日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

何もかも捨てて立ち上がり従った

2019-12-04 | Weblog
ルカ福音書第5章  

28~29節「その後、イエスは出て行き、レビという徴税人が収税所に座っているのを見て、『私に従いなさい』と言われた。彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」(聖書協会共同訳)

1節「群衆が神の言葉を聞こうとして押し寄せて来た、イエスはゲネサレト湖のほとりに立っておられた」というのは4章の終わりに見られた状況に「続く事柄であった。席の温まる間もない忙しさが伺える。イエスの宣教に弟子を選任することは急務であった。
2~11節 この時ガリラヤの漁師たちが夜通しの漁を終えて網を洗っていた。その内漁師シモンの舟に乗り込んで陸から少し離れたところで群衆に教え始めた。マタイ福音書では小高い丘の上から宣教が始まるが、ルカ福音書にはそれはない。人が選ばれている(5章1~11節)。沖へ漕ぎ出して網をおろして見よと告げると、「お言葉ですから網を降ろしてみましょう」と答えた。予想もしない大量の魚にシモンペトロは心の底も見通すイエスの鋭い眼差しに驚き罪を告白し、「人間を取る漁師にする」*生け捕りにする・言葉に従うこととなる。仲間のヤコブとヨハネも従った。先ずアンデレが召命を受けて従った(ヨハネ福音書1章see)。そしてイエスは湖畔に行き三人を弟子にされた。再び湖畔で群衆に教えられたが、その通りがかりに収税所に座っているレビという徴税人を見て呼び掛けた(マルコ福音書2章14節)。路傍伝道である。
12~16節 規定の病(ハンセン病でなくレビ記に記されている様々な皮膚病を指す)の癒やしで、イエスは手を差し伸べてその人に触れ「わたしは望む。清くなれ」と告げると病は去った。祭司に社会復帰の証明をもらう。イエスの評判はますます広がるが、しかし人里離れた所に退き祈っておられた。
27~32節 当時ユダヤ社会ではローマの支配下にあり、国境に近いカファルナイムの町で交通税や人頭税、荷車や牛馬での搬入税等々を徴収する彼らはローマの犬として嫌われ、「アムハーレツ」(罪人)と呼ばれ差別されていた。イエスはあえて、この徴税人レビ(マタイ)に目を留めて声を掛けられた。「わたしに従いなさい」との招きに何らためらうことなく応じた。「なにもかも捨てる」は職業と身分の縁を切ること、つまり解雇と退職を指す。この決断は漁師らの場合とは少し違う。配水の陣である。彼はこの召命を明確に家族知人、そして民衆に言い表すために、イエスと弟子らを家に招き入れて盛大な宴会を催した(29節)。
「わたしに従ってきなさい」は「わたしの仲間に加わりなさい」という意味になる。新しい交わりが創られる。主にある愛と赦しの始まりであり、これは敵対感情を持つ人々との和解に至らせる第一歩である。イエスの福音は「和解の務め」であり(第一コリント5章18節)。また「敵意という隔ての中垣を取り除く事である」(エフェソ2章14節)。
しかしこの時律法による様々な食事規定を遵守する「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちはつぶやいて」、その律法違法に対してイエスを批判し抗議する(30節)。それに「医者を必要とするのは、健康なひとではなく病人である」と諺を用いて応える。律法を厳格に遵守する者は健康人で神に受け入れられるのであり、異教徒や罪人は病人であり、交わりを断ち食事を共にしないという偽善的な差別意識を持っていることを鋭く指摘した。エレミヤは「医師が手軽に傷を癒して、平安が無いのに平安、平安という」病める指導者を批判した(エレミヤ6章14節)。同じことが昔も今も起きている。
33~38節 断食についての問答・並行記事マタイ9章14~17節、マルコ2章18~22節 宴会は神の国の比喩的表現である。婚礼の席に招かれた客に断食させないように、花婿が取り去れる日がくるなら断食をすることになる。ファリサイ派の弟子たちが断食をするのは古い革袋に新しい葡萄酒を入れることである。今は違う。祝いの日で新しい革袋に新しい葡萄酒を入れねばならない(38節)。イエスの福音とファリサイ派の鋭い対比を語っている。この背景には、ユダヤ主義的キリスト教への警告も示されている(使徒言行録11章1~3節)。