日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ

2019-12-28 | Weblog
 ルカ10章 

 3節「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(新共同訳)

 1節「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」。小見出し『七二人を派遣する』。ルカ福音書特有の記事である。6章で十二人の弟子を選ばれたイエスは、七十二人という数字の根拠は、民数記11章24~26節の故事に由来したものと考えられるが、そこでは七十人であった。理由は「収穫は多いが、働き手が少ない」(2節)という実情からである。福音書記者は宣教の視野を「全世界」(マルコ16章章15節、ルカ24章42節)に置いていたに違いない。主イエスとで弟子たちの周囲には多くの病人や貧しい者の数が多かったは当然伺える(2節)。4~10節は9章2~5節と同じである。
 3節「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」。既にイエスの受難予告の時にふれておられる(9章24~25節)。挨拶は弟子に告げた「シャローム」であり、御国の来臨である。然し応答しない者らには「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない」。コラジン、ベトサイダはガリラヤ湖畔の町、ティルスとシドンはガリラヤの北に隣接する国(ヨルダン川上流)である。小見出しにある通り、悔い改めを拒む群に向けられた警告である(14~15節)。七十二人の帰徒とその報告がされる。悪霊を追い出すとい病の癒しの成果は「蛇やさそりを踏みつける」ことであるが(19節)、その勝利の権利を喜ぶのではなく、あなた方の名が天に書き記されたことを喜べとイエスは彼らを諭す(20節)。
 21節「そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」。イエスは明確に「天地の主である父」と呼ぶことから「父と子」の関係を弟子集団、そして幼児のような者に示された。
 22節「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません」。「父からわたしに任せられています」とは何か。それは父が子を、子が父を知る(グノースコー)ことである。ここで「知る」とあるのは、思弁的な認識ではなく、ヘブライ的な体験的認識で、夫婦男女間の愛することを指している(マタイ福音書1章25節)。【NKJV】ではno one knows who the Son is except the Father, and who the Father is except the Son, and the one to whom the Son wills to reveal Him."となっている。このことを示された弟子たちこそ、喜ばしいことだとイエスは伝えたのである。
 25節「すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』」。小見出し『善いサマリア人』。イエスはこの問いに答えず、問いをそのまま彼に返し自答させる。申命記6章5節と、レビ記19章18節による「神への愛と隣人への愛」を律法学者は答えユダヤ教の中心命題を述べた。模範的解答である。イエスはこれに同意しその実践を促した。
25節「するとある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。『先生、何をしたら永遠の命を受け継ぐ事ができるでしょうか』。イエスは「律法に何と書いてあるか。それをどう読んでいるか」と言われた(26節)イエスは彼自身に答えさせる。神の愛と隣人への愛(申命記6章5節、レビ記19章18節)である。然し彼は自分を正当化して「わたしの隣人とは誰ですか」重ねて尋ねた。そこで主はその定義をせず、「善いサマリア人」の譬を語られた。ある旅人が追い剥ぎに遭い道に倒れたが、傍を祭司は死者かも知れとして通り過ぎる、レビ人は祭司に仕える部族で道の向こう側を通って行った(30~32節)ところがサマリア人の記述は詳細で「彼を見て憐れに思い」(スプラグゾマイ=腹(はら)綿(わた)が痛む)傷の手当てをして宿屋まで運んだという。ユダヤ人と敵対関係の彼をイエスは隣人とは誰かという定義をしないで「隣人になったのは誰か」と聞かれた(36節)。隣人になったその動機と憐れみ(神の属性・エフェソ2章4節)、隣人になる行動にイエスを見出すことが出来る(33~35節)。 
 38節「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた」。ユダヤ教の教師ラビが女性だけに家に招くことは異例であるが、イエスと弟子たちが招かれるのであった。そこで姉のマルタは一行を迎えいれ接待の準備で忙しくしていたが、マリアは主の足元に座り話に聞きいっているのである(39節)。マルタが接待の手伝いを促していることは極めて自然である。しかし主はそれを知って「必要なことは唯一つだ」(42節)と言われる。One thing is needfulこれは神の国に通ずることである(12章31節 マタイ6章32~34節)。