切ってしまうと人間の命まで断ち切ってしまうと思う。死ぬときに完全に往生するとも。
悟りがなければ迷いもない、無明は明るくないということで真っ暗闇ではない。無明ということがあるから人間は生きている。
無明がなくて英知だけだったら面白くもなんともないですよ。人間は生きている限り迷うものだ。ファーストを読めばわかる。そうすると迷いがないと悟れないということもわかる。
その迷いを上手に使って迷いを乗り越えてそして迷いを動かしている力を自分のものにするということが大切になる。


さとりについて紀野一義は「坊さんで自分は悟った、見性したといいふらすのは下の下、見性したなら釈迦のように人を救わなければならない」と言う。

年配の方でも人生60年歩いてもさっぱり60年歩いたような感じがしない方がいらっしゃる。そういうかたはただ歩いただけ。それに対して村長さんに話しただけで満足して帰れるんだよね 。話している間に自分で気がつく。こういう人をさとった人と言う。

氏は「それは悟りの人だからだ。ははーなったなとわかる。自分のことしか考えなかった人があの人のことを考えることになる。もうさとりのひとなのだからあれこれわずらうことではない」と云う。

無量義経
諸々の衆生に於いて憐敃の心を生じ
一切の法に於いて勇健の想いを得ん 
壮んなる力士の、諸有の重き者を能く担い持つが如く 
是の持経の人も亦復是の如し 
能く無上菩提の重き宝を荷ない、衆生を担負して生死の道を出す
 未だ自ら度すること能わざれども、すでによく彼を度せん

知識をむさぼるものよ、意見の密林に対し、ことばのための争いに対し、みずからを戒めよ。意見は大切ではない。意見は美しいことも、醜いことも、賢いことも、愚かなこともあろう。だれでも意見を信奉することも、しりぞけることもできる。

おん身は賢い、沙門よおん身は賢く語ることを心得ている、友よ。あまりに大きい賢明さを戒めよ。


「さぐり求めると」とシッダールタは言った。「その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取りつかれているので、何ものもを見いだすことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである

渡し守のヴァスデーヴァは一言も発しなかった。ただ傾聴するのを感じた。告白するのはどんな幸福であるかをシッダールタは感じた。カマラは毒蛇に噛まれて死に息子は離れていくという不運にもあったが彼は川から絶えず学んだ。何よりも川から傾聴することを学んだ。静かな心で、開かれた待つ魂で、執着を持たず、願いを持たず、判断を持たず、意見を持たず聞き入ることを学んだ。

そして世界が不完全なのでもなければ、完全さへの道を辿っているのでもなく、瞬間瞬間に完全なのだと悟る

川は至る所において、源泉において、河口において、滝において、渡し場において、早瀬において、海において、山において、至る所において同時に存在する。川にとっては現在だけが存在する。過去という影も、未来という影も存在しない。

かつて若き日に覚者仏陀に問いただした疑問がまずその一つであった。あなたのその教えによると、万物の統一と首尾一貫が一か所で中断されております。それは世界の克服の教え、解脱の教えです。

これは法華経で声聞や独覚つまり二乗では不作仏であるということをヘッセはおそらく知っていたのだろう。


良寛
わしは生涯、世の中に身を立て出世するという生き方がいやで、ぼんやりとして、あるがままの天然の道理に自分を任せきって生きている。・・・迷ったの、悟ったのというようなことは今のわしにはどうでもよい。まして、名誉だの、利益だのというような汚いものにはかかわりがない。名僧列伝(二)

しかし災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これ災難をのがるる妙法にて候。かしこ 名僧列伝(二)

これでは良寛は現代の上昇志向の若者にはそっぽを向かれるだろう。そう思って読み進めると氏は次のように記す。良寛は好きだがその面はしっかり批判している。人間にはそれぞれ、弱さというものがある。良寛の弱さはそういう情緒不安定にあったのかもしれぬ。それを美化したり、善意に解釈しなおしたりする気は私にはないのである。
この頃は、ことさら禅僧くさく奇矯にふるまう人が多く、くさくてかなわないので、一点香火の気なし、という良寛には無条件にひかれるのである。良寛は私にとってなつかしい人である。なつかしいと思わぬと、その現行に強大な影響を受けることがない。名僧列伝(二)

紀野一義は私が一期一会で聴いた講演で懐かしい人というのが最上の誉め言葉だと述べた。以来わたしはこのことばを忘れたことはない。大切な人へも最後の別れにこの言葉を送った。


君看よ双眼の色・・・はよくお目にかかるが誰の言葉かをしらなかった。この素敵な言葉は良寛の言葉だったのだ。
良寛さまが好んで書かれたことばの中に、
君看よ双眼の色
語らざれば憂い無きに似たり
「佛との出会い」

風が吹いていくようにひっかかりがない、これがよい。ばかみたいなところに人の心を打つものがある。悟った人は洗練された優雅さがある。ほとけになるよりほとけであれ

氏はさとりをどのように説くか。一見つかみどころがない。
ほとけがほとけでないそしてほとけである。一旦否定するが肯定することを即非の論理。
おんなはおんなでないものになることでおんなになる。
わしのものでなければひとのものもわしのもの 本来無一物。
ひっくりかえされたところに悟りがひらける

さとりはさとろうとして得られるものではない。さとらされるものだ。又さとりは詩でしか表現できない世界だという。かつて偉大な僧は詩や和歌でほとけの世界や悟りの世界を表現した。


禅宗のお坊さんに見性とはと質問すると上手に逃げておしまいになる。禅僧は悟りということをあんまりいわないですね。説明のできないものだから。いかなるかこれほとけ かやくらん(便所の垣根)と返される。柴山老師は「ほとけをあんまり簡単に使うな」と云われた。


姿や動きに精錬された優雅さというものが現われてくる。それがないと見性とはいえない。見性した人には一挙手一投足の美しさがある。

さとろうとするとさとれない、さとりは自分で理解できるものではない、人を救うことだけがさとりにいたる道だと非常に核心的なことを述べている。


あらゆる宗派のお坊さんと友達でよく知っているがさとったというひとが凡夫だという現実をたくさん見てきたと氏は言う。
また、さとってもそれがずっと続くわけではない、再び鬼にかえることもあると説明する。悟った後の方がこわいですね。煩悩の火が消されていくと最後は死がある。釈迦は35歳で悟り、80歳まで45年間説いてまわった。


さとりをえたいと考えるのはご本人がさとりというものが自分のなかにあるから求めるのだ。自分の中にあるのになんでそとに求めるか。曹洞宗流

さとりのひとにならなければならない。なってしまうとあれこれ悩むことはないであろう。臨済流

曹洞宗と臨済の二つの読み方を紹介。どちらをとるかはみなさんの自由です。人間解釈の2つの流れだと氏は言う。


人間が立派になる法、仏になる法は二つある。積み上げ方式がある。これも一つのやりかた。適当にやっていても月給だけはくれる。それでいいと思っている人はそれで終わる。現代の六道輪廻だ。いつまでたっても悟れない人は「これでいいのだろうか」と考えない人であり、考える人は地獄にいても声聞、縁覚に抜けていくことができる。この一点が大事だと。

又、跳躍方式はあっというまに仏になる。勉強したら悟れるというわけにはいかない。しかし自然に得られるというもの間違い。刹那に滅却して悟るという世界がある。
自分を追い詰めるということが大切で、とことんのところで刹那に世界がひっくり返る。世界がひっくり返ると今度は仏の命の中に自分が生きてなんともいえない大きな大きなものが私を生かしていると気がつく。


山岡鉄舟先生が座禅をしていた時最初はネズミがみんな逃げ出したが山岡鉄舟先生が死の前は彼の肩にまで登ってきた。ある人が河原で座っていると小鳥が肩に止まった。ある瞬間にトリが肩から飛び立った。すると強い力が自分の中に湧いてきた。

南禅寺柴山全慶のさとりを紹介している。柴山師は永観堂の鐘の音が聞こえてきて黄金色の波になってやってきたときその音が見えた。鐘がなり心が動いた。そして気を失って悟った。

悟る人はなにをしても悟るんですねと氏は言う。しかし悟りっぱなしという人に出会ったことがない。悟から迷うんでね。さとりとか迷いとかに引っかかっているときはだめだと。淡々といけばよいというのが氏の説明だ。

一句一偈でも悟ることができる。長いお経で変わったのではない、一句一偈で変わったという話はこの世にはたくさんある。

要するにあれこれ考えても無用でただほとけからくる。論理的にいろいろ考えても無駄だ。これを唯物与仏と言い、正法眼蔵で的確に述べている。そう言われるとちょっとこまっちゃうようなものですけどねと氏は言う。


凡夫で悟ったものはないと。二乗もおらん。唯物与仏のみ極めつくす。鈴木大拙とバーナードリーチの対談で鈴木大拙はあんたはそのまんまでほとけだといったらバーナードリーチが大笑いした。この大笑いは肯定と謙遜の大笑いだろう。自分の中にあるほとけを確信することが大事でそれを如来と云い、この人は人を渡したひとだ。人を渡したひとでないと凡夫から脱しきれず、それでは悟れないということを唯物与仏のみ極めつくすと云っている。

いずれにせよ何かにこだわったら本来のさとりは死んでしまう。つかまえたと思ったらだめでこだわらんようにせよと。われわれはろくでもない人間だが仏性はある、私はつまらない人間だなんていう先入観にとらわれてはいけないわけですね。
それから私は優れた人間であるなんていう先入観もこれもあんまりありがたくない代物ですね。それも放り出していかなくちゃいけない。

仏性を求れば得られない。なぜならば求めると言うことは自己とは別のもを追いかけることであり本来ほとけと我は一つのものだから追いかけても得られない。捕まえても捕まえたと思わない。不可得でありながらつかまえる。

おかしい時に笑わない人間、悲しい時に泣かない人間は外れている。誰からも好かれない。一緒にご飯食べても楽しくない。こういう人にさとりなんてないですよ。げらげらとみんなで笑う、泣く、そんなときに考えてみる。自己に 変化が起きることが大事。本願力が動かしているかどうかが大事。泣いて泣いてそのうち笑い出す。頭がおかしくなったわけではない。本願力が動かしている。あるときは強くなりあるときは弱くなることが大事だ。


道元 正法眼蔵 生死の巻を読んで

この生死はすなはち佛の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち佛の御いのちをうしなはんとするなり。

これにとどまりて生死に著すれば、これも佛のいのちをうしなふなり、佛のありさまをとどむるなり。いとふことなく、したふことなき、このときはじめて佛のこころにいる。

ただし、心をもてはかることなかれ、ことばをもていふことなかれ。ただわが身をも心をもはなちわすれて、佛のいへになげいれて、佛のかたよりおこなはれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからをもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ、佛となる。

生死は迷い ほとけの命を生きている 嫌だと放り出せば仏の命を放り出すことになる。さらーっと生きて行けるようになるとほとけの命をいきることになる。

佛となるに、いとやすきみちあり。もろもろの惡をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみふかくして、上をうやまひ下をあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふ心なくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを佛となづく。又ほかにたづぬることなかれ。

むつかしいことはなんにも言っていません。念のうすきは人間、念のなきはほとけといった盤珪さんとおなじだ、こうなるためには何年も切ない思いをするんですねと氏は言う。


悟りそのものも決して思ったようなものでない。そういうわけだから事前に予測するということは悟りにとってはなんの役にも立たない。

それ以前に思ったこともそのまんま悟りであったんだけれどもその折には自分が悟りという別のものになろうとしたのでその力がなかったのだと思いもするし云いもするのだ。

悟りというものは悟り以前に思った事などは力としないではるかに越えてやってくるのだ。

芝居でもお能でも演じると演ぜられるは同じこと、迷っても悟っても同じこと、面白いですね。それまでは迷いをさることが悟り、しかし道元は同じことだと言い切る。釈迦の弟子が迷ったとしてもそれはほとけの中で迷っているだけで、ようするにそれはほとけさまだけの世界である。論理でいくと甚深無量であり、難解難入なんだけどしかしそういう考えを止めてそのまま受け入れると即座に本行菩薩道なんだよ。


それは芭蕉の思いに通じる。

稲妻にさとらぬ人のたつとさよ

元禄3年9月6日付曲水宛書簡「此辺やぶれかゝり候へ共、一筋の道に出る事かたく、古キ句に言葉のみあれて、酒くらひ豆腐くらひなどゝ、のゝしる輩のみに候。」

芭蕉は悟りを拒否している。それよりも西行と共に行く方を撰び取った。これも「悟りというものは悟り以前に思った事などは力としないではるかに越えてやってくるのだ。」を裏から述べている。


聖徳太子は世間は虚仮にして 唯仏のみ是れ真なりと

橘夫人・天寿国繍帳銘文

歳は辛巳に在る十二月廿一日癸酉の日入に 孔部間人母王 崩りたまう 明年の二月廿二日申戌の夜半に 太子 崩りたまいぬ 時に多至波奈大女郎 悲哀(かな)しみ嘆息(なげ)きて 天皇の前に畏み白して曰さく
「之を啓(もう)すは恐れありと雖も心に懐いて止使(やみ)難し 我が大王と母王と 斯りし如く従遊まして 痛酷(むご)きこと比なし 我が大王の所告(のたま)いけらく『世間は虚仮にして 唯仏のみ是れ真なり』と其の法を玩味(あじわい)みるに 我が大王は 応(まさ)に天寿国の中に生まれましつらんとぞ謂(おも)う 而るに 彼の国の形は眼に看がたき所なり 稀(ねが)わくば図像に因りて大王の往生したまえる状(さま)を観(み)んと欲(おも)う」
と天皇 之を聞こしめして 凄然たまいて告曰(のりたま)わく
「一の我が子有り 啓す 所誠に以て然か為す」
と諸の妥女等に勅して 繍帷二張を造らしめたまう

悟りより先にあれこれ思ったことは何の役にも立たんのだなと思い知ることについてはしっかり考えておかなくてはならない。

もしも悟りより以前に思ったことを力にして悟りが出てきたとしたらそんな悟りはつまらない悟りだろう。

悟りとはただ一つに悟りの力に助けられてやってくるのだ。

もはやそこには迷いなどというものはないものだと知らなければならない。悟りということすらそこにはないのだと知るべきである。

人間は悟るんじゃないんだほとけがさとるんだって言うんです、
だから人間としてあれこれ考えた事は何の役にも立たない。

悟りというものは遥かに越えてくる仏様から来ると言うんですかね
こういう世界を道元様が我々に教えてくれました。
我々はあの西洋人と同じように論理的にものを考える癖があるのでね。悟りを開くのにはこうすりゃいいってまぁいろいろ考えるわけで考えたんじゃダメなんですねと氏は言う。

まさに『世間は虚仮にして 唯仏のみ是れ真なり』に通じている


ショペンハウワーと云う人は生欲の盲動的意志あるいは意識には連続的傾向があると難しいことを言う。

そして意志の肯定の行き着く先は地獄だという。なんというペシミズムか。

意志の肯定の先にある世界は、必然性に支配されている。思い通りにならないことが多く、苦悩も大きい。この究極は、動物の、弱肉強食の世界であり、地獄である。

苦しみは世界の意志のそもそもの発露。

世界がリアルであると見るかぎりは、苦悩が去ることはない。幸福がいつまでも続くとはかぎらない。

世界の”意志”の純粋な認識のみが、彼の人生の目的となっていく。しかし、それは一瞬苦悩を忘れさせてはくれても、人生という不断の苦悩の前には、永久の解脱にはなりえない。

 「個体化の原理」を突き破った人にとっては、他人と自己の区別が無いので、他人の苦痛を自分の苦悩として感じる。最高の慈悲深さを持つばかりに、自分を犠牲にして、自分自身の命を犠牲にしてさえ他人を救おうとする。

よくよく味わってみるとショペンハウワーもまた道元と共通したことを言っている。


 ブッダ 悟るという動詞からきているので悟る人。釈迦は暁の明星を見て悟った。大自然がすべてさとり。これがキリスト教と違うところだと言う。
紀野一義は仏教僧だけが悟りに入るものではない、何宗であろうと何人であろうとどの時代であろうと悟りは平等に降りてくるものだと言っているようだ。そして悟っても迷っても悟り(仏)の中とも言っている。

 

 

 


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