日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

岩の上に土台を置いて家を建てる人

2019-12-05 | Weblog
 ルカ福音書第6章  

 48節「それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てる人に似ている。洪水になって水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、びくともしなかった」(聖書協会共同訳)

1~5節安息日に麦の穂を摘む。他人の麦畑から麦穂を摘みとることは律法で許されていた(申命記23章26節)。しかし安息日律法は重要であり、その違反は死罪に相当する(レビ記15章32~36節)。ここでは食事の準備で労働に値するとした。イエスはダビデの故事に言及し(サムエル上21章1~7節)律法の柔軟性を要求。安息日律法の解釈をする権威を主張した。
6~11節手の萎えた人を癒やすこと(マタイ12章9~14節)、12~16節十二人を選ぶ(マタイ10章1~4節)記事である。ルカ6章12節では人の選びに先立ち徹夜の祈りをイエスはされた。ルカ福音書の特徴である(3章21、5章16、9章18、28~29、22章40~46節)。初代教会も任命に先立ち祈る(使徒言行録1章24節)。ここは十二部族からの象徴的行為で、原始教団の基礎となる。
 17~49節は「平野の説教」と呼び,マタイ福音書5~7章「丘の上の説教」と対比される。
20~26節「幸いと災い」(マタイ5章1~12節)四の幸いと四つの不幸である。貧しいのは経済的でなく、社会的に阻害されている人々で、彼らこそ、神の国に招かれ終末の時の逆転が起きる。
27~36節「敵を愛しなさい」。愛敵の教えの三例であるが、限定ではない。31節は黄金律と呼ばれる報復を避ける互恵的な行為である。36節は愛と憐れみの神に促される働きである。
37~38節「人を裁かない、罪人と決めるな」と「赦しなさい、与えなさい」の二つの否定形と肯定形で、憐れみ深くある具体例である。神の寛大さは人の思いを遙かに超えている。39節「盲人」は洞察を欠く隠喩的表現である。他人を裁くことの誤りを指摘する。
41~42節他人の欠点を指摘しながら自らの欠点に気づかない偽善を示している。
43~49節 ここでは、外側は同じに見えても真実は違っていることが明らかになるという三つの譬から示される。第一は「木はそれぞれ、その結ぶ実によって善悪が判る」(44節)という譬であり行為と行為者の関係があきらかになるというのである。第二は「心の倉にあるものが悪いか良いかは口から出てくる言葉でわかる」(45節)というのである。俗に「心は口ほどにものをいう」と言われる。第三は家と土台である。地面を深く掘り下げて岩の上に家を建てるなら洪水という試練に遭っても動じないということである。「主よ、主よと呼ぶだけで終わってしまう者は最後の裁きに耐えられないのである(46節、マタイ福音書7章21節see)。
これは信仰の深い検討を促される譬である。人が何かをしたその行為によって救いは与えられるものでは決して無い。この点では「信仰のみ」ということが明確にされる。これは「義人は信仰によって生きる」(ローマ1章17節)ということで要約される。しかしこれは定見のない安易なご都合主義に陥る。さらに無律法の道徳廃棄論にまで至る。「天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とイエスは言われた。これに対する厳しい指摘がなされる。「行いが伴わない信仰は何の役にも立たず、虚しく死んだものだ」と記されている(ヤコブの手紙2章14、17、20節)。問題は家を建てる時に「地を深く堀り、岩の上に土台をすえるか、「土台なしで、土の上に直接建てる」かである(49節)。「土の上」に家を建てることは共通している。イエスの召命に従って生きていく信仰は同じである。違いは土を掘り起こす作業をするかどうかだ。
ユダヤでは夏の六ヵ月も続く乾期には沢(ワディ)は固くなり地表を10メートルも掘り起こさねば他と区別できなくなるところもある。しかし雨期になると洪水になって流れる川床に変化する。マタイ福音書では大雨と暴風も起きている。この譬は先々を考えないで手抜きし、深く掘り下げるという労苦を厭い、安易な生き方をする愚かさが問われるのである。一時の間に合わせでは、試練に耐えることが出来ない。
聖書では、神を「わが岩」と言い表す。詩18篇2~3、32、47節。その他にも19篇15、27篇5、28篇1、31篇3~4、61篇3、62篇7、94篇22、95篇1、144篇1節。イエスは岩であり、土台である(第一コリント10章4節、3章11節)。地を掘り起こすとは岩なるイエスにしっかり結ばれるために日々隠れた、練達と忍耐が必要である。順境でも逆境でもすべての時に対応する柔軟な生き方、信仰のありようは、心砕かれ罪の告白をし、日々主に信頼して希望を得る祈りである。