ルカ福音書3章
16節「ヨハネは皆に向かって言った。「私はあなた方に水で洗礼(バプテスマ)をさずけているが、私よりも力のある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる」(聖書協会共同訳)
1~3節 歴史的背景を先ず述べる。サマリアの総督ポンティオ・ピラトはユダヤ、サマリアの総督(28~36年)でヨハネが登場する。イエスの受難の時と重なる。彼は罪の赦しと悔い改めを洗礼(バプテスマ)によって示した。群衆はヨハネがメシアであると誤解した。彼は解く必要があり「わたしより遥かに権威ある方が来られる」と語り、その方の前には身を屈めて靴の紐を解き、外出の時には持ち運ぶ役目にも及ばぬ僕だと伝える(16節)。
彼は水のバプテスマをヨルダン川で授け、罪の悔い改めを厳しくユダヤの群衆に求めた(7~14節)。「蝮の子らよ」と呼び、斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれると叫んだ(9節)。
この厳しい神の審判の矛先は、領主ヘロデにまで向けられ、その悪事を責められたヘロデはヨハネを牢に閉じ込めた(19節)。
ヨハネは遥かに権威ある方イエスに、民衆とともにバプテスマを授けた。彼はそれを思いとどませようとしたが、この時イエスは「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」と答えた(マタイ3章16節see)。更に言うならば、幾度も繰り返し犯し続ける人の罪の根源を断ち切るには、イエスの唯一一回限りの燔祭(焼き尽くす献げ物)によることを示している。つまり十字架による罪の贖いである。「聖霊と火のバプテスマ」とはこのことである(16節)。水のバプテスマは十全ではない。水の中に沈められ死んでいるようだが、また息を吹き返す。繰り返されるのはその為である。
火のバプテスマは焼き尽され塵灰になり罪の根は絶たれる。そこで神は新しく人を創造され、これに霊を吹き込み生きる者として下さる。明確な神の御業がここで啓示されるのである。
21~22節 神の国に入るには罪の赦しのバプテスマが要ることを、罪無きイエスは身をもって証しされた。この矛盾の解き明かしは、「あなたはわたしの愛する子、心に適う者」との天来の声とともに、聖霊がイエスに降ることで示された(22節)。
次の聖句がそれを示す。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(聖書共同訳・第二コリント5章17節)。
ヨハネが荒れ野で叫ぶ声(4~6節)は、メシアの出会いに至る道備えであった。彼は「この人を見よ」とイエスを指差す者であった(ヨハネ福音書1章29節)。
23~38節 イエスが宣教を開始したのは。およそ三十歳の時であり、人々はヨセフの子と思われていた(4章22節see)。この系図は歴史的関心に寄せて、民族的系譜を積極的に示唆している(使徒言行録17章26節see)。
マタイ福音書と異なり、ヨセフからダビデを経てアブラハムに至り、全人類の始祖であるアダムにまで至るのみならず、更に「神に至る」として結んでいる(38節)。つまりアダムは誘惑に負けたが、イエスは神の子として悪魔の誘惑に勝利する。これは4章のイエスが誘惑を受ける記述と関わっている。
16節「ヨハネは皆に向かって言った。「私はあなた方に水で洗礼(バプテスマ)をさずけているが、私よりも力のある方が来られる。私は、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる」(聖書協会共同訳)
1~3節 歴史的背景を先ず述べる。サマリアの総督ポンティオ・ピラトはユダヤ、サマリアの総督(28~36年)でヨハネが登場する。イエスの受難の時と重なる。彼は罪の赦しと悔い改めを洗礼(バプテスマ)によって示した。群衆はヨハネがメシアであると誤解した。彼は解く必要があり「わたしより遥かに権威ある方が来られる」と語り、その方の前には身を屈めて靴の紐を解き、外出の時には持ち運ぶ役目にも及ばぬ僕だと伝える(16節)。
彼は水のバプテスマをヨルダン川で授け、罪の悔い改めを厳しくユダヤの群衆に求めた(7~14節)。「蝮の子らよ」と呼び、斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな切り倒されて火に投げ込まれると叫んだ(9節)。
この厳しい神の審判の矛先は、領主ヘロデにまで向けられ、その悪事を責められたヘロデはヨハネを牢に閉じ込めた(19節)。
ヨハネは遥かに権威ある方イエスに、民衆とともにバプテスマを授けた。彼はそれを思いとどませようとしたが、この時イエスは「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです。」と答えた(マタイ3章16節see)。更に言うならば、幾度も繰り返し犯し続ける人の罪の根源を断ち切るには、イエスの唯一一回限りの燔祭(焼き尽くす献げ物)によることを示している。つまり十字架による罪の贖いである。「聖霊と火のバプテスマ」とはこのことである(16節)。水のバプテスマは十全ではない。水の中に沈められ死んでいるようだが、また息を吹き返す。繰り返されるのはその為である。
火のバプテスマは焼き尽され塵灰になり罪の根は絶たれる。そこで神は新しく人を創造され、これに霊を吹き込み生きる者として下さる。明確な神の御業がここで啓示されるのである。
21~22節 神の国に入るには罪の赦しのバプテスマが要ることを、罪無きイエスは身をもって証しされた。この矛盾の解き明かしは、「あなたはわたしの愛する子、心に適う者」との天来の声とともに、聖霊がイエスに降ることで示された(22節)。
次の聖句がそれを示す。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。」(聖書共同訳・第二コリント5章17節)。
ヨハネが荒れ野で叫ぶ声(4~6節)は、メシアの出会いに至る道備えであった。彼は「この人を見よ」とイエスを指差す者であった(ヨハネ福音書1章29節)。
23~38節 イエスが宣教を開始したのは。およそ三十歳の時であり、人々はヨセフの子と思われていた(4章22節see)。この系図は歴史的関心に寄せて、民族的系譜を積極的に示唆している(使徒言行録17章26節see)。
マタイ福音書と異なり、ヨセフからダビデを経てアブラハムに至り、全人類の始祖であるアダムにまで至るのみならず、更に「神に至る」として結んでいる(38節)。つまりアダムは誘惑に負けたが、イエスは神の子として悪魔の誘惑に勝利する。これは4章のイエスが誘惑を受ける記述と関わっている。