ルカ福音書9章
23節「それから皆に言われた「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(新共同訳)
1~6節 12人を宣教に派遣する(並行記事マルコ6章7~12節)病気の癒しと神の国を宣伝える。遍歴の説教者であるが物乞いを禁じ、迎えられる家で共に食事をし、そうでない時は「足の塵を払う」(10章11節、使徒言行録13章51)。宣教の実践である。
7~9節 領主ヘロデの戸惑い。イエスの出来事を聞き、イエスは何者だろうと訝かしく思い、やがて敵意に変わる(13章31節)。この後イエスと弟子たちはベッサイダに退く。
10~17節 五千人への供食 押し掛けてきた群衆に神の国の説話と癒やしの業があるが、日没になり十二弟子に群衆への配慮を促す。「パン五つと魚二匹」しかないと言う。増食の奇跡は列王記下4章42~44節に類似(出エジプト16章、民数記11章see)。神の国の祝宴を示唆している(6章20~21、12章37節、14章15~25節)。
18~20節 ペトロ信仰を言い表す。(並行記事マタイ16章20~28節)ルカは極めて簡潔な記述となっている。ペトロの告白は、21~27節の死と復活の予告を経て明らかになる。これはイエスが第一回の受難予告をされた直後の言葉である。この時ペトロはイエスの十字架を否定し「サタン引き下がれ、お前は神のことを思わず人間のことを思っている」と厳しい叱責を受けている(マルコ8章33節)。イエスをメシア(キリスト)と告白とするのは、そのお方に一所懸命(命を懸ける)になることである(20節)。告白とは心底から出る言葉で、そこに些かの曖昧さや妥協があってはならない。告白が人間でなく天の父によっていることを知るなら(マタイ16章17節)、告白に生きるのは天の父による。
そこでイエスは「わたしについて来たい者は」と言われる。強制でも義務でもなく応答である。これは湖畔でなく、ヘルモン山上でなされた弟子たちに対するイエスの新たな召命である。
「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と招かれる。これは一大決心を促しているのだろうか。そのように受け取られよう。しかし既に示された通り、イエスをキリストと告白して生きる者は、自分の道を歩むことを止めて彼のあとに従うので、そのほかには無い。「日々、自分を捨てる」とはこのことである。それはゴルゴタの丘に向かって十字架を背負って登られたイエスと共に「自分の十字架を背負って」登るのである。
その道はヤコブの階段につながる(創世記28章12節)。イエスはそのように予告し(ヨハネ福音書1章51節)、それを十字架上で告げている(ルカ23章43節)。ここにこそ滅びることのない救いがある。このほかには命の救いはない。
「たとえ全世界を手にいれても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があるか」。何も無いばかりか、虚しいことだ。
いみじくもこれを告白した言葉がある。「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている」(口語訳フィリピ3章8~9節)。
28~36節 イエスの姿が変わる(並行記事マタイ17章1~8節)。ルカは山に登る前と上ってから祈ると記している。そして31節、36節に祈りがある。35節は神のことばを「聞く」啓示である。
37~43節 悪霊に取りつかれた子を癒す(マタイ17章14~18節)。弟子たちは悪霊を追い出す権能が与えられているのにそれが出来ない。不信仰への叱責を受ける(41節)。イエスは汚れた霊を叱り子どもを癒し父親に返された。
43~45節 再び自分の死を予告する(マタイ17章22~23節)。弟子たちの二度の無理解と神の計画(必然)を説く(45節)。
49~50節逆らわない者は味方。並行記事マルコ9章38~40節。弟子グループ外の者がイエスの名によって悪霊を追い出しているという。弟子たちは自らの不信仰をイエスから叱責された(41節)ので、彼らも批判されると思いきや、イエスは排除の論理を拒否する。逆らわない者は味方であると諭される。弟子たちは18章15~17節で再度持ち出す事になる。
51~56節サマリヤから歓迎されない。ルカ福音書の固有な記事。前記49~50節との関連性から読み解くことが要る。
57~62節 弟子の覚悟。並行記事マタ8章19~22節。ここで三人は共通している態度が示されている。第一の人物は、ユダヤ社会では家族、取分け、父を葬ることは最優先であるが、神の国の宣教が家族に優先する。第二、第三はエリヤ、エリシャの例を引用して別れの挨拶をすることを優先しない。
23節「それから皆に言われた「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(新共同訳)
1~6節 12人を宣教に派遣する(並行記事マルコ6章7~12節)病気の癒しと神の国を宣伝える。遍歴の説教者であるが物乞いを禁じ、迎えられる家で共に食事をし、そうでない時は「足の塵を払う」(10章11節、使徒言行録13章51)。宣教の実践である。
7~9節 領主ヘロデの戸惑い。イエスの出来事を聞き、イエスは何者だろうと訝かしく思い、やがて敵意に変わる(13章31節)。この後イエスと弟子たちはベッサイダに退く。
10~17節 五千人への供食 押し掛けてきた群衆に神の国の説話と癒やしの業があるが、日没になり十二弟子に群衆への配慮を促す。「パン五つと魚二匹」しかないと言う。増食の奇跡は列王記下4章42~44節に類似(出エジプト16章、民数記11章see)。神の国の祝宴を示唆している(6章20~21、12章37節、14章15~25節)。
18~20節 ペトロ信仰を言い表す。(並行記事マタイ16章20~28節)ルカは極めて簡潔な記述となっている。ペトロの告白は、21~27節の死と復活の予告を経て明らかになる。これはイエスが第一回の受難予告をされた直後の言葉である。この時ペトロはイエスの十字架を否定し「サタン引き下がれ、お前は神のことを思わず人間のことを思っている」と厳しい叱責を受けている(マルコ8章33節)。イエスをメシア(キリスト)と告白とするのは、そのお方に一所懸命(命を懸ける)になることである(20節)。告白とは心底から出る言葉で、そこに些かの曖昧さや妥協があってはならない。告白が人間でなく天の父によっていることを知るなら(マタイ16章17節)、告白に生きるのは天の父による。
そこでイエスは「わたしについて来たい者は」と言われる。強制でも義務でもなく応答である。これは湖畔でなく、ヘルモン山上でなされた弟子たちに対するイエスの新たな召命である。
「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と招かれる。これは一大決心を促しているのだろうか。そのように受け取られよう。しかし既に示された通り、イエスをキリストと告白して生きる者は、自分の道を歩むことを止めて彼のあとに従うので、そのほかには無い。「日々、自分を捨てる」とはこのことである。それはゴルゴタの丘に向かって十字架を背負って登られたイエスと共に「自分の十字架を背負って」登るのである。
その道はヤコブの階段につながる(創世記28章12節)。イエスはそのように予告し(ヨハネ福音書1章51節)、それを十字架上で告げている(ルカ23章43節)。ここにこそ滅びることのない救いがある。このほかには命の救いはない。
「たとえ全世界を手にいれても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があるか」。何も無いばかりか、虚しいことだ。
いみじくもこれを告白した言葉がある。「わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている」(口語訳フィリピ3章8~9節)。
28~36節 イエスの姿が変わる(並行記事マタイ17章1~8節)。ルカは山に登る前と上ってから祈ると記している。そして31節、36節に祈りがある。35節は神のことばを「聞く」啓示である。
37~43節 悪霊に取りつかれた子を癒す(マタイ17章14~18節)。弟子たちは悪霊を追い出す権能が与えられているのにそれが出来ない。不信仰への叱責を受ける(41節)。イエスは汚れた霊を叱り子どもを癒し父親に返された。
43~45節 再び自分の死を予告する(マタイ17章22~23節)。弟子たちの二度の無理解と神の計画(必然)を説く(45節)。
49~50節逆らわない者は味方。並行記事マルコ9章38~40節。弟子グループ外の者がイエスの名によって悪霊を追い出しているという。弟子たちは自らの不信仰をイエスから叱責された(41節)ので、彼らも批判されると思いきや、イエスは排除の論理を拒否する。逆らわない者は味方であると諭される。弟子たちは18章15~17節で再度持ち出す事になる。
51~56節サマリヤから歓迎されない。ルカ福音書の固有な記事。前記49~50節との関連性から読み解くことが要る。
57~62節 弟子の覚悟。並行記事マタ8章19~22節。ここで三人は共通している態度が示されている。第一の人物は、ユダヤ社会では家族、取分け、父を葬ることは最優先であるが、神の国の宣教が家族に優先する。第二、第三はエリヤ、エリシャの例を引用して別れの挨拶をすることを優先しない。