日毎の糧

聖書全巻を朝ごとに1章づつ通読し、学び、黙想しそこから与えられた霊想録である。

神の国で最も小さい者でも、偉大である

2019-12-06 | Weblog
ルカ福音書第7章 

 28節「言っておくがおよそ女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大な者はいない。しかし、神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(聖書協会共同訳)

1~10節「百人隊長の僕をいやす」。ピラトに仕える百人隊長が危篤の部下のいやしを求めてきた。会堂を建てるユダヤ教の新派と考えられる(5節)。そこに出向くイエスに対して自らの権威に比較できない方として認める言葉に、イエスへの信頼を読み取っている。異邦人伝道はイエス復活後のコルネリウスの姿と重なって見える出来事である(使徒言行録10章1~40節)。
11~17節「やもめの息子を生き返らす」死者の復活記事は旧約のエリヤとエりシャの伝承(列王記上17章7~24節、下4章32~37節)を、イエスを「主」として記載されている(13節)。群衆は「大予言者が現われた」と言い、ユダヤ全土と周囲一帯に広まったと記されている(17節)。
18節「ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、主のもとに送った」。大予言者が我々の間に現れたという巷の噂さを耳にしたからだ(16節)。イエスのメシアなる確認を得ようとした。この態度はメシアに対する切実な期待を表す。イエスの回答は、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」という(22節)。これはイエスがナザレの会堂で宣言したメシアとしての働きと同じだが、彼らはこれを受け入れなかった(4章18~21節)。
イエスはその事実をユダヤ全土、またティルスやシドンから集まって来た群衆に示した(6章17~19節)。またナインの町のやもめの一人息子を死から生き返らせた(15節)。そして今ここで「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と告げた(22節)。事実に優る証言はない。
「貧しい人は福音を告げ知らされている」は、「幸いだ、乞食の心を持つ者たち、天の王国は、その彼らのものである」(マタイ5章3節岩波訳)と同じである。一切自分に信頼を置かずイエスに絶対依存する。これはメシア理解に大きな「つまずき」(スカンダリゾー)となると言われた(23節)。「わなを仕掛ける」という意味である。
24節からヨハネに対するイエスの言葉である。そこで三つの問いから話される。先ず「何を見に荒れ野に行ったのか。風にそよぐ葦ではない」(24節)。意志薄弱な時代の風潮になびく人物ではない。第二に「しなやかな服を着た人か。それなら宮殿にいる」(25節)。庶民とは縁遠い、栄華を極める宮殿の住人ごとき人物でもない。第三に「預言者か。そうだ。彼は預言者以上の者だ」(26節)。旧約最後の預言者で、メシアを世に送りだす道備えをした眞の預言者である(27節)。
しかし「神の国で最も小さい者でも、彼よりは偉大である」と言われる(28節)。これはどう云うことか。「最も小さい者」とはイエスの福音に生きる人である。ヨハネはメシヤヘの期待は熱心で、イエスによる神の国の到来を知ったが、彼のメッセージは罪の悔い改めである。しかしメシア(キリスト)との出会は罪の赦しと新たな救いと喜びとなる。「最も小さい者」がこの世で「偉大な者」に優るという神の国の秩序を明確に教え示す。この世の評価する権威や権力も、神の国では色褪せてしまうのである。
イエスは続いてファリサイ派と律法の専門家たちを鋭く批判された(30節)。彼らは、広場でこどもらが結婚ごっこや葬式ごっこをしたが、笑いもせず泣きもしない。それと同じで、ヨハネのヘロデによる逮捕と処刑を葬式ごっこのように、イエスの福音による喜びを結婚ごっこのようにしか受け取れない頑な態度を指摘した。子どもの囃子ことばで、彼らの不真面目さと無定見さとを揶揄したのである。現代でも滑稽な遊び感覚で捉える「お祭り行事」が何と多いことであろう。
36~50節「罪深い女を赦す」 34~35節の具体例である。彼女が罪深い女と言われるのは、この女がイエスに対して高価な香油を惜しげなく、泣きながら足に近寄り涙でぬらし髪の毛で拭う所作からファリサイ派の人が判断した処にあった。
然し、それを知ったイエスは彼女の容易ならざる行動は、悔い改めとイエスの無条件の慈愛に対する応答として表したのである(46~47節)。
give and takeではない。イエスの金貸しの譬(41~47節)でこれを否定し、「愛は計算ない」ことを示している(ルカ6章32~35節、第一コリント13章1~3節see)。人知を超えるのである。