エレミヤ8章
5節「どうして、この民エルサレムは背く者となり、いつまでも背いているのか。偽りに固執して、立ち帰ることを拒む」(新共同訳)
1節「そのとき、と主は言われる。ユダのもろもろの王の骨、高官の骨、祭司の骨、預言者の骨、そしてエルサレムの住民の骨が、墓から掘り出される」。7章後半からの続き。ベン・ヒノムの谷で殺害され焼却されたその時、先祖の王を始め総ての民の墓があばかれるという預言。「ベン・ヒノム」とは「嘆きの子」で、この谷でアハズとマナセが王子を人身御供にした処(列王記下16章3節、21章6節see)。民族滅亡の哀歌である(2~3節)。
4節「彼らに言いなさい。主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか」。どうして(マデュアー)、いつまでも背いているのか、偽りに固執して、立ち帰ることを拒み、正直に語ることをせず、悪を悔いることもしないのかと問う(5~6節)。
7節「空を飛ぶコウノトリもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない」。時の徴を知る渡り鳥は本能的に行動するが、しかし民は心に刻み込まれた「主の定めを知らない」。方向感覚が失われてしまった。「知る」(ヤダー)は人格的な関わりを表す(6章27節、9章2節、31章34節see)。創世記4章1節など、旧約聖書には数多く出てくる。
8節「どうしてお前たちは言えようか。『我々は賢者といわれる者で、主の律法を持っている』と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした」。重ねて「どうして」(マデュアー)と問う。時の徴を知らないのは、民だけではない。賢者といわれる者、律法筆記者(口語訳=書記)、そして預言者から祭司にまで至る(9~10節)。10~12節は、6章13~15節を繰返している。
14節「何のために我々は座っているのか。集まって、城塞に逃れ、黙ってそこにいよう。我々の神、主が我々を黙らせ、毒の水を飲ませられる。我々が主に罪を犯したからだ」。主なる神が民になされる采配を黙して待つのである。それは「毒の水を飲む」という容易ならざる事柄である。平和を望んでも幸いはない(15節)。これは偽りの預言が暴かれることである(11節cf)。
16節「ダンから敵の軍馬のいななきが聞こえる。強い馬の鋭いいななきで、大地はすべて揺れ動く。彼らは来て、地とそこに満ちるもの、都とそこに住むものを食い尽くす」。敵の襲来の予告である(17節)。
18節「わたしの嘆きはつのり、わたしの心は弱り果てる」。エレミヤは嘆き、心は弱り果てるという。それはシオンの娘(都エルサレム)が偶像に犯されている状態に対してである(19節)。更に嘆きは恐怖に変わる(21節)。娘なるわが民の傷は癒えないのだ(22節)。
23節「わたしの頭が大水の源となり、わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう、娘なるわが民の倒れた者のために」。悲嘆にくれる預言者像が描かれている。エレミヤは涙の預言者と呼ばれる。
キリスト生誕物語を読むと、神が現された時の徴を知ったのは、東方の賢者や羊飼い達であった。そして、ファリサイ派らはそれを知ることが出来なかった(マタイ福音書16章3節)。
キリスト者も時のしるしを見分ける霊的鋭い感覚を与えられたい(フィリピ1章9節)。
5節「どうして、この民エルサレムは背く者となり、いつまでも背いているのか。偽りに固執して、立ち帰ることを拒む」(新共同訳)
1節「そのとき、と主は言われる。ユダのもろもろの王の骨、高官の骨、祭司の骨、預言者の骨、そしてエルサレムの住民の骨が、墓から掘り出される」。7章後半からの続き。ベン・ヒノムの谷で殺害され焼却されたその時、先祖の王を始め総ての民の墓があばかれるという預言。「ベン・ヒノム」とは「嘆きの子」で、この谷でアハズとマナセが王子を人身御供にした処(列王記下16章3節、21章6節see)。民族滅亡の哀歌である(2~3節)。
4節「彼らに言いなさい。主はこう言われる。倒れて、起き上がらない者があろうか。離れて、立ち帰らない者があろうか」。どうして(マデュアー)、いつまでも背いているのか、偽りに固執して、立ち帰ることを拒み、正直に語ることをせず、悪を悔いることもしないのかと問う(5~6節)。
7節「空を飛ぶコウノトリもその季節を知っている。山鳩もつばめも鶴も、渡るときを守る。しかし、わが民は主の定めを知ろうとしない」。時の徴を知る渡り鳥は本能的に行動するが、しかし民は心に刻み込まれた「主の定めを知らない」。方向感覚が失われてしまった。「知る」(ヤダー)は人格的な関わりを表す(6章27節、9章2節、31章34節see)。創世記4章1節など、旧約聖書には数多く出てくる。
8節「どうしてお前たちは言えようか。『我々は賢者といわれる者で、主の律法を持っている』と。まことに見よ、書記が偽る筆をもって書き、それを偽りとした」。重ねて「どうして」(マデュアー)と問う。時の徴を知らないのは、民だけではない。賢者といわれる者、律法筆記者(口語訳=書記)、そして預言者から祭司にまで至る(9~10節)。10~12節は、6章13~15節を繰返している。
14節「何のために我々は座っているのか。集まって、城塞に逃れ、黙ってそこにいよう。我々の神、主が我々を黙らせ、毒の水を飲ませられる。我々が主に罪を犯したからだ」。主なる神が民になされる采配を黙して待つのである。それは「毒の水を飲む」という容易ならざる事柄である。平和を望んでも幸いはない(15節)。これは偽りの預言が暴かれることである(11節cf)。
16節「ダンから敵の軍馬のいななきが聞こえる。強い馬の鋭いいななきで、大地はすべて揺れ動く。彼らは来て、地とそこに満ちるもの、都とそこに住むものを食い尽くす」。敵の襲来の予告である(17節)。
18節「わたしの嘆きはつのり、わたしの心は弱り果てる」。エレミヤは嘆き、心は弱り果てるという。それはシオンの娘(都エルサレム)が偶像に犯されている状態に対してである(19節)。更に嘆きは恐怖に変わる(21節)。娘なるわが民の傷は癒えないのだ(22節)。
23節「わたしの頭が大水の源となり、わたしの目が涙の源となればよいのに。そうすれば、昼も夜もわたしは泣こう、娘なるわが民の倒れた者のために」。悲嘆にくれる預言者像が描かれている。エレミヤは涙の預言者と呼ばれる。
キリスト生誕物語を読むと、神が現された時の徴を知ったのは、東方の賢者や羊飼い達であった。そして、ファリサイ派らはそれを知ることが出来なかった(マタイ福音書16章3節)。
キリスト者も時のしるしを見分ける霊的鋭い感覚を与えられたい(フィリピ1章9節)。